第1篇 商品・貨幣・資本

第3章 貨幣の資本化

(1)資本とは何ぞや

1.賣る爲に買ふ

我々は既に第2章に於いて、物々交換から商品流通の發展する順序を究めた。そこで更らに一歩を進めて考へて見る。元來、單純なる商品流通に於いては、商品所有者は他の商品を買ふ爲に自己所有の商品を賣る。所が此商品流通形態から、次第に、賣る爲に買ふと云ふ新たなる形態が發達して來る。即ち單純なる商品流通の公式は、商品―貨幣―商品であつたが、それは今や貨幣―商品―貨幣なる公式に一變するのである。

今、此二つの公式を比較して見るに、商品―貨幣―商品なる運動は元來、消費を終極の目的としてゐる。即ち自分に必要なる商品を買ふ爲に、必要でない商品を賣るのである。故に此運動はそれ切りで終つてしまふ運動である。自分の商品を買つた得た貨幣で、他の商品を買ふ。其買つた商品は消費されて流通部面から脱離してしまふ。而して貨幣は一度び支出されたが最後益々其最初の所有者の手から遠ざかつて行く。此循環を結了させる商品は、單純なる商品流通に通例の事情(茲ではさう云ふ事情が問題である)の下に於いては、其始點を成す商品と全く價値を等しくするものである。

所が貨幣―商品―貨幣なる循環は、之れと異なり、消費を目的とするものではない。此循環の終點は、商品でなくて貨幣である。即ち最初流通部面に投ぜられた貨幣は支出されたのではなく前貸されたものに過ぎない。それは結局又、元の所有者の手に戻つて來る。此循環はそれ切りで終つてしまはずに、先きから先きへと傳はつて行く。最初前貸された貨幣は其所有者の手に戻り、更らに又流通内部に投ぜられて、結局元の所有者の手に復歸し、斯くて無限に此循環運動を反覆する。貨幣―商品―貨幣なる循環に依つて生ずる貨幣の運動は、實に窮まりなきものである。

2.無限運動の原動力

所で此運動の發動力たるものは、そもそも何か。商品―貨幣―商品なる循環の動力は、極めて明瞭である。けれども貨幣―商品―貨幣なる運動は、全く無意義のものに見えるではないか。私が假りにパンを買ふ爲に、バイブルを賣つたとすれば、循環の始點終點たる商品の價値は全く同一であつても、使用價値は違ふ。バイブルは私の精神的空腹を滿たして呉れる。けれども此空腹が滿たされた時、例へばバイブルを暗記した時、私の肉體上の空腹を滿たすものがないとすれば、バイブルは私にとつて殆んど何の役にも立たない。

所が假りに、馬鈴薯を100マルクで賣る爲に100マルクで買つたとしたら何うか。それは買つたも買はないでも同じ事ではないか。だから賣る爲に買ふと云ふ行程に、本當の意義あり利益あらしめようとすれば、何うしても其終點の貨幣額が始點の貨幣額とは異つたものでなければならぬ。所が、總べての貨幣はたゞ分量上の差異を有するのみである。そこで貨幣―商品―貨幣なる循環は、其終點の貨幣が、始點の貨幣よりも大である場合にのみ意義を有することになる。而して此貨幣額の増大こそ、事實に於いて右の循環の發動力となるものである。つまり賣る爲に買ふ人、ヨリ高く賣る爲に買ふのである。商品―貨幣―商品なる循環は、我々の既に知る如く、其始點の商品と終點の商品とが同一の價値である場合にのみ順當に進行するのであるが、反對に貨幣―商品―貨幣なる循環が順當に行はれる爲には、終點の貨幣額が始點の貨幣額よりも大でなくてはならぬ。

買ふことは總べて賣ることであり、賣ることは又總べて買ふことである。此意味に於いて、右の兩循環は結局同じ事に歸するやうに見える。然し此等の兩循環が本質的に全く異つたものであることは、我々の既に知る所である。

3.餘剩價値と資本

先きの例で云へば、100マルクの馬鈴薯を更らに販賣する目的で買ふのは、それをヨリ高く、例へば100+10マルクで賣る爲である。概括して言へば、最初の貨幣額に尚ほ幾許かの附加へをすることが目的である。今、商品を商とし、最初の貨幣額を貨、新たに附加へられた貨幣額を〔貨〕とすれば、この行程の完全なる公式は次の如くになる。

貨―商―貨+〔貨〕

此〔貨〕即ち新たに附加へられた價値は、最初放下された價値の餘分として右の循環運動の終點に現はれるもので、マルクスは之れを餘剩價値と呼んだ。かの利潤、利子、地代等はいづれも此餘剩價値の現象形態である。我々は價値と價格とを混同してはならないと同樣に、又此餘剩價値の現象形態と餘剩價値その者とを混同せぬやうに注意しなければならぬ。以上の説明は、單に經濟學上に於ける諸概念の基礎形態を研究するのが眼目であつて、其現象形態を取扱ふのが本旨ではないからである。之れは誤つた理解を避ける爲に一言して置く。

さて、餘剩價値は貨―商―貨+〔貨〕なる循環の決定的特徴を成すもので、之れあるが爲に、此循環形態に於いて運動する價値は新たなる特徴を與へられる。即ちそれは資本となるのである。

4.資本に關する俗見

されば資本は、此運動を前提してのみ理解される。即ち資本は、餘剩價値を生む價値である。此條件を沒却し、資本を單に靜止物として理解せんとする人は、常に矛盾に逢着するであらう。在來の經濟學者が資本の概念に就いて、如何なる物を資本と見做すべきかと云ふ問題に就いて、驚くべき混亂錯誤に陷つたのは全く之れが爲である。例へば或學者は資本は勞働器具なりと定義した。これに依ると、石器時代にも既に資本家が存在してゐたことになる。石で胡桃を打ちくだく猿も既に資本家でなければならぬ。同樣に浮浪者が木の實を打落す杖は資本となり、浮浪者そのものは資本家となる。

又、或學者は資本は蓄積勞働なりと定義した。これに依ると、蟻やモグラにも尚、三井三菱の同僚たる名譽を附與せねばならぬ。又、或學者に至つては、人の勞働を促進し、其生産力を高めるものを、總べて資本に算入した。斯くて國家も、人間の知識も、靈魂も、皆な資本となる。

此等の俗見は、單にお伽噺の材料として有益に讀まれる所の、平凡な有りふれた結果を齎らすに過ぎぬもので、諸種の人類社會や其法則や動力などに關する我々の認識を促進する上には寸毫の效果もない。從來、經濟學の諸方面に亙つて殆んど限りなく跋扈してゐた此種の俗見を、始めて經濟學から驅逐した人はマルクスであつた。而して之れを特に、資本の性質の説明に關する方面について言ひ得る所である。

5.資本は歴史的産物

我々は既に、資本が餘剩價値を生む價値であり、資本の一般的公式が貨―商―貨〔貨〕であることを知つた。此公式のみに依つても、新たなる各資本の運動は貨幣の形態を以つて始まる事が知られる。我々は又、此公式からして、資本は其運動上必然に、最初の貨幣形態から種々なる商品形態に轉化して、更らに又、元の貨幣形態に再轉化する事實を認める。

更らに尚、此公式に依つて認められることは、總べての貨幣、總べての商品が必らずしも資本ではなく、たゞそれ等のものが一定の運動を爲す時に始めて資本となるといふ事實である。けれども此運動には又、後に説く如き特殊の歴史的條件が必要である。兎にかく我々がパンや上衣の如き消費物を買ふ爲に支出する貨幣は、決して資本ではない。それは丁度、我々が自ら生産して賣る商品が、此取引上資本として作用するものでないのと同樣である。

生産機關、蓄積勞働などは、確かに資本の素材となるものである。けれども、それは一定事情の下にのみ言ひ得る事である。然るに人々は、此事情を度外視するから、近世生産方法の特徴を閑却し、それに闇を蔽ひ被せることゝなるのだ。が、幸に闇は戀の仲立ちである。そこで學識ある者と無き者とを問はず、資本主義の代表者たるものは皆、マルクスの資本説に就いても、又其根柢たる價値説に就いても、敢て知らうと努めないのである。

(2)餘剩價値の源泉

1.餘剩價値は流通行程より生ぜず

我々は既に資本の一般的公式たる貨―商―貨+〔貨〕を知つた。然し右の〔貨〕即ち餘剩價値が何處から來るかは、我々の未だ知らざる所である。餘剩價値なるものは賣買行爲に依つて造られるかのやうに見える。即ち、流通行程から生ずるかのやうに見える。流通行程から餘剩價値が生ずると云ふ斯樣な見地は、今日普く行はれてゐる説であるが、大抵はみな商品價値と使用價値との混同に基いてゐる。之れは特に、交換當事者は雙方とも自分の使用しない品を提供して、自分の使用する品を得るのだから、利得は雙方にあると説く主張に於いて著しい。此主張は又次の如く言ひ現はされてゐる。――『我々は自分に價値の少ない品を提供して、自分に價値の多い品を受ける。』(イ)

註(イ)福田徳三博士も此説を唱へてゐる。博士曰く『私は1圓で帽子を買ひ、帽子屋は1圓で帽子を賣ります。實は帽子屋は1圓で無い帽子を1圓で賣り、私は1圓以上の價を持つてゐる帽子を1圓で買ふのです。帽子屋の賣る1圓の價は必らず彼れの費した價より大である。私が拂ふ處の1圓の價は之れを買はんと欲する價よりは必らず小であります。物の賣價は賣物の價より必らず大であり、買物より必らず小であります』(『國民經濟講話』151頁)。即ち博士の説に依れば、物の賣買は『賣手の剩餘』を生ずると同時に又『買手の剩餘』を造る。博士は『此買手の剩剩』を説明して曰く『1圓の金を今此處に持つて居る。其持つて居る1圓の金の用と、買ふ1圓の帽子の用と私に取つて全く同じであれば、其帽子を買ふことは無駄であります。其帽子を1圓出して買ふと云ふからには1圓の金で持つて居るよりも1圓の帽子を買つて被つた方が今役に立つからである』(同上152頁)と。パン屋は4錢のパンを5錢に賣つて1錢の剩餘を得る。今にも餓死しやうと云ふ人に取つては、其5錢のパンは恐らく1000萬圓の金殿玉樓にも優るであらう。そこで博士の論法を借りて言へば、此人が買手として得る剩餘は、實に999萬9999圓95錢に當る譯である。之れでは天下空腹に優る金儲はないことになる。斯う云ふ奇抜な結論を喚び起すと云ふのも、畢竟するに博士が價値の一般的體化たる(即ち純社會的、客觀的關係たる)貨幣と、其貨幣で買つた帽子やパンの使用價値の多寡(即ち純個人的、主觀的關係)とを全然混同されてゐる結果である。此混同は博士自身も暗に感付いて居られるに相違ない。さればこそ、博士は『買手の剩餘』は『金額に見積れないかも知れないが』と言はれてゐるのだ。今日のやうな貨幣經濟の世の中では『婦人の貞操』でさへも金に見積られる事を承認する博士が(前掲、21頁)、買手の剩餘に限つて、金額に見積れないかも知れぬなどと謙遜される譯はあるまい。尤も『見積れないかも知れないが』と云ふ懸念の反面には、『見積れる筈だが』と云ふ豫感があるに違ひない。現に博士は賣手の剩餘を説明する時に、85錢の帽子を1圓で賣る場合を例に擧げてゐる。買手の剩餘も其通りだと言ふからには、矢張り1圓15錢なり1圓20錢なりの帽子を1圓で買ふと云ふ場合を念頭に置かれてゐたに相違ない。けれどもそれを其う言はないで、實は買手の剩餘は金額に見積れないかも知れないがと折れて出たのは、博士が暗に自分の錯誤を感付かれた結果と私は解釋してゐる。(譯者)

然し此説明は、價値の概念が尚未だ漠然たる處にのみ可能である。此説明で滿足する爲には、一方に於いて商品の交換なるものは其使用價値の不等に基くと同時に、又其價値の等一に基く事を沒却せねばならぬ。他方に於いて又、俗學的經濟學者の多くの讀者がする樣に、彼等經濟學者の言ふ事を何もかも其まゝ受入れて、例へば近世商品の營業方法と未開人の原始的物々交換とを全く同一視する程のお人よしにならねばならぬ。所が我々は既に、餘剩價値が物々交換の段階からではなく、貨幣に依つて媒介される商品流通の段階から發生する事、及び餘剩價値が必らず餘剩貨幣として現はれ來たる事を知つた。されば、自分に使用價値の無い品を提供し、自分に使用價値のある品を受けて、それで『利得』を得るなどと言ふ考は、貨―商―貨+〔貨〕なる公式で示される近世取引に於いては問題にならぬ事である。

俗學的經濟學者は、近世における經濟關係の理解を困難ならしめる段になると、いつも定まつて近世社會の現象をば疾うの昔に過ぎ去つたそれと同じものにしてしまふ。之れが彼等の主要任務なのである。餘剩價値の説明についても同樣である。

我々の茲に問題とする所は、太古の物々交換ではなく商品流通である。然し商品流通も物々交換と同樣に、同一の商品價値が同一の商品價値と交換されるとすれば、順當な事情の下に於いては餘剩價値を形成し得るものでない。

所が、試みに商品流通の法則が破れて、例へば商品を現實的の價値の1割方高く賣る特權が商品所有者に附與されたものと假定して見る。仕立屋は30圓の價値ある上衣を33圓で賣る。これに依つて、彼れは3圓の儲をすることは事實である。然し又彼れは從前20圓で買つた葡萄酒を、今や33圓で買はなければならぬ。隨つて、一文も儲からぬことになる。

次に總べての商品所有者でなく、或一部の商品所有者が、價値以上に賣り、價値以下に買ふ術を覺えたとして見る。或商人が百姓から100圓の價値ある馬鈴薯を90圓で買つて、それを110圓で仕立屋に賣る。此場合、彼れは20圓の利益を占めることになるが、然し之れがため價値の總額は微塵も増加しない。即ち最初は100圓(百姓)+90圓(商人)+110圓(仕立屋)=300圓であつたが、此取引の結果も矢張り90圓(百姓)+110圓(商人)+100圓(仕立屋)=300圓であつて、全體の上に餘剩は一文も生じない。たゞ是れに依つて商人だけは20圓儲けることになるが、然し此儲けは價値増加の結果ではなく、彼れ以外の人々の所有價値が減少した結果である。そこで此商人の儲けを餘剩價値と言ふならば、泥棒が直接他人のポケツトから盗んだ價値も亦、同樣に餘剩價値と喚ぶことが出來る。

2.商業資本と高利貸付資本

餘剩價値占有の歴史的起原は、確かに此盗掠にあつた。即ち商業資本に依り商品流通を通して、他人の價値を占有するか、或は全くムキ出しに、高利貸付資本に依つて直接他人の價値を占有するかである。然し此等兩種の資本は、商品流通の原則、即ち價値はたゞ等額の價値とのみ交換されると言ふ原則を破らないでは成立しない。故に、資本と言へばたゞ商業資本及び高利貸付資本ばかりであつた時代には、資本は其當時の經濟制度と衝突し、隨つて又當時の道徳觀念とも衝突した。古代に於いても、中世に於いても、商業及び特に高利貸付業は世人の忌彈を買つた。古代希臘の哲學者も、初代キリスト教の使徒も、羅馬法王も、宗教改革者も、皆これを蛇蝎視した。

我々は哺乳動物の標本を擧げようとする場合に、卵生哺乳のカモノハシを第一線に置くことはないであらう。それと同やうに、近世社會の經濟的基礎たる資本を認識しようと云ふのに、謂はゞ其洪水前期の形態である高利貸付資本から出發することは出來ない。此等の資本よりも尚一層高級の資本形態が成立した後に始めて、商業資本及び利子付資本を現存商品流通の原則と一致せしめる諸種の中間連鎖が生じて來るのである。此時以後始めて、此等の資本はもはや、最初より必然に單純なる詐欺及び直接の盗掠たる性質を帶びるといふ事がなくなる。資本の近世的基本形態を認識した後に始めて、我々は商業資本竝びに高利貸付資本を理解し得るのである。

マルクスが何故、商業資本及び利子付資本の研究を後廻しにして(『資本論』第3卷)、『資本論』の最初の2卷に於いては單に資本の根本法則のみを研究したかといふ事の理由は、以上の説明に依つて理解し得る所であらう。

3.餘剩價値の板挾み

我々は此場合、もはや之れ以上右の兩資本について論究する必要はない。兎にかく我々の研究の結果として把持すべきことは、餘剩價値が商品流通からは生じ得ないと云ふ事實である。買ふことも、賣ることも、餘剩價値を造り出すものではないと云ふ事實である。

けれども又一方に、餘剩價値は商品流通の領域外にも生じ得るものではない。商品所有者は、勞働に依つて商品の形態を造り換へ、それに新たなる價値(支出さるべき社會的に必要なる勞働の量によつて決定される所の)を附加することが出來る。然し之れがため、最初の商品の價値は増大するものでない。絹織業者は100圓の絹原料を買つて、それを絹織物にする。彼れの支出勞働を假りに10圓とする。さうすると、此絹織物の價値は100圓+10圓=110圓である。然し絹織物の價値は110圓であつても、絹原料は依然として100圓である。絹原料それ自體の價値は、彼れの勞働に依つて増大するものではない。

そこで我々は妙な板挾みに陷ることゝなる。即ち餘剩價値は商品流通に依つて造られるものではないが、さりとて又、商品流通の領域外からも生じないと云ふことになるのである。

(3)商品としての勞働力

1.一種特別の商品

我々は尚立ち入つて、資本の一般的公式を觀察しよう。資本の一般的公式は、前にも言つた通り貨―商―貨+〔貨〕である。詰まりそれは、商品を買ふこと、即ち貨―商と、商品を賣ること、即ち商―貨+〔貨〕との兩行爲から成り立つてゐる。然るに商品流通の法則に從へば、右の貨は商と同價値でなければならぬが、商は又貨+〔貨〕と同價値でなければならぬことになる。之れは商が自ら増大する場合、即ち其消費中に、本來有してゐた以上の價値を造る商品たる場合にのみ可能である。そこで若し價値の源泉たることを使用價値の特色とする一種特別の商品が、即ち消費その事が直ちに價値の造出であり、隨つて又前記の貨―商―貨+〔貨〕が同時に貨―商……商+〔商〕貨+〔貨〕を意味するやうな商品が發見されゝば、それで餘剩價値の謎は解決されることになる。

所が商品價値を造るものが單に勞働のみである事は、我々の知る所である。隨つて上記の公式は、人間の勞働力が一つの商品である場合にのみ實現されることになる。

而して此勞働力(換言すれば勞働能力)なるものは、マルクスの説明に從へば、『人の現身の中に、生きた人格の中に存在する心身能力の總括であつて、人は何等かの種類の使用價値を生産する毎に之れを運轉するもので』ある。

2.勞働力を商品たらしむる條件

勞働力は商品として市場に現はれねばならぬ。前にも言ふ通り、商品交換の前提條件としては、商品所有者が其商品に對して完全なる支配權を持つ事が必要である。そこで勞働力が商品となり得る爲には、勞働力の所有者たる勞働者は自由の人でなければならぬ。彼れの勞働力は、商品として存續しなければならぬ。彼れはそれを賣り放してしまふ譯には行かぬ。一定時間に亙つて、切り賣することが出來るのみである。然らずんば、彼れは賃銀勞働者ではなく、奴隷になつてしまふ。商品所有者ではなく、商品になつてしまふ。

然し勞働力が商品となる爲には、いま一つの條件が滿たされねばならぬ。使用價値なるものはそれが商品となる爲には、所有者にとつて非使用價値でなければならぬ事は、我々の既に見た所である。勞働力も亦、一つの商品として市場に現はれ得る爲には、其所有者たる勞働者にとつて非使用價値でなければならぬ。然るに勞働力の使用價値とは、要するに勞働力以外の他の使用價値を造ることである。それには先づ、勞働者が必要なる生産機關を支配するものでなくてはならぬ。然るに勞働者が生産機關を支配する所にあつては、彼れは其勞働力を販賣せずして自ら使用し、而して生産物を販賣することになる。されば勞働力が商品となる爲には、勞働者が先づ其生産機關から、殊に生産機關中の最も重要なる土地から分離されてゐる事を要する。

勞働者は如何なる點に於いても自由でなければならぬ。一切の個人的隷屬から自由でなければならぬ。同時に又、彼れは一切の必要なる生産機關からも自由でなければならぬ。之れ實に、貨幣所有者が其貨幣を資本に轉化し得るについての豫備條件たるものである。然し此條件は天然自然に與へられてゐるものでもなければ、また凡ゆる社會形態に固有のものでもない。それは實に永い間の歴史的發達の結果である。而してそれが社會の形成上に決定的の影響を及ぼす迄に發達したのは、比較的後年の出來事である。即ち資本の近世的閲歴は、漸く16世紀に始まつたものである。

3.勞働力の價値

我々は既に餘剩價値を造り出す所の商品を知つた。然らば此商品それ自體の價値は幾許であるか。それは他商品の價値と同じく、其生産上(隨つて又其再生産上)社會的に必要なる勞働時間に依つて決定されるものである。

勞働力なるものは勞働者の存在を前提する。而して勞働者の存在は又、一定量の生活資料を必要とする。されば勞働力の生産に必要なる勞働時間とは、畢竟するところ此一定量の生活資料の生産上社會的に必要なる勞働時間に等しい。而して此生活資料の大小は又、種々なる事情に依つて決定される。例へば勞働者の支出する勞働力が多ければ多き程、其勞働時間が長く其勞働の緊張が甚だしければ甚だしき程、彼れは其力の支出を恢復して翌日も亦前日通りに勞働し得るため、益々多量の生活資料を要することになる。他方に又、異つた國々に於ける勞働者の欲望は、各國の自然的竝びに文化的特質に從つて異なるものである。ノルヱイの勞働者は印度の勞働者よりも多くの生活資料を必要とする。ノルヱイ勞働者の生存に必要なる衣食住其他の生活資料は、印度勞働者の生活資料に比較すれば、其生産上多大の勞働時間を要する。尚又、一國の文化が進まず、勞働者が跣足のまゝで道を歩き、新聞も讀まなければ雜誌も見ないと云ふやうな所では、たとひ風土氣候其他の自然的條件に何等の差異がないとしても、勞働者の欲望は新聞も讀めば、書物も讀み、靴も襪も穿く他の文明國の勞働者に比すれば小である。そこでマルクスは言つた。『勞働力の價値決定には、他の商品の場合と異なり、歴史的及び道徳的の一要素が含まれてゐる』と。

又誰れも知る通り、勞働者の生命には限りがある。然し資本は不死ならんことを欲してゐる。資本が不死である爲には、勞働者階級が不死でなくてはならぬ。即ち勞働者の生殖が必要になつて來る。そこで勞働力の維持に必要なる生活資料と云ふ中には、又子女(場合によつては更らに妻)の扶養に必要なる生活資料も含まれることになる。

最後に、勞働力の生産費中には尚、勞働者の教育上の費用、即ち一定の勞働部門に於いて一定の熟練に達する爲に必要な費用が算入されねばならぬ。尤も此費用は、多數の勞働者にとつては至つて些細なものである。

此等總べての決定原因に依つて、一定の國及び一定の時期に於ける一定の勞働者階級の勞働力の價値は、常に一定の大さを有することになるのである。

4.賃銀前拂論の迂愚

上段の説明では、價格を説かずに價値を説き、利潤を取り扱はずに餘剩價値を取扱つて來た。隨つて茲に勞働力の價値を取扱ふとしても、それは決して賃銀を取扱ふのではない事を念頭に置かねばならぬ。然し勞働力の代價の支拂に伴ふ一定の特徴に就いては、茲に一言して置く必要がある。

俗學的經濟學者の見地によれば、資本家は勞働者に賃銀を前拂する。なぜならば資本家は大抵の場合、勞働者の生産物を他に販賣する以前、すでに賃銀の支拂を濟ましてゐるからと云ふのである。然し現實に於いては、資本家が勞働者に前拂するのではなく、寧ろ勞働者が資本家に勞働を前給付するのである。

例へば、火酒を造る爲に馬鈴薯を買ふとする。而して火酒を造つた後に始めて馬鈴薯の代價を支拂ふが、然し其時にはまだ、火酒が販賣されて居らぬものと假定する。此場合若し、火酒の販賣以前に馬鈴薯の代價を農夫に支拂ふから前拂だと言ふとすれば、それは實に滑稽な事ではないか。事實は火酒を造る迄の間、農夫から馬鈴薯の代價を前借りしてゐることになるのである。現金拂と言へば、買つた商品と引換へに代價を支拂ふ事である。然るに現品の消費後に始めて支拂つて置きながら、現金拂と言ふならまだしも、前拂を云爲するに至つては論外といはねばならぬ。商品は嘸、さう云ふ論者の經濟學的聰明に喫驚するであらう。而も俗學的經濟學者は依然、此愚論を勞働者に吹聽してゐる。資本家が若し勞働者から現金で其勞働力を買ふとすれば、勞働力が資本家の手に移つた瞬間、即ち1週間の最初の日に賃銀が支拂はれて居らねばならぬ筈である。所が現實に於いては、1週間の最後の日に賃銀が支拂はれるのである。されば今日の支拂制度のもとに於いては、勞働者は單に其賃銀について冒險するばかりではなく、又生活資料を掛けで買はねばならぬことになる。斯くして又勞働者は、中間商品に依る生活資料の凡ゆる不純化及び惡化を忍ばねばならぬことになる。要するに、勞働者としては、賃銀支拂期間が長ければ長い程、やり切れないのである。2週間拂、甚だしきは1ケ月拂の賃銀も見出されるが、此等は賃銀勞働者にとつては最も堪え難き苦痛の一つである。

5.自由平等博愛の理想郷

然し賃銀支拂の制度は如何樣であるにしろ、勞働者と資本家とは、順當な状態のもとに於いては、常に等一の價値を相互交換する二人の商品所有者として對立してゐる。今日に於いては、資本はもはや商品流通の法則と衝突することなく、寧ろ其基礎上に運動してゐるのである。勞働者と資本家とは、今や何づれも商品所有者として、隨つて又相互に人格的獨立を有する自由平等の人として對立してゐる。彼等は實に斯くの如き人として、同一の階級に屬してゐる。即ち同胞なのである。勞働者と資本家とは互ひに同一の價値を交換する。斯くて正義、自由、平等、友愛の王國、平和と幸福の黄金郷は、賃銀制度の支配と共に始まつたものゝ如く見える。隷從と、壓制と、搾取と、腕力政治との苦難は過去に屬した。――

資本の利害を代表する所の學者たちは、實に斯くの如く我々に吹聽するのである。

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