第2篇 餘剩價値

第1章 生産行程

1.勞働行程の要素

我々は第1篇に於いては、主として商品市場の範圍内に動いてゐた。商品は如何にして交換され、賣買されるか。又、貨幣は如何にして其種々なる機能を盡すか。而して勞働力なる商品が市場に出現すると共に、貨幣は如何にして資本に轉化されるか。此等の問題は、我々の既に見た所である。

資本家は市場で勞働力を買つた。勞働力はモウ、差當り市場では彼れにとつて何の用もなさない。そこで彼れは此買つた勞働力を携へて、みづから之れを消費し利用し得る所、即ち勞働場に引き移る。我々は彼れに伴いて其勞働場に行かう。商品流通の領域を去つて、商品生産の領域を觀察しよう。其處には左の如き演伎が行はれる筈である。

先づ『勞働力の使用とは勞働その者である。』資本家の買つた勞働力の賣手は勞働者である。資本家は自分の爲に此勞働者を働かせ、商品を造らしめることに依つて、購買した勞働力を消費する。

所が前篇にも言ふ通り、商品を生産する勞働には二つの方面がある。即ち此勞働は一方に使用價値を造ると同時に、又他方に於いて商品價値を造る。使用價値を造る勞働方面は、必ずしも商品生産のみに特有のものではない。之れは社會形態の如何に拘はらず、常に人類の生存上缺くべからざる要件となつてゐる。而して勞働の此方面には三つの要素が含まれてゐる。即ち(一)人間が目的を意識し目的に從つてする活動、(二)勞働對象、(三)勞働要具。

勞働は先づ、目的を意識し目的に從つてする人間活動である。即ち人間が自然物をば自己の欲望充足に適する形態に造る換へることである。斯樣な活動は、獨り人間ばかりではなく、人間以外の動物に於いても既に其萌芽は現はれてゐる。然しそれは人類が或る程度まで發達した時に、始めて其本能的形態を脱ぎ捨てゝ一つの目的活動となるのである。元來、如何なる勞働も筋肉勞働であると同時に、又腦髓及び神經上の勞働である。そこでマルクスは適切に斯う言つてゐる。――『勞働する身體諸器官の緊張の外に、尚ほ注意として現はれる目的意志が、勞働の全繼續の上に必要である。而して之れは、勞働が其内容及び遂行樣式の上から勞働者を沒頭せしめること少なきに從ひ、即ち勞働者が其勞働をば、自己心身力の遊戲として樂しむこと少なきに從つて、益々著しくなるのである。』

勞働者は一つの對象即ち勞働對象の上に勞働を仕向ける。其際勞働者は補助具(即ち其物理的又は化學的性質をば、勞働者自身の目的に從つて勞働對象の上に作用せしむる所の物)を使用する。此補助具が即ち勞働要具である。而して勞働者が勞働要具を用ゐて其勞働對象に加工する結果生ずる所のものは即ち生産物である。勞働要具と勞働對象とを總稱して、我々は之れを生産機關と云ふ。

指物師は机を製造するに當り、木材に加工する。木材は即ち勞働對象である。此勞働對象が未開森林の樹木の如く自然のまゝ存在しないで、其取得の爲に豫め一定の、例へば伐木運搬等の勞働を要した場合には之れを原料と呼ぶ。指物師の加工する木材は即ち原料である。木材ばかりでなく、机の仕上げに要する膠、染料、漆等も皆原料である。此等の中、木材を主要原料と言ひ、膠其他を助成材と呼ぶ。他方に、指物師の使用する鋸、鉋其他のものは勞働要具であり、机は即ち生産物である。

『一つの使用價値が原料として現はれるか、勞働要具として現はれるか、それとも亦生産物として現はれるかは、全く勞働行程に於ける其機能によつて、勞働行程の内部に占むる其位置によつて左右される。此位置の如何に依つて、同一の使用價値が原料ともなれば、勞働要具ともなり、又は生産物ともなる。』

例へば同じ1頭の牛も、之れを畜養の結果として見れば生産物であるが、輓獸として使用すれば勞働要具となる。更らに之れを飼畜して乳を取り、肉を賣ると言ふ事になれば、其場合には、同一の牛が原料となる。

2.商品生産の勞働行程

勞働要具は人類の發達上、最も重要なるものである。生産上の樣式は先づ此勞働要具によつて決定される。勞働要具によつて決定された各生産方法は更らに其特殊の社會關係を決定し、それに法律上、宗教上、哲學上、竝びに藝術上の相應した上部建築を與へる。

生産機關(即ち勞働對象及び勞働要具)と勞働力とは、凡ゆる生産方法の下に於いて、使用價値生産の、換言すれば勞働行程の要素を成すものであるが、然し此行程の社會的性質は、生産方法次第で色々に異つて來る。

之れより資本制生産方法のもとに於いて、此行程が如何なる形態を採るかを研究することにしよう。

商品生産者の立場から見れば、使用價値の生産なるものは要するに商品價値生産の手段たるに過ぎない。元來、商品は使用價値と商品價値との合成である。故に使用價値を造らなければ、商品價値は固より造り得ない。生産者の生産する商品は、其第一の要件として人の欲望を充たすものであることを要する。即ち何人かに對して效用を有するものでなくてはならぬ。然らずんば、生産者は之れを販賣し得ない。と言つて、商品が使用價値でなければならないと云ふ事は、生産者の營業行爲の終極目的ではない。生産者の立場から見れば、それは必然の惡に過ぎないのである。

されば商品生産における生産行程は、一面使用價値生産の工程であると同時に、他面また商品價値生産の行程でもある。即ちそれは勞働行程と價値行程との合成である。

3.資本制商品生産の勞働行程

右は商品生産一般について當て嵌まる事であるが、茲では斯樣な一般的商品生産ではなく、寧ろ商品生産の特別の一種たる資本制商品生産(即ち餘剩價値の獲得を目的とする所の、勞働者から買取つた勞働力に依つて行はれる商品生産)の生産行程を觀察しなければならぬ。

そこで、資本制商品生産のもとに於ける勞働行程は如何なる形態を採るか。

先づ、資本家が介在するやうになつてから後も、勞働行程の上には本質上何等の變化も生じない。例へば獨立した機織業者を假定して見る。彼れは織機を所有してゐる。彼れは自ら其絲を買ふ。彼れは隨時隨意の方法で其勞働を營むことが出來る。生産物は彼れの所有に屬する。

所が彼れはたまたま貧困に陷つた結果、其織機を人手に渡さなければならなくなつた。此場合彼れはどうして食つて行くか。勢ひ資本家に雇はれ、資本家の爲に働くの外はない。彼れの雇主たる資本家は彼れの勞働力を買入れ、又織機や必要なる絲を自ら購買し、此織機を以つて彼れに購買した絲を織らせる。資本家の買つた織機は、右の機織業者が賣却した所のものであつたかも知れない。

さうでないにしても、機織業者は曩に彼れが獨立で經營してゐた當時と同一の樣式を以つて機職する。即ち外部的には、勞働行程の上に何等の變化も生じない譯である。

然し茲に二つの重大なる變化が生じた。即ち第一に、機織業者は最早從前の如く自分自身の爲には働かないで、資本家の爲に働くやうになつた。資本家は今や彼れの勞働を監視して、彼れが餘りに愚圖々々勞働したり、投げやりに勞働したりすることの無いやうに注意する。第二に、機織業者の生産物は最早、從前に於ける如く彼れ自身のものでなく、資本家のものである。

資本が生産行程を支配するに至つた結果、勞働行程の上に與へられる直接の影響は以上述ぶる通りである。然らば、價値生産行程の方は如何なる形態を採るか。

先づ資本家が其買入れた生産機關を用ゐ、其買入れた勞働力に依つて、自己の爲に生産せしむる商品の價値が幾何に上るかを計算して見よう。

假りに資本家は、勞働力を日買ひするものとする。今、勞働者の生存に必要なる生活資料は、社會的に必要なる勞働6時間を以つて生産せられ、而して同一の勞働時間が貨幣3マルクに體化してゐるものと假定する。資本家は此勞働力を價値通りに購買するものとする。即ち1日の勞働の代價として、勞働者に3マルク支拂ふものとする(イ)。

註(イ)以上及び以下の數字は、言ふ迄もなく説明の便宜上勝手に選んだものである。それは論を俟たない事のやうに見える。然るに『資本論』を論究する多くの學者は、マルクスが斯種の例解を事實として擧げたものとしてゐる。次の事實は資本論註釋者と稱する人々に依つて、果して如何なる事が爲され得るかを示すものである。――トライチケ氏の『普國年報』第53卷の中で、シユテーゲマン博士は『カール・マルクスの經濟學的根本觀念』につき淺薄極まる一文を公にした。彼れは『價値原則』をばマルクスの根本主張なりとして紹介した直後に、斯う言つてゐる――『各人が其力に應じて勞働するとすれば、萬人に必要なる生活資料を造るのに日々6時間も勞働すれば充分であるとマルクスは主張した』と。然しそんな事は『資本論』には少しも書いてない。若しシユテーゲマン博士が、其幻想をヨリ少なくし、注意をヨリ多くしたとすれば、彼れは確かに『資本論』209頁(第2版)に於いて、マルクスが19世紀60年代の或紡績所で1人の紡績工が事實上給付しなければならなかつた必要勞働をば、マンチエスター市の一製造業者から得た材料に基いて計算してゐるのを見出したであらう。マルクスは其計算に依つて次の結果に到達した。即ち10時間勞働制のもとに於いて、紡績工が餘剩價値を造る過剩勞働時間は6時間を超えるのに、其必要勞働時間は4時間に滿たないと。勞働者の生存維持に必要なる勞働時間が極めて可變的の大さであることは尚後に見る通りである。

そこで彼れは當時綿絲紡績が有望だと言ふので、早速それに從事しようと決心し、先づ勞働要具(説明を單純ならしむるため、茲ではそれが若干の紡錘から成るものと假定する)と綿花とを買ひ込む。假りに1斤の綿花の中には、社會的に必要なる勞働が2時間含まれてゐるとする。即ち其貨幣價値は1マルクである。更らに1斤の綿花から1斤の綿絲が作られ、而して綿花100斤を紡ぐ毎に紡錘1個づゝ、即ち1斤毎に1/100箇づゝ磨滅するものとして見る。最後に紡錘1箇の價値を20勞働時間(即ち10マルク)とし、1勞働時間に綿花2斤(即ち6時間に12斤)づつ紡がれるものとする。(此等の生産は、つねに社會的に必要なる、標準的、平均的生産條件のもとに行はれるものと假定する)。

さて、斯かる事情のもとに生産される綿絲1斤の中には、幾許の價値が含まれてゐることになるか。

先づ、其生産に消費される綿花と紡績との價値を考へて見る。此價値は増減なく其まゝ生産物に移轉される。綿花と紡錘との使用價値は綿絲と云ふ異つた生産物になるが、然し其價値には變化がない。之れは綿絲製造に至るまでの各種勞働行程をば、假りに同一なる勞働行程の連續的部分として考へて見れば明かになる。試みに紡績業者が同時に又綿花栽培業者であつて、綿花の収穫後直ちに其紡績に着手するものとして見る。さうすると綿絲は綿花栽培勞働及び紡績勞働の結果となり、其價値は綿花を生産し、更らに之れを綿絲たらしむるについて社會的に必要なる勞働時間によつて決定される。綿絲生産に必要なる此等各種の行程が、右の如く同一人の計算で經營される場合は論はないが、若しそれが異つた人々の經營に屬するとしても、他の事情に變化なき限り、生産物の價値は1人で經營する場合と少しも異らない。要するに加工を受ける綿花の價値は、綿絲の中に再現するのである。同樣の事は、使用紡績の價値についても言ひ得る所である。説明を單純ならしむるため、助成材のことは、此場合問題外に置く。

所が綿絲の價値には、右の如く綿花及び紡錘から移轉された價値ばかりでなく、尚ほ其上に、紡績勞働に依つて綿花の上に加へられた價値も含まれてゐる。1勞働時間に2斤の綿花が紡がれる。而して1マルクには2勞働時間が含まれてゐるとすれば、1勞働時間は即ち1/2マルクなる價値を形成することになる。

そこで綿絲1斤の價値は、次の如くになる。

綿花1斤(+1マルク)+紡錘1/100箇(=1/10マルク)+1/2勞働時間(=1/4マルク)。之れをマルクで言ひ現はせば1+1/10+1/4即ち合計1マルク35ペニヒである。

前の假定によれば、1時間に2斤紡がれるのであるから、6時間の綿絲生産額は即ち12斤であつて、其價値は16マルク20ペニヒに相當する。然らば資本家は之れだけの綿絲を生産するに幾許を要したかと言ふに、先づ綿花12斤(即ち12マルク)及び紡錘12/100箇(即ち1マルク20ペニヒ)と、更らに勞働力3マルクと合計16マルク20ペニヒを要したのであつて、生産綿絲の價値と同一に歸する。之れでは、折角勞働者を雇つて働かした事が無駄になる。資本家の買つた勞働力は何等の餘剩價値をも造り出さなかつたことになるからである。

所が資本家は中々それ位ゐで途方に暮れるものではない。彼れは勞働力の使用價値を全1日分買つたのだ。彼れは此全1日分について、正直に正確に充分の價値を支拂つた。隨つて又、彼れは全1日分の勞働の使用價値を充分に利用する權利を持つてゐる譯である。彼れは勞働者に向つて『俺はお前の勞働力を6時間に相當する金額で買つた。お前はモウ6時間働いたから歸つて宜しい』と言ふであらうか。否々、彼れは寧ろ斯う云ふ。――『俺はお前の勞働力を全1日分買つた。お前の勞働力全1日分は俺のものだ。もつと働け、出來る限り働き續けろ。一瞬間も無駄に費してはならぬ。お前の時間ぢやない。俺の時間だから』と、さう言つて、彼れは6時間ではなく、恐らく12時間働かせる。

斯やうに12時間働かした後、即ち1日の勞働の終りに、彼れは再び計算する。彼れは今、綿絲24斤持つてゐる。其價値は32マルク40ペニヒである。そして其費用は綿花24斤(即ち24マルク)、紡錘24/100個(即ち2マルク40ペニヒ)、勞働力3マルク、合計29マルク40ペニヒであるから、彼れは結局32.4-29.4=3マルク儲けたことになる。之れが彼れの餘剩價値である。彼れは此餘剩價値を『正當に』儲けたのだと言ふ。然り、彼れはそれを得る爲に商品交換の法則を破らなかつた。綿花も、紡錘も、勞働力も、彼れは此等の物を總べて價値通りに買ひ、價値通りに代價を支拂つた。たゞ彼れは此等の商品を享樂資料としてではなく、生産機關として消費したのである。彼れは購買した勞働力の使用價値を一定の限界以上に消費した。彼れが餘剩價値を得たのは、要するに此等の事をした結果である。

4.勞働行程と價値増殖行程

商品生産制度の下に於いては、生産行程はつねに價値生産行程である。生産行程が生産者彼れ自身の勞働力で營まれても、又は他から買入れた勞働力で營まれても、それは此點には差異がない。たゞ生産行程が一定の時點を越えると、價値生産行程は又、餘剩價値を産出することになつて價値増殖行程となる。餘剩價値が産出されるやうになるには、生産の爲に買入れた勞働力の價値をば新たに造つた生産物の價値で回収する點以上に、生産行程が延長されなければならぬ。

自分の田畑を自分で耕す百姓も、自分の仕事を自分の計算で經む手工業者も、其消費生活資料の回収に必要なる時間を越えて勞働し得るものである。隨つて彼等も亦餘剩價値を造り、彼等の勞働も亦價値増殖行程たり得る。けれども此價値増殖行程は、他から買入れた勞働力で營まれるやうになつたとき、始めて資本制生産行程となるのである。資本制生産行程なるものは、其性質上、最初より、必然的に又有意的に、價値増殖行程である。

inserted by FC2 system