第二講 遺傳説の兩派 ―ラマルク説とワイズマン説―

高畠素之

一、はしがき

生物學の中で一番厄介な、然し一番興味ある問題の一つは遺傳論である。如何なる生物にも遺傳の事實は見逸がすことは出來ない。手近かな例に我々人間を見ても、親子の間には必らず何處かに似通つた所があり、その容貌、その風姿、その擧動や性癖には、誰が目にも一見親子と見定められる性質の類似がある。が然し、親子が全然同一の型にあると云ふ場合は無く、その間には、必らず大なり小なりの相違がある。同じ親から生れた兄弟姉妹の間でも、矢張り必ず何處かが異つてゐる。

茲に於て、遺傳の事實のあることは何人も認める所であるが、親なり先祖なりの性質が何の點まで、如何にして遺傳するかは、容易に究めることの出來ぬ問題である。この問題に就いて、從來學者の間に、幾度か激しい論戰が交はされた。而もそれは、何處まで鬪つても、遂ひに決着のつくべしとも思へぬところのものである。

實際のところは、どの學者の説にも、相當の眞理が含まれてゐると同時に、また、どの論者の主張にも、等しく滑稽に値する程度の無理と缺點とが、隨所に見出されるのである。

二、ラマルク派の遺傳説

如上述べた所の論爭は、大體に於て二派に分れて行はれてゐる。即ち一はラマルク派、他は新ダーヰン派である。

ラマルク派は、佛國の進化學者ラマルク[Jean Baptiste Lamarck]の所説に立脚するものであつて、(一)生物の環境に起る一切の變化は、その生物の上に新たなる必要を喚び起す[。](二)此等の新たなる必要の結果、生物は更らに新たなる習癖を得て、若干の古き習癖を棄てる。而して此等の新必要新習慣は、その生物の身體に新たなる器官を造り出す。(三)器官の發達又は萎縮消失は、使用若しくは不使用に起因するものである。(四)一生物の生涯中に生ずる、使用又は不使用の結果は、遺傳に依つてその子孫に傳へられる。と云ふラマルクの(勿論これは概括せる彼れの學説の要項であるが)進化説に歸せられてゐるのである。

これに據れば、ダーヰン[Charles Darwin]の所謂自然淘汰なるものは、生物進化の根本原因とはならないのであつて、自然淘汰の行はれる以前、すでにその器官の使用又は不使用に依る變化が生じてゐる。その變化が遺傳に依つて、子々孫々に傳承し累積して、茲に始めて進化が行はれることになる。が、茲に等しくラマルク説を祖述する學者の中に、右の如き器官の使用不使用に依る變化の外、更に自然淘汰に依る變化をも是認する一派がある。これはラマルク説とダーヰン説との折衷であつて、謂ゆる新ラマルク派と稱するものが夫れである。然しながら、正統ラマルク派に於ても新ラマルク派に於ても、一生物がその生涯中に取得するところの性質の遺傳を認める點は少しも異なる所がない。

三、死ぬ生物と死なぬ生物

この新舊ラマルク説に對して、猛烈なる攻撃の矢を放つたものは新ダーヰン派である。彼等は、生物がその生涯中に獲得する性質の遺傳を絶對に否認し、且つダーヰンの自然淘汰説は、器官の使用不使用に依る變化の原則を無用ならしめると説くものであつて、この派の頭目をワイズマン[Weismann]となす。

ワイズマンは一八八三年、獨逸フライブルク大學長となり、同年六月その講堂に於いて『遺傳論』と題する就任講演を試みた。この講演は、爾後十數年間に亘り、歐洲學界に於ける大激論の火蓋を切つたものであつて、當時或る學者は、これによつて惹起された學界の混亂を形容し、『彼等交戰學者は、さながら激し狂つた烏賊が、自らの吹き出した墨の中を驅け廻つてゐる如くである』と云つた。

ワイズマンはこれより先き、一八八一年、ザルツブルグに於ける獨逸自然科學者協會の席上で、『生命の繼續』と題する一講演を試みた。後ち一八八三年、彼れは更に之れを敷衍して『生と死』といふ大講演を公けにした。遺傳問題に關する彼れの所説は、先きの就任講演よりも、寧ろこの二講演の中にヨリよく現はれてゐる。この二講演は、單にワイズマン説の根本を示すのみではなく、實に遺傳問題の上に一大光明を投じたものである。

元來、これ等の講演は、生物の死に關する問題を取扱ふのが目的であつた。當時、學者の大多數は、死の原因を有機的環境の影響に求めた。即ち生物の生命は、その有機的境遇の力に依つて徐々に消耗し、遂に全く枯死するに至るものとした。これに對して、ヨハンネス・ムラー[Johannes Muller]は既に一八四〇年の頃、『若し果してこの説の如くんば、生物の個體は生存の當初に於いて、絶えずその有機力を減損すべき理ではないか』との反對論を提出した。成るほど生物の身體は周圍の影響に依つて消耗する。然し乍ら如何にそれが消耗しても、或る段階に至るまでその體力は減損しないで、却つて益々増大する。之れは如何なる生物にも通有の現象である。ムラーは説き來ること此處に至つて、その論歩を中止した。彼れは當時の局限せられた實驗を以つてして、之れ以上に論歩を進めることは出來なかつたのである。彼れの狙ひに狂ひはなかつた。ワイズマンは實にこの放擲された緒を拾ひあげて、その到達すべき最終の標的まで解き延ばした第一人者である。

彼れは先づ諸生物の生殖法を檢討した。生物の生殖法はこれを大別して、有性無性の二つとすることが出來る。無性生殖はアミーバ、モネラの如き單細胞生物に行はれるものであつて、ヘツケル[Haeckel]の分類に依れば、それには分裂、出芽胞子の三方法がある。けれども、ワイズマン説に直接關係するものは、分裂生殖のみであつて、他の二つは其の變態に過ぎぬものである。

分裂生殖は最も單純なる生殖法であつて、アミーバの如き、モネラの如き、單細胞生物が或る程度まで成長すれば、自然にその身體の中央部がくびれ出して、遂にそれが、同じ大さの二個體に分裂する。而してこの分裂した二個體が、その個體としての成長を遂げた時、夫々また二つに割かれ、永久に斯くの如く分裂して、發育行程を續けて往く。この分裂法は、寔に單純なものであるが、如何なる高等生物と雖も、その身體を組成する細胞はこの分裂法則に依つて増大してゆくのである。

ワイズマンがこの分裂生殖について注目したことは、かゝる生殖方法を營む生物には死がないと云ふ一事であつた。勿論、偶然の死はある。然し一定の年齡に達すれば必ず避けられぬと云ふ意味の死はないのである。『生あれば死あり』といふ命題は、少なくとも此等の生物には無意義の原則である。

『我々は既に、單細胞生物に自然の死がないことを指摘した。此等の生物の成長には、死に類した終點がないのであつて、新たなる個體の發生は、舊來の個體の死と關聯しては居らない。即ち一個體が分裂して二個體になる。この二個體は全く同一のものであつて、その間に老幼大小の差異がない。斯樣にして無數の個體が出現するが、それ等は何づれも自種屬と同年齡のものであり、何づれも分裂に依つて無限に生きのびる可能性を有つてゐる』と、ワイズマンは前記の講演『生と死』の中にこれを繰り返してゐる。

然るに多細胞生物になると、この個體の不死性は全く消滅する。ワイズマン自身の言葉を借りていへば、『多細胞生物に於いても、其生殖は細胞分裂に依つて行はれるが、各細胞には生物個體の全身を生殖する力が無い。多細胞生物の細胞は分化して、生殖細胞(卵又は精蟲)及び身體細胞の二部類を形成する。而して單細胞の不死性は、右の生殖細胞のみに傳はり、身體細胞は死を免れることが出來ぬのである。然るに多細胞生物個體の全身の大部分は、この身體細胞に依つて組織されてゐるので、個體それ自身も亦死を免れ得ないことになる。』

されば死が此世に生じたのは、『創生記』に謂ふ『罪』の結果ではなく、實に男女兩性の發生に起因するものである。この場合にも、不死は依然殘されてゐるが、それは意識ある個體の不死ではなく、その個體の生殖を掌る單細胞の不死である。

四、遺傳を掌る細胞

ワイズマンに依れば、高等生物の全身は、身體細胞生殖細胞の二部類から成り立つてゐる。而してこの後者たる生殖細胞は、胚種原形質を以つて充たされた電池の如きもので、雄性の生殖細胞に包まれてゐる此原形質の一小部分が、雌性のそれと混一合體して、茲に新個體が造られる。然しその合體した雌雄胚種原形質の全部が、新個體の身體組織のために消費されるわけではなく、一部分は新個體の生殖細胞内に包蓄されて、新たにその生殖作用を掌る。斯くして生物の胚種原形質は、子々孫々永續して中斷することがないのである。これ即ち、彼れの有名なる『胚種原形質繼續説』であつて、彼れはこの假定に基き、遺傳はたゞこの胚種原形質に依つてのみ行はれること、隨つて身體細胞に生ずる變化は絶對に遺傳せざることを力説した。

これより先、ダーヰンは、『全身生殖』と稱する遺傳論を提唱した。この説に依れば、生物の身體細胞は、各微細なる副細胞(ダーヰンはこれを毛芽と呼んだ)を派生する。而して此等の副細胞は、或る微妙なる作用に依つて、その生物の生殖器の内に集中し包蓄される。遺傳は此『包蓄された毛芽』に依つて行はれるものであり、隨つて此説に依れば、生物の身體に生ずる變化はすべて遺傳すべきものであつて、ラマルク説にとつては非常に有利な假定となるが、ワイズマン説とは到底一致せざるところのものである。

五、兩派の啀み合ひ

一方新ラマルク派は、ダーヰンのこの説に對し、ダーヰン説は、變化を假定するのみでその起原を説明しない。自然淘汰では適者生存の理を説明することは出來るが、適者の起原そのものを説明することは出來ぬ。淘汰の行はれる以前に於いて、既に變化が無ければならぬ。然らばこの變化は何に起因するかと。ワイズマンはこれに答へて言ふ。『變化は二つの全く異れる胚種原形質が、受胎に依つて混一合體する結果である。この合體に依つて、兩者と總べての點に於いて同一でない、又同一であり得ない、新個體が生ずるからである』と。

これに對して、新ラマルク派は更らに追究を重ねる。若し總ての變化が先天的の性質に依つてのみ、即ち兩性生殖に基く雌雄兩胚種原形質の合體に依つてのみ可能だとすれば、かゝる合體の行はれぬ單細胞生物には、變化が生じない譯ではないかと。

この追求はワイズマンにとつては確に手痛き一本であつた。彼れは狼狽しながら言ふ。單細胞生物に對しては確かにラマルク説が妥當である。けれどもこれには相當の理由がある。元來、單細胞生物に於いては、或る特殊の細胞が子孫に傳はるのではなく、個體の全部が永續するのである。隨つて一個體の獲得した性質は、全部個體と共に保存されることになるのであると。

斯くて問題は、結局多細胞生物に局限されることになる。多細胞生物の個體は、その生涯の間に獲得した性質及び特徴を果して子孫に遺傳するか何うか。新ラマルク派は、然りと答へ、ワイズマンは、斷じて然らずと答へる。

六、『習得性』の遺傳有無

茲で一言、この論爭の中心問題たる『習得したる性質』の意義を明かにして置く必要がある。

此處に一人の人間が一千坪の土地を其の子に遺産したとする。然るにこの遺産を受けた子が、更らに自分の息子に同じ一千坪を遺産したとすれば、これは親ゆずりの先天的性質であつて、『習得したる性質』ではない。けれども、此讓り受けた男が、彼れの一生涯に其の地所を増大して二千坪にしたとすれば、後に加へられたる一千坪は、即ち『習得したる性質』である。

勿論、土地の場合に於いては、その力倆如何に依つて、取得したる一千坪を傳來の一千坪とともに其の子孫に傳へることは出來やう。然し乍ら、生物學的方面に於ては、それは絶對に不可能であると、ワイズマンは主張する。彼れはこの不可能なる所以を説明するために、幾多の興味ある實例を擧げてゐる。

七、足の小指と駱駝の隆肉

例へばスペンサー[Herbert Spencer]は、文明人の足の小指が特に小さいのは、永く靴を穿いた結果であると説く。然し先祖代々靴を穿いたことのない未開人でも、矢張り其の足の小指が特に小さい所を見ると、これは靴を穿くと云ふ習慣に依つて『習得されたる性質』の遺傳に基くものではないことが判る。

又、ロンブロソー[Cesare Lombroso]は、駱駝の背の隆肉を説明してこれは駱駝が荷物を運搬させられることに依つて、『習得したる性質』が遺傳に依つて蓄積した結果であると云つた。駱駝と駱馬とは多くの點に於いて酷似してゐるが、駱馬には隆肉が無い。そこでロンブロソーは云ふ、駱駝はもと駱馬であつたもので荷物を運搬する習慣に依つて、次第に其の隆肉を得たのであると。彼れは又ホツテントツト種族の女の腰に大きな硬肉の出來たのは、其の子を背負ふ習慣から來たものだと斷定した。ところが其の後、地質學上の發見に依れば、人間の現はれる以前に於いて、既に駱駝の生存してゐた事實が明かになつた。此の一發見で、ロンブロソーの隆肉由來説は、無慘にも打ち壞はされて終つた。

八、尾の無い猫

これに就いて面白い問題は、一代に受けた傷が遺傳するか何うかと云ふことである。若し生物の個體が一生の間に受けた傷が遺傳すると云ふことになるとすれば、ワイズマン説はこれに依つて美事打破されなければならぬ。

此の問題に就いて、一八八七年、ヰーズバーデンに開かれた獨逸自然科學者協會の會合に、端なくも大論戰が惹起された。當時、新ラマルク派のツアハリヤス博士[Dr.Zacharias]は頻りに傷の遺傳可能説を高唱した。博士は其の例證として、席上に携へて來た數疋の尾の無い猫を示して、此等の猫の母親は、元來長い尾を所有して居たものであるが、或る時荷車に轢かれて尾を失つた。丁度其の頃姙んで出來たのが此等の子猫である。と云つてワイズマンに回答を促した。

ワイズマンはこれに答へて、右の車に轢かれたと云ふ事實の詳細が不明である以上、論者の主張に十分の尊敬を拂ふ譯にはゆかぬ。且つ又、件の子猫に尾の無い譯は、其の母の負傷よりも、寧ろ其の父方に尾の無い血統がある故であらう、と主張した。然して彼れは、これに就いて更らに語を續けて曰く――

『友人シヨツトリウス教授[Prof.Schottlius]が、嘗て尾の無い猫を持つて來た。彼れの語る所に依れば、この猫はシユワルツワルド(獨逸ライン河東方の森林地帶)南隅の一小都市ワルドキルヒに見出されたものであつて、これに關して種々取り調べた結果、いつの頃からかワルドキルヒに時々尾の無い猫の生れることが判明した。これに依つて更らに此現象を精査したところ、次の事實が明かにされた。

ワルドキルヒに一人の牧師が住んでゐた。彼れの妻は、もとイギリス人でマン島(愛蘭と英蘭との間にある小島)産の尾の無い牡猫を飼養してゐた。此の事實から推して、其の後ワルドキルヒに生れた尾の無い猫は、結局みな此の牡猫の血統をひいたものではないかと云ふことになつた。元來、マン島産牡猫は尾の無いのが特色であつて、それがシユワルツワルドに潛入した點から看ると、他の地方にも、何かの機會でこれと同じやうな事が行はれたに違ひない。』

ワイズマンは其翌年、同じ問題に就いて更らに次の如く論じてゐる。『自分の身體に傷をつけることが、多くの民族の間に昔から行はれてゐる。即ち猶太人には割禮の習慣がある。支那の婦人は纏足する。其の他前齒を抜いたり、唇や鼻に穴をあけたりする習慣が行はれてゐるが、さうした民族の間に生れた子供が、生れながらにして此等の傷の痕跡でも示したといふ話を聞いたことがない』と。

九、ワイズマン勝つ

以上ワイズマンの遺傳説には,我々から云つても頗る都合よく造り上げたやうな節々も見えるが、然し大體に於いて反對派の論據を突くに有力であつたことは爭はれない。少なくともラマルク系の遺傳説に對して、比較的勝味の多いことは事實である。これに就いては、ワイズマンの論敵たるヘツケル派の學者の中にも、幾分か此の事實を認めたものさへある。例へばヘツケルの『創造史』を英譯したランケスターは、其譯書の序文中に『私は茲に言明しなければならぬ。私はヘツケルの分類法の大部分及び彼れが其の取得性遺傳を認めた主張の點については、到底彼れと一致することは出來ぬ。兎に角本書の簡單なる説明によつて此等の問題に興味を感じた讀者は、ヘツケル教授の斷定を終極的のものと見ることなしに、直接ワイズマン其他の學者の著述について研究する所がなければならぬ』と言つてゐる。

十、ワイズマン説と社會問題

我々は最後に、社會主義と遺傳問題との關係に一瞥を下さねばならぬ。

社會主義は貧困の根絶を目的とする。然しながら貧困の根絶は、それ自體が最終の目的ではなく、健全なる國民を造るための手段であることは言ふまでもない。過度の貧困が人間の身心を如何に萎縮せしめるかは、喋々を要しないところであるが、假りに長い間、貧困の境涯から受けた身心の萎縮が、かの新ラマルク派の主張する如く、『習得したる性質』として永久に子孫に遺傳するものとすれば、如何に社會主義を實行して貧富の懸隔を除去したとしても、人類改造の根本目的を達することは容易ではあるまい。

この意味に於て、ワイズマン説は、社會主義の主張にとつて極めて有利である。ワイズマンに依れば、生物が其の生涯に受けた性質は、子孫に遺傳するものでない。これに依つて、貧困といふ境遇に與へられる心身の萎縮不良化は、個人一代の出來事に止まる。即ち境遇の變化に依つて、如何樣にもこれを改善することが出來るのである。

ローマネス[Romanes]は、ワイズマン説の結論に反對したが、然し其の社會的應用の効果は認めてゐた。彼れは『若しワイズマン説が眞理であるとすれば、從來の社會學は、全く書き變へられなければならぬ』と言つて、『ワイズマンに依つて社會主義論究の新方面が開かれた』と主張した或る學者の説に裏書してゐる。

更らに社會學的方面から、ワイズマンと同一の結論に達した學者もある。

例へば米國のジオン・アール・コンモンヌ[John R.Commons]教授は、多年の實地的研究に依つて、次の統計を得た。

合衆國の人民中一・七五パーセントは、先天的の不具者、三・二五パーセントは後天的不具者である。また二パーセントは生れながらに超凡の天分を有し、如何なる境遇の下にも、其の天分を發揮し得るものであるが、二パーセントは反對に、先天的に水準以下の人間である。而して殘りの九一パーセントは、生れつき十人竝みの才能を有する人々で、彼等の將來に於ける善惡賢愚は全く其の最初の十五年間に於ける境遇の如何に懸るものであると。

ハーマン・ホイツテーカア[Herman Whittaker]氏は、八年間に亘り、倫敦の貧民窟から加奈太植民地に送られた少年二千名に就いて研究した結果、彼等の多數は懲治監に服役したことのある惡少年であつたに拘はらず、從前の惡習に復歸したものは、僅か一パーセントにも達しなかつたことを見出した。

要するに、今日社會に見られる諸種の惡徳や犯罪の多くは、人の境遇の所産であるから、境遇の改善は人類向上の最大急務であると云ふことになり、而してこの結論は、後天的境遇に基く性質の變化が遺傳しないといふ、生物學的原則に負ふ所が多いのである。

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