第2篇 餘剩價値

第4章 餘剩價値と利潤

1.餘剩價値率と利潤率

價値對價格におけると同一の區別が又、餘剩價値對利潤の場合にも行はれる。實際家たる商品の賣買當事者にとつては、價値よりも價格が問題である。隨つて又、價格律のみが彼等の問題となる。價格律を知つて置くことは、商品としての彼等の計算及び投機に有用となり得るからである。反對に、價格の根柢を成す價値の法則は、單に學者の興味を引くに過ぎぬ。蓋し學者の任務は、出來得る限り安く買ひ高く賣ることではなく、商品生産に依つて生ずる社會的の聯絡を研究する事に存するからである。

同樣に、實際の資本家たちにとつては、餘剩價値ではなく利潤が問題となる。彼等の目的は、資本勞働の關係を研究する事でなく、出來得る限り多大の利潤を獲得する事に存するからである。然し此利潤が幾許の勞働支出を以つて造り出されるかといふ事は、彼等にとつて先づ何うでもいい問題である。利潤を造り出すものは、彼等の勞働ではなく貨幣である。そこで、彼等は獲得した餘剩價値をば、其生産に必要であつた勞働量と對比せしめないで、其爲に前貸されねばならなかつた貨幣量と對比する。餘剩價値造出の運動を、貨―商―貨+〔貨〕で示すとすれば、資本家は貨に對する〔貨〕の比率で利潤を計る。然し此比率は決して、可變資本對餘剩價値の比率と同一のものではない。資本家が生産上に前貸すべき貨幣量は、單に勞働賃銀のみでなく、更らに工場建物、機械、原料、助成材等、約して言へばマルクスが不變資本なる言葉を以つて總括してゐる一切の物の、代價を支拂ふに充分でなくてはならない。此一事からしても既に、たとひ餘剩價値と利潤とが全く一致する所に在つても尚、利潤率は餘剩價値率とは相異つたものであると云ふ結果が生じて來る。即ち餘剩價値は可:餘なる公式で言ひ現はされるが、利潤率の方は、(不+可):餘で言ひ現はされるのである(イ)。

註(イ)可は可變資本、餘は餘剩價値、不は不變資本を示す。(譯者)

尚、注意すべきことは、多くの生産部門殊に農業にあつては、1年を以つて生産期間の自然的單位となし、1年の終了毎に改めて生産が開始される例になつてゐる。そこで1年間の前貸資本額と、同1年間に獲得される利潤量との比率を以つて、利潤率を計算する習慣が生じた。

利潤率が餘剩價値率と異なるものでなければならないことは、最初から明かである。前章には、5000マルクなる一資本の例を選んだ。其中、4100マルクは不變資本、900マルクは可變資本、又900マルクは餘剩價値であつた。隨つて、餘剩價値率は900:900即ち10割であつた。然るに、利潤率は此場合500:900即ち1割8分である。

2.資本の組成

右は單なる計算方法の違ひから生ずる區別であるが、斯くの如き純形式上の區別とは異つた他の區別が又、軈て餘剩價値率と利潤率との間に生じて來る。

餘剩價値率は同一であつても、資本の組成が違へば(即ち同一の賃銀量に對して異つた不變資本量が配合されるとすれば)利潤率も亦當然に異つて來なければならぬ。然るに此資本組成なるものは、各生産部門の技術的性質が違ひ、其技術上の發達程度を異にするに從つて、必然に又異つて來る。『資本の技術的組成によつて決定され、其諸變化を反映するといふ方面から見た資本の價値組成をば、資本の有機的組成と名づける。……故に、社會的平均資本に比し不變資本の百分率が大きく可變資本の百分率が小さい資本は、之れを高位組成の資本と言ひ、反對に社會的平均資本に比して不變資本が相對的に小さく可變資本が相對的に大きい資本は、之れを低位組成の資本と呼ぶ。最後に、社會的平均資本と一致した組成を有する資本は、平均組成の資本と名づけられる。』

3.資本の組成が利潤率に及ぼす影響

所で、此組成上の差異が、利潤率の上に如何なる影響を及ぼすかを考へて見る。茲に三つの企業があつて、それが各異つた生産部門に屬するものと假定する。其一は技術的に後れてゐて、勞働者の頭數の割合に機械を使用することなく、大きな工場建物等を必要とすることがない。即ち資本の有機的組成が低位に止まつてゐる企業である。而して其二は、平均組成のものであり、其三は生産技術が非常に發達して、勞働者1人に對する機械及び建物の價値が多額に上るもの、即ち資本の有機的組成が高位に在る所の企業である。

茲では成るべく説明を單純ならしむるため、以上三つの生産部門を通じて餘剩價値率が同一であり、且つ前貸資本の全部が年に一度回轉するものと假定する。即ち、前貸資本の全部が1年間の生産に消費せられ、生産物は1年の終りに全部販賣されるものと假定する。之れは現實に於いては滅多に行はれない假定であるが、説明の錯綜と不明瞭とを避くるためには、斯かる假定も必要になつて來るのである。

假りに此等三つの企業の何づれに於いても、被傭勞働者の數は100人、而して彼等に對する1年の賃銀は何づれも1000マルクとし、更らに餘剩價値率は何づれの場合にも1割であるとして見る。此場合、三つの賃銀總計は10萬マルク、餘剩價値總計も同樣に10萬マルクである。然るにAなる企業の不變資本は10萬マルク、Bなる企業のそれは30萬マルク、最後にCなる企業のそれは50萬マルクであると假定して見る。さうすると次の如くになる。

企 業資 本(マルク)餘剩價値餘剩價値率即ち可變資本
對餘剩價値の比率(%)
利潤率即ち總資本對餘剩
價値の比率(%)
可變不變合計
100,000100,000200,000100,00010050.0
100,000300,000400,000100,00010025.0
100,000500,000600,000100,00010016.6
合計300,000900,0001,200,000300,00010025.0

即ち商品が嚴密に價値通り販賣されるとすれば、餘剩價値率は同一であつても利潤率は著しく異つて來るのである。

4.資本の自由競爭

然し、資本制生産方法のもとに於いては、斯かる利潤率の差異は、決して永續するものでない。元來、資本家が生産に從事するのは、利潤を得んが爲であつて、使用價値に對する何等かの欲望を充たさんが爲ではない。資本家が如何なる物を生産するかといふこと、即ちそれが縫針であるか、機關車であるか、靴墨であるか乃至はケルン香水であるかといふことは、彼れ自身から見れば差異のない事である。彼れの貨幣を以つて出來得る限り多額の利潤を得る事が、主たる問題である。所で一方の生産部門では5割の利潤が得られ、他方の生産部門では1割7歩しか得られないといふ場合には、結局どうなるか。資本は出來得る限り後者を避け、全力を盡して前者に振り向けられることゝなるであらう。そこでAは激烈なる競爭の的となり、此部門における商品の生産は急撃に増大する。反對に、Cにおける商品の生産は減退することになる。

斯くて我々は競爭舞臺に、需要供給の領域に入るのである。價格は價値に依つて決定されるとはいへ、雙方が全く異つた物であることは、既に述べた通りである。而して商品の價格をば價値よりも或は大、或は小ならしむる原因の中で最も重要なものは、即ち購買者の需要及び販賣者の供給に於ける變動である。

自由競爭のもとに立つ今日の生産方法は、需要供給に依つて調節されてゐる。それは計畫的に調節されず、指導者なり所有者なりの見計ひで自己の利益のために生産を營む私的の各企業に依つて經營される。そこで若し需給に依る調節がないとすれば、此生産方法は甚しき無政府状態に陷つてしまふであらう。需要供給は、現存の勞働力をば各種の生産部門に適當に配分させて、いづれの部門も大體に於いて與へられたる事情の下に社會が要求するだけの物を生産するやうにさせる。勿論之れは極く大體の話であつて、或特殊の場合をとればさうはならない。寧ろ今日の如き無計畫的の生産方法のもとに於いては、何等かの商品の生産が多過ぎたり少な過ぎたりするのが常であつて、其後に至り始めて需給の作用により、即ち價格の低減又は昂騰によつて、社會の要求通りに生産を縮少したり擴張したりする事になつて行くのである。一定の價格標準(終極に於いて價値に依り決定される所の)のもとに於いて、社會の購買力ある人々が購買することを得、又は購買することを欲する程度以上に商品が生産されるとすれば、價格は下落し、隨つて其商品を購買し得る又購買することを欲する人々の數は増大することになる。然し價格の下落と共に利潤も亦低減する。そこで若し利潤が平均以下に低減するとすれば、資本は其生産部門を退いて、生産は縮少されることになり、それと共に價格は再び増進して、遂には平均利潤に應當した水準に達する。

反對に、商品の生産が購買者の需要に相當した程度以下に降つて、價格が右の水準點以上に上るとすれば、其場合には利潤も亦増進する。そこで、資本は此生産部門に引き着けられ、競つて其處に流れ込む。斯くて生産が擴張される結果、價格は再び平均利潤を生ぜしむる水準に下落する。物價は絶えず此水準を上下してゐる。或時はそれ以上に上り、或時は又以下に下つてゐる。たゞ此上下運動に依つてのみ、右の水準が生ずるのである。此水準は常に一つの傾向として、努力として存在するに過ぎず、決して永續的の状態として存在するものではない。

5.平均利潤率の成立

需給の作用は又、資本の有機的組成差異に基く利潤率の不等に、對抗作用せねばならぬ。

Cなる企業に於いては生産が減少して價格が昂騰し、それに依つて又利潤が増大する。然るにAなる企業に於いては、反對に生産が増大して價格が下落する。此相互反對の傾向は、兩者の利潤が互ひに相殺されて利潤率總體の平均水準に達するまで持續する。曩にはBが資本の平均組成を代表し、隨つて其利潤率は平均利潤率を代表するものと假定した。斯くて三企業の利潤は次ぎの形を採ることになる。

企 業總資本(マルク)餘剩價値餘剩價値率(%)利潤率(%)利 潤
200,000100,0001002550,000
400,000100,00010025100,000
600,000100,00010025150,000
合計1,200,000300,00010025300,000

然し、利潤率の斯かる平均化は、商品價格が商品價値から遠ざかると云ふ一事によつてのみ可能となつたものである。所で我々の假定によれば、前貸總資本は1ケ年を以つて回轉し、生産物の價値の中に再現する。そこで各企業における年生産物の價値對價格の比率は次の如くになる。

企 業總資本(マルク)餘剩價値總生産物の價値
(生産費に餘剩價値
を加へたもの)
利 潤總生産物の生産價格
(生産費に利潤を
加へたもの)
200,000100,000300,00050,000250,000
400,000100,000500,000100,000500,000
600,000100,000700,000150,000750,000
合計1,200,000300,0001,500,000300,0001,500,000

今、各企業における年生産物がそれぞれ1萬箇に分割されるとすれば、商品各箇については左の結果が生じて來る。

企 業(マルク)(マルク)(マルク)
價  値305070
生産價格255075
6.生産價格

然らば各資本家は先づ、何づれも其異つた通りの餘剩價値を収得するかと云ふに(即ち或部門の資本家は5割を得、又他の部門の資本家は1割7歩しか得ないと云ふ風に)、現實に於いては決してさうなつてをらない。斯種の區別は資本制生産方法の初期にのみ、或は今日でも新たに資本制生産方法の支配下に立つ樣になつた地方及び經營部門にも、見られる所であつて、資本制生産の發達したところでは傳來の平均利潤率が形成され、資本家は最初から此平均利潤率を計算の基礎として價格を定める。斯く言へばとて勿論、資本家は此利潤率よりも多くを望まぬ譯でない。彼れは凡ゆる機會に乘じて、右の價格以上に高く賣らうとしてゐる。同時に又、此價格以下の價格を得、隨つて平均利潤率以下の利潤率を得るときには、彼れは損をしたと考へるのである。

然し大體に於いて、此平均利潤率が價格計算の基礎となることは爭はれぬ。斯くして生ずる價格即ち生産費(充用可變資本竝びに不變資本)に『世間普通の』の利潤を加へたものが、彼等資本家の目には『自然價格』として現はれることになる。マルクスは之れを生産價格と名づけた。それは費用價格(可變資本と不變資本との和)と平均利潤との總和から成るものである。

資本制生産方法の發達したところでは、價格ではなく、此生産價格が市場價格の水準を成すものであつて、市場價格は需給の影響により絶えず此水準を上下してゐる。然し生産價格それ自身は空中に浮んでゐるものでなく、價値に基礎を置いてゐるのである。

7.所謂マルクス變説論の背理

マルクス價値説の反對論者は好んで斯う主張する。マルクスは『資本論』第1卷の中で展開した自説を第3卷に依つて全く顛覆した。彼れは第3卷の中で、資本制生産方法の發達したところでは、利潤平均化の傾向に基き、大抵の商品の價格が永續的に價値から遠ざかること(なぜならば、此等の商品一半の價格は永續的に價値以上に上り、同樣に又他の一半の價格は價値以下に降るから)を論證したと。

マルクスが若し、價格は價値から獨立してゐると説いたとすれば、それは成るほど彼れ自身の價値説を顛覆したことになるであらう。然しそれどころか、彼れは寧ろ第3卷の中で、市場價格運動の中心たる生産價格なるものは全く價値律に依つて左右せられ、價値律なくしては説明し得ざるものとなることを論證してゐる。前にも言ふ如く、生産價格を價値から遠ざからしむる因子は平均利潤である。然るに此平均利潤なるものは、餘剩價値の法則によつてのみ説明される。而して其餘剩價値の法則は又、價値の法則に依つて生ずるものである。社會に現存する餘剩價値の總量と利潤(其派生體たる利子、地代を含む。此等のものについては、茲には之れ以上立ち入つて取扱はないことにする)の總量とが同意義のものであることを假定しなければ、與へられたる事情のもとに、何ゆゑ平均利潤率が一定の大さを有するかを説明すべき一切の根據が失はれることになる。

資本制生産方法の發達したところでは、平均利潤率とそれに依存する所の生産價格とによつて、價値と價格との間に新たなる中間要素が生ずると云ふ事實は、商品價値の法則を廢除するものではない。それは丁度、空中よりも水中の方が物體の落下にヨリ多くの抵抗を與へるからと云つて、それがため落下法則の適用が否定されることにはならないのと同樣である。

マルクスの生産價格説は彼れの價値説及び餘剩價値説と密接不可分の關係を有してゐる。生産價格説は價値説及び餘剩價値説を不合理にするどころか、寧ろ其完成を意味するものである。我々は生産價格説によつて始めて、各支配階級相互間の關係の基礎たるべき一列の現象――資本(利潤)と土地(地代)、産業資本(産業利潤)と貨幣資本(利子)との對立など――を闡明すべき鍵鑰を與へられる。單にそればかりでなく、我々は又、生産價格説によつて、一列の價値説に對する、隨つて其論駁に對する鍵鑰をも與へられる。なぜならば、此等の價値説は根本に於いて生産價格説に過ぎぬものであり、生産價格をば市場價格の終極的なる決定原因と見做してゐるからである。

8.見當違ひの價値説

勞働が價値を決定すると云ふ説を否認する經濟學者が澤山ある。此際これらの學者の價値説を一瞥して置かう。實を言ふと、彼等の説く所は(上記の説と同樣に)價値説でも何でもない。彼等の言ふ價値とは使用價値であり、生産價格であり、平均價格である。要するに、價値ならざるものである。

尤も何を價値と見做さうが、それは學者の勝手だと言ふ人がある。其説に曰く、我々はたゞそれぞれの學者が價値と解してゐる所のものについて、其説明の當否を問へばいい。それが使用價値の説だらうが、價格の説だらうが、何の説だらうが、そんなことは敢て問ふ所でないと。

然し斯種の見解は、他の如何なる科學に於いても全く非科學的の素朴な考として眞面目には取り扱はれないであらう。例へば原子説に於いて、如何なる物を原始と呼ぼうが、それは各學者の勝手だと言つたらどうであらう。分子を原子と言ひ又は細胞を原子と解しても、其提供する所論が正しき原子説であり、又は正しき細胞説であるならば、それで結構ではないかと言つたら何うであらう。原子の問題は單なる名稱の問題ではない。隨意に何んな物にでもつけられる名稱の問題ではない。それは寧ろ一定の過程に關する問題である。此過程を闡明する事が、即ち原子説の任務なのである。而して此過程は又、分子や細胞の形成に對する基礎となるものである。原子説に對する贊否は我々の自由である。即ち問題の過程を原子説で説明するか、それとも他の學説で説明するか、それは勿論我々の勝手である。然し何づれの學説で説明しやうとも、對象たる過程は即ち一でなくてはならぬ。原子説に依れば、分子とか細胞とか言ふものは畢竟原子の堆層に依つて決定される過程の産物である。此産物を原子と名づけることは、科學上の一大錯誤ではなからうか。我々は根本の事物と、派生の事物とを混同してはならない。

此問題については、自然科學に於いては何等の疑ひも在し得ない。經濟學上の過程はヨリ複雜であるには相違ない。然しそれにしても、自然科學について言ひ得ることは、又經濟學についても言ひ得なくてはならぬ。價値律に依つて説明すべきことは、一定の社會事情竝びに社會過程であつて、價値に依つて條件づけられる他の事情及び過程の法則をば價値律と呼び、價値律として取扱ふ譯にはゆかないのである。

各價値説が説明しようとし、又説明しなければならぬ過程は、商品と商品との交換の過程である。各價値説が説明しようとし、又説明しなければならぬ社會關係は、相互に商品を交換し合ふ商品所有者と商品所有者との間の社會關係である。商品交換の過程(此過程から次いで賣買が展開して來るのであるが)は、現社會の經濟的全機構をば進行状態に維持する根柢となるものである。故に此機構に關する一切の説明は、商品交換を調節する所の法則たる價値律の研究から出發せねばならない。そこで若し、之れとは異つた過程の説明を以つて價値律となさんとすれば、右の如き商品交換の根柢を成す法則に對しては何か特別の名稱を與へねばならぬことになるであらう。然し、如何なる價値説も、さうしてはをらぬ。これに依つて見れば、如何なる價値説も、同一の過程を説明しようとしてゐるに違ひないのである。

9.使用價値と價値とを混同する説

價値律に依つて説明すべき過程を念頭に置くとき、我々は先づ使用價値と交換價値とを峻別すべきであつて、此等の兩名稱に共通の價値なる一語に惑はされて兩者を同意義のものと見ないやうにせねばならぬことが、容易に明かとなる。價値説の中には、物の效用から價値を説明せんとするものが多い。效用が大であればあるほど價値は多いと説くのである。其多いといふ價値が使用價値を意味するとすれば、勿論此説の言ふ通りである。然しそれがヨリ大なる交換價値を意味すべきであるとすれば、此説は虚僞のものとなる。

物の使用價値即ち效用は消費者たる個々人と此物との間の關係を示すが、決して社會關係たる2個人間の關係(交換關係の如き)を示すものでない。論者の謂はんとする所は恐らく、效用の等しき物は同一の分量を以つて交換されると言ふのであらう。然しながら交換とか賣買とか言ふ事は大抵、販賣者が自己にとつて何等の使用價値なく效用なき物を提供すると云ふ事實に存してゐるのである。

パン屋及び其一家の者が滿腹すれば、彼等が燒いて賣るパンは、もはや彼等自身にとつては何等の使用價値なきものである。若しその購買者が得られないとすれば、彼等はそれをどう處置していいか分らないであらう。所が其時ちやうど此パン屋の店前を通りかゝる所の、朝からまだ一物も口にしない勞働者にとつては、右のパンは最大の使用價値あるものとなり得る。而も此パンの交換價値は、雙方にとつて同一のものである。

假りに、其所を通りかゝつた勞働者が籃の賣子であるとして見る。パン屋は籃を要してゐる。籃は彼れにとつては大なる使用價値を有するものである。然し籃屋から見れば、何等の使用價値もない。家に歸れば澤山の籃が寢かしてある。が、其中に入れる物がないのである。そこで彼れは若干のパンを得る爲に喜んで籃を手放す。然し此場合、雙方が效用を目指したとすれば、パンと籃とは如何なる比率を以つて交換されることになるか。1箇の籃がパン屋にとつて有する效用をば、幾許のパンが籃屋にとつて有することになるか。二つの相異つた使用價値の效用は、相互比較し得るものでないことは明かである。それは數字的に對算し得ざるものである。籃屋が1個の籃を與へて5箇のパンを受取つたとしても、籃1箇はパン1箇に比して5倍の效用があり、其意味に於いて又5倍の價値があると言ふは背理である。相異つた商品の效用は相互秤量し得ざるものである。

同一種類の商品の箇々について言へば、其使用價値の大小を確定し得ることは事實である。長持ちのする靴は、それほど長持ちのしない靴よりも使用價値が大きい。隨つて私は其使用價値の大きい方の靴に餘計代價を(さうすることに必要な貨幣を持つてゐるとすれば)支拂ふ。同じ1合壜ならば、濁酒1本よりも正宗1本の方が使用價値も交換價値も大きい。そこで、使用價値が商品價値の一要素であるかのやうに見えて來るのである。

然しそれは、さう見えるだけの事である。若しヨリ大なる使用價値が、ヨリ大なる商品價値を生ぜしめるとすれば、何故各生産者は上等品のみを造らないかと云ふ問題が起つて來る。總べての籃屋は何故、上等の籃のみを造らないか。總べての酒造家は何故、上酒のみを造らないか。其答は單純である。即ち上等品を造るには上等の原料が要る。上等の原料を造るには、ヨリ多くの勞働と貨幣とが要る。或は又、上等の原料はヨリ優良な勞働の結果である。即ち平均熟練の勞働をヨリ多く支出した結果である。上等の靴が高價なのは、全く之れが爲であつて、決して使用價値が大きいからではない。最も高い品は最も安い品だと言はれてゐることは、人の知る所である。其意味は、上等品は下等品に比べて商品價値が高い程度以上に使用價値は更らに大きいと云ふ事である。12マルクの靴は、恐らく10マルクの靴に比べて2倍長持ちがするであらう。

尤も商品に依つては、一定の場合にのみ産出され得ると云ふ理由で價格の高い物がある。此場合には、價格律は適用され得ない事になる。なぜならば、此場合には獨占といふ事が問題になるからである。價値律は自由競爭を前提とするものである。

同一種類の商品の範圍内に於いて、品質の差異が價格の差異を決定する所に在つては、價格の差異なるものは常に勞働支出の差異か、然らずんば獨占關係かに歸し得るものである。

10.價値と價格とを混同する説

他の價値説は又、價値と價格とを混同してゐる。それは價値を需給關係から説明しようとするのである。然し需給關係なるものは、元來一定商品の價格が何故價値(又は生産價格)を中心として上下するかを説明するのみで、一商品の價格が何故常に平均して他の商品の價格よりも若干程度高いかを説明するものではない。例へば金1ポンドは、何故數百年間を通じて銀1ポンドの平均3倍に相當したかを説明するものではないのである。そこで此需給論の立場から各種商品の永續的價格を理解し得るものにしようと思へば、結局勞働價値説に降參するの外はない。一商品は何故他の商品よりも永續的に若干程度高價であるかと云ふ問題に對して、需給論者は斯う答へる――一方の商品は比較的稀少であつて、之れがため其供給は永續的に他の商品の供給よりも少ないことになるからであると。

然しながらヨリ稀少の商品を、さほどに稀少でない商品と同量だけ市場に持ち來たるには、ヨリ多くの勞働を要する。1ポンドの金が同一量の銀に13倍した價を有するのは、金が銀より13倍稀少であるからと言つても、又は1ポンドの金を生産するには同一量の銀の生産に比し、13倍の勞働を要するからと言つても、殆んど差異はない。元來、市場に於いて商人に利害關係があるものは商品の價格のみであつて、此商品が如何にして得られたかといふ事は商品の問題とはならないのであるが、學者にして若し此商品の見地に立つことをやめ、ヨリ深く研究の歩を進めて、市場に來たる商品が如何にして生産されたかを穿鑿するならば、彼等は常に、商品の價値なるものが生産行程に依つて決定されること、即ちそれは市場ではなく、作業場で造り出されたものであることを見出すであらう。ブルヂオア學者にとつては多くの場合、作業場よりも市場の方が關係密接である。だから彼等は大抵、勞働價値説に大して無理解なのである。

市場に於いては、單に價値が貨幣となり價格となるに過ぎない。即ち始めは、表現された貨幣なる價格請求權に轉化され、次いで商品が販賣された時に現實の貨幣となるのである。資本制經濟が進めば進むほど、作業場と市場、生産者と商品を消費者に供給する販賣者との間に益々多くの中間物が介在して來る。その結果、現實的に得られる價格と理論上に定められた價値との懸隔は益々大となる。然し此事實は、商品價値を決定するものが常に生産條件であり、價値は常に(如何ほど間接であるにしても)生産條件に依つて左右されるといふ事實を妨ぐるものではない。

11.資本家の價値論

實際生産事業に携はつてゐる資本家自身は、生産條件を基礎にして商品の價値を決定する。勿論、彼等が價値と稱してゐる所のものは、商品の生産上社會的に必要なる勞働時間を指すのではなく、生産費(勞銀、竝びに機械や原料などに要する費用)に平均利潤を加へたものを謂ふのである。

これに倣つて、多くの學者も亦、價値は生産費に依つて決定されると説く。然し實際的資本家の立場から見て正しいことは、我々の立場から見れば無意義のものである。蓋し我々の立場は、各場合に於ける平準價格を計算するのではなく、資本制生産方法の社會的過程を最終原因まで遡ることを任務とするからである。

先づ生産費とは何であるか。それは一定額の貨幣である。隨つて、生産費なるものは既に貨幣を前提してゐる。されば生産費に依つて價値が決定されると見る事は、價値に依つて貨幣が説明されるのではなく、反對に貨幣を以つて價値を説明すると云ふ事になる。まるで馬の尻尾に轡を掛けるやうな話だ。

生産費は一定量の價値である。即ち勞働力の價値(勞銀)と、生産機關の價値と、利潤の價値との總和である。隨つて生産費が價値を決定すると云ふ事は、此等の價値が價値を決定すると云ふ事になる。要するに、此價値決定は循環論法である。

今、農業の傍ら機織業などを營む農民を假定してみる。彼れは一切を自ら造る。生活資料も、娘たちに紡がせる機織の原料たるべき亞麻も、みな彼れ自身に依つて造られる。彼れは又、自家の木材を以つて機織をも造るものと假定する。此場合、彼れの生産費なるものの殘存する餘地は何處にあるか。彼れは何等の貨幣をも支出しなかつた。彼れの生産物は、彼れにとつて勞働を要したのみだ。勞働以外には何も要さなかつたのである。

更らに一歩を進めて、ヨリ高級の生産段階なる手織業者の場合を考へて見る。此所まで進むとモウ貨幣支出が必要になつて來る。彼れは其織機や、絲や、更らに生活資料をも購買しなければならぬ。此等のものは、彼れの生産費となる。然し彼れは果して此生産費に從つて、自ら生産した麻布の價値を計算するであらうか。若しさうであるとすれば、彼れの手工業なるものは、あのやうに名聲の高かつた『黄金の地盤』を有しないことになるであらう。即ちそれは、彼れの貯蓄し得べき何等の餘剩をも齎らさないことになるであらう。1日に4時間働いても12時間働いても、彼れの生活資料や織機の支出に相當すべき生産費部分には變化がない。之れがため、彼れは(原料のことは暫く措き)12時間の生産物をば4時間の生産物よりも價高く計算しないであらうか。否、彼れも亦材料の費用の上に尚、彼れ自身の勞働をば價値形成要素として算入するであらう。

更らに進んで資本制生産方法の段階に入ると、事態は異つた姿容を採るやうになる。即ち資本家から見れば、生産物は何等の勞働をも要せず、たゞ貨幣を要するのみである。彼れは單に生産機關ばかりでなく、又勞働についても貨幣を以つて支拂ふ。斯くして資本家の立場から見れば、一切の生産條件は貨幣支出に歸してしまふ。彼れの目には、貨幣支出こそ價値形成の要素として現はれるのである。しかし、彼れの生産物の價値は、彼れが其生産上に支出した貨幣額に等しいと言へば、彼れは恐らく怪訝な顏をするであらう。彼れは生産上に支出した貨幣を回収することだけを目的として、生産を營む譯でない。彼れは尚利益をも得ようとするのである。彼れが其貨幣を消費しないで生産方面に提供するのは、此利潤を得んが爲である。そこで彼れは、生産費の上に尚『世間普通』の利得を算入する。斯くして決定される價格こそ、彼れが損な『勞働』と見る所のものを避ける爲に、せめて到達せねばならない最低價格たるものである。

資本家の見地からすれば、利潤なるものは生産物の價値を決定する生産費の一部である。然し此『價値』は、マルクス説で言ふ生産價格以外の何ものでもないことになる。而して此生産價格なるものは、價値律に依つて始めて理解され得るものとなるのである。

勞働價値説以外の價値説で『價値』と吹聽してゐる所のものは、實は使用價値であり、市場價格であり、生産價格である。此等は必ずしも交換價値と無關係のものではない。例へば使用價値の如きは、交換價値の前提條件を成してゐる。然しそれは、交換價値の決定原因の一つたるものではない。又、生産價格や市場價格は交換價値から生ずるものである。隨つて、それは交換價値を説明するものでなく、寧ろ交換價値の説明の方がそれらのものを説明する前提となるのである。

此等の價値説は、賣買當事者なり資本家なりが其營業上の運用について抱く考を、此運用の現實的原因と見ることを以つて滿足してゐる。此等の學説の主張者は、一つの現象に就いて實際家の抱いてゐる考を總合し復製したとき、此現象をば科學的に説明したものと信じてゐる。然しそんなことならば、何等の科學をも要しない。科學と言ふからには、社會的の過程及び事情のヨリ深遠なる原因を闡明しなければならぬ。然るに斯かる原因は、實地當事者の意識には全く上らないか、或はホンノ不完全にしか上らないか、又は全く歪められて上るか、することを常とするものである。

12.勞働價値説の價値

以上掲げた各種の價値説中、比較的最も眞理に近いものは、生産費を價値の決定原因とする説である。然し此説は、前に述べた缺點の外に、尚ほ平均利潤で挫折してしまふ。勞働價値説以外のどんな價値説も、平均利潤の大小が如何なる原因に依つて決定されるか、何故それは一定事情の下に例へば1割となつて、10割なり100割なりとならないかを説明することは出來ない。他の價値説はいづれも、利潤占有の辯護か、然らずんば其心理的説明かを以つて滿足してゐる。然し如何に深遠なる法理學、如何に精巧なる心理學と雖も、利潤が何處より生じ、如何にして造られるかを説明し得るものではない。

13.利潤論は枝葉問題

利潤説は社會關係の理解の上に極めて重要な意義あるものである。然し茲ではこれ以上それを攻究することをやめて、價値説の考察に論を戻さう。元來利潤説なるものは、餘剩價値といふ獲物が支配階級の相異つた部分間に分配される事についての學説である。工業資本家又は農業資本家は餘剩價値を生産せしめるとは云へ、それを全部保有し得るものでない。若し其資本が、有機的組成の低き生産部門に充用されるとすれば、有機的組成の高き他の生産部門に投資した資本家の手に餘剩價値の一部を割讓せねばならなくなる。此利潤平等化の過程は、彼等の認むる所とならない。隨つて彼等は、それにつき何等顧慮する所がないのである。

所が彼等は又それと知りつゝ餘剩價値を他人に割讓する。即ち彼等の利得の一部は、彼等に貨幣を賃貸した貨幣資本家の手に資本利子として支拂はれ、又他の一部は商業利潤として商品の手に支拂はれ、最後に彼等が小作農業者であるとすれば、其利得の一部を地代として地主に割讓し、又自ら地主として農業を經營する場合には、土地の購買に充用せねばならなかつた資本の利子として、餘剩價値の一部を支出せねばならぬことになる。

此等すべての關係は、極めて重要なものである。然し此場合、第一に我々の問題となることは、斯くの如き資本家對資本家の關係ではなく、資本家對勞働者の關係である。それも個々の資本家と個々の勞働者との關係ではなく、資本家階級と勞働者階級との關係である。此問題については、利潤説は單に考慮に入らないのみか、寧ろ問題を曖昧にするに適してゐる。なぜならば、それは利潤の大小をば、資本對勞働の關係とは全く沒交渉なる他の諸事情に懸らしめるからである。

個々の資本家の得る利潤が如何なる形を採らうとも、利潤の大小は終極に於いて餘剩價値の大小、換言すれば賃銀勞働者に對する搾取の大小によつて左右される。而して此事實は、先づ資本家階級全體について當て嵌まる。なぜならば利潤の總和は、餘剩價値の總和と意義を等しくしてゐるからである。

利潤律ではなく、餘剩價値律に依つて、我々は資本對勞働の階級對立竝びに階級鬪爭を理解することが出來る。尚ほ又それに依つて、我々は資本制生産方法の特質を最もよく理解し得るやうになるのである。

そこで以下の説明に於いては、單に價値及び餘剩價値のみを取扱ひ、價格は價値に等しく、利潤は餘剩價値に等しと云ふ前提から出發することにする。落體の法則を研究する場合空氣の抵抗を問題外に置くのと同じ意味で、此場合にも亦平均利潤率や生産價格の問題を度外視せねばならぬ。實地應用の場合には、茲に度外視した要素をも考慮に入れねばならぬことは、言ふ迄もない。

inserted by FC2 system