第三講 競爭と協同 ―クロポトキンの相互扶助論―

高畠素之

一、進化論史上の五人

ラマルク[Jean Baptiste Lamarck]は、一貫せる科學的方法に依つて進化論を説明せる最初の學者であつた。次にダーヰン[Charles Darwin]は『有機體の進化を支配する大原則』たる自然淘汰の原理を發見し、續いてワイズマン[Weismann]は、適當なる者がいかにして生ずるかと云ふ問題に就いての通説を排し、代ふるに彼自身の新説――尚未だ當否未決定に屬する所の――を以てした。デ・フリー[Hugo DeVries]は新種の發生は微細なる變化の漸次的集積に依るか、然らずして急激なる飛躍――突變(ミユーテーシヨン)――に依るかとの疑問を起し、月見草の實驗に依つて突變説を論證するに至つた。

然るに今やクロポトキン[Pjotr Aljeksjejevich Kropotkin]は『何者が適者たるか』との問題を携へて出現した。生存を助長する所の適性を構成するものは抑も何ぞ?適者とは生存競爭場裡に於て他の生物に對し絶えず剿絶戰を行つてゐる生物の事であるか?それともまた、一切のものの共同生存を維持せんがため相互協力する生物の事であるか?――と。

二、『自然の状態』

この問題が提起されると共に、科學上の思想は階級的利害に依つて影響されるといふ、顯著なる事例がまたも曝露されることゝなつた。由來、自己の解放と信ずる所の目的に向つて、奮鬪しつゝある如何なる階級も、その當證と先例とを過去に求むるは周知の事實である。

ランニイメードに於て國王ジオン[John]より強取した大憲章[Magna Charta]は近世的自由の基礎であるとは、英語國民の間に行はれる見解である。

封建的君主政治を顛覆すべく奮鬪した佛蘭西のブルヂオアは、專制君主政治は『自由の状態』に背反するものであると主張し、斯かる自然の状態に、自己の立場の當證を求めたのである。斯くてルソー[Jean-Jacques Rousseau]の如き學者は、自然は比較的完全のものであると稱へてこれを理想化し、『自然權』の恢復は自由にとつて缺くべからざる條件[で]あると宣言するにいたつた。然るにこの同じブルヂオアが勝利を博して自ら權力者の地位に臨むや、自由の増進を計らず、種々なる點に於いて却つて多數民衆の墮落を助長した。即ち『自然の状態』に就いてのブルヂオアの思想は、茲に急激に一變化を遂げたのである。而も斯くの如きは決して佛蘭西のみに限られた現象でなく、ブルヂオアが勝利を博した如何なる國に於いても見受けられる所である。

扨て、謂ふ所の『自然の状態』とは、不斷の屠殺を意味するものであつた。自然は『齒と爪との血塗れ状態』であると見られたのである。而して斯くの如き凄慘の巷たる自然状態は、勞働の搾取を助長し、人類歴史に對する最も忌はしき汚辱たる、幼者の虐待を奬勵するものと考へられた。此の渦卷きは極めて強く、ハツクスレー[Thomas Henry Huxley]さへも夫れに捲き込まれた程であつた。尤もハツクスレーは自然に就いては鬪爭的見解を持してゐたが、ハーバート・スペンサー[Herbert Spencer]の如き資本制度擁護論者が自然から推して辯護しようとした社會的殘虐には反對した。後年、スペンサーは或る程度までその動物界に就ての前提を放棄したが、然し不思議なことには、これをその儘原始人類に應用したのである。

三、ダーヰンとクロポトキン

自然界には『暗黒と殘虐との充滿せる外に何も無く』、ホツブス[Thomas Hobbes]の言つた如く、唯『各人に對する各人の戰爭』あるのみと觀じたる右の如き見解を支持せんが爲に、ダーヰンの偉大なる權威が呼び求められた。實際の所、ダーヰンは此の説に對して殆ど全責任を有するものゝ如く思はれてゐた。クロポトキンが此の説を轉覆した事實を見て、知識なき人々は、これまたダーヰン説が第十九世紀の最後の四分の一期中に受けたと考へられてゐる『致命的打撃』の一に等しきものと宣言した。

然しクロポトキンはその緒論に於いて、相互扶助の思想は『事實上、ダーヰンが其著人類の由來中に言ひ表はした思想を更に展開せるものに外ならぬ』と言明してゐる。ダーヰンは曰く『同情心ある成員を最も多く包含せる社會は最も繁榮し、最も多く子孫を蕃殖するであらう』と。勿論クロポトキンは、ダーヰンがこの思想を充分展開せず、生存上の『競爭』といふ思想を餘りに強調せる嫌あることを述べてゐる。而して此誤謬は彼れの學徒によつて更に助長されたと言つてゐる。即ち『ダーヰンの説も亦、人類間の問題に何等かの關係ある他の諸學説に就いて常に見受けられる所と同じ運命に遭遇した。彼れの學徒は自身の暗示に基いて此の説を展開せずに、寧ろこれを尚一層狹ばめてしまつたのである』と。

クロポトキンがダーヰンの相互競爭説を否定するものと考へるのは間違であつて、クロポトキンは寧ろ次の如く言つてゐる。

『この二つの主潮を分析せざる間は、進化に關はる如何なる評論も完全なるを得ない――これ等の兩勢力間の鬪爭は、事實に於いて歴史の本質をなすものである』と。クロポトキンは競爭の原理なるものが『何時とも知れぬ古代から既に分析され、叙述され、嘆美されてゐた』事實を指摘し、『實際、今日に至る迄、史詩家や、編年史家や、歴史家や、社會學者などの注意を受けたものは單に此の思潮のみである』と主潮することに依つて、彼れの著書は相互扶助の原理のみを強調するものではないかと云ふ反對論に對する豫防線を張つてゐる。

彼れの著書の實體となるものは、無脊椎動物より最高級哺乳動物に至る迄、また第一石器時代より二十世紀に至るまで、生物界到る處に相互扶助は存するといふ幾多の實證の蒐集である。此の書は前後八章より成り、最初の二章は『動物間に於ける相互扶助』を取扱つて居る。

四、動物界の相互扶助

この最初の二章に依つて、社會は人類から始まつたと云ふ説は全く覆へされてしまつた。普通蟻や蜜蜂にのみ限られてゐるものゝやうに信ぜられてゐる複雜な社會的配劑は、如何なる生物に於いても、殊に鳥類に於いては最も著しく、繁榮してゐると云ふ事實が示されてゐる。

鸚鵡の相互扶助は著しきもので、クロポトキンは『鸚鵡の知識の發達に鑑み、これをあらゆる鳥類の絶頂に〔』〕据えてゐた程である。濠洲の白鸚鵡は穀物を襲ふに當り、その妨げとなる『一切の障碍を無効に歸せしめる』程さかしく互に扶助し合ふのである。『彼等は穀畑を襲ふ前に先づ偵察隊を派遣する。此の偵察隊は畑の附近にある一番高い樹に陣取り、他の斥候等は、畑と森との中間にある樹に止まり、信號の中繼ぎをなす。』『大丈夫との報が傳はると、二十羽ばかりの白鸚鵡は全隊伍から離れて空中を飛翔し、それから畑に最も近い樹を目掛けて飛んでゆく。彼等はまた久しく附近の樣子を偵察して後、始めて全隊行進の相圖を與へる。すると全體は一齊に立ち、瞬く間に畑を襲ふのである。』

ペリカンの間に行はれる相互扶助は、極めて著しいものである。『彼等は常に大勢隊を組んで漁に出かける。そして適當の入江を擇んでから濱邊に向つて半圓を畫き、濱邊を指して泳ぎ乍らその半圓を狹めて行き、偶々半圓内に包まれた魚を殘らず捕へてしまふ。狹い河や運河などの場合には、彼等は二隊に分れ、各隊は矢張り半圓を畫き、双方から羽叩きしつつ接近してゆく。これは恰度、二隊に分れて長い網を引き乍ら進み、出會つた時、網の中に入つた魚を殘らず捕つてしまふのと同じである。』

お馴染の雀も亦見逃されてをらぬ。雀は古代の希臘人でさへ認めてゐた程、著しく相互扶助を慣行せるものと言はれてゐる。クロポトキンは希臘の雄辯家が『予の演説中、一羽の雀が飛んで來て、一人の奴隷が穀物袋を床の上に落した事を他の雀たちに告げ知らせた。すると皆んな其處へ穀物を喰ひに飛んで行つた』と語つたと云ふ話を掲げてゐる。雀も亦社會的訓練を有するもので、『若し一羽の怠け雀が、仲間の雀が作りかけてゐる巣を我物にしようとし、または其の巣から數本の藁を盗むかすると、大勢の雀は其怠け雀に干渉をする。』クロポトキンは、絶えず互ひに咽喉輪を目がけて飛びかゝると想像されてゐる野獸の間にも、大なる慈悲と同情とが行はれると云ふ事實に就いての幾多研究家の信憑すべき觀察を掲げてゐる。即ちゼ・シイ・ウード[J.C.Woods]は『負傷せる仲間を起して伴れ行く鼬鼠』に就いて語り、ブレーム[Brehm]は『數周前に負傷した一羽の烏を木のウツロの中で二羽の烏が養つてゐるのを見た』と言つてゐる。又ダーヰンの引用せる所に依れば、キヤピテン・スタンスベリー[Captain Stansbury]はウター[Utah]への旅行の途次『一羽の盲ペリカンの爲めに、他のペリカンたちは三十哩の遠方から魚を取つて來てこれを養つた――而も極めて善く――』と云ふ事實を見た。

此の種の澤山の事例に依つて、クロポトキンは次の如く結論してゐる。『有機界を通じて行はれる生存競爭なる觀念は現世紀に於ける最大の概括であり、而して此の競爭は、生物が不利なる事情と戰ふ場合には屡々集合的のものになると云ふ事實は、如何なる自然科學者と雖もこれを疑はぬであらう。』

五、新種の發生

クロポトキンは、動物に就いての考察を結ぶに當り、個體間に於ける命がけの競爭に依らずして新種を發生せしめ、または舊種を消滅せしむる樣々の方法を指摘することに依つて、自己の立場を非常に強めてゐる。『例へば栗鼠は落葉松の森に松毬が逼迫して來ると樅の林に移住する。そして斯くの如き食物の變化に依つて、栗鼠は人の良く知る一定の著しき生理的影響を受けるものである。若しこの習慣變化が長續せず、翌年に至り、陰暗き落葉松の森に再び松毬が多く出來る樣になるとすれば、斯かる原因に依り栗鼠の何等新しき變種も生じない事は明かである。けれども、若し栗鼠の棲息する廣大なる領域の一部に物理的變化が生じ――例へば氣候が温暖になるか、又は乾燥して來る結果(此等の變化は、何づれも落葉松の森に比べて松林を増加せしむるものである)而して一方、栗鼠をして乾燥せる方面に棲息せしむる他の何等かの條件が生ずるとすれば、茲に初めて栗鼠の新變種、換言すれば、栗鼠の初發的新種が生ずることゝなるであらう。而して此のヨリ良く順應せる新變種の大部分は、年々存續し、其中繼個體はマルサス流の競爭者によつて餓死せしめられることなく、時經る間に漸次死滅することゝなるであらう。』

また、『冬中トランスバイカリアの草原で草を食んでゐる馬や牛に就いて見るに、彼等は冬の末になると著しく痩せ衰へて來る。然しながらこれは、彼等すべてに取つて、食物が充分でない結果ではなく――薄雪の下に埋もれてゐる草は至る所豐富であるから――雪を掻き分けて草を採る事が困難な結果である。而してこの困難は、總べての馬匹を通じて同一なるものである。……我々は斷言することが出來る。――彼等の數は競爭に依つて制限されるものではない。彼等は一年中の如何なる時期に於いても、食物の爲めに競爭するの必要はない!而も彼等が決して人口過多に近い状態に達し得ないのは、氣候の然らしむる所であつて、競爭の結果ではないのであると。』

冬の食物を貯える爲に團結し、又は競爭の始まる頃になると眠つてしまふ齧齒類、大群をなして大陸を横斷し食物豐富なる場所へ移住する水牛、數が夥しく殖ゑるに從つて二隊に分れ、老年組は河を下り、壯年組は河を遡り、斯くして競爭を避ける海狸――クロポトキンは此の種の例證を澤山に擧げた後、『競爭するな。競爭は常に種屬にとつて有害である。資源は豐富であるから競爭は避けられるのだ。――故に團結せよ!相互扶助を實行せよ!これぞ肉體的にも知識的にも、また道徳的にも、生存及び進歩に就いての最大の安全、最良の保證を各個及び全體に附與すべき最も確實な手段となるものである。自然界の命令は斯くの如くである』と宣明してゐる。

六、野蠻人の相互扶助

第三章は『野蠻人の間に於ける相互扶助』を取扱つてゐる。この章に於て我々は家族なるものは種族に先だつた古代的の制度であるか、それとも民族の結果として遙か後に出現したものであるかとの問題に逢着する。クロポトキンはモルガン[Morgan]や、バシヨフエン[Bachofen]や、メーン[Maine]や、ラボツク[Lubbock]や、テイラー[Tylor]等の主張せる説を採り、シユタルケ[Starcke]やウヱスターマーク[Westermarck]等の提唱した説を排斥してゐる。

人類學上の研究に依る野蠻人は、俗説に信ぜられてゐる所の血に渇した怪物の如きものとは餘程違つてゐる。『野蠻人が時として食人種たることあるは事實である。然しそれは決して屡々行はれる事實ではなく、且つ又經濟上の必要と密接に關聯せるもので食物が豐富になると廢されてしまふ。』老人を森に捨て、死に至らしむる習慣は、成る程惡いには違ひない。然しながらこれとて普通信ぜられてゐるほど惡いものではないのである。野蠻人は、その移住に際して、老人が自ら足手纏ひとなることを厭ひ一層の事殺して欲しいと願ふ迄は、何處までも一緒に伴れて行くのである。老人が斯く願つた時、分け前以上の食物を與へられて森の中に捨て去られる。誰も彼を殺す氣はないからである。生兒殺しの風習も同じ動機から來たもので、野蠻人は出生率を低減せしむるためあらゆる手段を採るのである。彼等は小供を殘らず養育する事が出來ないのだ。然し此の風習も食物の豐富なる時は消えてしまふのである。此の習慣が極めて忌むべき性質を帶びるやうになつたのは、其の必要が全く無くなつた後、宗教的後光に封じ込まれ、神聖なる儀式として保存されるに至つた時である。

野蠻人は復讐を善事と信じてゐた。然しそれは罪過に依つて嚴密に測定せらるべきであつた。即ち目にて目を償ひ、齒にて齒を償ふ底のものでなければならぬ。齒にて目を償ひ目にて齒を償ふ底のものであつてはならぬ。野蠻人はただ敵を殺すだけで自種族の者は常に全力を盡してこれを防禦した。『種族内に於いては如何なるものも共同に分與される。少し許りの食物も居合せてゐる總ての人々に分配される。そして野蠻人はたゞ獨りで森の中に居る場合、自分の聲の聞える總ての人々に向つて三度び高聲で食を共にせんことを誘はないうちは決して食事を始めないのである。』『彼れにして若し種族内に行はれる些細な規則の一でも侵害することがあれば、婦人の嘲弄を受ける。』『隣人の領域に入る場合には、高聲で自己の來たつた事を知らせ、此の家に入る場合には、入口に自分の斧を立かけておかねばならぬ。獲物を分配する場合、一人が貪婪を示せば、他の凡べての人々は自分の分前をも提供して彼れに恥辱を與へる。』罵詈嘲笑は彼等の大いに嫌ふところである。彼等の小供は口論好きではなく、滅多に爭はないのである。精々言い得るところは、『お前のお母さんはお針を知らぬ』とか『お前のお父さんは目ツかちだ』位の惡口にすぎない。

野蠻人は己の利益と種族全體の利益とを同一視してゐる。彼等は個人主義者ではない。而して如何なる場合にも、兒童に勞働をさせることは承知しないであらう。

七、未開人の相互扶助

第四章は未開人を取扱つてゐるが、此の未開人の時代に於て、我々は愈々有史時代に入るのである。此時代には一見相互扶助なるものは存在して居らぬやうに見える。戰爭と流血との外には何者も無いかに見える。然し乍らその理由は求むるに難くない。即ち最近に至るまで、我々は專ら『太鼓と喇叭の歴史』を歴史家から饗應されて居たのである。『彼等は各種の戰役、各種の大戰小戰や、各種の奮鬪暴行や、各種の個人的苦難に就いての細録を子孫に遺した。然し我々が誰れも自分の經驗に依つて知る無數の相互扶助的及獻身的行爲に就いては何等の記録も與へないのである。――古代の編年史家は、同時代の人々を惱ました些細な戰爭や災厄を書き洩らすやうなことはなかつたが、多種民衆の生活に就ては何等注意するところがなかつた。而もこれ等の民衆は、小數の人々が戰爭に沒頭しつつある間、平和の裡に苦役するを常としたのである。』

サー・ヘンリ・メーン[Sir Henry Maine]は其著『國際法の起源』に於いて、『人類は何等それを防止すべき努力をせずして戰爭の如き凶惡事に從ふ程、爾く殘忍迂愚たりし事はなかつた』と云ふことを充分に論證した。彼れは又『戰爭を防止し若しくは夫れに代るべき何物かを備へんとせる意圖を徴表する所の古代的制度』が、如何に絶大であるかをも示してゐる。

クロポトキンは、羅馬帝國の壞滅を招致した、かの民族大移動の原因に就いて、含蓄ある暗示を與へてゐる。『それは乾燥作用である。從前に於いて認められなかつた速度を以つて今尚繼續しつゝある全く最近的の乾燥作用である。これに大しては人類は無力であつた。西北蒙古及び東部土耳古斯垣の住民達は水が漸次なくなりつゝある事を知つた時、低地に通ずる廣き谷間を下り、平原の住民を西方に逐ひやるの外、取るべき道はなかつた。』かくて彼等に就き記録されてゐる一大戰爭は、絶對的なる物理的必然によつて彼等に強要されたものである。

未開人等の間には何等の社會問題もなかつた。これ、近世個人主義の基礎たり近世文明に伴ふ墮落と貧困との源泉たる生活資料の私有なるものが、未開人等の間には知られて居なかつた結果である。彼等は共産者であつた。一人の利害は萬人の懸念するところであつた。何物も消費の點に達する迄は私有されなかつた。そしてこの點に達した時と雖も、必ずしも私有されるとは限らなかつた。食物は一般に共同消費されてゐたからである。この社會的形態は、今尚とり分け露西亞に保存されてゐる。クロポトキンは言ふ。『露西亞の共産村落に於て牧場の草刈をする(男は手に手に大鎌を持つて先きを爭ひ、女は草を引くり返して積みあげながら)光景は、これ實に人類の勞作は如何なる物たるを得、又如何なる物たらざるべからざるかを示すものである。この場合乾草は個々の家に分配される。そして何人と雖も、許可なくして隣人の堆草を取るの權利なきことは明かである。殊にコーカシアのオツシート人[Caucasian Ossetes]の間に行はれる此の最後の規則は、最も注目すべきものである。郭公が鳴いて春の到來を知らせ、牧場は間もなく又若草に蔽はるべきことを告げ知らせると、乾草なき者は誰でも隣人の堆草から家畜用の乾草を取る權利がある。斯樣にして古き共産的權利は回復される。これ恰も、無制限なる個人主義が如何ばかり人間性に反するかを立證せんとするものゝ如くである。』

初期の基督教徒は『總べての物を倶にし』たが、然しそれは近世社會主義に向つて進みつゝあるものではなかつた。彼等は寧ろ、幾萬年に亘つて人類の子女に歡喜と充實とを與へた原始共産制に逆戻りしてゐたのである。未開期に於けるこれ等の共産者は、徹底的民主々義者であつた。彼等の民會には、何人も出席して發言することが出來た。此の民會は、實に彼等が有する唯一の政府らしきものであつて、その決議は、これを勵行すべき何等の役人をも要せざる程充分に尊敬されてゐたのである。彼等は又單に小供の勞働を排斥する點に於てのみでなく、又小供の毆打を排斥する點に於ても我々に優つてゐた。

八、近世に於ける相互扶助

『中世都市に於ける相互扶助』を論究せる二章は、中世に於ける相互扶助の主たる代表としてギルドを取扱つてゐる。集權的國家の蠶蝕に對する、自由都市の抗爭に就いての稍詳細なる叙述が掲げられてゐる。中世の都市は結局敗滅に歸し、ギルドは破壞された。けれども破壞し難き相互扶助の原理は新らたなる形態を採り、新たなる事情に適合してゆくのである。

茲に於いて問題は、結末の二章たる『我々自身の間に於ける相互扶助』に移るのである。その最初の章の殆ど全部は、露西亞、瑞西、佛蘭及獨逸の村落に今尚存續する相互扶助的な習慣と制度とを叙述する爲に作られて居り、最後の章は、相互扶助に就いての眞に近世的なる諸例を取扱つて居る。それ等のうち最も重要なるものは、勞働組合竝びに其罷業及び消費組合、救助船協會、慈善團體等である。

勞働組合のすぐ次に掲げられて居る相互扶助の例解は即ち社會主義運動である。クロポトキンは、次の如き文章を以て、現社會に於ける相互扶助の一表現としての社會主義運動に對する彼れの見解を述べてゐる。

『政治上のあらゆる大運動が、大規模にして且つ屡々遠き將來に横る問題の爲に戰はれたものであり、而してこれ等の運動中最も私心を交へざる情熱を喚起せるものが最も有力であつたと云ふ事實は、すべての經驗ある政治家の知るところである。歴史上のあらゆる運動は此の性質を有するものであつた。而して現代に於て此例に當嵌るものは即ち社會主義運動である』。『金で雇はれた煽動家とは、社會主義運動に就いて知る所なき人々の好んで用ゐる反覆語である事は疑を容れない。だが事實はかうである。私は自分の親しく知つた事實だけに就いて云ふのであるが、若し私が過去二十四年間の經驗を日記に書き留めておいたとすれば、斯樣な日記を讀む人は絶えず勇壯といふ言葉をその唇頭に泛べたであらう。とは云ふものゝ此の日記に書き留めらるべき人物は決して英雄ではない。それは、偉大なる思想に氣化された普通人なのである。如何なる社會主義新聞も――歐羅巴だけでも幾百と云ふ數に達してゐる――何等報酬上の希望なく、また多くの場合個人的野心すらもなく、多年に亘つて同じ犠牲の歴史を有して居る。社會主義者の家族にして、明日の食物のアテもなく生活しつつあるものを見た。良人は社會主義新聞に關係してゐるために、その小都市の八方からボイコツトを喰はされ、妻はお針をして一家の糊口を支へてゐる。而も斯樣な状態は數年間に亘つて繼續し、結局その家族は一言の不平も云はずただ『續けてやれ、我々はもう續かない』と云つたきりで町を去ることゝなるであらう。私は又、肺病で死にかゝつて居り、自分でもそれを承知し乍ら、それでも尚死ぬ數週前迄、雪や霧の中を驅け廻つて、集會の準備をしてゐた人々を見た。彼等はそれから漸く入院するのであつたが、其時の言葉に曰く『さて友よ、もう駄目だ。醫者の話では二三週きり保たないさうだ。同志諸君に何うか見舞に來てくれる樣傳へてくれ玉へ。』茲で話したなら『理想化』したのだと云はれさうな事實を私は澤山見てゐる。これ等の人々の名は狹い友達仲間以外には殆んど知られて居らないから、かれ等が死ぬと、軈て忘れられてしまふであらう。實際のところ私は此等少數者の限りなき獻身的行爲と、多數者の些細なる獻身的行爲の總和と果して何づれをヨリ多く嘆賞していゝか分らぬのである。社會主義者の賣る各一ペンニー新聞、社會主義者の催す各集會、社會主義者が選擧に贏ち得る各百票――これ等は何づれも局外者には夢にだも知り得ざる程の精力と犠牲とを代表せるものである。而して今日社會主義者に依つて爲されて居る事は、過去に於ける政治上宗教上のあらゆる民衆的及び進歩的團體に依つて爲された所である。過去に於ける一切の進歩は、斯かる人々と獻身的行爲とによつて進められたものである。〔』〕

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