第五講 生物學と社會主義 ―ヘツケルの社會主義論批判―

高畠素之

一、畑違ひの議論に基く紛爭

『權威』に對する叛逆は殆んど輕蔑すべき程度まで極端に行はれた、マンチエスター派の個人主義者たるハーバート・スペンサー[Herbert Spencer]と形而上學的主我論者たるマツクス・スチルネル[Max Stirner]とは、共に等しく餘蘊なきまで權威を貶して居る。彼等の學徒中最も淺慮なる輩は、自己の思想から現實世界との一切の交渉を廢除し、例へば爰に六人の人々があるとして、それ等の人々が十分力を盡して網を引くと云ふ如きことはあり得やう筈がない、如何とならば、適當なる機會に、一人の者が錨を揚ぐる音頭を取るならば、他の五人の者共は、餘儀なく其一人の權威を認むる事となるであらうからと主張する。

この種の思想家からいへば、音樂などはあらう筈がなく、急激なる個人主義論者が『樂長』の動かす鞭に從ふ所の極めて集中せる權威を認めやうとは、誰れしも想像することは出來まい。論理的にして權威を無視する個人主義者の音樂は、恰も印度人が手當り次第に撃つ鐵砲と一般であり、決して近世の管弦の如く極めて調子の整つたものではないのである。

科學に於いても、思想に於いても、權威を認めざる人々の愚は、矢張り斯くの如きものである。天文學上の根本的な新發見をなしたと稱しつゝ、同時にニユートン[Newton]や、カント[Kant]や、ラプラース[Laplace]の如き學者の研究を惡評して居るのを聞くは、再考の價値なき痴言を聞くに等しいのである。從前蹈んだことのある梯子の段階を踏むまでは、何人も更らに高き段階に上ることは出來ぬ。而して斯かる任務の遂行こそ權威を構成するところの要素たるのである。思想なくして如何にして能く考へ得るか?智識の獲得に依らずして如何にして思想を得る事が出來るか?智識を有する者を外にして、何處に智識を求めんとするか?

科學上及び思想上のあらゆる權威は、當該問題に就ての智識を基礎として立てられる。社會主義者は能くカール・マルクス[Karl Marx]を引合に出す。蓋しマルクスの學説は、彼れが富の生産及び分配の理解につき同時代の何人よりも優れてゐたことを立證するからである。ラヴオアジエー[Lavoisier]は、化學上の一權威である。物質の組成に就いて、彼れは同時代の他の如何なる人よりも知るところが多かつたからである。

然しながら、自身の專門の畑では權威を有するも、他の方面に於いては何等の價値なき意見を抱いてゐる人々が、畑違ひの場所に於いて積極的に判斷を下し、紛爭を惹起した例は從來多く見る所である。作曲の大家が、或る音譜の價値に就いて言及するところのものは重要視すべきであらう。けれども彼れが地質學を研究せずして、ロツキー山の起源や年齡に就いて意見を發表したとすれば、彼れのその意見に果して幾許の價値を認め得るであらうか。

二、ダーヰン説と社會主義

上述の如くにして惹起されたる紛爭の中で、世界の學界に紹介された適例は一八七七年九月、ミユンヒエンに於いて開催された自然科學者の會議に現はれてゐる。當時、歐羅巴の自然科學者は二派に分れて對立してゐた。即ちダーヰン[Charles Darwin]の『自然淘汰』の原理を承認する一派と、その反對派とである。而して兩派の指導者は何れも獨逸人であつた。尤も獨逸人の大多數はダーヰン派の加擔者であつた。然るに一方佛蘭西人は何うかといふに、フローレンス[Flourens]死して既に十年を經過せるもなほ其勢力の下に在り、一齊にダーヰン派に對抗するといふ状態であつた。

ミユヒンエンの會議に於いて、ダーヰン説のための戰鬪を指揮する名譽はヘツケル[Haeckel]に歸した。同年九月十八日、彼れは偉大なる英人ダーヰンの思想を擁護する大演説を試みて、反對派に對して戰を宣した。ヘツケルはまた諸學校に於いても進化論の教義を極力辯護したのである。兩派の論戰は猛烈を極め、果ては病理學の泰斗ヴイルシヨー[Virchow]は、『ダーヰンの學説は直ちに社會主義に導くものなり』と大膽に斷言して會議に爆彈を抛つに至つた。

茲に於いて生物學的議論は停止した。殘るところはたゞ、ダーヰン説は社會主義的なりとの恐るべき非難の汚れをば、ダーヰン説から洗ひ落すことであつた。いふまでもなく、此任務も矢張りヘツケルの手に歸した。而して彼れの忠實なる援助者は、實にオスカー・シユミツド[Oscar Schmidt]であつた。

其後二ケ月を經て、シユミツドは『アウスランド』誌に寄書し『若し社會主義者にして愼重であるならば、彼等は全力を盡して生物進化説を默殺するであらう。何故ならば、進化説は社會主義思想の實行不可能なることを強調するものであるから』と言つた。

三、ヘツケルの主張

ヘツケルは、詳細を盡してヴイルシヨーに答へた。以下、フエルリ[Enrico Ferri]の引抄せる所を其儘掲げることにする。

『社會主義の主張する個人の平等なるものは實行不可能であり、斯かる空想的平等は、個々人の必然的にして且つ普遍的なる不平等と絶對的に衝突する事を公然と主張する點に於いて、生物進化説の右に出づる學説なきことは事實である。』

『社會主義はあらゆる市民のために、平等の權利、平等の義務、平等の所有、及び平等の享樂を要求する。これに反して進化説は、これ等の希望の實現は明かに實行不可能なることを立證し、人類の社會に於いては、獸類の社會に於けると同樣に各成員の權利、義務、所有は平等でなく又永久に平等たり得ざることを立證する。』

『變化の大法則は、現象の變異が原初的單一より、機能の差異が本來的齊一より、組織の複雜が本來的單純より來たる事を教へる。あらゆる個人の生存條件は出生の時より既に不平等である。また其の遺傳的性質及先天的性癖には、量の多少を問はず著しき相違の存する事をも考慮に入れなければならぬ。斯かる状態の下に於いて、如何にして仕事と報酬とが萬人の平等たるを得べきか?』

『社會生活が向上するに從ひ、益々分業の大原則が重要となり、全體としての鞏固なる國家の存立の爲めには、其の全成員は生活上の各種の任務を分擔する必要が生じて來る。各人の爲すべき勞働、併びに勞働に要する力、技能、及び金錢等の支出が次第に多岐に分れ行くが故に、此の勞働に對する報酬も亦、從つて多岐多樣たるを免れない。斯かる事實は簡單明瞭なものであつて、苟くも識見あり教養ある政治家であるならば、かの社會主義者等の抱く、不合理な空想的な平等思想に對する最良の解毒劑として生物進化説を主張すべき筈のものと思はれる。』

『ヴイルシヨーが其の進化説に對する辯難に於いて念頭に置いたものは、單なる變態的發達の理論たる生物由來説と云ふよりも、寧ろダーヰン説即ち自然淘汰説であつた。此の二つは常に混同されてゐる。ダーヰン説は社會主義的とはいひ得ない。』

『何人かゞ若し、此のダーヰン説に政治的傾向を附與せんとならば――それはまことに差支ない事であるが――その傾向は正に貴族政治的たるべきであつて民主々義的たるを得ない。況んや社會主義的たるを得ざることは勿論である。[』]

『淘汰説に依れば、人類社會に於いては、植物や動物の社會に於けると等しく、常に到る所、特權を有する少數者のみが成功して生存し發達する。これに反して、多數者は多かれ少なかれ尚早的に苦しみ亡びて終ふのである。各種の動植物の種子や卵は數限りない。それより生ずる幼少個體も亦無數である。けれども、幸にして充分成熟し生存の目標に達し得るものゝ數は、比較的に微々たるものに過ぎないのである。』

『殘忍無慈悲なる生存競爭は、全生物界を通じて隨所に其の勢を逞うして居る。それは生存競爭なるものゝ性質上已むを得ぬことである。而してあらゆる生物間に於ける此の頑強なる永劫の競爭は、否定すべからざる一事實となり、極めて少數なる最強者(即ち適者)は、此の鬪爭場裡に於ける凱旋者たり得るも、不運なる競爭者中の大多數は必然的に亡ぶべき運命を有して居る。斯かる悲劇的運命は、實に悼しい事には相違ないが、これを否定しまたは變更することは不可能である。招かれる者は多くして擇ばれるものは少ないのである。』

『淘汰即ち適者の選擇は、必然に非適者たる大多數者の排斥又は破壞を伴ふ。斯くして、他の博學なる英國人は、ダーヰン主義の基本原理を「適者の生存、優者の勝利」と呼んでゐる。』

『淘汰の原則は毫も民主的ではなく、反對に徹頭徹尾貴族的である。茲に於いてフイルシヨーの言ふ如く、窮極の論理的結論まで推しつめたダーヰン説には政治家に取つて「非常に危險なる一方面」がありとすれば、その危險は、疑もなく、ダーヰン説は貴族的憧憬を支持するといふ點にある。』

ヘツケルの名著『創造史』第二卷の末尾を繙けば、其處にはフイルシヨーに對する彼れの有力なる反駁論が掲げられてゐる。フイルシヨーは伯林に於いて試みた其の有名なる演説の中に結論して『人類は猿より進化せるものでないことは、絶對に確實である』と言つてゐる。

ヘツケルはこれに就き動物學上既知の事實の大要を述べ、然る後次の如く結論して居る。『事態斯くの如きを以つて、此問題に就き權威者として認められる我々動物學者は、確かに次の質問を發することが出來る。即ち人類學者と稱する多くの人々は、斯くても尚、人類は猿より進化したといふ定説に、何等の現實的證據なしと主張し得るか?動物學者に非らざるフイルシヨー、ランケ[Ranke]其の他の人々は、斯くても尚、人類學會や其の他諸種の學會に於いて年々試みる講演の中で、此の猿説は架空の臆説、立證なき主張にして、自然哲學者の單なる夢想論なりと主張し得るのか?この上なく明晰にして且つ總べての動物學者に依つて異議なく承認せられて居る證據が充分提供されてゐるのに、これ等の人類學者は斯くても尚、この猿説の確實なる證據を示せと要求し得るか?屡々引用されるフイルシヨーの猿説反對論が一般公衆の間に好評を以つて迎へられたのは、此の有名なる自然科學者が、全く畑違ひの病理學方面に於いて高く權威を有してゐたからである。彼れの細胞病理學は、醫學の全領域に亘つて巧みに細胞説を應用したものであるが、彼れは今より三十年前此病理學説に依つて斯界に大なる進歩を齎らしたものである。然しながら彼れの與へた此大なる永久的功績は、彼れが進化論に對して採つた頑迷なる否定的態度とは何等關係する所がない。』

四、ヘツケルの自繩自縛

進化論に對するフイルシヨーの反對論に對してヘツケルの用ゐた議論が、其儘ヘツケル自身の社會主義反對論に當て嵌らうとは、恐らく彼れ自身も考へ及ばなかつたところであらう。

ヘツケルの『屡々引用される社會主義反對論』が、『一般公衆の間に好評を以つて迎へられた』のは、此有名なる自然科學者が、『全く畑違ひの方面たる動物學會に於いて、高き權威を有してゐたから』である。彼れの『胎生學に於いて發見せる生物發生の原理は』、『今より三十年前斯界に大なる進歩を齎らしたものである。然しながら彼れの與へた此大なる永久的功績は彼れが社會主義に對して採つた頑迷なる否定的態度とは何等關係する所がない』のである。

フイルシヨーは動物學者ではないから、進化の價値を判斷することは出來ないとのヘツケルの抗議は御尤な次第である。同じ筆法で社會主義者は次の如く主張するも亦當然である。即ちフイルシヨーが動物學に就て知る所少なきよりも尚ほ著しく、ヘツケルは社會主義に就いて知る所少なきが故に、彼れは社會主義とダーヰン説との關係に就いて評價するの資格なきものである。

ヘツケルが其謂ゆる社會主義なるものに對して爲した批評の蕪雜なることは彼れがカール・マルクス及び其他の科學的社會主義者の理論に關しては何事も知らなかつたと云ふ點に示される。彼れが非難した如き社會主義は、彼れが非難を加へた時に先だつ約三十年前、既に社會主義者自身に依つて捨てられたものである。

五、惡平等のブルヂオア的起原

彼の所謂『不合理なる平等思想』なるものは、空想的社會主義者の專有財産ではなかつた。彼等は一七八九年に於けるブルヂオア的革命主義者からそれを借りて來たのであつた。此の平等はエンゲルスのいふ如く、『法律の前に於けるブルヂオア的平等の中に實體化せるもの』に過ぎず、換言すれば、『法律の前に於けるあらゆる商品所有者の平等』に外ならぬものである。『自由、平等、友愛』なる人氣取語を用ゐ、これを佛蘭西の監獄の門前に書き止めてブルヂオアの代表的使用語たらしめたものは、實に此の奮鬪的ブルヂオア階級であつた。

ヘツケルの批評の中で、更らにいま一つ注目すべき文句は、『人類社會に於いては獸類社會に於けると同樣』に、各人の義務その他のものは平等たる能はずとの主張である。これが社會主義に就いての批評たり得る唯一の點は、社會の階級的差別の撤廢の可能性を否定するところにあるらしい。ヘツケルが特に斯樣な意味で用ゐたか否かを明かにすべき何等の手懸りもないが、他の何等かの適用あろうとも、それは決して社會主義者の立場に反對する性質のものではあり得ない故、私は單にこの點に就いて彼れの主張の失敗を示せば足りるのである。

六、蜜蜂の階級

『蜜蜂』の社會には階級の差別があると言ひ得る。而して我々は、この階級が『蜜蜂の社會主義』と稱し得る如き何等の人類觀念に依つても廢除し得ざる名稱であることを許さ[な]ければならない。この理由は、却つて、類推に依る一切の社會主義反對論を不可能ならしむるものである。働き蜂は、蜜蜂の社會に於いて、『生理上』の勞働以外には、何事をも爲す能力を有しない。それは母性なき雌である。その結果、種族の蕃殖に關する全負擔は、女王蜂に轉嫁される。女王蜂は專ら生殖機能の點にのみ發達せるものであつて、決して働き蜂とはなり得ないのである。雄の種蜂としての所謂る懶け蜂についても亦同樣である。

ハツクスレー[Thomas Henry Huxley]教授は言ふ。『蜜蜂の巣は有機的政體である。即ち其の各員のなす役割は有機的必要によつて決定される一社會である。女王蜂と働き蜂と雄蜂とは、謂はゞ顯著なる物理的障壁によつて區劃されたる族姓的階級である』と。エルンスト・ウンターマン[Ernest Untermann]は、其の著『マルクス經濟學』の中で、『博物學の如何なる教科書も、種々異つた生物社會に就いて叙述してゐる。例へば蜜蜂の社會は君主國であり蟻の社會は共和國である。然し何づれの場合にも、これ等の社會を決定するものは生物學上の差異である。女王蜂、働き蜂、惰け蜂は器官に就いて夫々異つた構造を有し、各異つた特殊器官を具へてゐる。女王蜂は單に懷胎と産卵との器官を有するのみであり、惰け蜂は女王蜂を受胎せしむる以外、何等の機能も盡さない。そして働き蜂のみ單り、花粉と蜜とを集め、蜜蝋を作る器官を有してゐる。斯くの如き蜜蜂の社會に於ける生理的差異を、彼れは社會的階級と混同してゐるのである。[』]右の議論を社會主義者の階級撤廢論の反對論として使用し得るには、先づ女王は餓ゑてもなほ洗濯する能はず、平民の娘はまた、その父が公爵に叙せられるとしてもなほ、冠冕を着くる能はざることを證明せねばならぬ。

斯樣な生物學的區別を有せざる動物社會の存することは勿論である。然しかかる動物社會には、生活資料の私有といふことがない。從つて何等の階級もあり得ないのである。ペリカンや烏の社會に於いても怠惰に就いての正當な理由として認めらるゝところは、次の三事項にすぎぬ。即ち幼少、老齡、疾病又は變災これである。

『試みに勞働階級の小供と寄生階級の小供とを比較して見よ。彼等は孰れも宇宙の大神祕の中から生れたものである。先づ彼等のたわやかな小肉體を調べて見よ。果して一方の小供に拍車があり、他方の小供には鞍があるであらうか?しかも一方は長じて放逸懶惰の徒となり、他方は餓ゑ苛まされた勞働者とな[り、]一方は頂上に在つて朽ち、他方はドン底に在つてイヂケ者となる』と。これは最近或る社會學者の言つた言葉である。

勿論この二人は現實に於いても、また可能的にも、平等のものではないであらう。けれども、彼等に與へられる出發點が不平等でなければならぬと云ふ理由は無いのである。

若し一方に與へられてゐる幾多の機會が、他方には拒まれてゐるとしたならば、我々は抑も如何にして、一方の小供が何等かの意味に於いてヨリ優良者であるかを見出し得るであらうか?

茲に於いて、ヘツケルの比較論は再び頓挫しなければならぬ。自然界に於いては強くして能力ある者のみが生存競爭に勝ち得る。自然界は公平である。然るに資本制社會に於いては、虚弱なる富者の小供は、甘く育てられて成熟し、しかも自身と同じ虚弱なる小供を遺す。一方、勞働者の頑丈な小供は、毒を含んだ乳の爲め生命を奪はれるか、然らずんば、低き賃銀の爲め結婚を妨げられるのである。

自然界の『適者』とは、道徳上如何なる意味に於ても善者を意味しない。尤も間接には、動物界に於いて一定の道義的原理の慣行せられる結果、適性を生じ又は増大することあるは事實である。然るに、現代社會に於ける幾多の事例に就いて見るに、適性と云ふことは實に、自然界に於いて用ゐられ得る意味での『最善』すらも意味しないのである。

現社會に於いて、事業をなす上に必要な資格は、良心の感じを鈍くして、平氣で虚言を吐くことにある。現社會に於いて、正直は自殺を意味する。

自然淘汰は『貴族的憧憬を支持する』との主張も同樣の虚僞を含むものである。此の主張は、貴族なるものは社會の上位に居るに適するが故に、上位に居るのだと云ふ假定に立脚してゐる。伯林に於いて最近曝露された所により、ヘツケルの自國たる獨逸の貴族は、不正鑵詰の『適者』なることが明かとなつた。

七、自然界の競爭と人間社會の競爭

自然界に『生存競爭』あるが故に、社會にも競爭あるは當然であると云ふのが、ヘツケルの主なる主張である。然るにクロポトキンは先づこれに反對して言ふ。ヘツケルは『有生界一般を通じて、凡ゆる生物間には』殘忍、無慈悲な『生存競爭』が蔓つてゐると説くが、それは自然界を全く誤解したものである。斯かる主張を現社會の辯護に使用するは、畢竟するに、人類社會なるものはその模範を最高形態の有機的生命に求めずして、寧ろ最低形態の有機的生命に求むべきであると云ふに等しいことゝなる。

スペンサーはヘツケルの此立場を採用した。それに就き教授リツチー[Prof.Ritchie]は巧妙なる批評を下して『植物や下等動物の間に見られる競爭は、主として同種個體間に行はれるものである。しかしてスペンサーが斯くまで賞讚する個人間の競爭なるものは、斯かる原始的種類のものである』と。

更らにクロポトキンは言ふ。『試みに相互に絶えず鬪爭する者と、相互に扶養し合ふ者と、その何づれが適者なるかと自然界に問へ。我々は直ちに、相互扶助の慣性を取得した動物こそ、疑ひもなく適者なる事を知るであらう』と。

『無慈悲なる鬪爭』を望ましき事とする主張に就いて、ハツクスレーは次の如く適言してゐる。『從來に於ける社會のあらゆる形態を通じて、個人と個人との間に於ける鬪爭を最も嚴密に制限した社會こそ最も完全に近いものである』と。

原生動物間に於ける眞理は如何樣であらうとも、我々は、ラスキン[Ruskin]の次の言葉を確信をもつて社會に適用することが出來る。

『協同は、何處に於いても常に、生の法則であり、競爭はまた、何處に於いても常に死の法則である。』

八、法則の認識と社會の進歩

人類社會は終に、人類が自然界の偶然的方法に干渉し一つの目的に對して手段を按排する所の發達點に到着する。シアバレーリイ教授[Professor Schiaparelli]は、火星に表面に運河あるを見たと考へ、それから推測して火星には知力ある住民が居ると斷言した。盲目なる自然と意圖ある理性との差異は、即ち迂回して流れる河と直通した運河との差異である。

斯くて人類社會は既に、人類の自覺と、自己協定の可能とが一因子となれる段階に達して居る。これは愕くべき進歩であつて、其の將來に於ける可能性も限りなきものである如く思はれる。けれどもこれが有効たり得るに先だち、社會のあらゆる根本的法則を知悉することが必要である。

我々は電閃運動の法則を知つて後、始めて電閃を支配することが出來た。空中飛翔の法則を知るまでは、現實に飛行機を得ることは出來なかつた。社會主義が社會問題を解決すると云ふのは、社會主義なるものが大にしては社會的發達一般の法則、小にしては現存社會の法則に就いての説明を與へるからではなく、社會主義そのものがこの説明それ自身であるからである。

斯かる法則の上に我々の信仰は立脚するものであつて、我々は自己の生活に重大なる影響を及ぼす社會制度をば意識的に此法則と調和せしむることに依つて、盲目的必然の奴隷たる境涯から解放されるのである。

エンゲルス[Friedrich Engels]が適切に言つた如く、『人類の社會組織は、從來、自然と歴史とに依つて課せられる必然として人類に對してゐたが、今や人類自身の自由行動の結果となる。從來歴史を支配してゐた外部の客觀的勢力は、人類自身の支配の下に來る。この時以後人類は始めて、充分の自覺を以つて自己の歴史を造ることゝなるであらう。――この時以後、人類に依つて運轉される社會の諸原因は、過半にわたり且つ不斷に増進する所の程度を以つて、人類の欲する結果を齎らすことゝなるであらう。これ即ち、人類が必然の王國から、自由の王國に躍り込むを意味するものである。――』

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