第1篇 商品・貨幣・資本

第1章 商品

(1)商品生産の性質

1.資本論の目的

マルクスが其著『資本論』に於いて研究しようとした事は、生産方法として今日專ら行はれてゐる資本制生産方法であつて、生産行程の根柢に横はる諸種の自然律ではなかつた。此等の自然律は、物理化學に屬する問題であつて、經濟學の取扱ふべき問題ではない。

マルクスは又、總べての民族に通有なる生産形態のみを研究しようともしなかつた。斯くの如き研究の結果は、多くは人は物を生産する爲に勞働器具、土地及び生活資料を要すると云ふ如き分り切つた事柄を發見せしむるに過ぎぬからである。マルクスは寧ろ、或特定の時代(即ち最近數世紀)及び特定の國民(即ち歐洲及び其系統諸國、最近に於いては又、日本及び印度の如き)に特有なる社會的生産の發達律を研究した。此生産方法の特質に就いては、後に尚ほ精しく述べる積りであるが、斯くの如き今日最も廣く行はれてゐる生産方法、即ち資本制生産方法は、他の生産方法、例へば中世の歐洲諸國に行はれたる封建的生産方法、若しくは凡ゆる民族の發達初期に通有なる原始共産的生産方法とは、全く其趣きを異にするものである。

2.生産物と商品

我々の今日の社會を觀察するとき、其富の大部分が商品より成ることを知る。商品とは、其直接の生産者なり、彼れの關係者なりが、自己の使用を目的とせず、他の生産物と交換せんが爲に造り出す所の生産物である。從つて生産物を商品たらしめるものは、自然的性質ではなくて社會的性質である。

例へば原始的農家の一少女が、自家で使用する麻布を織らうとして、麻を紡いで麻絲を造るとする。此場合、麻絲は使用物であるが決して商品ではない。

所がこれに反して、或紡績業者が、隣りの農家の小麥と交換する目的で麻を紡いで麻絲を造り、又は製造業者が販賣の目的を以つて日毎に何百斤かの麻を紡がせるとすれば、此場合の麻絲は商品である。勿論此場合と雖も、麻絲は使用物には相違ないが、然しそれは或特殊の社會的役目を演ずべき、即ち交換せらるべき使用物である。

麻絲が果して商品であるか無いかは、單にそれを眺めただけでは分らぬ。農家の娘が自分の嫁入支度のために手づから麻を紡ぐにせよ、或は自分では其一條も使用しない紡績女工が、工場に於いて之れを紡ぐにせよ、いづれにしても麻絲の現物形態には變りがない。麻絲が商品であるか無いかは、其社會的役目を見、其社會的機能を見るに及んで始めて分ることである。

3.商品研究の必要

所で資本主義社會に於いては、生産物は多々益々商品の形態を採る。勿論今日ではマダ總べての生産物が商品であると云ふ譯ではない。然しそれは資本制度以前の生産方法が尚ほ殘留せる結果であつて、此殘留(極く些細な)を外にすれば、今日ではモウ總べての生産物が商品形態を採つてゐるものと言ひ得る。

そこで我々は先づ、商品の性質を明かにした上でなくては、充分に今日の生産方法を理解することは出來ぬ。從つて我々の研究は先づ、商品の分析から始まらねばならぬ。

が、此商品研究の理解は、我々の見る所に依れば、先づ第一に、商品生産の特質をば他の生産形態と對照して説明することに依り著しく促進される。此説明に依つて我々は、商品研究に於けるマルクスの立場を、最も容易に理解することが出來る。

4.生産機關と社會

人類の歴史に於いて我々の遡り得る限り、人類は常に大小何等かの社會に於いて、其生活資料を獲得し來たつたこと、即ち生産は常に一定の社會的性質を帶びてゐたことが見出される。マルクスは既に、1849年『新ライン新聞』所載『賃銀勞働と資本』(イ)と題する論文の中で此事實を闡明した。曰く

『人間が生産上に關係する所のものは單に自然のみでない。人間は一定の樣式で協力し互ひに其活動を交換して生産を行ふ。人間は物を生産するために、相互一定の關係及び事情に入る。而して此社會的なる關係及び事情の内部に於いてのみ、人間對自然の關係が、生産が行はれるのである。

『生産機關の性質に從つて、生産者が相互に入る社會的事情も亦當然異なつて來る。即ち生産者が其活動を交換し、生産上の總行爲に關與する條件も亦異つて來るのである。新らたなる武器銃砲の發明と共に、軍隊の全内部組織は必然的に一變され、個々人が軍隊を組織し、軍隊として作用し得る事情、竝びに各軍隊相互の關係も亦それと共に變化したのである。

『斯くの如く、個々人が依つて生産する所の社會的事情、即ち社會的なる生産事情は、生産機關の、即ち生産力の變化發達と共に變化する。而して此生産事情の總和こそ、人の呼んで社會的關係即ち社會と稱するものを構成するのである。而も茲に謂ふ社會とは、進化の或特定なる歴史的段階の上に立つ社會を、即ち他と識別し得べき特殊の性質を有する社會を指すのである。』

註(イ)此書は最近獨立の小册子として發行された。

以下一二の實例に就いて、之れを説明しよう。最初に先づ、極めて低級なる生産を營み、而して狩獵を其主要生業としてゐる、例へばアメリカ印度人の如き原始民族を擧げよう。ドツヂは其著『極西に於ける現今の印度人』の中で、彼等の狩獵方法を次の如く述べてゐる。

5.アメリカ印度人の狩獵方法

『年々秋になると、彼等は大規模の狩獵を催す。此時や實に「狩獵隊」(之れは種族内の最も優勢なる團體であつて、一種の組合を組織し、種族全體を支配してゐる)の天下であつて、其命令は殆んど絶對權を以つて種族内に勵行される。

『さて用意萬端整ふと、先づ隊員の選良が早曉未明に繰り出して行く。で、若し野牛の群が澤山見出された場合には、其中から襲撃の際、他群を脅かすこと最も少なき位置にある一群を選ぶ。此間、隊の男子組は、馬に跨り一塊りになつて、敵の眼界を外れた最寄りの谷間に隱れてゐる。そして、愈々敵が狩獵の最好位置に在ると見れば、指揮者は部下を組分けし、之れを臨時の隊長に託して、豫定地點に配置する。斯くてそれぞれ皆、自分の適所につき、用意がスツカリ整つた時、指揮者は騎馬の一隊に命じて、敵を包圍して其逃げ口を閉鎖せしめる。そこで愈々突進の合圖を與へる。と、全軍は死者をも呼び醒さん許りの喊聲をあげて、一氣に敵を追撃する。

『まだ弓矢ばかり使用してゐた時代には、誰れも皆な自分の矢を記憶してゐるので、苦もなく自分の殺した獲物を識別する事が出來た。自分の殺した獲物は、悉く自分の私有財産であつた。尤も其中の幾分は、自種族内の寡婦や、又は扶養戰士のない家族のために、徴税される習ひであつた。1匹の野牛に、多數の矢が當つた場合には、矢の位置によつて獲物の所有權が定められた。そして若し、何づれの矢も一樣に致命傷を負はせてゐる場合には、獲物は等分された。或は同種族内の寡婦に贈與される事も稀でなかつた。

『これら總べての問題は、隊の指揮者に依つて所決された。然し指揮者の所決に不服ある場合には、尚ほ隊の共同所決に訴へることも出來た。所が銃器の普及以來、誰がどの獲物を殺したのか全く見境がつかなくなつた。かくて印度人は始めて共産的の考を抱くに至り(ロ)、彼等自ら發明せる平等の比例分配方法に依つて、總べての獲物を分配するやうになつた。』

註(ロ)嚴密には『かくて再び共産的の考を抱くに至り』と言ふべき所である。アメリカ印度人の生活方法は元來共産的であつた。從つて獲物の分配も亦、最初は全く共産的であつた。

6.交換に依らざる分配

つまりアメリカ印度人は社會的に生産してゐた。即ち共同の一結果を得るために、多種類の勞働が協力してゐたのである。

分業竝びに計畫的共同勞働(協業)(ハ)の萌芽は、早くも茲に現はれてゐた。狩獵者は技能に準じて種々なる勞働をするが、然し此等の勞働は何づれも共同の意趣に從つて行はれる。そして各種勞働の協力に、即ちマルクスが『賃銀勞働と資本』の中に言ふ『種々なる活動の交換』に基く獲物は、交換されないで分配されてゐた。

註(ハ)『同一の生産行程、又は同一ではないにしても相互聯合してゐる各生産行程に於いて、相併び相協力して計劃的に勞働する數多き勞働者の勞働形態を稱して協業と名づける。』(新潮社版『資本論』411頁)。此所から13頁後の註の中で又マルクスは『ランゲが其著「民法論」の中で狩獵を以つて最初の協業なりとしたことは、多分失當ではなからう』と言つてゐる。

尚ほついでに注意したいことは、生産機關の變化が(即ち銃器の矢に代はりしことが)如何に分配方法の變化を招致したかと云ふ一事である。

7.印度の村落共産制

次にヨリ高級なる社會的生産方法の一例として、農業を基礎とせる印度の村落共産社會を觀察しよう。其昔、印度に行はれた原始共産制は、今では僅かに面影を留めて居るに過ぎぬ。然しストラボによれば、(其地理書、第15卷第1篇、第66章)歴山大帝の提督ネアルヒは、當時尚ほ印度に、土地を共有財産として共同耕作を行ひ、採り入れ後、農作物をば村落團體員の間に分配する地方があつたことを報道してゐる。

又エルフインストーンに依れば、此種の共産制は19世紀の初期に於いても尚ほ、印度の二三地方に存續してゐた。ジヤワには、今尚ほ次の如くに村落共産制が存續してゐる。即ち其耕地は、時を切つて村落團體員の間に新規分配される。而して其分配された耕地に對して、彼等は或一定の期間、其用益權を與へられるのみで、決して之れを私有することは出來ぬ。又前印度の耕地は既に大抵私有化してしまつたが、それでも森林、牧場、未耕地の類は尚ほ共有財産であつて、村落團體員は總べて此共有財産の上に用益權を保有してゐることは、屡々見受けられる所である。

8.村落共産社會の分業

此種の村落共産團體の中、尚ほ未だ英國支配の、とりわけ此支配に依つて輸入された租税制度の、破壞的影響に服せざるものに就いて、我々の最も面白く思ふ事は、其社會内に行はれてゐる分業の性質である。我々は既にアメリカ印度人の間に一種の分業を見た。然し印度の村落共産社會に見出される分業は、更らに一層高級なものである。

此共産社會の長は、1人の事もあれば、又數人(大抵は5人)の事もある。1人の場合には、之れをパテールと云ひ、數人の場合にはパンチと云ふ。此パンチ及びパーテルの外に、尚ほ數多の役人がゐる。即ち財政主事はカルナム、或はマツアと云つて、全團體と其屬員及び自團體と他の共産團體、若しくは自團體と國家との財政關係を指導監督し、タリールは犯罪及び侵害の調査に從事し、更らに旅客を保護して之れを恙なく隣りの共産團體に案内する義務を擔つてゐる。それからトーテイは田野の保護と土地の測量とを掌り、隣りの團體が其境界線を越えて、こちらの田野を冒すこと(之れは就中米作の場合に有り勝ちなことであるが)なきやうに注意せねばならぬ。

其外、灌漑係りがゐて、水流の停滯を防ぎ、其開閉を適度にして、夫々水田に充分の水を送る(之れは特に米作の場合に重要である)。又、禮拜の爲には婆羅門僧あり、兒童に讀み書きを教へる學校教師がゐる。占星家は播種、収穫、打禾、其他、重要なる勞働の爲に吉凶日を占ふ。尚ほ、鍛冶屋もあれば、大工もあり、車匠も、陶工も、洗濯人も、牧牛者も、醫者も、舞踏女も、時には又歌手さへもある。

これ等の人々は皆、自己の全團體のために勞働せねばならぬ。而して其代りに、田畑なり収穫物なりの分配に與かる。かくて我々は、此よく發達したる分業に於いても亦、前と同じやうに各種勞働の協力と生産物の分配とを見る。

9.家父長支配の農民家族

今一つ、誰でも善く知つてゐる例をあげよう。それは家父長の支配に屬する農民家族であつて自足經濟を行つてゐる。之れは上記の印度の農業共産社會に行はれる如き生産方法から發達したもので、今日我々にヨリよく知られてゐる他の文明種族は、いづれも其發達初期に於いては之れと同一の生産方法を行つてゐたものである。

斯くの如き農民家族に於いても同樣に、人間は孤立せずして社會的の協業を行ひ、年齡、男女、季節等に依つて異なる各種勞働の協力を行つてゐる。耕耘、苅入れ、牧畜、搾乳、採薪、紡織、裁縫、編物、彫刻、普請等、各種樣々の勞働は、皆な互ひに協力し、互ひに聯絡してゐる。而して茲でも前例の場合と同樣に、生産物は個々の勞働者に依つて交換されず、境遇に應じて彼等の間に分配されてゐるのである。

10.商品出現の經過

さて、斯くの如き農業共産團體に於いて、其生産機關の發達せるため、從前よりも僅少の勞働で農業が營めるやうになつたと假定する(ニ)。其結果、勞働力の遊離を來たす。此遊離せる勞働力は(若し技術上の要件が其處まで發達してゐるとすれば)、或は其團體内に存する燧石層を發掘するために、或は又、其發掘したる燧石を以つて武器や勞働器具を製造するために使用されるであらう。所が其勞働の生産力の大なるため、自團體に於いて使用する所よりも、遙かに多くの武器や勞働器具を製出することになるであらう。

註(ニ)茲に述べる事は、決して單なる想像でない。商品生産の初期の發達が大體に於いて茲に言ふ通りの順序を辿つてゐた事は爭はれぬ。勿論、實際はモツト複雜であつたに違ないが、我々の説明は商品生産の歴史を調べることでなく、商品生産の特徴を研究することだけを目的とする。而して商品生産の特徴は、之れを他の生産方法と比較對照することに依つて、最も容易に認識され得るのである。

茲へ他の遊牧種族が漂泊して來て、右の共産團體と接觸したとする。而して此遊牧種族に於いても亦既に其勞働の生産力が増進して、自種族の生活に必要なる以上に、多量の家畜を所有するに至つたと假定する。一方には武器及び勞働器具が有り餘り、他方には又家畜が有り餘つてゐる。そこで自然に、此兩種族間に有り餘つた生産物の交換が始まる。而して此交換に依り始めて、雙方に有り餘つた家畜及び勞働器具が商品となるのである。

11.商品生産の社會的性質

つまり商品交換なるものは、生産力が原始共産團體の狹隘なる需要以上に發達した自然的結果である。蓋し勞働技術の發達が或點まで進むと、原始共産制は寧ろ其前進の障壁となるやうになる。かくて、生産方法は社會的勞働の擴張を要求するが、個々の共産團體が互ひに孤立隔絶するため、社會的勞働の擴張は到底共産的の秩序立つた勞働の擴張に依つては行はれず、たゞ各共産團體の過剩勞働を相互に交換することに依つてのみ行はれることになる。

然らば商品生産は、如何にして共産團體内の生産方法に反應作用するか、又其反應作用の結果如何にして商品生産が互ひに獨立せる個人的勞働者の生産となり、此等の勞働者が生産機關及び自己勞働の生産物を私有するに至るか。茲では、それ等のことを研究するに及ばない。たゞ、これだけの事を言つて置きたいのである。

即ち商品生産も亦、一種の社會的生産であつて、社會的聯絡を外にして商品生産の存續を考へることは出來ぬ。商品生産は寧ろ、社會的生産が從來の共産的生産(氏族、村落共産體又は家父長制家族に於ける)の圈外に擴大した結果である。たゞ其社會的性質は、公然と表面に現はれて來ないだけの事である。

12.共産的生産と商品生産との差異

我々は今、一例として1人の農夫と陶工とを假定する。而して彼等は嘗て村落共産團體員であつたが、後に別々の商品生産者になつたと假定する。

さて、共産團體に於いては、彼等はいづれも同樣に自團體のため働いてゐた。一方が自團體のために農作物を提供すれば、他方も亦同樣に水瓶を提供した。一方が水瓶の分配に與かれば、他方も亦農作物の分配に與かつた。

所が商品生産の下に於いては、雙方全く獨立して、たゞ自分一個の爲に其私的勞働をしてゐるやうに見える。が、その實、彼等は恐らく共産時代と同じ程度に於いて、單に自分の爲ばかりでなく又他人の爲にも働くであらう。彼等は其生産物を互ひに交換する。そこで陶工も農夫も、恐らく從前と同じ分量の農作物と水瓶とを受けることになる。此點に於いては、從前に比べて本質上何等異なつた所がないやうに見える。然し實は根柢から異つてゐる。

何人も氣付く如く、共産制の下に於いて各種の勞働を關連せしめ、個々の生産者をして互ひに他人の爲に働き、直接他人の生産物に與からしむるものは社會であつた。然るに、商品生産の下に於いては、各生産者は一見たゞ、自分の爲にのみ働いてゐるやうに見える。彼等は如何にして他人の生産物に與かるか。それは彼等の勞働の社會的性質によつて定まるのではなく、全く生産物その者の特質によつて定まるかのやうに見える。陶工も農夫も、最早お互ひ同志の爲に働らくのではなく、製陶勞働も農耕勞働も、最早社會にとつて必要なる勞働ではなくなつたやうに見える。そしてたゞ水瓶と農作物との内部に、何か神祕な性質が潛在してゐて、それが此兩者を一定の割合で交換せしめるやうに見える。かくて勞働の社會的性質に依つて決定される人間相互の關係は、商品生産の下に於いては物相互の、即ち生産物相互の關係たる如き觀を呈するに至つた。

13.商品の魔術的性質

生産は直接に社會的連絡を保つてゐる限り、社會の指揮命令の下に立ち、生産者相互の關係は又明かに表面に現はれてゐた。然るに勞働が互ひに獨立した個人的勞働となり、それと共に又、生産が無秩序不統一の生産となるに及び、生産者相互の關係は全く生産物相互の關係であるやうに見えて來た。爾後、生産者相互の關係を決定するものは、もはや生産者自身ではなく、此關係は全く人類の意思を離れて發達した。社會的勢力は斯くて全く人類の頭上に聳え立つた。而して此社會的勢力は、昔の人の單純なる頭腦には神力として映じ、後世『啓蒙』時代の頭腦には自然力として映じたのである。

かくて商品の現物形態には、今や一種特別の性質が附與されたことになる。此性質は之れを生産者相互の關係から説明せざる限り、全く神祕不可解のものに見える。かの拜物教徒が、其禮拜物の自然的性質に根據なき一種の神祕性を想出すると同樣に、商品は資本主義經濟學者の眼には、種々なる超自然的性質を具備せる自然物として映ずる。マルクスは此事實をば『勞働生産物が商品として生産せられるや否やそれに固着し、隨つて又商品生産から不可分的のものとなつてゐる所の魔術性』と呼んでゐる。

商品の(又後に知る如く、資本の)かゝる魔術性は、マルクスによつて始めて認識された。商品の認識を困難ならしめ、不可能ならしむるものは、實に此魔術性である。我々は此性質を認識せずして、商品價値の完全なる理解に達することが出來ぬ。さればマルクスの『資本論』中『商品の魔術性及び其祕密』と題する一章は、蓋し同書全篇を通じて最も重要なる一部と見られる。

故に『資本論』の研究者は先づ此一章に向つて、特別の注意を拂はねばならぬ。然るに此一章こそ、從來マルクス反對者側から(否、しばしばマルクス論者の側からさへも)殆んど全く注意されなかつた所のものである。

(2)價値

1.商品と使用價値

商品の魔術性が明瞭に分れば、商品研究の困難はそれで大ぶん輕減される。

前にも言ふ通り、商品は元來交換されるといふ目的を持つてゐる。けれども交換されるためには、商品は先づ人間の欲望を滿たすものでなくてはならぬ。其欲望は、現實の欲望であつても、又は單なる想像上の欲望であつても構はぬ。何づれにしても、自分に無用な生産物を目的として交換する人はない。故に商品は有用物でなくてはならぬ。即ち使用價値を有するものでなくてはならぬ。使用價値は商品體の物理的性質によつて決定される。富の社會的形態は如何樣にもあれ、使用價値は常に其實材的内容を形成する。故に使用價値は必らずしも商品のみに特有の性質ではない。商品でない使用價値はいくらもある。現に我々が前章に擧げた共産社會の生産物の如きは、使用價値を持つてゐるが、決して商品ではない。しかのみならず、勞働生産物でもない使用價値さへある。例へば原始森林の果實や、河川の水などは人間勞働の産物ではないが、それでも立派な使用價値である。反對に使用價値を持たぬ商品は一つもない。

2.交換價値と價値

然るに、使用價値が一度び商品となるや否や、即ち使用價値が互ひに交換されるやうになるや否や、我々は此交換が常に一定の數量比例を以つて行はれることを認める。而して、一つの商品が他の商品と交換される比例は、即ち前者の交換價値と呼ばれる所のものである。此比例は勿論時と處とによつて異なる。けれども、一定の時、一定の處に就いて考へるならば、その大さは常に一定してゐる。今假りに、20ヤールの木綿が1着の外套を交換され、同時に又それが40斤の珈琲と交換されるとする。此場合若し、外套と珈琲とを交換する必要が起るとすれば、それは必らず1着に對する40斤の割合で交換されるであらう。そこで外套の交換價値は、それを珈琲と交換する時と、木綿と交換する時とでは、全く異つた外見を呈することになる。

然しながら、一商品の交換價値は、其外見上如何に種々異つてゐても、之れを一定の時、一定の處に就いて考へるならば、其根柢には、常に同一の内容が横はつてゐる。之れは丁度、物の重量と同じである。例へば此所に一つの物體がある。此物體の目方は或は16キログラムと言ひ、32ポンドとも言ふ。或は又露國流に1プードとも言ふ。然し其言ひ現はしは如何樣であるにしろ、此等の相異つた言ひ現はしの根柢には、常に一定の内容、即ち此物體の一定の重さが横はつてゐる。之れと同じやうに、一商品の交換價値は一見如何に種々雜多に見えても、其根柢には必らず、一定の内容が存在してゐる。我々は此内容を商品の價値と呼ぶ。

かくて我々は、經濟學上の最も重要なる根本概念――即ちそれなくしては資本制生産方法の仕組を正確に理解することの出來ぬ概念に到着するのである。

3.價値の本質

それは他でもない、商品の價値を構成するものは何かと云ふことである。こゝに2つの商品、例へば小麥と鐵とがある。此2つの商品の交換比例は如何樣であるにしろ、それは常に一定の方程式(例へば55升小麥=200封度鐵)を以つて示される。

けれども數學上の運算なるものは元來、同じ種類の數量にのみ應用し得るものである。10箇の林檎から2箇の林檎を引くことは出來るが、10箇の林檎から2箇の胡桃を引くことは出來ぬ。之れは小學生でも知つてゐる。そこで、5斗5升の小麥が200封度の鐵に等しいと言へば、此小麥と鐵との間に、何か共通の性質が存在してゐて、其比較を可能ならしめるものと見なければならぬ。其共通物が即ち、小麥及び鐵の價値である。

所でこの共通物たるものは、果して此等の商品の自然的性質であらうか。使用價値として見れば、商品は單に、種々樣々の自然的性質を有すればこそ交換されるので、決して共通の自然的性質を有するからではない。商品の自然的性質は、其交換の動因にはなるが、決して交換の比例を決定し得るものではない。

そこで我々は、假りに商品體から其自然的性質即ち使用價値を除去したものとして考へる。すると後にはたゞ一つの性質、即ち勞働生産物としての性質が殘る。

けれども既に、生産物の使用價値を無いものと見る以上は又、それ等の生産物を産出する勞働の種々なる定形も無いものと見なければならぬ。即ち生産物は最早一定の勞働、例へば指物勞働や紡績勞働の結果ではなく、單に一般的意義における人間勞働の結果である。斯樣な勞働の結果として、生産物は即ち價値である。

4.價値の大小

つまり商品は、一般的の人間勞働を對象化して居るが故にのみ價値を持つのである。然らば商品の價値の大さは、如何にして之れを計るか。曰く商品の中に含まれてゐる價値形成要素の、即ち勞働の分量に依つて之れを計る。而して勞働の分量はまた、勞働の時間を目安として秤量されるのである。

けれども斯くの如く、商品の生産に支出した勞働時間が其價値を決定すると云ふことになれば、人が怠惰であればあるほど、不熟練であればあるほど、彼れの生産した商品の價値は益々大きくなければならぬやうにも思はれる。然し茲に勞働と云ふのは、個人的勞働ではなく社會的勞働である。

5.社會的勞働

我々は商品生産が、諸勞働の一組織であることを忘れてはならぬ。商品生産の下に於いては、此等の勞働は互ひに獨立してこそ居れ、實は矢張り、一つの社會的連絡を以つて行はれてゐることは事實である。『商品界の價値全體の裡に表現される社會の總勞働力は、無數の個別的勞働力から成り立つてゐるが、茲では總べて一樣なる人間勞働力と見做される。而して此等の個別的勞働力の各個は、それが社會的の平均勞働力たる性質を有し、又斯くの如き社會的の平均勞働力として作用し、隨つて一商品の生産上に、平均的或は社會的に必要なる勞働時間のみが必要とせられる限り、いづれも皆な同一なる人間勞働力である。而して其社會的に必要なる勞働時間とは、現在に於ける社會的に標準を成す生産條件と、勞働の熟練及び能率の社會的平均程度とを以つて、何等かの使用價値を生産するに必要なる勞働時間を指すのである。』隨つて勞働の生産力が變化すれば、社會的に必要なる勞働時間も亦變化し、價値も同樣に變化することゝなる。

一定の生産物を産出するに必要なる勞働時間は、如何なる生産方法の下に於いても、常に人間に對して利害關係ある問題でなくてはならぬ。同樣に又それは常に(共産的生産方法の下に於いても)各種勞働の協力比例の上に影響ある問題でなくてはならぬ。

そこでモウ一度、印度の村落共産社會を例に採る。今假りに、此共産社會で其農具を製出するために、2人の鍛冶工を使用すると假定する。然るに其後、新らしき發明の結果、勞働の生産力が増進せるため、一定時間を以つて、必要なる農具を造るに1人の鍛冶工で足りるやうになつたとする。かうなればモウ、農具製造のために2人の鍛冶工を使ふ必要はない。他の1人は之れを武器なり装飾品なりの製造に振り向けるであらう。反對に、農業勞働の生産力は依然從前通りであるとする。さうすると、此共産社會に於いて農産物に對する從前通りの需要を充たすためには、矢張り從前通りの勞働時間が要る譯である。

斯かる事情のもとに、此共産社會の所屬員は何づれも、從前通りの農産物を分け前として受けるであらう。唯だ一つ、從來と全く違ふ點がある。それは鍛冶勞働の生産力が2倍に増進したことである。農具製造を以つて農産物の分前に與かるものは、從前には2人であつたが、今はそれが1人になる。尤も斯くの如き、各種勞働の相互關係の變化は、この場合非常に單純明瞭である。然るに、鍛冶勞働と農耕勞働とが直接協力する事なく、其生産物を通して始めて相關し連絡するに至るや否や、この變化は神祕化される。かくて鍛冶勞働の生産力の變化は、鍛冶生産物と、他の生産物との交換比例の變動、即ち其價値の變動となつて現はれる。

6.勞働の二重性

商品の價値の大さが、其生産上に支出した勞働の分量に依つて決定されると云ふことは、マルクス以前にも既にリカルドが認識してゐた所である。けれどもリカルドは價値としての商品の内部に伏在する勞働の社會的性質、即ち商品の魔術性を看取しなかつた。同樣にまた彼れは、商品の價値を形成する勞働方面と、其使用價値を形成する勞働方面とを、明白に、又鮮明なる意識を以つて、區別することがなかつた。右の中、商品の魔術性については既に述べたから、茲にはたゞ商品に含まれる勞働の二重性のみについてマルクスの研究した所を辿らう。

商品は我々の目に使用價値及び價値として映じた。商品の素材は自然が供給する。商品の價値は勞働が造る。然し其使用價値も亦勞働の結果である。然らば勞働は如何にして價値を造り、如何にして使用價値を造るか。

元來勞働は、一面に於いて一般的人間勞働力の生産的支出として、又他の一面に於いては、一定の目的を達するための一定の形態を採つた人間行爲として我々の目に映ずる。そして前者は、人間の凡ゆる生産的活動の共通要素を成すもので、後者は人間の生産的活動が異なるにつれて異なるものである。例へば茲に、鍛冶勞働と農耕勞働とがある。此等は何づれも、一般的人間勞働力の支出を意味する。此意味に於いて、兩者には何等の差異もない。けれども兩者の目的は全く違ふ。其作業の樣式、其對象、其要具、其結果も亦全く違ふ。

右の如き、一定の目的を達するための一定の形態を採つた人間行爲は、元來種々雜多のものであつて使用價値を造る。而して其種々雜多なることが、即ち商品生産の根柢となるのである。蓋し各種の商品は、相互異つて居ればこそ交換される。小麥を小麥と交換し、鎌を鎌と交換する者はない。小麥と鎌と對立して、茲に始めて交換が行はれる。各使用價値は性質の異なつた有用勞働を體化する限りに於いてのみ、商品として對立することが出來る。

然るに、價値としての商品は、性質上ではなく分量上でのみ異なるものである。商品は使用價値として相異なるが故に交換される。又、價値として同じものであるが故に、互ひに比較され一定の數量比例を以つて對立せしめられる。一定の目的を有し、一定の形態を採れる、而して又質的に相異つた人間活動が價値を造るのではなく、凡ゆる勞働部門を通じて平等無差別なる勞働、即ち一般的人間勞働力の支出としての勞働のみが價値を造るのである。斯くの如き勞働力支出として見れば、各種の勞働は價値と同樣に、質的にではなく量的にのみ相異なるものである。

つまり、價値構成の點から云へば、各種の勞働は皆單純なる平均勞働と見做される。即ち各人が平均的に其身體組織内に有する單純勞働の支出と見做される。複雜勞働は斯くの如き單純勞働の倍加たるに過ぎぬ。隨つて複雜勞働の少量は、單純勞働の多量と等しきものである。

7.小ブルヂオア的社會主義の誤謬

各種の勞働を單純勞働に約元し、其相互の比例を確立する過程は全く社會的であるが、同時に又全く無意識的のものであることは、商品生産の性質の然らしむる所である。が、商品界の魔術性に囚はれた人々にとつては、右の如き單純勞働を倍加して各種の複雜勞働たらしむる原因は、社會的のものでなく、全く自然的のものであるやうに見えて來る。多くの小ブルヂオア的社會主義者は、價値を永遠不動に確定し、商品生産の凡ゆる不淨物を一掃して、其存在を不朽ならしめようと努める。そこで彼等は右の如き自然的と假想した原因を確立し、各種の個別的勞働が果して幾許の價値を造るかを決定しようと試みる。(ロドベルトス著『標準勞働時間論』參照)。けれども現實に於いては、此等の原因は社會的であつて、斷えず變化してゐるのである。

8.價値と富

經濟學に於いて、價値論ほど多くの誤れる見解を惹き起した問題は滅多になり。而して此等の見解の或者は、既にマルクス自身に依つて批評訂正された所である。

就中、マルクス説の敵も味方も屡々陷る錯誤は、價値と富とを混同する事である。『勞働は一切の富の源泉なり』と云ふ言葉を、マルクス自身の口から出たかのやうに主張するものが屡々ある。然し上段の説明に從つて來たものは、此言葉が全くマルクスの見地の根本と矛盾するものであつて、商品界の魔術性に囚はれた結果であることを、容易に認識するであらう。

蓋し價値は歴史的の概念であつて、商品生産の時代にのみ行はれる。それは一つの社會的關係である。これに反し、富は全く物質的のものであつて、種々なる使用價値の合成である。されば富は、如何なる生産方法の下に於いても産出される。人間勞働を少しも含まない、單に自然から供給されたまゝの富もある。

反對に、人間勞働の活動のみから生じた富はない。そこでマルクスは言ふ。――『勞働は決して其生産せる使用價値の、即ち素材的富の唯一の源泉ではない。ウヰリアム・ペテーの言つたやうに、勞働は富の父であり、而して土地は其母である。』

されば他の事情に變化なき限り、勞働の生産力の増進と共に、一國に於ける素材的富も亦増大し、勞働の生産力の減少と共に、一國に於ける素材的富も亦減少する。而して支出された勞働の分量に増減なき限り、一國に存在する價値の總量は不變であり得る。豐年には一國の富が増大する。けれども斯く増大した富の價値は、其生産上に支出された社會的に必要なる勞働の分量に變化がなければ、其前年における富の價値と全く同一なるを得る。

9.生産と自然との關係

マルクスは斯くの如く、勞働が總べての富の源泉であるとは言はなかつた。而して此説が價値と富、商品價値と使用價値との混同に基くことは、前にも言ふ通りである。隨つて世人がマルクスの口から出たかのやうに主張する此謬想の凡ゆる結論も亦、當然に根據を奪はれることになる。同時に又、マルクスが生産に於ける自然の役目を見落したかのやうに主張する反對論が全く無根據なることも之れで分る。思ふに此反對論は確かに或事を、即ち商品體と、商品體に依つて代表される社會的關係との差異を見落したものである。『商品界に固着する魔術性換言すれば勞働の社會的性質の對象的外觀に依つて、一部の經濟學者が如何に欺瞞されてゐるか、それは就中、交換價値成立の上に演ずる自然の役目について行はれる愚にもつかぬ論爭に依つて知られる所である。交換價値なるものは、一つの物に支出された勞働を言ひ現はす一定の社會的樣式である。隨つて、それはかの爲替相場などゝ同樣に、何等の自然素材をも含有し得るものではないのである。』

マルクスが、使用價値の生産上に演ぜられる自然の役目を『見落さ』なかつたことは、我々の認める所である。彼れはたゞ價値決定の要素としての自然を無視したのである。之れは彼れの粗漏ではなく、寧ろ大なる卓見である。商品生産の社會的性質を見抜いた結果である。社會の法則を無社會状態即ち孤立せる人間から推論しようと努める經濟學者は、依然として此眼識に達せられない。

10.勞働の價値形成力と勞働力の價値

マルクス價値説に關連して、可なり廣く行はれてゐる今一つの錯誤は、勞働の價値形成力と、勞働力の價値とを混同することである。元來此兩者は嚴密に區別されねばならぬものである。價値の源泉としての勞働に價値はない。それは丁度、重いと云ふことに目方がなく、温いと云ふことに温度がないのと同じである。上段の説明では、單純勞働若しくは複雜勞働に依つて形成される價値だけを取扱つて來た。勞働力の價値、即ち勞働者(勞働力の所有者)の賃銀となつて現はれる價値に就いては、マダ一言も論及しなかつた。

又上段の説明では、單純なる商品生産及び單純なる商品交換のみを前提した。商品としての勞働力は、今までの所マダ少しも問題とならなかつた。勞働力及び其價値に就いては後に尚詳しく説く。茲にはたゞ一つの錯誤を防ぐために簡單な暗示だけを與へて置く。

元來マルクス價値説に向けられた多くの反對論は、實際マルクスの言ひもしない事を言つたやうに主張して攻撃するか、さもなければ人のよく非難するマルクス流の獨斷論と云ふ如き全くの讒侮を外にすれば、他は總べて斯くの如き錯誤に基くものである。斯樣な錯誤を免れる爲には、我々は常に法則なるもの(例へば價値律の如き)の性質を念頭に置かねばならぬ。

11.法則の性質

如何なる自然科學的又は社會的の法則も、自然なり社會なりの諸過程を説明せんとする試みである。けれども此等の過程の中、眞に單一の原因に支配されるものは滅多にない。種々なる過程の根柢には、極めて複雜多樣な原因が横はつてゐる。其上なほ、此等の過程は何づれも互ひに錯綜交叉して、決して別々のものとしては現はれて居らぬ。

そこで、自然研究者なり社會研究者なりには、二重の問題が課せられることになる。即ち先づ彼等は樣々の過程を撰り分けて別々のものに引離さなければならぬ。次ぎに此等の過程の原因を分析して、根本の原因と附帶の原因、正則の原因と偶發の原因とを、嚴密に撰り分けることが必要である。この二つの研究は、何づれも抽象に依つて行はれる。所で此抽象をなすに當り、自然研究者には、無限に完備した機械の助けがある。彼等は又、觀察及び實驗の方法にたよることも出來る。然るに社會研究者は、全然この後者を斷念せねばならぬ。又前者に關しても、極く不完全な補助具で滿足せねばならぬ。

我々は抽象に依つて、説明しようと思ふ現象の根柢に横はる法則を認識することが出來る。我々は此法則の認識なくして、現象を説明することは出來ない。けれどもまた、此法則だけでは現象を充分に説明することが出來ない。一つの原因が他の原因によつて作用を弱められ、甚だしきは全く打消されてしまふ事もあるからである。然しさればと云つて、何等の原因も存在しないと斷言することは誤りであらう。

例へば落體の法則なるものは、眞空界でなければ適用されない。眞空界に於いては、鉛も羽毛も全く同じ速力を以つて地上に落下する。然し空中では、空氣の抵抗ある爲に其通りには行はれない。それでも尚ほ落體の法則は眞理である。

12.價値と價格

價値についても同樣である。商品生産が生産の主要形態となるや否や、商品價格の合則性が先づ生産當事者の注意に上るに相違ない。そこで此合則性の根本を成す原因を探求しようと云ふ企てが起る。商品價格の研究は軈て價値量の決定に導く。即ち價値量の大きい商品ほど、價格が高く、反對に價値量の小さい商品ほど、價格が低いと云ふ結論に到着する。けれども重力が、落下現象の唯一の原因でないと同じやうに、價値も亦決して價格の唯一の原因ではない。マルクス自身も既に、價格が單に一時的にのみではなく、又絶えず、價値以下に止まる商品の存在することを指摘した。例へば金や金剛石は、未だ曾て其價値通りの價格を持つたことがないらしい。又勞働者の所有する勞働力の如きも、一定の事情の下に於いては永續的に價値以下の支拂を受ける場合がある。

しかのみならずマルクスは、資本制生産方法の下に於いては價値律が利潤の影響を受ける結果、多くの商品の價格は永續的に其價値以下に下り、又は以上に上り得るのみではなく、又さうならねばならない所以を論證した。

それにも拘はらず、價値律は依然として有效である。否、價値と價格との不一致現象も、實は價値の法則に依つてのみ説明されるのである。此問題については、茲ではホンの暗示を與へ得るのみで、立入つた説明は與へられない。それには資本及び利潤の法則を認識することが必要である。我々は後にモウ一度この問題に論究する。

マルクス價値説の反對論の大部分は、價値と價格とを混同する事に基いてゐる。が、此二つは本來嚴密に區別されねばならぬものである。

然しそれよりも先づ、我々は前にも云ふ通り、商品の魔術性に瞞されないやうにする工夫が肝要である。即ち商品體に現はれた社會的事情をば、商品體の自然的性質と混同せぬやうにして貰ひたい。前にも云ふ通り、商品生産は一種の社會的生産である。此生産に於いては、經濟上の個々の經營は相互協力して生産しない迄も、相互のために生産してゐる。而して又、斯くして生産された商品の價値は、物相互の關係ではなく、物的外皮の下に潛伏せる人間相互の關係である。凡そ此等の事實を見落さぬ限り、我々は必らずよく『資本論』研究の根本たるべきマルクスの左の一語を理解することが出來るであらう。――『使用價値の價値の大小を決定するものは、即ち社會的に必要なる勞働の分量、換言すれば使用價値の生産上社會的に必要なる勞働時間のみである。』

(3)交換價値

1.價値量と價値形態

商品の價値の大小は、其生産上社會的に必要なる勞働時間に依つて決定される。けれども價値の大小は、此勞働時間で言ひ現はされるものではない。我々は『此上衣の價値は、40勞働時間である』と言はないで、『此上衣の價値は20ヤールの麻布、又は10グラムの金に等しい』と言ふ。

上衣を單に上衣だけとして見れば、それはまだ商品ではない。それを他物と交換しようとする時に、始めて商品となるのである。隨つて商品の價値も亦、これから交換しようと思ふ相手の商品と比較するまでは、表面に現はれて來るものでない。商品の價値の大小は、言ふ迄もなく、其生産上社會的に必要なる勞働時間に依つて定まる。けれども其價値の大小は、これを他商品の價値量と比較する時に、即ち其交換比例を通して始めて具體的に現はれて來る。所が資本主義經濟學はしばしば此關係を轉倒して、商品の交換比例が却つて其價値の大小を決定するかのやうに主張する。

此主張の全く不合理なることは、次の一例でよく分る。こゝに一塊の棒砂糖がある。其目方は我々がそれを量る前に既にチヤント定つてゐる。けれども我々はそれを他の物品、例へば鐵の目方と比較することに依つて、始めて具體的に言ひ現はすことが出來る。我々は秤の一方の皿に棒砂糖を載せ、他方の皿に、一定量の(例へば1封度づゝの)鐵塊を適當な數だけ載せる。我々は此鐵塊の數によつて、始めて棒砂糖の目方を知ることが出來る。さればと言つて此鐵塊を載せたから、それで砂糖に一定の目方がつくと云ふ風に考へるのは不合理である。

假りに右の鐵塊の目方を、總計10封度とする。すると棒砂糖の目方も矢張り10封度である。けれども砂糖は決して、秤の一方に10封度の鐵塊を載せたから、それだけの目方を得たのではない。否、寧ろ棒砂糖が本來10封度の目方を持つてゐるから、それで秤の一方に、10封度の鐵を載せねばならなくなつたのである。

此筋道は誰れにも善く分る。が、價値量と價値形態との關係も、要するに之れと同樣である。

元來、物品の目方の言ひ現はしと、商品の價値表章即ち商品の價値大小の言ひ現はしとには、いろいろな類似點がある。一塊の砂糖の目方が10封度だと云ふ事は、上例に就いて嚴密に言へば、即ち一塊の棒砂糖の目方は10箇の鐵塊に等しいと云ふことである。同樣に1着の上衣の價値は、例へば20ヤールの麻布に等しいと云へる。

けれども鐵と棒砂糖とが、若し一定の自然的性質、即ち重さと云ふ性質を共有して居らないとすれば、我々は此兩者を物品として一定の比例に對立せしめることは出來ぬであらう。同樣に上衣と麻布とが、若し一定の社會的性質を、一般人間勞働の生産物であると言ふ性質を、即ち價値を共有して居らないとすれば、我々は此等の兩者をば商品として一定の比例に置くことは出來ぬであらう。

2.使用價値と價値との對立

『一塊の砂糖の目方は10箇の鐵塊に等しい』と云ふ方程式に於いて、鐵と砂糖とは相異つた役目を演ずる。即ち此場合、砂糖は砂糖として作用するが、鐵は鐵としてゞはなく、重さを體現したものとして、即ち重さの現象形態として作用する。此方程式に於いては、砂糖特有の物體的性質からは毫も抽象されないが、鐵特有の物體的性質からは全く抽象される。即ち鐵の物體的性質は全然存在しないものと見做されるのである。1着上衣=20ヤール麻布なる方程式も、之れと同樣の現象を呈する。

麻布も上衣も共に商品である。隨つて又、使用價値であり價値である。然し價値形態即ち交換比例の上から言へば、此場合、上衣のみが使用價値として作用し、反對に麻布は、價値の現象形態としてのみ作用する。

棒砂糖の目方は鐵の目方で秤量され得るばかりではなく、又眞鍮や鉛の目方でも秤量され得る。それと同樣に、上衣の價値も單に麻布で言ひ現はされ得るばかりではなく、又其他の各種商品でも言ひ現はし得るのである。

故に1着上衣=20ヤール麻布なる方程式に於いては、麻布特有の現物形態から全く抽象される。此場合、麻布は前にも言ふ通り、單に價値として、一般人間勞働を體現したものとして作用する。かくて麻布は上衣の價値の現象形態となり、其現物體と對立することになる。詰り上衣に(他の總べての商品に於ける如く)内在する使用價値と商品價値との對立は、價値表章の鏡に反射される譯である。而して此價値表章の内部に於いては、上衣の現物體は使用價値の形態としてのみ作用し、又麻布の現物體は商品價値の形態として(即ち價値形態として)のみ通用することになる。

然し他商品の價値を言ひ現はす商品の使用價値(マルクスは之れを等價と呼んだ)は、如何なる使用價値であつても構はぬと云ふ譯ではない。此二つの商品は、全く異つたものでなくてはならぬ。上衣1着の價値が上衣1着に等しいと言ふのでは意味を成さない。

3.方程式の轉換

上衣の價値は、單に麻布を以つてのみではなく、上衣以外の如何なる商品を以つても言ひ現はし得る。更らに此關係を轉換して、麻布及び其他各種商品の價値を上衣で言ひ現はすことも出來る。轉換以前の場合に對しては、次の方程式を立てることが出來る。


           ┌20 ヤール 麻布
           ├10 封度  茶
     1 着上衣= ┼40 封度  珈琲
           ├500封度  鐵
           ├6  斗   小麥
           └      其他

これを轉換すると次のやうになる。


     20 ヤール 麻布 ┐
     10 封度  茶  ┤
     40 封度  珈琲 ┤
     500封度  鐵  ┼ =1着上衣
     6斗    小麥 ┤
           其他 ┘

右の兩方程式は、一見全く同じ事を言ひ現はしてゐるやうに見える。單なる數學上の方程式として見れば、たしかにさうである。然し相異つた價値表章形態として見れば、此等の兩方程式は理論的にも歴史的にも相異つた意義を有してゐる。

4.價値形態の歴史的發展

商品生産の初期に於いては、生産物は時に應じて、此處彼處、偶然的に交換されてゐたに過ぎない。

此時代の特徴は、一商品を他の一商品と比較交換する單純な價値方程式(例へば1挺斧=20封度岩鹽)で示すことが出來る。マルクスは之れを單純なる價値形態、又は個別的の價値形態と呼んだ。所がこれに反して、一箇の生産物、例へば家畜が、もはや例外的にではなく習慣的に他の多くの勞働生産物と交換されるやうになるや否や、價値表章は上記の轉換以前に於ける方程式の形を採つて次の如くになる。


          ┌2 着  外套
          ├1 振  劍
     1頭牛= ┼1 本  帶
          ├10足  草鞋
          ├3 箇  盃
          └    其他

右の價値形態はホーマーの文章中にも見出されるもので、マルクスは之れを總合價値形態又は擴大されたる價値形態と呼んでゐる。

然し商品生産は更らに尚ほ發展する。交換の爲に、隨つて又商品として、産出される勞働生産物の數は益々増大し、習慣上の交換は益々多種類の商品に及んで行く。單に、家畜ばかりでなく、劍も、帶も、盃も、今や皆な習慣的に交換される。而して此等の商品の中、通用の最も頻繁なるもの、例へば家畜が、他商品の價値を最も屡々言ひ現すことになり、遂には他商品の價値を言ひ現す唯一の商品となつてしまふ。こゝに始めて、前記の轉換方程式が實現される。マルクスは之れを一般的の價値形態と呼んだ。

5.一般的價値形態の特徴

更らに立ち入つて、此方程式の等價形態を觀察しよう。既に述べた如く、等價形態なるものは一般人間勞働の體化として現はれる。けれども初期の表章形態について言へば、一商品が等價として現はれるのは偶然的且つ暫行的の出來事に過ぎなかつた。例へば1着上衣=20ヤール麻布なる方程式に於いては、麻布は價値の現象形態としてのみ通用する。然るに20ヤールの麻布を更らに、小麥6斗又は上衣1着と交換すると云ふことになれば、此場合には麻布が使用價値として作用し、小麥又は上衣は一般人間勞働を體現したものとなる。

所が一般的の價値形態に於いてはさうではない。即ち此場合には單一の商品が等價として役立ち、それが一般的等價となる。此商品は他の一般商品と同樣に、使用價値たると同時に又商品價値たることに變りはない。が、他の總べての商品は今や、外觀的に使用價値として此商品に對立し、此商品自身は一般的及び單一的の價値現象形態即ち一般人間勞働の社會的體現として通用する。此商品は今や、これを他の凡ゆる商品と直接に交換し得る所の、隨つて何人も、それを受入れる所の商品となる。これが爲、他の總べての商品は直接に相互交換される資格も見込も無くなつてしまふ。かくて二商品間の如何なる交換も、他の凡ゆる商品價値の反射鏡たる一般的等價を通してのみ行はれることになる。

(4)商品の交換

1.商品交換の初期

商品交換が行はれ得る爲には、二つの條件の成立が必要である。即ち第一に、交換すべき商品は其非所有者にとつては使用價値でなければならぬが、所有者にとつては非使用價値でなければならない事。第二に、交換者は相互に其交換商品の私有者たることを認めねばならない事。

然し私有の權利關係なるものは元來、交換者の意志關係の反映に過ぎぬもので、此意志關係は又經濟關係によつて決定される。人は互ひに其交換品の私有者たることを認めたから、それで、商品交換を始めたのではなく、寧ろ、商品を交換する場合に立つた結果、互ひに私有者たることを認めるやうになつたのである。

勞働生産物が其所有者にとつて非使用價値となり、是れに依つて始めて商品となる最初の形態は、それが所有者の需要以上に増大することである。勞働生産物は、尚いまだ最初より交換のために造られるものではなく、寧ろ自家使用のために造られてゐる。それは交換に依つて、始めて商品となるのである。

次に前記の第二條件、即ち交換者が互ひに其交換品の私有者たることを認めると云ふ事は、相互獨立した人が對立的に關係する場合にのみ可能である。『けれども斯樣な相互隔絶的の關係は原生的共同體(家父長制家族にせよ、古印度の村落共産體にせよ、又はインカ國家其他にせよ)の成員間には存在して居らない。商品交換は各共同體の境界に於いて、即ちそれが他の共同體又は其成員と接觸する點に於いて開始される。けれども生産物が一度び共同體の對外生活に於いて商品となるや否や、それは反作用的に共同體の内部生活に於いても亦商品となる。』

2.交換發達の第二期

交換の初期に於いては、價値量及び價値形態は尚いまだ、殆んど發達して居らない。各種生産物の交換比例は、最初は極めて偶然的であつて非常に動搖してゐる。けれども其後、生産物の交換は益々規則正しき社會的過程となつて來る。單に有り餘つた使用價値を交換するばかりではなく、又特に交換を目的として使用價値を生産するやうになる。かくて使用價値の交換比例は、益々其生産條件によつて左右されるやうになる。而して商品の價値量は、其商品の生産に必要なる勞働時間によつて決定される所の大さとなり始める。

所が勞働生産物が斯樣に、交換を特殊の目的として生産されるやうになるや否や、かねてより商品性質の内部に眠つてゐた使用價値と價値との對立は、公然と表面に現はれて來なければならぬ。

各商品に内在する此對立は、我々の既に知る如く價値形態に依つて言ひ現はされることになる。20ヤール麻布=1着上衣なる方程式に於いては、麻布は使用價値(麻布)であると同時に又價値(上衣)であることを語つてゐる。けれども單純なる價値形態に於いては、此對立を確定することが、マダ極めて困難である。蓋し單純なる價値形態に於いて等價(即ち一般人間勞働の體現)として作用する商品は、たゞ一時的にのみ其等價たる役目を演ずるに過ぎぬからである。所が進んで總合價値形態の段階に入ると、此對立は一層明瞭に現はれて來る。蓋し此段階に入ると、多數の商品が等價として役立つやうになるからである。而して又、何故それらの商品が斯く役立ち得るかと云へば、勞働生産物たり價値たる性質が其いづれにも共通してゐるからである。

3.交換發達の第三期

所が、斯樣に商品交換が發達すればするほど、而して又勞働生産物の商品化が進めば進むほど、それに準じて一般的等價が益々必要になつて來る。交換の初期に於いては、人は自分に必要なき物品を以つて、必要ある物品と直接に交換してゐた。然るに、商品生産が社會的生産の一般的形態となるに從つて、斯樣な直接の交換は益々困難になつて來る。

そこで假りに、商品生産が既に著しく發達して、裁縫、パン燒、屠獸、指物其他の勞働が、何づれも相互獨立した職業になつたとして見る。此場合先づ、仕立屋と指物師との間に交換が起るとする。仕立屋は指物師に上衣を渡す。此上衣は仕立屋には非使用價値だが、指物師には使用價値である。所が仕立屋は相憎く、指物勞働を必要としないかも知れぬ。彼れは既に家具類を充分持つてゐるかも知れぬ。かくて椅子や卓子は指物師から見れば非使用價値であるが、仕立屋にとつても同樣である。所が一方、仕立屋はパン屋のパンを必要とし、肉屋の肉を必要としてゐる。なぜならば、仕立屋が自家でパンを燒き豚を飼養した時代は過去に屬してゐるからである。

所で此、仕立屋が要求する肉とパンとは、肉屋とパン屋とにとつては非使用價値であるが、肉屋もパン屋も其時相憎く仕立屋の造つた上衣を求めて居らないとする。そこで仕立屋は一方に指物師に上衣を渡したが、パンと肉とが得られないため結局飢餓に陷らねばならぬことになる。此場合、仕立屋の必要とするものは、即ち一般的等價として役立つ商品、換言すれば價値の直接の體化として何人にとつても最初から使用價値を有してゐる所の商品である。

4.貨幣の出現

一般的等價を必要ならしめる發達の作用は、かくして此等價の出現を招致することになる。種々なる商品所有者が相異つた商品を相互交換するやうになるや否や、此等の商品の多くは價値としての一般的商品種類と比較される必要が生じて來る。かくして、此等の商品に對する一般的等價の出現が必要になつて來るのである。勿論最初はたゞ一時的に又偶然的に、或商品が一般的等價の役目を演じてゐるに過ぎない。所が軈て、或特殊の商品に此役目を割當てることが便利になるや否や、等價形態は益々此商品と密着しなければならなくなる。

如何なる商品に此役目が密着するかは、種々なる事情によつて定まる事であるが、結局この一般的等價たる役目を獨占して貨幣となるものは貴金屬である。これに就いては勿論、装飾品や装飾材料が最初より人類の重要交換品であつたと云ふ事情も一部の原因を成してゐるであらう。が、其主要原因を成すものは、金銀の自然的性質が、一般的等價の社會的機能に最もよく適合してゐると云ふ事情である。茲にはただ二つの事實だけを指摘するに止めよう。即ち金銀は、比較的不變の性質を持つてゐて、水にも空氣にも變化を受けることが至つて少ない。隨つて、日常使用に於いては全く不變と見られる。また金銀は、意のまゝに分析綜合することが出來る。隨つて、金銀は平等無差別なる一般人間勞働を體化する上に、即ち單に量的の差異のみあつて質的の差異なき價値量を表現する上に、頗る適したものとなる。

然し金銀は又、それ自身商品として他の商品に對立すればこそ、此一般的等價たる役目を獨占することが出來るのである。金銀は商品であればこそ、貨幣たり得るのである。されば貨幣は人間の發明したものでもなければ、又單なる價値表徴でもない。貨幣の價値と其社會的機能とは、決して人間が氣まゝに造つたものではない。貴金屬なるものは、それが商品として交換過程の上に演ずる役目によつて、貨幣商品となるのである。

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