第2篇 餘剩價値

第5章 勞働日

1.勞働の正義と資本の正義

必要勞働時間と餘剩勞働時間とは相合して勞働日を構成する。

與へられたる事情の下に於いては(即ち勞働生産力の程度や、勞働階級の欲望などが一定してゐるとすれば)、必要勞働時間は一定の大さを有してゐる。曩には、之れを6時間と假定した。如何なる生産方法の下に於いても、勞働日は必要勞働時間よりも小たるを得ないことは、言ふ迄もない。資本制生産方法の下に於いては、それは必要勞働時間よりも大でなくてはならぬ。餘剩勞働時間が長ければ長き程、他の事情に變化なき限り餘剩價値率も亦益々大となる。資本家は勞働日を出來得る限り延長しようとする。能ふべくんば、一晝夜24時間に亙つて間斷なく勞働させ度いのである(イ)。

註(イ)1883年オーストリア議會に於ける勞働者状態に關する審問に依つて確定された所によれば、同國ブリユーン市の各種紡績所では、土曜の朝から日曜の朝までブツ通しに勞働させてゐた。此美しき習慣は遺憾ながら、ブリユーン市と紡績所とのみに限られたものではなかつた。

然しそれは、資本家にとつて悲しいことには、久しきに亙つて行はれ得るものでない。勞働者に休息や睡眠や食事の時間を與へなければ、勞働者は終に萎縮してしまふ。それでも資本家はせめて、此等の勞働休止時間を出來得る限り切り詰めようとし、それ以外の時間には1分の無駄もなく勞働者を自分のものにしようと努める。勞働力は、勞働者から切り離し得るものでない。勞働力の使用價値が資本家の手にある全時間を通じて、勞働者の人格も亦資本家のものである。勞働者が勞働時間中自分自身の爲に利用する各秒は、資本家から見れば彼れ自身の資本に對する盗掠として現はれる(ロ)。

註(ロ)英國の勞働者は(他國の勞働者も同樣であるが)資本家がその購買勞働日の中から勞働者に少しも控除させまいとする周到の注意を嘲弄することをよく心得てゐる。例へば彼等は或石坑主について次の如く語つてゐる。──英國の某石坑で坑道發火の早過ぎた爲、一坑夫が無殘にも空中に投げ飛ばされたが、思ひがけなく無事に大地へ戻つて來た。所が給料支拂の時になつて、雇主は此坑夫が空中にゐた時間を無勞働と見做して、それだけ賃銀の中から差引いたと云ふ事である。米國ニユーヨーク州クロートン鑿溝工事の時にも、ちやうど之れと同じやうな出來事が起つた。此工事で或山を穿通する際、トンネルの火坑が發火後に有毒瓦斯を生じ、坑夫はそれが爲、失神して何分間か仕事を中止しなければならなかつた。そしてその中止時間は賃銀の中から差引かれた。又瑞西チユーリヒ州に於いても、さる『久遠の女性』に熱中してゐる工事主は、營業室で女工に戲れた時間だけ彼女の賃銀の中から差引いた。

然し又、勞働力と勞働者とが斯く不可分的に結合されてゐればこそ、勞働者は自分の利害の上から出來得る限り勞働時間を切り縮めようとするのである。生産工程が持續してゐる間は、勞働者は資本の一部に過ぎない。資本制生産方法の下に於いては、勞働者は勞働を止めた時に始めて人間となるのである。

2.資本家の欺瞞

然し勞働時間の短縮については、斯かる道徳的動機の外に尚ほ物質的の動機もある。蓋し資本は、商品交換の法則によつて當然自己に屬すべきものよりもヨリ多くを得ようと努めるからである。資本家が1日の勞働時間を價値通りに買ふとすれば、資本家に當然屬するものは、1日分の勞働力の使用價値のみであつて、資本家は勞働力の恢復を妨げざる時間だけ日々これを利用し得るに過ぎない。我々が1本の林檎の木に生じた果實を買つた場合、タンマリ利益を得ようと云ふ考へから其林檎の實を悉く落した上に、尚ほ薪にする目的で林檎の木の枝をも切つてしまつたとしたら、それは契約違犯になるであらう。次の年に、其木は最早從前ほど實を結び得なくなるからである。

資本家が勞働者を餘りに長時間働かせることも要するに之れと同樣であつて、それは勞働者の勞働能力と壽命とを犠牲にして行はれる所である。假りに此樣な過度勞働のため、勞働者の勞働能力の持續期間が40年から20年に縮まつたとすれば、之れ取りも直さず資本が毎日平均2日分の勞働使用價値を利用したことになる。即ち勞働者には1日分の勞働力の代價を支拂つて、其實2日分の勞働力をセシメタことになる。資本家は勞働者に儉約を進める。無茶をするな、分別あれと教へる。其口の下から、彼等は勞働者の持つ唯一の所有物たる勞働力を強いて濫費させてゐるのである(ハ)。

註(ハ)マルクスは、1863年『ソーシアル・サイエンス・レヴイユー』誌に掲げられたリチアードソン博士の文章の中から左の一句を引抄した。──『倫敦マリレボーン區の鍛冶工は、年々1000人に付き31人の割合で死亡する。即ち英國に於ける成年男子の平均死亡率よりも1000人に付き11人多いのである。鍛冶屋の仕事その者は、人類の殆んど本能的技術とも稱すべきもので非難の餘地がない。然らば彼等鍛冶工の死亡率は何故そんなに高いかと言ふに、それは全く勞働過度のためである。彼等が若し適當に仕事して居れば平均50年生きられるものを、甚だしき勞働過度に堪えさせられる結果、その活力消耗は1/4づゝ増加する。斯くて彼等は短期間に就いて言へば、其仕事の分量に於いて1/4の増加を示すが、然し從前50歳まで生きられたものが37歳で死亡する事になる。』

3.標準勞働時間

我々が茲に資本家と言ふのは、一個人としての資本家ではなく、資本制生産方法の代表者としての資本家、即ち自分一個の貪慾からにせよ、又は競爭上餘儀なくされた結果にせよ、兎にかく資本制生産方法の命ずる通りを行ふ資本家を指すのである。

我々は、此資本家階級と勞働者階級との間に、利害對立の存することを見る。資本家階級は出來得る限り、勞働時間を引き延ばさうとし、勞働者階級は反對に之れを切り縮めようとする。其結果は、即ち兩者の鬪爭となつて我々の眼前に現はれてゐる。然しそれは既に數世紀以前から始まつた事で、極めて重要の史的意義を有してゐる。此鬪爭に於いて、勞働者は互ひに其利害が一致することを認めた。此鬪爭は實に、勞働者の階級的確立に對する主要動力となつたものであつて、勞働運動が一個の政治運動として發達し得たのは此鬪爭のお蔭である。而して從來に於ける此鬪爭の實際的成果として最も重要なるものは、國家の力に依る勞働時間の調節、即ち標準勞働時間の制定これである。

4.マルクスの功績

此鬪爭の條件及び原因は近世産業の本場なる英國に於いて、最も早くから且つ最も鋭く發達した。此鬪爭は最初英國に出現したものである。『英國の工場勞働者は、單に英國勞働者階級ばかりでなく、又實に近世勞働者階級全般の選手であつた。同樣に、資本の學説に對して最初に挑戰を試みたものも、矢張り彼等の學者であつた。』勞働時間に就いての抗爭及び其原因に關しては、英國ほど明白に之れを探求し得る所はない。英國に於ける新聞紙や議會の審議及び調査委員會や、官廳の報告、特に工場監督官の報告などは、他國に類例なき豐富な材料を提供してゐる。それはマルクスが『資本論』第1卷を完成した當時(1866年)に於ける唯一の材料となつたものである。

そこでマルクスは英國に演ぜられた標準勞働時間に就いての抗爭のみを立ち入つて叙述した。マルクスの叙述を補ふものにエンゲルスの『英國に於ける勞働者階級の地位』がある。此書は1844年に至る迄の事實を包括したものである。マルクスの叙述は1866年まで及んでゐる。

斯くの如く、マルクスもエンゲルスも單に英國に於ける勞働時間問題のみを叙述したに過ぎないが、然し今日尚、彼等の叙述に含まれる所は單なる史的意義だけに止まるものではない。彼等に依つて叙述された諸種の事情、即ち勞働時間を成るべく延長しようと云ふ、而して又やむを得ず勞働時間の短縮を約した場合には何とかして其約束をフイにしようと云ふ資本家側の凡ゆる詭計訐策、遁辭ゴマカシ、及びそれに對する各政黨及び勞働者階級の態度、此等の事實は何づれも標本的のものであつて、後年歐洲大陸諸國に現はれた勞働時間問題の如きは、畢竟英國の過去を縮寫したものに過ぎぬやうに見える。エンゲルスが40年前に述べ、マルクスが20年前に書いた各種の事情は、今日尚、イキイキと我々の眼前に現はれてゐる。獨墺兩國の産業状態に就いて、最近民間の研究及び官邊の報告が齎らした僅少の材料は、皆マルクスが『資本論』に述べてゐる事その儘の例解に外ならぬ。

マルクスは『資本論』の序文で言つた。――自分が『資本論』第1卷の中で、『英國工場法の歴史、其内容及び結果について、斯く立ち入つた叙述』を與へたのは、蓋し一國は他國の經驗から學び得るものであり、且つ學ばねばならぬからである。而して又、支配階級は自己の利害上、勞働者階級の發達に對する法律を以つて取締り得る一切の障碍を除去することに努めねばならぬからであると。

マルクスの叙述は事實に於いても、全然無效果のものではなかつた。彼れの提供した事實は頗る剴切適確であつて、單に勞働者階級ばかりでなく、又支配階級中の思惟力ある分子に對しても、印象を與へる事を誤らなかつた。獨、墺、瑞西諸國工場法の進歩は、マルクスの文章に負ふ所が少なくなかつたのである。

然しブルヂオア階級中の思惟力あり又階級的偏見に囚れざる人々の數は至つて少なく、勞働者階級の與へた政治的影響も尚至つて微弱であつた。我々が工場法を取扱つた『資本論』中の叙述を讀むに當つて先づ感ずることは、從來歐洲大陸諸國が此方面に擧げた成績についての滿足ではなく、寧ろ此等の諸國に於いて今日尚工場法につき專ら行はれてゐる所の、驚くべき無智に對する耻しさである。彼等が僞善的に『マンチエスター主義の國』として輕侮することを好む英國に於いて既に久しき以前、事實に依つて打ち克たれてしまつた主張が、今日尚ほ大陸諸國の議會に高唱されてゐるのは、全く此無智の然らしむる所である。

勞働時間を取扱つた『資本論』の叙述を、茲にヨリ立ち入つて紹介することは不可能である(ニ)。勞働時間が法律上無制限であつた各種産業部門の状態、夜間勞働、交代勤務制、最後に又標準勞働日に關する抗爭に就いては、能ふべくんば讀者各自が、直接『資本論』に依つて其詳細を學ばれん事をお薦めする。勞働者保護の立法については、同書第8章及び13章に優る有力な武器は見出されないのである。

註(ニ)尚詳しくは豫の小著『勞働者保護特に國際勞働者保護立法及8時間勞働日』(Der Arbeiterschutz, besonders die internationale Arbeiterschutzgesetzgebng und der Achtstundentag. Nurnberg 1890)を參照せられ度い。此書は特に最近の發達を考慮に入れて、該問題を取扱つたものである。

5.勞働の無制限搾取時代

英國に於ける勞働日の國家的調節については、大體に於いて相互對抗した二潮流を辿る事が出來る。即ち14世紀から17世紀末に至る間は、勞働日延長の立法を特色としたが、19世紀の初葉以來それが一轉して勞働日短縮の立法に向つた。

資本制生産方法の發達の初期に於いては、資本の勢力がマダ頗る微弱であつた爲、單なる經濟事情の力だけでは、勞働者からシコタマ餘剩價値を搾り取ることが出來なかつた。18世紀になつてさへも、勞働者は1週に4日働けば1週間分の生活費が得られるので結局4日しか働かぬと言つて、コボした資本家がある。當時、勞銀を引き下げ勞働時間を延長する爲、乞食浮浪者の徒を強制勞役場に拘禁すべしと云ふ主張が提唱された。此勞役場は『驚駭の家』でなければならぬ。而して此所で、毎日12時間づゝ勞働させようと言ふのが、此主張の要旨であつた。

所が、それから100年後の1862年、此『人道の世紀』と言はれてゐる時代に、英國議會の一調査委員は、同國スタツフオードシーア州の製陶所で、7歳の兒童が毎日15時間づゝ勞役させられてゐる事實を確證した。

斯くして勞働者を餘剩勞働に服せしむべく、資本は最早何等の強制法律、何等の強制勞役場をも要しなくなつた。18世紀の70年代以降、英國には餘剩勞働の爲の宛然たる競走が開始された。資本家は我れ勝ちに勞働時間の延長を計つた。

斯くて勞働者階級は驚くべき急速力を以つて身心ともに衰頽した。年と共に甚しく衰弱して行つた。他方勞働者は續々工場地に流れ込み、絶えず工場勞働者階級の血を新たにしたが、それでも斯樣な破壞の勢を喰ひ止めることが出來なかつた。1863年、英國下院の一議員フエランドは議場に叫んで言つた。――『英國の木綿工業は既に90年の齡を重ねたが、此人類3代の間に木綿職工9代を食ひ盡した』と。

それでも工場主は狼狽するやうなことはなかつた。彼等は急速に人間の生命を消耗したが、彼等の支配に屬する勞働力は一向に減らなかつた。使ふ後から後から、新らしい勞働力が供給された。平野から、スコツトランドから、アイルランドから、獨逸から、幾多の死の候補者は、故郷の産業が衰亡し田畑が牧場化された爲、故郷を逐はれ群をなして、英蘭の工場地方や倫敦に流れ込んで來た。

此勢ひを以つて進めば、英國の勞働者階級は軈て朽ち果てゝしまはねばならぬ。其樣な結果は明かに見えすいてゐた。それでも英國の工場主階級は、勞働時間延長の方針を止めようとしなかつた。然し工場主階級に所屬せざる政治家、否、此階級の中でも比較的目先の見える人々は、斯かる事實に對して非常なる危懼不安を感じた。資本主義の爲に、英國の人口が斯く無制限に食ひ盡された曉、英國は、英國の産業は、抑も如何に成りゆくであらうか。彼等は實に之れを危懼したのである。

6.勞働者保護の時代

如何なる資本主義國に於いても、資本に依る山林の荒廢を出來得る限り制限する必要が生じたのと同じ意味で、國民的勞働力の濫耕的搾取を制限する必要が迫つて來た。而して近世勞働者運動の先鞭たる英國の勞働者運動は、此必要を洞察した政治家に刺戟を與へたのである。

ロバート・オーヱンは19世紀の初期に早くも勞働日の制限を力説した。彼れは其工場に10時間半勞働制を實行して好成績を擧げた。英國の勞働者運動は19世紀の20年代以降頓に膨大となつた。それは1836年以降、チアーチスト黨として組織され、支配階級を強壓して續々各種の讓歩を獲得した。その主なる要求は、普通選擧權及び10時間勞働制であつた。

此抗爭が如何に頑強且つ苛烈に行はれたか、而して又當時の資本家や法律家が如何に智嚢を絞つて、勞働者階級に對する一切の讓歩を無にしようと努めたか、多くの工場監督官殊にレオナード・ホーナー(總べての勞働者に依つて高く記念せらるべき人)が、如何に勇氣と精力とを以つて、國務大臣に反對して迄も勞働者の利益を擁護しようと努めたか、かの自由貿易論者等が如何に、自己の利益の爲に勞働者を必要とする間は10時間勞働を約束して置きながら、一旦輸入税廢止の目的を達成するや否や厚顏にもそれを破約したか、而して又最後に、勞働者階級が如何に威嚇的の態度を以つて、少なくとも一定勞働者部類の爲に、10時間勞働日の制定を達成したか――此等一切の事實は、極めて詳細にイキイキと、多大の引例を以つて、『資本論』の中に描寫されてゐる。

19世紀50年代の初葉以來、英國の勞働者運動は漸く鎭靜の域に入つた。それは巴里に於ける勞働者階級の敗北、竝びに全歐洲大陸に於ける革命の瞬間的失敗の反動作用を免れることが出來なかつた。他方に、チアーチスト運動の目的は英國西部地方に於いて益々達成されると共に、英國の産業は他國の産業を犠牲として異常の繁榮を遂げた。此繁榮の渦中には、英國の勞働者階級も亦卷き込まれてしまつた。斯くて英國の勞働者階級は、他國の資本勞働とは異なり自國の資本勞働間には利害の一致が存すると信ずるやうになつた。

然し此平靜な時代にも、英國の工場立法は不斷の進歩を遂げた。1878年5月27日の法律に依り、1802年以來の制定に懸る16種の工場法を取捨して單純に編纂した。此法律の最も重要なる進歩は、工場と作業場との區別を廢除したことである。爾來、勞働保護は單に工場ばかりでなく、更らに、小規模の作業場にも、或程度までは又家内工場にも及ぶやうになつた。但し此法律は兒童、青年男女及び婦人勞働者のみの保護を目的とするものであつて、成年男子には及ばなかつた。

此1878年の法律は、其後幾多の新法律を以つて改正された。其中特に重要なるものは、1891年及び1901年の法律であつた。此等の改正法に依つて、12歳以下の兒童は、全く工場勞働から排除された。而して12歳以上14歳までの兒童は、青年男女(14歳乃至18歳)及び成年婦人の勞働時間の1/2を限度として雇傭を許された。青年男女及び成年婦人勞働者の勞働時間は1週60時間を限度とした。但し織物工場では56時間半を超えることを許されなかつた。日曜日には、被保護者の從業が禁じられた。復活祭前金曜日及びクリスマスに於いても亦同樣であつた。ほかに年8日の半休、4日の全休を與へねばならぬ(土曜日は不休)。此等の休業の中、少なくとも半分は、毎年3月15日から11月1日までの間に與へねばならなかつた。

此等の改正法によつて、成年男子の勞働時間も亦、彼等が婦人及び兒童と共に勞働する所では、多くの場合10時間に制限されたことは言ふ迄もない。此保護を更らに成年男子にまで及ぼすことが如何に必要であるかは、今日尚工場法の保護に浴せざる成年男子にして、而も不利なる事情の爲に勞働貴族階級たり得ざる人々の悲慘なる境遇を見れば、明かに知り得る所である。

標準勞働日實施の結果は、實に驚くべき程に良好であつた。英國の勞働者階級は是れによつて實際その滅亡を救はれ、斯くして又英國の産業は頽敗を免れた。10時間勞働制の實施は英國産業の發達を妨ぐるどころか、却つて其未曾有の振興を齎らした。斯くて標準勞働日は、このマンチエスター主義の國に於いて最早1人の立つて之れを覆さんとする者なき鞏固なる國家的施設となつた。工場主は其始め凡ゆる手段を講じて之れが實施勵行を妨害したが、遂には得々然として、此制度こそ英國産業が歐洲大陸諸國の産業に優る根柢の一つであるとまで言明するに至つた。

7.瑞西の工場法

英國の先例と、大陸諸國に於ける資本主義の發達及びそれに伴ふ諸種の結果とは、大陸諸國にも亦勞働日取締の必要を喚び起した。而して此取締は、勞働運動の實力と、支配階級諸政派の見識(換言すれば、偏狹なる工場主的立場の放棄)とに準じて、各國とも多かれ少なかれ遠大に實行された。

大陸諸國に於ける勞働者保護立法の中最も遠大なるものは、確かに瑞西共和國のそれである。1877年3月23日の瑞西聯邦工場法は、從來の雜多なる州工場法を廢し、工場に使用される一切の勞働者に對し11時間制を規定した。成年男子にも保護を與へた點は、英國法に比し確かに一頭地を抜いてゐる。其代り英國は10時間制であつたが、瑞西は11時間制を採用し、且つ小規模の作業場と家内工業とを保護圈外に置いた。此點は英國に一籌を輸する。瑞西法は又14歳以下の兒童の工場使用を禁じ、14歳乃至16歳の兒童については、學校授業時間を合して11時間を超ゆべからずとを規定した。

8.佛國の工場法

佛國は1841年に始めて工場法を制定した。此工場法は8歳乃至12歳の兒童については8時間勞働、又12歳乃至16歳の兒童については12時間勞働を規定した。それは極めて貧弱なるものではあつたが、然し此貧弱なる工場法でさへ、久しく紙上の空語たるに止まつてゐた。又1849年の革命に強制されて、一切の工場及び作業場に對する12時間勞働の制定を見たが、之れまた形式一偏の法律に過ぎなかつた。之れが勵行を監視すべき監督官を缺いてゐたのである。其後、1874年5月19日の法律に依り、茲に始めて眞面目なる勞働者保護立法の端緒が開かれた。此法律は若干の産業部門に限つて12歳以下の兒童の使用を禁じ、又一般に10歳以下の兒童使用をも禁じた。又10歳乃至12歳の兒童については6時間制を、12歳乃至16歳の兒童については12時間制を規定した。尚、此法律を勵行する爲に工場監督官を置き、地方委員をして之れが執務を補助せしめた。

此法律は1892年更らに改正された。即ち一般に亙つて12歳以下の兒童の使用を禁止し、12歳乃至16歳の兒童については勞働日の最高限度を10時間とし、16歳乃至18歳の青年については、1日11時間、1週60時間を最高限度とした。又、婦人勞働者については、11時間制を採用した。

其後屡々、11時間勞働日に代ふるに10時間勞働日を以つてせんとする企圖が繰返されたが、之れは上院の反對で頓挫した。が、遂にミルランの力で妥協が成立し、1900年3月30日の法律を以つて、婦人及び兒童が成年男子と共に從業する工場に於いては、如何なる部類の勞働者についても10時間制を採用する事となつた。然し此進歩は、一面に兒童の境遇の相對的惡化を以つて贖はれたものである。なぜならば、此改正法は一切の從業勞働者を無差別視したからである。(之れ實に國際的勞働保護立法の全體を通じて類例のない事である)。即ち12歳の兒童についても亦成年男子の場合と同樣に10時間制を採用した。加ふるに此10時間制も發布後直ちに勵行すると云ふのではなく、實施されてから最初の2年間は11時間を勵行し、其次の2年間に10時間半を勵行して、然る後に始めて10時間を勵行することゝなるのである。斯くて、最も著しく保護を要する所の勞働者たる兒童の勞働時間は、暫行的には延長される形となつたのである。

9.獨墺の工場法

墺國は1885年7月11日以來、各種の工場に對して11時間制を採用した。尤も、或種の産業部門に對しては、商務大臣は更らに1時間を延長することを得ると云ふ但書が附してある(ホ)。此法律は又、通常の産業勞働(小規模の作業場に屬する分をも含む)に對する12歳以下の兒童の使用を禁じた。また『青年補助勞働者』については8時間制を採用した。但し茲に斷つて置くが、墺國議會の學者から見れば(他の多くの國の議會に於いてもさうであるが)、兒童期と云へば一般に12歳を以つて終了し、12歳以後からは『青年男女』となるのである。

註(ホ)此但書の部分が、法文の全部を通じて今日まだ最も多く勵行されてゐたやうに見える。

獨逸の勞働者保護立法は、以上各國の立法に比べて優るものでない。獨逸の現行勞働者保護規定は、1891年5月の改正産業法に基づくものであつて、13歳以下の兒童の工場使用を禁じ、13歳乃至14歳の者に對しては6時間、又14歳乃至16歳の者に對しては10時間を最高限度とした。更らに、16歳以上の婦人勞働者に對しては11時間制を採用した。成年男子は從前通りに搾り取り御免である。

他の歐洲諸國に於ける工場法は重要の程度低く、大抵は兒童勞働者に關するものばかりである。

10.米國の工場法

亞米利加合衆國には、工場に於ける兒童、青年又屡々婦人の保護法を有する州が澤山ある。而して其多くは10時間勞働制を採用してゐるが、カリフォルニア、デラウヱーア、アイダホ及びミツソリ4州は9時間勞働、又イリノイス州だけは14歳乃至16歳の青年(婦人は然らず)に對して8時間勞働制を實施してゐる。北部諸州の多くは、14歳以下の兒童勞働を禁じてゐるが、南部諸州では大抵、12歳甚しきは10歳を限齡とするか、又は是れについて何等の規定をも與へてをらぬ。南部諸州の勞働者保護は、今日尚慘憺たるものである。成年男子の勞働時間については、亞米利加合衆國には今日尚概して、法律上の取締が與へられてをらぬ。濠州に於いても同樣である。ヴイクトリア及びニユージーランドは、婦人及び青年男女に對して8時間制を實施してゐる。

11.國際的勞働者保護の傾向

斯くて最近數10年來、以上の如き勞働日の取締をば從來の國家的限界以上に擴大して、凡ゆる資本主義國の共同的國際的施設にしようとする、時折りの努力が前方に現はれて來た。最初に此努力を示したものは、瑞西、佛、獨、墺及び其他諸國の勞働者であつた。然し其後に至り各國政府も亦、次第に此問題を考慮するやうになつた。國家として始めて此國際的勞働者保護に指を染めたものは、瑞西聯邦議會であつた。然し瑞西聯邦議會が此問題について他國政府の興味を誘はうとした努力は、獨逸政府の拒絶的態度の爲に頓挫した。標準勞働日なるものは元來ビスマルクにとつては一つの恐怖であつた。此鐵血宰相の沒落は獨逸に於ける勞働者保護の進路を開いた。其後に於ける傾向は暫くの間、斷乎たる社會改良を目標として進まんとするものゝ如く見えた。其一つとして、國際的勞働者保護立法の觀念が、獨逸に於いても抱かれるやうになつた。1890年、獨帝ウヰルヘルム2世は此問題を審議する目的で、歐洲各國の代表者を伯林に召集した。然し此議會は、人の知る如く效を奏する所がなかつた。

是れに反して、1889年巴里の國際社會黨大會に依つて起された8時間勞働日の獲得を目的とする勞働者の國際的行動は、既に世界史的一運動たる意義を獲得するに至つた。國際的勞働者保護を目的とする所の示威運動であるメーデーは、今や事實に於いて國際的戰鬪プロレタリアの堂々たる觀兵式となり祝捷祭となつてゐるのである。

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