第3篇 勞銀及び資本収入

第1章 勞銀

(1)勞働力の價格と餘剩價値との分量變化

1.分量變化の三要件

第2篇に於いては、主として餘剩價値の生産を取扱つた。これより先づ、勞銀の法則に論を轉じよう。これが手引きとなり、且つ第2篇より第3篇への推移を意味し、或程度まで此等兩篇に跨つてゐるものは、即ち第2篇で學んだ(1)勞働日の長短(2)勞働の標準的能率、及び(3)勞働の生産力なる三因子の變化に基く、勞働力の價格と餘剩價値との分量變化についての研究である。

此等の三因子は種々樣々に變化し得るもので、或時は其一つだけが、或時は二つ、或時は又三つとも變化し、同一の因子が變化するのにも其程度には差異が生じて來る。然し此等の變化に基く一切の場合を攻究することは、細目に亘り過ぎる嫌ひがある。主要のものさへ分れば、他は若干の熟考に依つて讀者みづから展開せしめ得るであらう。そこで茲には主要のものだけを説明することにする。即ち上記三因子中の各一つが變化して他の二つが不變である場合に、餘剩價値と勞働力の價格との比例的分量の上に生ずる變化を研究するのである。

2.勞働の生産力が變化する場合

勞働日の大さと勞働の能率とが不變であつて、勞働の生産力が變化する場合。勞働の生産力なるものは、一定の時間單位内に産出される生産物の量に影響することは確かであるが、此生産物量の價値の大さに影響を及ぼすものではない。從來は1時間に綿花1斤しか紡績することの出來なかつた綿紡工が、新機械の發見された結果6斤を紡績し得るやうになつたとすれば、彼れは今や1時間に從前に6倍する綿絲を生産する事になるであらうが、其價値には變化がない。然し彼れが紡績勞働に依つて1斤の綿花に附け加へる價値は、今や6分の1に減ずることゝなるのである。此價値低減は、勞働者の生活資料、例へば、彼れの着る衣類の價値に反作用する。その結果勞働力の價値は低減し、それだけ餘剩價値は増大することになる。勞働の生産力が低減した場合には、これと反對の結果が生ずることは言ふ迄もない。

餘剩價値の増減はつねに、それに應當した勞働力の價値増減の結果であつて、決して其原因たるものではない。勞働力の價値の低減に照應して其價格が低減するか何うか、又如何なる程度まで照應して低減するかといふ問題は、種々樣々の事情、就中勞働者階級の反抗力の如何に懸るものである。今、勞働の生産力が増進した結果、1日分の勞働力の價値は3マルクから2マルクに低減し、其價格は2マルク半までしか低減しないと假定しよう。所で勞働者1人の造り出す1日分の餘剩價値も亦3マルクであつたとすれば、勞働力の價格が價値通りに低減する限り、餘剩價値は4マルクに増進しなければならぬ筈であるが、此場合には、資本家にとつて癪なことには3マルク半にしか増進しない。然し又資本家にとつて幸ひなことには、斯樣な場合は滅多に生ずるものでない。これは單に、勞働者の大なる反抗力を前提するのみでなく、又他の二因子たる勞働日の長さと勞働の能率とが不變であることを要する。經濟學者たちは、リカルドに倣つて此等二因子の變化の影響を看落した。以下、此等の變化の各に依つて與へられる影響を考察することにしよう。

3.勞働能率が變化する場合

勞働日と勞働生産力とが不變であつて、勞働の能率が變化する場合。ヨリ能率的に勞働するといふことは、同一の時間にヨリ多くの勞働を支出し、隨つて同一の時間にヨリ多くの價値を造り出すといふことを意味する。若し綿紡工が、勞働生産力の變化に依ることなく、勞働を緊張させた結果として、從前1時間に1斤紡績したものを今や1斤半紡績するやうになつたとすれば、彼れが1時間に造り出す價値も亦從來に比して2分の1だけ増大することになる。即ち從來12時間に6マルクなる價値を造つてゐたものとすれば、今や同一の時間に9マルクなる價値を造ることになるのである。彼れの勞働力の價格は從前3マルクであつて、それが今や4マルクに上つたとしても、餘剩價値は同時に3マルクから5マルクに増進する。隨つて屡々主張される如く、勞働力の價格の増騰なるものは餘剩價値を犠牲としてのみ行はれ得ると見ることは當を得てをらぬ。此見解は前に述べた第一の場合にのみ通用し得るものであつて、茲に掲ぐる第二の場合には通用するものではないのである。

ついでに一言したいことは、此第二の場合に於ける勞働力の價格増騰は、必らずしも價値以上への増騰を意味するものでないといふ事實である。勞働の能率が高まれば、其必然の結果として、勞働力はヨリ急速に磨滅することゝなる譯であるが、勞働力の價格が若し此磨減を補償するに充分の程度を以つて増騰しないとすれば、それは現實に於いて價値以下に低減することゝなるのである。

勞働の能率は、國民に依つて種々異なるものである。『一國民の能率大なる勞働日は、他國民の能率小なる勞働日に比し、ヨリ高き貨幣表章を以つて言ひ現はされる。』

英國の工場に於いては、獨逸の工場に於けるよりも概して勞働日が短い。然し又之れが爲、前者に於ける勞働は遙かに能率的であつて、英國の勞働者は獨逸の勞働者に比してヨリ多くの價値を造り出すのである。マルクスは言ふ。――『歐洲大陸諸國が法律を以つて勞働日を短縮することは、大陸諸國の勞働時間と英國の勞働時間との間に於ける此差異を輕減すべき最確實の手段たるものであらう』と。

4.勞働日の變化する場合

最後に、勞働の生産力と能率とが不變であつて、勞働日が變化する場合。之れは二つの方向に行はれ得る。即ち、

(1)勞働日が短縮される場合。この場合、勞働力の價値は影響を受くるものでない。勞働日の短縮は、餘剩價値を犠牲として行はれるからである。資本家にして若し餘剩價値の減損されることを欲しないとすれば、其場合には、勞働力の價格を價値以下に低減せしむる外はない。標準勞働日に反對する論者は好んで此場合を出動させる。即ち標準勞働日を確立するのはいいが、其代りに賃銀を減らして貰はなければ困るといふのである。然し此論法は勞働の生産力と能力とが不變である場合にのみ通用するものであつて、現實に於いては、勞働時間の短縮なるものは勞働能率及び勞働生産力の増進の原因たるか、結果たるかを常とするのである。

(2)勞働日が延長される場合。此變化の結果が、資本家に頭痛を與へたことは殆んどないのである。勞働日が延長される結果、1勞働日中に産出される生産物量の價値總高と餘剩價値とは増大することになる。尤も勞働日の延長に伴ひ勞働力の價格も増騰し得るものであるが、此場合若し増騰した價格を以つて時間延長に基く勞働力磨滅の増大を償ひ得ないとすれば、前に掲げた勞働能率増進の場合と同樣に、價格増騰は事實上價値以下への低落を意味し得るのである。

以上三つの場合が、眞に純粹の形で現はれることは滅多にない。三因子中の一つに變化が生ずれば、通常また他の二つの上にも、變化が伴はれることになる。マルクスは就中、勞働の能率及び生産力が増進して同時に勞働日が短縮される場合を攻究し、勞働日なるものが抑も如何なる點まで短縮され得るかの限界を明かにした。即ち資本制生産方法の下に於いては、勞働日なるものは勞働者の生存維持に必要なる勞働時間の水準に達するまで短縮され得るものでない。此水準まで短縮されるとすれば、資本制度の基礎たる餘剩價値が除去されることになるからである。

5.資本制度撤廢後の勞働日

資本制生産方法が撤廢された曉には、勞働日を必要勞働時間まで短縮することが可能となるであらう。然し他の事情に變化なき限り、資本制生産方法が撤廢された時、必要勞働時間を延長しようとする欲求が生ずるであらう。なぜならば勞働者の生活要求が増大すると同時に又、今日餘剩價値の負擔に歸せしめられてゐる所の、生産の維持擴張に必要なる基金の蓄積は、必要勞働の領域に歸せしめられることゝなるからである。

然し他方に又、勞働日の短縮と同時に勞働の能率が増進することゝなるであらう。社會的に組織された勞働の制度は、生産機關の節約と不用なる勞働の除去とを齎らすことになるであらう。

『蓋し資本制生産方法は各個の營業の内部に於いては節約を勵行せしめるとはいへ、その無政府的なる競爭制度は、社會的生産機關及び勞働力の無制限的な浪費、竝びに今日でこそ必要缺くべからざるものとなつてはゐるがそれ自體としては不用なる、諸種の機能を造り出すことになるからである。』

マルクスは更らに語を續けて言ふ。――『勞働の能率と生産力とが與へられてゐる時、勞働が社會のあらゆる勞働有能者間に均等に配分され、社會の一部の者が必然避くべからざる勞働の負擔を自己の手から他人の手に轉嫁することが不可能となるに從つて、社會的勞働日中の物質的生産に必要なる部分は益々小となり、隨つて個々人の自由なる精神的、社會的活動のため贏得される時間部分は益々大となる。此方面から見れば勞働日短縮の絶對的限界となるものは、即ち勞働の普遍化である。資本制社會に於いては、一階級の自由な時間は、大衆の生活時間の全部を勞働時間に轉化せしめることに依つて造られるのである。』

(2)勞働力の價格の勞銀化

1.勞働と勞働力

上段に於いては、勞働力の價値及び價格と餘剩價値に對する其關係とを取扱つた。然し勞銀として社會の表面に立つものは、勞働力の價格として現はれるものではなく、寧ろ勞働の價格として現はれる。『勞働者に向つて、「君等の賃銀はいくらか」と聽くならば、彼等の或者は答へて言ふであらう。「自分は勞働日の代價として雇主から1マルク貰つてゐる」と。又或者は「2マルク貰つてゐる」と答へるであらう。要するに、彼等の屬する勞働部門が異なる通りに、彼等が一定の勞働時間又は一定の仕事(例へば1ヤールの麻布を織つたり、1頁の印刷物の植字をしたりするが如き)の代價として受けると主張する貨幣額も異なるであらう。然し彼等の答へる貨幣額は如何に異つても、左の一點については何づれも一致するであらう。即ち勞銀なるものは、一定の勞働時間又は一定の勞働給付の代價として資本家から支拂はれる貨幣額であるといふこと』(『賃銀勞働と資本』)。

商品の價格とは、貨幣に言ひ現はされた其商品の價値の事である。そこで經濟學者たちは考へる。――勞働に價格がある以上は價値もなければならない筈であると。然らば勞働の價値の大さは如何。それは他の總べての商品の價値と同じく、其生産に必要な勞働時間に依つて決定される。然らば12時間の勞働を生産するには、幾許の勞働時間を要するか。12時間を要することは明かである。

今、此前提に從つて勞働の代價が價値一杯に支拂はれるとすれば、勞働者は彼れが生産物に加へただけの價値を賃銀として受けることになる。そこで我々は遂に、餘剩價値の學説を虚僞なるものと認めるか、又は價値説なり、其雙方なりを虚僞なるものと認め、斯くして資本制生産の謎を不可解のものとせねばならぬ羽目に立つ。リカルドに於いて絶頂に達した正統派ブルヂォア經濟學は、此矛盾の爲に難破した。又、近世の生産方法を研究することではなく、それを辯護し粉飾することを任務とした俗學的經濟學は、此矛盾をば極めて美しき錯誤的結論のために利用したのである。

マルクスは從來經濟學者に依つて混同されてゐた勞働と勞働力との間に明確なる區別を立つることに依つて、此等一切の錯誤的結論を無效ならしめたのである。

2.マルクスの創意

1847年には、マルクスはまだ此根本的發見をなしてをらなかつた。『哲學の窮乏』の中でも、又『賃銀勞働と資本』を取扱つた論文の中でも、彼れはまだ勞働の價値について語つてゐた。それが彼れ自身の氣付かない中に勞働力となつたのである。然るに經濟學者たちに至つては、勞働力と勞働との間に於ける此區別の意義を理解する所なく、今日でも尚雙方を混同してゐる有樣である。彼等は兎もすれば、マルクス・ロドベルトス流の價値説について云々するが、ロドベルトスはリカルドの價値説をば、勞働及び勞働力の混同、竝びに其結果たる諸矛盾と一緒に漫然と承け繼いだのである。然るにマルクスは、此點に就いても、又其他の根本的意義ある諸點(これに就いては、價値形成勞働をば社會的に必要なる勞働に局限した事や、一般的の價値造出勞働と、使用價値を造る特殊の勞働とを區別した事などが想起される)に就いても、リカルド價値説から其凡ゆる矛盾を取り除き、此價値説の中から茲に始めて現實的の、缺くる所なき、鞏固に基礎づけられた價値説を造り上げたのである。

マルクスは先づ、勞働なるものは何等の商品でもない事、隨つて又、勞働は、凡ゆる商品價値の源泉であり尺度であるとは言へ、それ自體に於いては何等の商品價値をも有するものでない事を論證した。市場に現はれる者は、勞働力を販賣する所の勞働者である。勞働は勞働力なる商品の消費に依つて生ずるものである。それは丁度、三鞭酒なる商品の消費に依つて、ホロ醉ひ機嫌が造り出されるのと同じである。資本家は三鞭酒を買ふのであつて、三鞭酒から生ずるホロ醉ひ機嫌を買ふのではない。それと同樣に、彼れは勞働力を買ふのであつて、勞働を買ふのではない。

然るに勞働力なるものは、一種特別の商品である。それは消費後に始めて代價を支拂はれる。勞働をした後に始めて、勞働者は賃銀を與へられるのである。

そこで現實的には勞働力が買はれるのであるが、一見勞働の代價が支拂はれるかのやうに觀えて來るのである。勞銀は勞働力の價格として現はれ來たるものではない。それは勞銀として資本家の懷ろから公然の舞臺に出て來る迄の間に、一轉化を遂げる。それは勞働の價格として我々の面前に現はれて來る。

此轉化は抑々如何にして行はれ、如何なる結果を生ずるか。マルクス以前の經濟學者は勞働力の價格と勞働の價格との區別を認識しなかつたので、當然此問題を科學的に攻究することが出來なかつた。マルクスこそ、嚴密に科學的なる勞銀學説をば最初に提供した所の學者である。勞銀の二つの基本形態は、時間賃銀と請負賃銀とである。

(3)時間賃銀

1.勞働の價格の單位

我々の知る如く、勞働力の日價値なるものは、一定事情の下に於いては一定してゐる。假りに勞働力の日價値が2マルク40ペニヒ、通例の勞働日が12時間であるとしよう。此場合にも亦本書の中で別段の斷りなき時つねに假定する如く、一切の商品隨つて勞働力の價値と價格とは相合致するものと假定する。斯くて12時間なる勞働の價格は2マルク40ペニヒに等しく、1時間なる勞働の價格は20ペニヒに等しいものとする。斯樣にして見出される勞働1時間の價格が即ち勞働の價格の單位尺度として役立つのである。

つまり、勞働力の日價値をば通例の勞働日に含まれる勞働時間の數で割れば、勞働の價格が得られることになるのである。

勞働力の價格と日賃銀又は週賃銀とは、種々なる方向に運動し得る。今、勞働時間が12時間から15時間に延長されて、勞働の價格が同時に20ペニヒから18ペニヒに低減したと假定しよう。然る場合、日賃銀は2マルク70ペニヒとなり、勞働の價格は低落したに拘はらず日賃銀は同時に増騰したことになるであらう。

曩に述べた如く、勞働の價格なるものは勞働力の日價値と、通例の勞働日との大小如何に依つて左右されるものである。

2.勞働時間と賃銀

今、非常なる出來事(例へば恐慌の如き)の結果、資本家は商品が賣れなくなつた爲、勞働時間を短縮して從來の半分に相當した時間だけしか勞働させないやうにしたとする。その場合、資本家は勞働の價格をば、それに準じて引き上げるものでない。勞働の價格が20ペニヒであるとすれば、勞働者は6時間勞働の場合には1マルク20ペニヒしか得られないことになる。而も彼れの勞働力の日價値は遙かに高く、曩の假定に依れば2マルク40ペニヒとなる譯である(イ)。

註(イ)勞働の價格は同時に一層低落し得る。然しそれは勞働時間短縮の結果ではなく、勞働力の供給増加其他の現象に基くものであつて、我々は茲にそれ等の現象を取扱ふ必要はない。以上の説明に於いては、資本制生産方法に伴ふ諸現象の根柢が問題となつたのであつて、此等の現象の全景が問題となつたのでないといふことは、此場合絶えず念頭に置くべき事である。

勞働日の延長が勞働者に對する苦痛の源泉となることは、曩に述べた所であるが、茲には又勞働日の暫行的短縮が、同樣なる苦痛の新らしき源泉となることを見るのである。

法律を以つてする勞働日の短縮が問題となる毎に、資本家たちは是れに反對して、憐れなる勞働者に對する同情を出動させるのであるが、其場合、彼等は右の事實から論據を採るのである。彼等は叫んで言ふ。――『さらでだに、我々は15時間勞働の代價として貧弱極まる飢餓賃銀を支拂ふことを餘儀なくされてゐるのだ。然るに諸君は今、勞働時間を10時間に短縮することに依つて、餓ゑたる勞働者から更らに其賃銀の3分の1を奪ひ取らうとするのであるか。其樣な殘忍に對しては、我々は手強く抗議しなければならない』と。

此等の高貴なる人道家は、通例の勞働日が短縮されゝば、勞働の價格が上進することを忘れてゐる。勞働の價格なるものは、勞働力の日價値が大なれば大なる程、又通例の勞働日が小なれば小なる程、ますます大となるのである。勞働日の暫行的短縮は賃銀を低減せしめ、持續的短縮は賃銀を上進せしめる。此事實は就中英國に於いて見られる所である。1860年4月に於ける英國工場監督官の報告に依れば、1839年より1859年に至る20年間に10時間標準勞働日の取締を受くる諸工場の賃銀は昂騰したが、14時間乃至15時間勞働させてゐる諸向上の賃銀は低落した。爾來最近に至る多數の經驗は、以上の原則を論證してゐるのである。

3.勞働日の延長と賃銀

勞働時間の持續的延長は勞働の價格を低減せしめる。反對に、勞働の價格が低廉なるときは、勞働者は僅かばかりの日賃銀をも確保せんが爲に、餘儀なく勞働時間の延長に屈服しなければならなくなる。然るに又、低き勞働價格と、長き勞働時間とは固定する傾向を有してゐる。資本家は利潤を大ならしめんとして賃銀を引下げ、勞働時間を延長する。然し、資本家相互間の競爭は又、終極に於いて、それに應當した程度で諸商品の價格を低下せしめることになる。勞働日の延長と賃銀の節減とに依つて得られた特別利潤は、斯くして消滅に歸するのであるが、諸商品の價格は依然、低廉を維持し、過度なる勞働時間の場合にも、低下した儘の水準に賃銀を止まらしめる所の強制手段として作用するのである。斯くて資本家は永續的の利益を受けないとしても、勞働者の方は永續的不利益を蒙むることになる。而して法律上に於ける標準勞働日の制定は、斯かる成行きに對して手強き制限を與へるものである。

4.時間計算の不條理

標準勞働日には尚、他の有利なる結果が伴はれる。それを以下に述べよう。

或種の勞働部門に於いては、資本家は一定の日賃銀なり週賃銀なりを支拂ふ義務なく、勞働した時間數に應じて賃銀を支拂ふといふ方法が行はれてゐる。この場合、勞働者は終日資本家の支配のもとに立たねばならぬ。然し彼れを過度に勞働させたり、又は少時間しか勞働させなかつたりすることは、資本家の隨意である。然るに勞働の價格なるものは、通例の勞働日の大小に從つて決定されるのであるから、資本家は勞働の『標準價格』を支拂ふことに依つて、勞働力の全價値を支拂はないで、勞働力の全部に對する支配權を確保することになる。此事實は勞働者が標準數よりも少時間勞働せしめられる場合には明かに現はれて來ることであるが、標準數よりも長時間勞働せしめられる場合にも、同樣に當て嵌る所である。

蓋し、各勞働時間に支出される勞働力の價値は、同一なるものでない。勞働日中の最初の時間に支出される勞働力は、最終の時間に支出されるものに比べれば、ヨリ易く恢復され得る。されば最初の時間に支出される勞働力は、10時間又は12時間目に支出されるものに比して、使用價値は遙かに大であり得るとはいへ、價値はヨリ小となるのである。之れがため、多くの經營に於いては、一定限點までの勞働日を『標準的』となし、それ以上に出づる勞働時間を殘外時間となす習慣が、生理上及び經濟學上の見地からではなく、寧ろ原生的に生じて來た。此殘外時間については、ヨリよき(勿論、大抵は滑稽なほどチットばかりではあるが)賃銀が支拂はれてゐるのである。

時間拂ひで勞働者を雇傭する上記の資本家は、此殘外時間につき、ヨリ高き支拂をしないで濟むことになる。

上記の如き種類の『標準勞働日』と殘外時間との區別は、標準勞働日の内部に於ける勞働の價格は標準的の賃銀を代表し、殘外時間については、勞働力の日價値以上に出づる追加賃銀が支拂はれるといふ如き意味に解せらるべきでない。年百年中、殘外勞働を勵行してゐる工場もある。斯樣な工場では『標準的』の賃銀を極めて低くし、勞働者は此賃銀のみを以つてしては生存することが出來ないので、餘儀なく殘外勞働をなさねばならないやうに仕組んである。斯く殘外勞働が常則となつてゐる所では、『標準勞働日』なるものは現實的勞働日の一部に過ぎず、又『標準賃銀』なるものは勞働者の生存維持に必要なる賃銀の一部に過ぎないのである。殘外時間についてヨリよき賃銀を支拂ふといふ事は、勞働者をして勞働日の延長に同意せしむる手段となるに過ぎないことは、屡々見られる所である。而して勞働日の延長は又、曩にも述べた如く勞働の價格の低減を伴ふことになる。標準勞働日なるものは、賃銀節減上の此等一切の操縱に對して、手強き閂を差し込む傾向を有してゐるのである。

(4)請負賃銀

1.請負賃銀は時間賃銀の變形

時間賃銀なるものは勞働力の價値の變化した形態であり、請負賃銀は又、時間賃銀の轉化した形態である。

今、通例の勞働日が12時間、勞働力の日價値が2マルク40ペニヒであるとして、1人の勞働者が一定の物品を日に平均24箇造るものと假定する。(平均的の熟練と能率とを以つてして、1人の勞働者が1勞働日に幾許の仕事をするかといふことは、資本制經營のもとに於いては經驗に依つて直ちに確定される所である)。然る場合、勞働者は1時間當り20ペニヒの割合で計算された日賃銀を以つて雇はれる事も出來るが、又1箇10ペニヒの割合で出來高に應じて賃銀を支拂はれる事も出來る。此後ちの場合に於ける賃銀は即ち請負賃銀である。

要するに、請負賃銀に於いても、時間賃銀に於ける如く、勞働力の日價値と勞働日の通例の大小とが基礎を成すのである。勿論、外觀から判斷すれば、請負賃銀なるものは生産者の功程に依つて決定されるやうに見える。然し此外觀は、勞働の生産力が増進するや否や、それに應じて請負賃銀が引下げられるといふ事實を知るとき、消滅してしまふのである。例へば機械が改善された結果、1人の勞働者が上例の物品1箇を造るのに、もはや平均して半時間を要することなく、15分しか要しないやうになつたとすれば、他の事情に變化なき限り、資本家はもはや1箇當り10ペニヒを支拂ふことなく、5ペニヒしか支拂はぬことになるであらう。

2.請負賃銀と資本家の利益

然るにこんな場合(それは勞働者の事に關係した何人にもよく知られてゐる事實であらうが)がしばしば生じて來る。即ち個々の勞働者なり一組の勞働者なりが、僥倖にも非常に多量の生産物を造り出す事があるとすれば、斯かる特殊の場合をも考慮に入れて契約された請負賃銀は、賃銀總額が通例の賃銀水準を餘りに超過するといふ口實を以つて勝手に切り縮められる。請負賃銀なるものは時間賃銀の轉化した形態に過ぎないものであつて、轉化せざる時間賃銀よりも資本家にとつて有利であると考へられた場合にのみ、それが自發的に應用されるといふ事實を、之れほど明瞭に示すものはない。

概して言へば、請負賃銀は資本家の爲に大なる利益を齎らすものである。時間賃銀なる形態を以つてするとき、資本家は供給された勞働量といふ方面から勞働力の代價を支拂ふのであるが、請負賃銀なる形態を以つてするときは、生産物の方面から勞働力の代價を支拂ふことになる。されば請負賃銀を以つてするとき、勞働者は自己の利益上、外部からの刺戟に依らずして、各時間に出來得る限り多量の生産物を供給することになるといふ結果を期待し得る。勞働者が果して平均品質の生産物を造つたか何うかは、時間賃銀の場合よりも遙か容易に確め得る。生産物に些かの瑕疵でもあると、それは賃銀を削減し、時には又勞働者に對して全く詐僞を行ふ事の原因(寧ろ大抵は單なる口實)とされる。

されば請負賃銀の場合には、資本家及び其代理者が勞働者に對してなす監視は大抵不用に歸してしまひ、資本家は此方面の勞力と費用とを節約する事になる。しかのみならず、或種の産業部門について言へば、請負賃銀なるものは勞働者が自宅で勞働することを可能ならしめる。これがため資本家は設備及び經營上に於ける(即ち燃料、點燈、地代等に關する)多額の費用を節約し、他の場合固定することになるべき資本の一部を利用し得るやうになる。更らに家内勞働が普及してゐる諸種の産業、例へば裁縫業や、製靴業などに於いては、次の如き現象が生じて來る。即ち此等の産業に於ける職人は、自宅で勞働せず親方の作業場で勞働することがあるのであるが、斯かる場合彼等は其場所と勞働用の附屬品とについて賃料を要求されるのである。要するに、勞働者は主人の監視の下に膏血を絞らせ得ることの滿足をば、特別に高い代價で購はねばならぬわけである。

3.請負賃銀は勞働者に不利

請負賃銀制度の下に於いては、勞働者は自己の利益の立場から、出來得る限り其日賃銀なり週賃銀なりを大ならしむる目的を以つて、出來得る限り能率的に長時間勞働するやうになる。彼等は過度の勞働が單に自己の身體を破壞するのみでなく(諺に曰く、請負勞働は殺人勞働であると)、又、勞働の價格をも低減せしめんとするものである事を見ない。縱しそれを見たにしても、勞働者相互間の競爭の必然律から脱却することは出來ぬのである。勞働者相互間の斯かる競爭と、請負勞働に依つて與へられる自由獨立の外觀と、又しばしば勞働者相互の孤立(家内勞働の場合)とは、彼等の團合組織と一致的行動とを極めて困難ならしめる。

而して請負賃銀制度が勞働者に與へる不利益には、尚これ以外のものがある。例へばそれは、勞働者と資本家との間に立ち資本家が勞働者に支拂ふ賃銀の中から少なからぬ部分を取り去ることに依つて生活する所の寄生者を介在せしめる。それは更らに、次の事實をも可能ならしめる。即ち組みになつた勞働者に依つて勞働がなされる所では、資本家は一定の單價で生産物の供給を受けるといふ契約を各組の頭株の者との間にだけ締結し、部下の勞働者に對する支拂は彼等頭株の者の自由裁量に任せるといふ事である。斯くて『資本に依る勞働者の搾取は、此場合勞働者に依る勞働者の搾取を通して實現されることになる。』

請負賃銀は、勞働者から見れば不利であるが、資本家から見れば有利である。又、それは資本制生産方法に應當した賃銀形態であつて、ギルド手工業のもとには毫も知られてをらなかつた所のものである。工場的手工業の時代に、それは始めてヨリ大規模に應用されることゝなつた。而して大工業の勃興期に於いては、それは勞働時間の延長と勞働價格の削減とを齎らすべき最重要なる槓桿の一つとして役立つたのである。

(5)勞銀の國民的差異

1.絶對的賃銀と相對的賃銀

勞働の價値及び價格と、餘剩價値に對する其比例とに就いて生ずる各種の場合が、勞働日の大小竝びに勞働の能率及び生産力の變化に依つて左右される事は、曩に見た通りである。此運動と同時に又、いま一つそれと錯交する所の運動が、勞働力の價格の實現されてゆく生活資料の分量の上に行はれる。而して此等一切の變化は又、勞働力價格の轉化したる形態である勞銀の上に生ずる變化の條件となるものである。

斯くて一國の勞銀は不斷に運動し、時に應じて種々異なるもとのなるのである。而して此時間的差異は又、空間的の差異をも伴ふものであつて、米國の賃銀が獨逸の賃銀よりも高く、獨逸の賃銀が波蘭の賃銀よりも高いことは、周知の事實である。

然し各國民の賃銀を比較することは、必らずしも單純な業でない。マルクスは言ふ。――『國民的勞銀を比較するに當つては、勞働力の價値大小に於ける變化を決定する一切の要因――自然的竝びに歴史的に發達した第一次生活必需品の價格及び範圍や、勞働者の教育費や、婦人及び幼年勞働の演ずる役割や、勞働の生産力や、勞働の時間的竝びに能率的大小などを考慮する事が必要になつて來る。極めて皮相的な比較に於いてさへも、先づ相異なつた國々の同一産業に對する平均的の日賃銀をば同じ大さの勞働日に約元せねばならない。而して諸種の日賃銀を斯く平均化したる後、更らに、時間賃銀をば、請負賃銀に換算することが必要である。蓋し請負賃銀のみが、勞働の生産力竝びに能率程度の分度器となるからである。』

一國民に於ける勞働の絶對的價格は比較的極めて高く、而も相對的の勞銀(換言すれば、餘剩價値又は總生産物の價値と比較したる勞働價格)竝びに實質賃銀(換言すれば、賃銀を以つて購買し得る生活資料の量)は同時に極めて低い場合があり得る。

2.賃銀の高い國と低い國

資本制生産方法がヨリ發達した國々に於ける勞働の生産力及び能率は、其發達の遲れた國々に於けるよりも大である。而も世界市場に於いては、生産力のヨリ大なる國民的勞働は、能率のヨリ大なる國民的勞働と同樣に、ヨリ大なる價値を造り出すものと見做されてゐる。

露國の綿紡工は榮養不足、發達不充分にして、過度に勞働せしめられ、而も其使用する機械は極めて不良のものであつて、1時間に平均1斤の綿花を紡績するに過ぎないが、反對に英國の綿紡工は、1時間に平均6斤を紡績すると假定する。この場合、露國製の綿絲1斤は、世界市場に於いては英國製の1斤よりも大なる價値を有するものとはならないであらう。要するに、英國の紡績勞働は露國の紡績勞働に比し、同一時間にヨリ多くの價値を造り出す譯であつて、同一時間に造り出される紡績勞働の生産物の價値は、英國に於いては露國に於けるよりも多額の金に體化されることゝなるのである。されば資本制度の發達した一國に於ける賃銀の貨幣表章は、資本制度の發達せざる國に於けるそれよりも高くして、而も餘剩價値に比較せる勞働價格は遙かに低いといふ結果が生じ得る。資本制度の發達した國に於ける總生産物の價値は、ヨリ大となるからである。

然し又、勞働の生産力がヨリ大なる國に在つては、貨幣の價値はヨリ小である。されば斯かる國に於いては、勞働力の價格はヨリ大であつて、勞働者はヨリ大なる賃銀を得るとはいへ、それを以つてヨリ多くの生活資料を購買し得るとは限らぬ場合が生じ得る。英國の企業者は自國外の大企業、例へば亞細亞に於ける鐵道敷設の如きに、其地の安價なる勞働者と竝んで又高價なる本國の勞働者をも使用せざるを得なかつた。表面最も高價なるかの如く見ゆる勞働も、現實的には、其功程及び餘剩價値の割合に最も安價なる勞働となることは、斯かる場合の經驗が教ふる所である。

露國の工業は極めて貧弱なる賃銀と無制限なる勞働搾取とを特徴とするものであつて、保護税の助けに依つてのみ僅かに餘命を繋いでゐるのである。反對に英國の工業に於いては、賃銀は相對的に大、勞働時間は小であつて、婦人及び兒童勞働には幾多の制限が加へられてをり、保健規則其他が勵行されてゐるのであつて、露國の工業は到底これと競爭し得るものではない。露國勞働の貨幣表章たる絶對的價格は低いのであるが、世界市場に於ける生産物の價格に比較した相對的價格は寧ろ高いのである。

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