第2篇 餘剩價値

第8章 協業

1.資本制度の出發點

嚴密の意味の資本家たるには、單に賃銀勞働者を使用すると云ふだけでは充分でないことは、本篇第5章に述べた通りである。被傭勞働者の造る餘剩價値量が、雇主の爲に、彼れ自ら直接勞働に手を下すことを餘儀なくされずして『身分相應の』収入を確保し、且つ其富を増進せしめ得る程度に達した時、彼れは始めて資本家となるのである。が、これにはギルド手工業の場合に許されるよりも、遙か多人數の勞働者を同時に使用する事が必要である。――『他の生産方法に於けるよりも多人數の勞働者が、同時に、同じ場所で(或は同じ勞働範圍内でと言つてもいい)同一種類の商品を生産する目的を以つて同一なる資本家の命令の下に働くと言ふことは、歴史的にも論理的にも、資本制生産方法の出發點を成すものである。』

2.資本制度の勞働平均化

斯くの如く、資本制生産方法と手工業的生産方法との差異は、最初は單に程度の差に過ぎず、種類の差ではないのである。3臺の織機に對して3人の織布工を使用するか、それとも30臺の同一なる機械に對して30人の織布工を同一の場所で同時に使用するかと云ふことは、最初は單に、後の場合には前の場合に比して10倍の價値及び餘剩價値が造り出されると云ふ結果を齎らすに過ぎないやうに見える。

然しヨリ多人數の勞働者を使用することには、之れ以外の差異も伴はれる。先づ大なる數の法則を、即ち我々の考慮に入る個人の數が少なければ少なきほど、個人的特徴は益々著しく現はれるが、反對に、個人の數が多ければ多きほど、此特徴は益々減退すると云ふ事實を想起せよ。人の平均壽命を知らうとする場合、單に5,6人の壽命からそれを算出しようとすれば、10中8,9迄は錯誤に陷ることゝなるであらう。然し百萬といふやうな多人數の壽命から平均をとれば、先づ問題のない結果が得られるであらう。

同樣に30人を使用する場合よりも、3人を使用する場合に、各勞働者の個人的差異はヨリ著しく現はれて來る。30人の場合には、良き勞働者のヨリ大なる勞働給付と、惡しき勞働者のヨリ小なる勞働給付とが相殺されて、平均勞働が供給される。バークの説に依れば、同時に5人の農僕を使用するとき、既に一切の個人的差異は消滅する故、手當り次第どの5人をとつて働かしても、其勞働給付は一致するとのことである。

ギルド組合員にとつては其勞働者が社會的の平均勞働を給付するか否かと云ふことは、全く偶然の問題であつた。資本家となるに及んで始めて、雇主の運轉する勞働が通常、社會的の平均勞働を代表すると云ふことが可能となるのである。

3.多數者使用の利益

同時に同じ場所で、多數の勞働者を使用すると云ふことには、更らに他の利益も伴はれる。先づ勞働場の造設について、30人の場合には3人の場合に10倍した費用が要ると云ふ譯ではない。又、1萬斤の綿花を入れる倉庫は、1000斤を入れる倉庫に10倍した費用を要するものでもない。隨つて生産物に再現する所の資本部分たる不變資本の價値は、他の條件に變化なき限り、一定の勞働行程に從事する勞働者の數が多ければ多きほど、使用勞働者數との比例をとれば益々減少する譯である。斯くして前貸總資本に對して計算した餘剩價値は益々増大し、同時に又生産物の價値竝びに(前章に攻究した一定事情の下に於いては)勞働力の價値も低減することになる。此場合には、餘剩價値は可變資本の割合に増大する譯である。

4.協業の意義

一定の結果を得る爲に多數の勞働者を同時に同じ場所で使用することは、彼等の計劃的なる共同勞働、換言すれば協業に到らしめる。而して此協業は、新たなる社會的生産力(其組成分子たる個々の生産力の總和よりも大きく、且つそれとは別物である所の)を造り出すものである。

此新たなる生産力は最初より衆合力である。それは、少數の勞働力を以つてしては毫も實行し得ざる、又は不完全にのみ實行し得る多くの勞働行程を可能ならしめる。3人の男が1日掛りで努めても如何ともする事の出來ない大木をも、30人の男ならば易々と瞬く間に揚げてしまふ。協業は、又衆合力を必要としないとは云へ出來る限り多大の勞働給付を小時間内に密集することを必要とするやうな勞働の遂行を可能ならしめる。例へば、穀物収穫の場合における勞働の如き即ちそれである。

又、力の衆合も其時間的乃至空間的密集も共に必要でない所に在つても、協業は有利に作用する。即ちそれは、勞働の生産力を増進するのである。建築の際、煉瓦を足場に揚げる所を見るに、先づ勞働者を一列に連らね、甲から乙、乙から丙へと、順々に渡して行く。此計劃的な共同勞働の結果として、勞働者が一人々々煉瓦を携へて足場を上り下りするのに比べると、煉瓦運搬の速度は非常に高められる。

最後に看のがすべからざることは、人は社會的動物であつて、衆と共に働いてゐると元氣が高まり、功名心や競爭心が發動して來る。即ち社會的勞働は個別的勞働に比べると進行が迅速であり、且つ勞働給付も相對的に大となるのである。

資本制度の下に於いては、多數の勞働力が同一の資本家に依つて購買された場合にのみ、賃銀勞働者は共同的に勞働し得る。而して此購買される勞働力が多ければ多きほど、益々多額の可變資本が必要となり、使用すべき賃銀勞働者の數が増せば増すほど、彼等に依つて使用される原料や道具の量、換言すれば不變資本の必要量もますます大となる譯である。即ち一定の範圍に於ける協業の遂行は、一定量の資本を前提することになる。斯くて今や、一定量の資本と云ふことが資本制生産方法の前提條件となつて來る。

5.資本家の『勞力』

協業は資本制生産方法にのみ特有のものではない。其原始的形態は、既に述べた如く、アメリカ印度人の間にも現はれてゐる。狩獵を行ふ場合に於ける彼等の計劃的な共同勞働が計劃的の指導を要することは、我々の見た所である。かやうな計劃的指導は、如何なる形態の社會的勞働にも必要な條件であるが、資本制生産方法に於いては、此生産の指導といふことが、必然的に資本の一機能となつて來る。マルクスの指摘したる商品生産勞働の二重性なるものは、茲にも亦適用される。既に述べた如く、資本制生産方法の下に於いては、此勞働の二重性に從つて生産行程は勞働行程と價値増殖行程との合一を意味するやうになる。

所で、生産行程を勞働行程として見れば、資本家は即ち生産指導者で、資本家の盡すべき機能は、如何なる社會的勞働行程のもとに於いても多かれ少なかれ必要となる所の機能として現はれる。然し資本制生産行程は、之れを價値増殖行程として見れば、勞働日の説明の際知られた如き勞働と資本との利害對立を根柢に置いてゐる。價値増殖行程を資本家の希望通り無事に進行せしめようとする爲には、勞働者の隷從と資本家の專制支配とが必要になつて來る。然るに價値増殖行程と勞働行程とは、畢竟資本制生産行程といふ同一なる行程の兩面に過ぎない。そこで生産の指導も、勞働者に對する資本家の專制支配も、同一のものとして現はれて來る。而して前者は生産技術上の必要條件であるから、ブルヂォア經濟學者は我々に次の如く語るのである。――勞働に對する資本の支配は事態の性質から割り出された技術上の必要事であつて、生産が社會的性質を有するものである限り、資本の支配を除去すれば、生産それ自體も亦破滅することになる。資本の支配は、文明の自然必然的な前提條件であると。

ロドベルトスも亦、資本家は生産の指導者としては社會の官吏であり、俸給を受ける權利があると言つた。然し生産の指導者といふ事は資本家から見れば必然の惡である。彼等は自ら欲するが故に、生産の指導に携はるのではない。資本の價値増殖上さうせざるを得ないから已むを得ずするのであつて、それは丁度、使用價値を生産せしめ度くはないが、他の方法では價値が得られないから已むなくさうするのと同樣である。だから餘剩價値を減損することなくして生産の指導が避けられるとすれば、彼等は喜んでそれを避けるであらう。彼等の企業が充分に大であるとすれば、彼等は其『官吏としての職』を傭兵たる取締役や事務員等に一任する。彼等は又時折り、生産上の指導を免れる爲に、他の方法を利用する。例へば、19世紀60年代の初期に於ける綿花恐慌の持續中、英國の綿紡業者たちは其工場を閉鎖した。彼等は斯くして綿花取引所で投機をなし、彼處で『俸給』を打出しようとしたのである。資本家は生産指導の報酬を受くべき權利があるとの主張に就いて、思ひ起される事がある。或小僧が一杯に實つた林檎の木を見たが、高塀を越えないでは其處へ行かれない。彼れは林檎欲しさに塀を越えにかゝつた。そして大變な努力の末、やつとそれを越える事が出來た。彼れが今、林檎に夢中になつてゐる所へ、庭の持主がやつて來た。そして貴樣は何の權利を以つて、ひとの林檎を取るのかと聽いた。小僧は答へた。――『私は當然にそれを得たのです。それは塀を越えた骨折仕事の報酬です』と。此小僧は塀を越えないでは林檎に達することが出來ない。それと同樣に、資本家は通常、生産指導者としてのみ餘剩價値に達し得るのである。

6.資本の『生産力』

經濟學書の中に見出される珍説で、いま一つ、茲に駁撃して置かねばならないものがある。それは、斯うである。上段に假定した如く、資本家は各勞働力を價値通りに購買することは事實であるが、然し資本家の購買する總勞働力は、其計劃的の共同作用に於いて一つの新たなる生産力を展開する。即ち各個別々に使用される場合に比して、ヨリ多く生産するのである。資本家は此新たなる生産力の代價を支拂ふものでない。それは勞働力の商品價値とは何等關係する所なく、寧ろ、勞働力の使用價値の一特質を成してゐる。此新たなる生産力は、勞働行程の進行中に、換言すれば商品なる勞働力が資本家の所有に移轉されて資本となつた後に、始めて現はれ來たるものである。そこで資本家及び其代辯者から見れば、勞働生産力の斯くの如き増進は勞働に歸すべきものではなく、資本に歸すべきものであるかの如く見えて來る。『勞働の社會的生産力なるものは、資本にとつては何等の費用をも要せしめず、一方また勞働者の勞働そのものが資本の有に歸する迄は、勞働者に依つて展開されるものでない。そこで此生産力は、資本が本來的に有してゐる所の生産力として現はれる。』

7.原始共産制とギルド制と資本制

協業は前にも述べた如く、資本制生産方法にのみ特有のものではない。社會的、共同的の生産は、人類の搖籃期たる原始共同社會にも、既に現はれてゐた。農業は何處に於いても、最初から共同的に營まれた。土地を個々の家族に割り當てることは、其後に至り始めて行はれたものである。印度人及びアメリカ印度人の間に於ける協業の實例は、既に第1篇に掲げた所である。

商品生産の發達は斯樣な原始的協業を破壞した。商品生産に入ると共に、相互の爲に勞働する人々の範圍が擴大されたことは事實であるが、相互に勞働すると云ふことは本質上なくなつた。それはたゞ、主君の爲にする奴隷や、農奴や、奴僕やの勞働の如き、強制勞働の形を以つて、存在してゐたに過ぎないのである。

自營農業及び手工業的經營の相互隔絶と力の分裂とに對抗して資本が生ずると共に、再び社會的、共同的勞働なる協業が發達し來た。協業は資本制生産方法の基本的形態であり、商品生産の内部に於けるその特殊の歴史的形態である。資本は社會的生産を益々發展せしめようとしてゐる。それは工場的手工業から機械工業へと益々高級の協業を展開せしめる。其目的は要するに餘剩價値を増大せしめることである。資本は斯くして、望まぬながら新たなるヨリ高級な生産形態の路ナラシをすることになる。

手工業的商品生産は、經營の分散と相互隔絶とに立脚するものであるが、資本制商品生産は是れに反し、勞働の統合に、社會的共同的の生産に立脚してゐる。手工業的商品生産は、多數の獨立した小規模商品生産を前提することを常とするものであるが、協業に基く資本制的經營は、寧ろ個々の勞働者に對する資本家の無條件的權威を前提するものである。

第1篇に於いては、二つの實例について原始的の協業竝びに分業を觀察した。我々は又商品生産の發生をも辿つた。今や愈々、商品生産であると同時に又協業的生産である所の資本制的生産方法が展開し來たることを見るのである。

資本制商品生産は經營の集中に依り、換言すれば共同的、社會的なる勞働の組織に依つて手工業的商品生産から區別されるものであるが、それと同樣に又、資本制的協業は資本家の無條件的權威に依つて原始共産的協業から區別される。蓋し資本家なるものは、生産指導者であると同時に又生産機關の所有者であつて、協業的勞働の生産物(それは、原始的協業に於いては、勞働者自身の手に歸したのであるが)は、今や彼れの有に歸することゝなるからである。

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