第十四章 社會進歩と間接方法 =ウオードの教育論=

高畠素之

1 急がば廻れ

急がば廻れと云ふ諺がある。二點間の直線が其二點間の如何なる曲線よりも長い事は幾何學上の定則である。從つて目的に對する手段は手ツ取り早いに限る。急がば廻れではなく、廻らないで直行しなければならぬ。直進直行は劍呑のやうに見えて、實は最も有效な方法である。

此言分は確かに一理ある。然し、それが如何なる場合にも眞實であるか何うかは疑問である。なるほど目標と主體との間に何等の障碍なき場合には直進直行に越した事はない。然しながら人事は複雜である、坦々たる平道にも思ひがけなき陷穽ある事を豫期しなければならぬ。複雜なる人生に於て、人の目的が直進直行を許す場合は滅多にないのである。一度蹉いた路傍の石に二度蹉くのは愚だ。二度目には石を除けるか廻るか、とにかく最初の失敗を繰返さないやうにする。除けることも廻ることも出來なければ、他の路を通るの外はない。いづれにしても迂回である。直線ではなく曲線である。茲に急がば廻れの哲理がある。此見地から我々はレスター・ウオードの『間接方法論』に多大の興味を感ずるものである。

2 間接方法の發生

自然の盲目的なる諸力、下級動物の諸本能及び總ての副次的人間力と、人間理性との差異は、前者が直接の行動に依つて働くのに、後者が間接の方法に依つて働くと云ふことである。即ち間接方法するものは、理性の發生と共に此現象界に現はれて來たものである。其の發現は宇宙史上に一の新紀元を劃するものであつて、ウオードは夫れを生命の發現と同價値に見てゐる。之れに反して、直接方法は人間以外のすべての動物の方法であつて非合理的乃至非理性的行動と呼ばれ得る。未開人種の行動は皆この方法に依つた。理性が發現して其活動を始めると同時に、直接方法は廢位されて、間接方法が之れに代る。

すべての社會進歩は理知の働きに基くものである。理知は發明に依つて進歩を得る。そして總ての發明者は、間接の方法により、或は軍隊流に云へば側面運動によつて當の問題に近づいてゆく。蒙昧人が物を動かす方法は、通常下級動物の夫れと異ならぬ。即ち後者が其顎で物を掴んで動かすやうに、前者は手で夫れを掴んで動かすのである。いづれの場合にも、能力の限界は筋力に依つて確定されてゐる。ところが巨岩などになると、斯樣な直接の方法では役をなさないので、戰術が必要になつて來る。戰術は其の性質上理知的なものである。蒙昧人は直接その目的に向つて進む。戰術者は理知を働かして手段を發明しやうとする。間接方法の性質は、それが間接に手段を通じて其目的に向つて進むと云ふことである。理性は其手段を吟味し終つてから實際の仕事にとりかゝる。然し其最初の活動は理性の働かない蒙昧人には、目ざす目的に對して何等の關係なき者であるやうに見える。

前の巨岩の例で云へば、理知的方法は先づ槓杆を造る、或は起重機を發明する。それは廻り通り遣り方であるが、然し唯一の有效な方法である。始め蒙昧人が其食物としての魚の價値を發見した時、其の漁撈方法は直接の、隨つて無效な方法であつた。即ち彼れは腕を直接水中に突込んで魚を掴み取らうとした。けれども其んなことでは、魚は容易に捕まらぬ。が、空腹はますます迫つて來る。彼れは色々と工夫した。そして彼れの理性は遂に其目的に對する適當な手段たる魚網を發明させたのである。魚類は即ち一の發明品であり、間接にして有效なる戰術の結果である。

野草を以てしては増殖した人口の需要に應じ切れなくなつた時に、理知の作用が要求されて來たのである。作戰が必要になつて來たのである。そして遂に農業が發明された。斯樣な場合に、いつも救ひの神となるものは理性である。そして理性の試みる救濟方法は、いつの場合にも同じである。即ち目的を直接襲ふ代りに、其目的に對する手段を發明することである。蒙昧人がたゞ其拳固だけで敵に向つてゐる間は、彼れはしばしば自分よりも小さな動物にさへ敗けてゐた。況や自身よりも大きな動物は、彼れの存在に對する不斷の脅威であつたのだ。然るに其理性が發達するにつれて、彼れは目的に對する手段を工夫した。斯くして彼れは遂に弓矢や、斧や、鉾などに依つて、其最も恐ろしい強敵を征服することが出來たのである。

3 自然と技術

直接方法と間接方法との差異は自然と技術との差異である。ウオードの例解によれば、それは正に、當てどもなく大洋の眞中を漂ふ氷山と、港から港へと其進路を辿つてゆく汽船との差異である。或は曲り紆つた道を流れてゆく川と、其目的點に向つて比較的直線を畫いて進む運河との差異である。川は知識のない所にも理知的方法のない所にも存在し得る。然し運河は常に目的への手段である。それは常に一の意圖を有してゐる、常に理知の産物である。

直接の行動にしろ、間接の行動にしろ、總ての行動は目的の達成と云ふことを眼目に置いてゐる。そして常に靜的であつて何等進歩に貢獻しない直接の行動と常に動的であり進歩的である間接の行動との差異は、前者に在つては行動と目的との間に何物も介在しないのに、後者に在つては理知によつて、行動と目的との間に手段と呼ばれる第三の要素が挿入されるといふ事である。

直接の行動は自然に對する唯一の知られた方法であり、そして又最下級の蒙昧人によつて主として應用された方法であると云ふ意味で、ウオードは之れを物理的(自然的)方法と呼び、他方に於て間接の行動を理知的方法と呼んでゐる。彼れは言ふ。『充たさるべき欲望を賦與された或生物が、一の望ましき目的物の存在を知る時、彼れは直ちに其目的に向つて運動を始め或は努力を傾ける。斯樣な生物から云へば、同じ目的物を欲求しながらも其目標から眼を轉じて周圍に横はる他の諸々の目的物の中に整理をなし始めるやうな他の一生物は、お伽噺の言葉を借りて云へば途方もない間抜けのやうに見えるであらう。それは不自然な行動である。即ち人爲的な行動である。が若し直接の行動によつて達せられない目的が此行動に依つて首尾よく達せられるとすれば、それは眞技術の一運用であつて、眞科學の諸原理についての熟達を含むであらう!。』

ウオードは又斯う言つてゐる。

『現存の交通組織を可能ならしめた諸々の偉大なる傳系的、技術竝に社會の物質的状態を完成せしめたる樣々の實用的なる發明的技術は、總て直接なる努力の手の届かぬ所にある遠き対象として現はれた之等の大目的を、間接に確保する爲に採らるべき中間的手段に對する、理知の認識に基けるものである。之等の目的は總て追求される目的とは似もつかぬ手段の助けによつて成就された者である。』

4 理知と見聞と知識

ウオードに依れば有らゆる人間努力の究竟的標的をなすものは幸福である。而して幸福は進歩の結果であり、進歩は行動の結果であり、行動は見解(オピニオン)の結果であり、見解は見聞(ナレツヂ)の結果である。そこで次に來る問題は、見聞への直接の道は何かと云ふことである。ウオードは『教育』の一語を以て之に答へる。

抑も理知(インテレクト)は一の精神力であつて、見聞(ナレツヂ)は此精神力が働きかける材料である。そして此雙方の結合したものは即ち知識(インテリヂエンス)である。社會は知識の増進を切要してゐる。問題は、此知識の増進が如何にして成し遂げ得られるかを、見出すことである。知識が理知と見聞との混和より生ずる一の複合體である限り、知識の増進を圖るのに此雙方の何づれをヨリ多く必要とするかと云ふ問題が起つて來る。我々は理知を充分に持つてゐて見聞に不足してゐるのか、それとも見聞は有り餘るほどあつて理知に不足してゐるのか。此問ひに對する回答如何によつて理知へか、見聞へか、我々の力の入れどころが違つて來るのである。此問題を解決するに當り我々は果して眞に不足してゐるものが何方であるか、又その不足を滿たす可能が何であるかを見出さなければならぬ。

ウオードの解決せる所に依れば、我々は理知の方面に於ては少しも不足して居らぬ。近世社會に於ける多數民衆の理知能力は、現在もしくは近き將來に於ける一切の要求を充たして尚餘りあるものである。勿論それは、文化の程度低き諸種族に對しては言へぬことだらうが、少なくとも歐米諸國民に對しては充分に當て嵌るのである。

『西歐諸國の理知は、彼等が現在有してゐる以上尚莫大の自然的眞理を容易に消化し充分に同化し得る餘力を有してゐる。此點に於て、西歐と亞米利加との間には今日この上なき不等一が存してゐるが、然し彼等は一樣に其の自然的眞理を把持し得るのである。諸々の國民、諸々の地方、諸々の自治體、及び諸々の個人に於ける主なる差異は、彼等の知ることに存するのであつて、知り得ることに存するのではない。著しく異つてゐるのは知識であつて理知ではない。文化の後れた地方及國民の缺陷は見聞の缺陷である。世界の主なる誤謬竝に害惡は、無知と云ふ事の中に共通の一起原を有してゐる。』

5 見聞の教育

そこで眞の教育は即ち見聞の教育でなければならぬ。見聞の教育とは『世界に現存してゐる見聞のうち最も重要と見られ得るやうなものを萬人に押擴める爲の組織』である。

ウオードは心意の能力を顧みないで、心意の内容に全注意を傾倒した。彼れの此態度は、文明國人の理知能力は殆どみな同程度だと云ふ信仰から流れ出づるものである。そこで彼等の主張する教育は、要するに知識の詰込みに過ぎないと云ふ反對論が持出されるかも知れぬ。ウオードは之れを見越して曰く、若し其の詰込みと云ふことが多量の見聞の獲得を意味するならば、それは決して排斥すべきものでない、排斥すべきは『無意味な名稱をズラズラと記憶させたり、愚にもつかぬ問題の解決に知嚢を絞らせたりすること』である。

6 間接方法と教育

以上説く如く、社會進歩の筋書は教育に始まつて幸福に了り、その他數箇の中間段階を經過せねばならぬのであるが、之れに就いては又斯う云ふ反對論が持出されるかも知れぬ。即ち此の進歩過程の發端に於て教育に費された努力は諸々の中間段階を經てゐる間に、最後の標的に到着するに先だつて其力の多くを失つて了ふであらうと云ふのである。ウオード自身も言つてゐる。『教育が危ぶまれ其動力が疑はれてゐる主なる理由は、それが所期の目的から頗る遠隔した一手段であつて、人間知識は辛うじて其雙方を結合する因果的關係を看破し得るに過ぎぬ程であるからだ』と。所が彼れの主張する所に依ると、此の隔在こそ却つて其効力を大ならしむる所以であり、教育の爲に我々の主力が注がれねばならぬ所以である。若し最後の標的から隔在してゐる故に、教育の効力を疑ふと云ふならば、槓杆の重みを載せる方の一端が遠く隔つてゐればゐる程、其効力は益々減退しなければ〔な〕らぬ筈である。然るに事實は寧ろ其反對を示してゐる。力の倍加は中間段階によつて成されるのである。ウオードは此槓杆の例によつて社會進歩の過程に於ても、究竟的標的たる幸福の増進に對する努力は、其の主力が始點に近い所に注がれるに從つて、益々有効であることを推論してゐる。

反對に幸福に對する直接の追求は無効である。彼れは言ふ。『幸福の直接の追求は個人によつて爲される場合でも、概して實を結ばない』と。直接の努力で人間に意見を變へさせる事の不可能なるは、歴史の示す通りである。何か手段が用ゐられなければならぬ。そして其手段は、變へさせやうとしてゐる見解が間違つてゐると云ふことを示す證據の形を取らねばならぬ。ウオードは間接の方法が數學や、化學や、生物學などに依つて用ゐられてゐる方法であることを證明する爲に、數頁を費してゐる。此原理は單純のやうに見えるかも知れない。一見大したことのないやうに見えるかも知れない。

然し彼れは夫れを『動的社會學の隅の親石』と呼んでゐる。從來、社會状態の融和を目的とした立法が殆んど型の如く失敗に終つたのは、それが間接に進まないで直接に進んだ結果である。スペンサーは社會改善に對する立法的努力を辛辣に批評した。彼れの批評の基礎は法令などの指導を受くべき社會は餘りに複雜だと云ふことである。彼れは當時の禁酒立法を批評するに當り、社會的害惡は多數決の法制で以て直接それを引叩いたからとて、到底救治されるものでないと云ふことを示すに、一の興味ある例解を掲げてゐる。曰く、

『此鐵板は平らでない。左の方が少く脹らんでゐる。何うしたら平になるか。分り切つたこと、脹らんでゐる方を叩きつければ宜い。それで茲に槌があると云つて、私は教へられた通り鐵板を打ちつけた。モツト強くと云ふから其通りウント叩きつけたが、一向答へがない。私は幾度もやつて見たが、巧く行かないのみならず、反對の端が反れて來た。始めの脹らみが治らない上に、おまけに今度は反れが出來て來たのだ。若し之が專門の技術者であつたなら、たゞ脹らんだ一方のみを叩きつけろと教へないで、鐵板のあちこちを滿遍なく、いろいろに調子を變へ向きを變へて、或は激しく或は穩かに叩きならすことを教へたであらう。つまり直接の動作ではなく、間接の動作で以て惡い所を矯めるやうに教へたであらう。之れは諸君が考へる程單純な方法ではない。一枚の鐵板でさへ斯くの如しとすれば、社會は尚更らではないか。人間は鐵板よりも伸ばし易いものであらうか。』

7 禁酒運動と社會主義運動

禁酒運動は直接行動の無効を證明する好適例である。問題は人が現に酒を飲んでゐると云ふことなのだ。禁酒運動者は直接その目的を達しやうとする。直ちに飲酒を止めさせやうとする。そして全體、人が何うして酒を飲むやうになつたのか、其の境遇上、生理上、その他の原因如何などには少しも頓著しないのだ。若しさう云ふ問題に頓着したなら、彼れは徒らに禁酒を進めることの代りに、社會上、經濟上の境遇改善や、家庭生活の向上や、高尚なる趣味の鼓吹などに餘力を傾倒したであらう。けれども之等のことは、普通の禁酒運動者の理知能力に對しては餘りに間接に過ぎ、餘りに理知的に過ぎるのだ。

茲に思ひ浮べらるゝことは、近年直接行動と云ふ言葉が社會主義運動者や勞働運動者の間に用ゐられるやうになつたことである。之れに就て亞米利加の社會主義者アーサー・リユイスは其著『社會學入門』の中に曰く、『直接行動とは社會主義的戰術の一であつて、要するに政治的過程の緩漫なる作用を待たず、直接勞働者の組合に生産機關を掌握させやうとするものである。だが之れは考へものだ。直接行動は一の戰術と云はれてゐるが、それは戰術たる性質を全く缺いてゐる。勞働者は生産機關を要求してゐる。之れはマルクス派社會[主]義者も亦直ちに承認する所である。ところで直接行動論者は、此點から出發して、だから生産機關を取れと主張する。マルクス派社會主義者は夫れにも反對しないが、其の方法は理知的である。生産機關の獲得は目的だ。然し總ての科學は目的を達するに間接の手段が必要であることを教へる。そしてマルクス派社會主義者の解剖するところに依ると、經濟上の權力は政治上の權力と合體し夫れに防衞されてゐる。そこで生産機關を獲得しやうとする勞働者は、先づ政權を獲得しなければならぬと云ふのが、マルクス派社會主義者の主張である』。

我々は茲で、此説の是非を論じやうとするものではない。又ウオードの間接方法論を斯樣な形で社會主義運動に應用することの當否は暫く措く。兎にかく間接方法論の一應用として參考までに掲げて置くに過ぎぬのである。

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