第3篇 勞銀及び資本収入

第5章 過剩人口

(1)『賃銀の鐵則』

1.マルサス説

勞働者は其『輕率なる習慣』の結果、利用し得べき生活資料の量(ヨリ嚴密に言へば可變資本)の増加可能率よりも急速の率を以つて増殖するとは、マルサス論者の定説として人のよく知る所である。斯くして過剩人口が生じ、資本家に依つて雇傭され得る所よりも多數の勞働者が資本家の下に職を求めることになる。そこで勞働者の増殖を制限しない限り、失業飢餓及びそれより生ずる一切の罪惡竝びに悲慘は、勞働者階級中の少なくとも一部の者にとつては必然免れ難き運命となると。マルサス論者は、實に斯く主張するのである。

そこで我々はマルクスの教ふる所に從ひ、資本の増殖と勞働者階級の増殖との間に於ける相互關係が、現實上に如何なる形を採るかを研究することにしよう。

2.資本の組成

マルクスは言ふ。――『此研究に於ける最も重要なる因子は、資本の組成竝びにそれが蓄積行程の進行中に受くる變化である。』

而して『資本の組成は二重の意義に解すべきである。價値の方面から觀察すれば、それは資本が不變資本即ち生産機關の價値と、可變資本即ち勞働力の價値(換言すれば勞働賃銀の總額)とに分割される比例に依つて定まる。生産行程の内部に作用する素材の方面から觀察すれば、總べての資本は生産機關と生きた勞働力とに分別される。此組成は一方に於ける使用生産機關と他方に於ける其使用に必要なる勞働量との間の比例に依つて決定される。私は前者を資本の價値組成と名づけ、後者を技術的組成と名づける。此雙方の間には密接な交互關係が存在してゐる。私は之れを言ひ現はす爲に、資本の技術的組成に依つて決定され其諸變化を反映するといふ方面から見た資本の價値組成をば、資本の有機的組成と名づける。私が簡單に資本の組成と言ふ時には、いつも此有機的組成を指すのである。』

此有機的組成は、相異つた個別的資本に就いて言へば相異つたものとなつて來るのである。以下の説明に於いては、一國に於ける社會的資本の平均組成を假定する。

以上の前置を以つて、之れより主題の研究に入らう。先づ最も單純なる場合を考へて見る。それは資本の組成に變化なくして蓄積の行はれる場合である。換言すれば、一定の生産機關を運轉するに方り、つねに同一量の勞働力を要する場合である。今、説明のため10萬マルクなる一資本を假定し、其4分の3は不變資本、4分の1は可變資本より成るものとする。若し餘剩價値の中から2萬マルクだけを原資本に追加するとすれば、此追加資本も亦、右の前提に從へば原資本と同一の比例を以つて分割され、總資本は今や9萬マルクの不變資本と3萬マルクの可變資本とから成ることになる。可變資本は不變資本と同一の比例を以つて増大した。即ちいづれも2割の増大を來たしたことになるのである。然し此新たなる追加資本の價値を増殖せしむるには、追加的の勞働力が必要である。當面の場合で言へば、蓄積せらるべき2萬マルクといふ餘剩價値は、利用し得べき賃銀勞働者の數が2割方増殖した場合にのみ、資本となり得るのである。

3.蓄積と勞銀との關係

資本の組成に變化なきとき、賃銀勞働者が資本ほど急速に増殖しないとすれば、勞働者に對する需要は供給よりも急速に増大して賃銀は増騰することになる。

マルサス論者が『社會問題解決』策として勞働者の増殖に制限を加ふべきことを主張するとき正に此場合を念頭に置いてゐるのである。彼等はこれに就いて先づ、資本關係(即ち資本家對勞働者の關係)なるものが賃銀の昂騰に依つて廢除されるものでないことを看過してゐる。而も資本の蓄積とは、要するに資本關係のヨリ大規模なる再生産といふ事に外ならないのであつて、それは一方に於ける資本と餘剩價値量(即ち不拂勞働量)との増大、他方に於けるプロレタリアの増殖を意味するものである。

資本の蓄積が勞働の價格を昂騰せしむる場合についても、斯くの如き結果はプロレタリアが同時に増殖することなく、換言すれば資本の支配範圍が擴大されることなくして、生じ得るものでない。

賃銀なるものは、餘剩價値それ自身を危險ならしむる程度まで、昇騰し得るものでない。資本制生産方法の下に於いては、勞働力の需要なるものは、自己を増殖せしめんとする資本の欲望、換言すれば、餘剩價値を生産せんとする資本の欲望に依つて喚び起されるものである。されば資本は決して、餘剩價値の生産を不可能ならしむる價格で勞働力を購買することはないであらう。

資本の蓄積に依つて、勞銀が昂騰するとすれば、斯かる場合には二重の現象が可能である。其一は、勞働の價格が昂騰しても、蓄積の進行はそれが爲に妨害されないといふ事である。蓋し餘剩價値の率は低下しても、其量は蓄積の結果同樣に増大し得るからである。『此場合には不拂勞働の減少は決して資本支配の擴大を侵害するものでないことは明かである。』いま一つの場合は、『利得の刺戟が鈍る結果』蓄積が衰へるといふ事である。此場合には、蓄積は減退することになるが、然しそれと同時にまた賃銀を増騰せしむる原因も減退する。斯くて賃銀は、資本の價値増殖慾を滿足せしむる程度まで低減することになる。要するに、『資本制生産方法の機構は、それが一時的に造り出した障碍をみづから除去するものである。』

我々は其處に、支拂勞働(必要勞働)と不拂勞働(餘剩勞働)との間に於ける特殊の交互作用を見る。『勞働者階級に依つて供給せられ資本家階級に依つて蓄積される不拂勞働の分量が、單に支拂勞働の異常なる追加に依つてのみ資本家し得るに過ぎぬほど充分急速に増大する時は、賃銀が昂騰し、他の事情に變化なき限り、不拂勞働はそれに比例して減少する。然し乍ら此減少が進んで、資本を養ふ餘剩勞働が最早標準的分量を以つては提供されなくなる限點に觸れるや否や、一の反動作用が生じて來る。即ち収入中の資本化される部分は減少し、蓄積は弛滯して、賃銀の昂騰運動は阻止されることになるのである。斯くて勞働價格の昂騰は、資本制度の根本に抵觸せざるのみか、更らに擴大した規模に於ける再生産をも確保する限界内に拘束されてゐることになる。』

4.資本主義經濟學の地球中心説

資本蓄積上の變動は斯く賃銀を一定の限界内に拘束するものであるが、此變動はブルヂォア經濟學者たちから見れば、雇傭されることを供給しつゝある賃銀勞働者の量に於ける變動として現はれる。要するに彼等は、太陽が地球の周圍を回轉するのであつて、地球は靜止してゐると信ずる人々と同樣な錯誤に陷つてゐるのである(イ)。即ち資本の蓄積が緩慢になると、それは恰も勞働者の人口が他の場合に於けるよりも急速に増殖したことであるかのやうに見え、反對に蓄積が急速に進むと、それは恰も勞働者の人口が減少したことか、又は其増殖が緩慢になつたことであるかのやうに見えて來る。實際のところ(讀者諸君は大抵熟知されてゐるであらう如く)賃銀が一定の限界を超えない範圍内で増減するといふ現象、即ち『賃銀の鐵則』と稱せらるゝものは、次ぎの論據を以つて主張されてゐる。即ち賃銀が昂騰すれば、之れがため勞働者の人口は急速に増殖して、勞働の供給を大ならしむる結果、賃銀は低落することになり、又賃銀が低落すれば、勞働者階級の窮乏と死亡とは増大して、勞働力の供給は減少し、斯くして賃銀は再昂騰することになるといふのである。

註(イ)マルクスは言ふ。――『斯くて産業循環の恐慌期に於いては、物價の一般的低落は、相對的貨幣價値の昂騰として言ひ現はされ、好景氣の時には、物價の一般的昂騰は相對的貨幣價値の低落として言ひ現はされる。此事實に基いて、所謂通貨學派の人々は、物價騰貴の際には貨幣の流通が過少であり、物價下落の際には貨幣の流通が過大であると結論する。事實に對する彼等の無知と、全くの錯誤的解釋とは正に、上記の蓄積現象を説明して、一方の場合には賃銀勞働者の數少なきに過ぎ、他方の場合には賃銀勞働者の數多きに過ぐとなす經濟學者の愚に比すべきものである。

然し何人も知る如く、賃銀なるものは、一代の勞働者から、次の代の勞働者へと變動してゆくものでなく、それよりも遙か短小の期間内に變動するといふ單純の事實に依つても既でに、右の論據は否定されるのである。此問題に就いては尚論述する。

(2)産業上の豫備軍

1.生産力の増進と資本組成の變化

以上の説明に於いては、資本の組織に變化なくして蓄積が行はれると假定した。然し資本組成の變化なるものは、蓄積の進行中時々生じて來るのである。

資本の技術的組成は、勞働生産力の上に生ずる各變化に依つて影響される。他の事情に變化なしとして、1人の勞働者が生産物に轉化せしむる生産機關の量は、彼れの勞働生産力が進むにつれて増大する。彼れに依つて加工される原料の量も、彼れに依つて使用される勞働要具其他の物も、皆な増大するのである。即ち勞働の生産力が進むにつれて、生産機關の量はそれに合體される勞働力に比し増大するものであつて、之れを異つた言葉でいへば、充用勞働の量は、それに依つて運轉される生産機關の量に比して減少するといふことになる。

資本の技術的組成に於ける斯くの如き變化は、價値組成の上にも反映する。即ち此場合に就いて言へば、それは可變資本部分の相對的減少、不變資本部分の相對的増大として現はれることになるのである。然し資本の價値組成に於ける變化は、技術的組成に於ける變化と必ずしも嚴密に一致するものではない。なぜならば、勞働の生産力が増進するとき、勞働に依つて利用される生産機關の量が増大するは言ふ迄もないが、一方に其價値は低減することになるからである。尤も此價値低減の率は量の増大する率よりも小である。例へば18世紀の初め紡績業に投ぜられた資本價値は、可變部分と不變部分と殆んど相半ばする有樣であつた。然るに今日、1人の紡績工が同一の勞働支出を以つて取扱ふ原料、勞働要具其他の物の量は、當時に比して數100倍の大さに上つてゐる。而も不變資本と可變資本との間の價値比例は、それほど著しくは變化してをらない。即ち今日の紡績業に於ける不變資本對可變資本の價値比例は、恐らく6對1の割合であらう。

が、何づれにしても、資本制生産方法の下に於ける勞働生産力の増進は、可變資本の相對的減少を意味するものである。

2.勞働生産力と資本蓄積との相互關係

所で、勞働生産力と資本の蓄積とは、密接なる交互關係に立つてゐる。

元來、商品生産なるものは、生産機關が個々人の私有に屬することを條件とするものである。然るに勞働の社會的生産力の發達は、大規模の協業、換言すれば廣大なる勞働場や多量の原料及び勞働要具などを前提する。而して個々人の手に斯く巨大なる生産機關が所有される事は、商品生産の支配下に於いては個々の資本が、充分の量に蓄積された場合にのみ可能である。『商品生産の地盤は、資本制形態のもとにのみ、大規模なる生産を負擔し得るものである。』されば資本の蓄積が一定の程度に達することは、勞働の生産力を一定の程度に達せしむる前提條件となるのである。然るに又、勞働の生産力を増進せしむる一切の方法は、資本制生産方法のもとに於いては餘剩價値の生産を増進せしむる方法となり、隨つて蓄積の増進を可能ならしむるものとなる。而して蓄積の増進は又、生産の規模を擴大し、生産規模の擴大は更らに、勞働の生産力を増進せしむる最有力な刺戟となる。要するに、資本の蓄積と勞働の生産力とは、相互助長的に益々發達するのである。

蓄積が個別的資本の増大に及ぼす影響は、それと同時に舊來の資本が(例へば遺産分割の爲に)分割されて、新たなる獨立資本が分生するといふ事實に依つて、對抗作用を受ける。然し蓄積が受くる斯くの如き對抗作用は、既成諸資本の集中即ち合同(就中、大資本が小資本を吸収する結果として喚び起される如き)に依つて優に償はれるものである。而して此集中も亦蓄積と同樣に生産力の増進を、資本の技術的組成に於ける變化を齎らすことになる。他方に蓄積は集中を促進し、集中は又蓄積を助長する。ヨリ大なる資本を蓄積すればするほど、競爭戰に於いて小資本を征服し吸収することは益々容易となり、一の資本が多數の小資本を吸収すればするほど、此一資本に依つて運轉される勞働の生産力は益々大となり、蓄積も亦益々大となるのである。

而も巨大の資本量が小數の人の手に集中する結果、既に資本制生産方法の支配下に在る勞働諸部門に於ける生産力が増進せしめられるのみでなく、更らに大工業の範圍から驅逐された幾多の小資本は、資本制經營が尚未だ鞏固なる地歩を占め、而して小資本にも尚競爭能力の餘地が存してゐる所の勞働諸部門に押し遣られて、行々は此等の産業部門をも資本主義の領域に引き入れる道ナラシをすることになる。

3.資本集中と可變資本

斯くて我々は、資本制生産方法なるものが、不變資本の累進的増大、可變資本の相對的縮小を齎らす不斷の技術的革命の中に在ることを認める。

而も可變資本の相對的縮小は、蓄積とは比較にならぬ急速力を以つて前進するものである。蓄積の進行中新たに生ずる資本は、其大さに比し益々少數の追加勞働者を雇傭するのみでなく、蓄積と同時に又、舊資本の革命が行はれる。一つの機械が磨滅し盡されたとき、其間に生産技術の進歩が行はれるとすれば、從前に等しい機械ではなく、ヨリ優良なる新機械がそれに取つて代はる。此新たなる機械の充用に依つて、同じ1人の勞働者は從前に比し、ヨリ多くの生産物を供給し得るのである。即ち舊來の資本は生産力の益々大なる資本として再生産されることになるのであつて、これがため解傭勞働者の數は益々多くなつて來る。

集中は實に、舊資本の斯かる轉化を生ぜしむべき最有力なる槓杆の一つである。

舊資本の集中竝びに技術的革命が急速に進行すればするほど、斯かる場合雇傭勞働者の數を減ぜしめない爲には、新たなる資本の蓄積を益々急速ならしむる必要がある。然るに又、蓄積の進行が急速なればなる程、集中竝びに技術的革命が益々促進されることになるのである。

4.マルサス説の正體

マルサス論者は我々に語つて言ふ。――『過剩人口』なるものゝ生ずる所以は、生活資料(嚴密に言へば可變資本)が1―2―3―4―5………なる算術級數を以つて増大するとき、人口は1―2―4―8―16……なる幾何級數を以つて増殖せんとしてゐる事にある。即ち人口の増殖は常に生活資料の増大よりも先きに出てゐるのであつて、其自然的結果は即ち罪惡と窮乏とである。

けれども現實に於いて級數的に前進するものは總資本の増進と同時に行はれる可變資本の縮小である。即ち可變資本が最初總資本の2分の1であつたとすれば、それは次第に2分の1から3分の1―4分の1―5分の1―6分の1といふ風に減じて行くのである。

『總資本が増大するに從つてヨリ急激に促進される可變資本部分の斯かる相對的縮小は、寧ろ反對に、勞働者の雇傭手段たる可變資本よりも一層急激に進行するところの、勞働者人口の絶對的増殖であるかのやうに見える。然るに實際は寧ろ、資本制蓄積なるものは、相對的に(即ち資本の平均的價値増殖慾に比べて)多過ぎるところの、隨つて餘分又は過剩たるべき勞働者人口をば、自己の能力及び範圍に比例して絶えず生産してゐるのである。』

社會的總資本の組成に於ける變化は、各部一律に行はれるものではない。或場合には、蓄積は先づ與へられたる技術的基礎を變化せしむることなくして資本を増加せしめる。此場合には、資本は其増加に比例して追加勞働力を取り入れることになるのである。又或場合には、資本の絶對量が増大することなく、單に舊來の資本がヨリ生産的な形態に再生産される結果、組成上に變化が生じて來る。此場合には、被傭勞働者の數が相對的にも絶對的にも減少することゝなる。此等の極端的な兩場合の間に、尚、蓄積と集中と舊資本のヨリ生産的なる形態への轉化との累合的相互作用に基く無數の異つた場合が生じて來る。而して此等のものは、いづれも勞働者の直接の解雇か、『又は、追加勞働者人口を其常例の排水溝に吸収し難くなるといふ、右の場合ほど著しくはないが效果は劣らざる結果を』喚び起すことになるのである。勞働者人口は斯くの如く、或は吸引され、或は反撥されて、不斷の流動状態のもとに置かれる。而して此運動は、資本の組成上に於ける變化が急速なればなるほど、勞働の生産力が大となり、資本の蓄積が強くなればなるほど、ますます急激となるものである。

5.勞働者人口の絶對的減少

マルクスは、幾多の生産部門に於ける被傭勞働者數の相對的(又しばしば絶對的)減少を示す諸種の證據を英吉利の國勢調査から採用してゐるが、茲にはヨリ最新の調査から、生産の擴張と同時に被傭勞働者數が絶對的に減少する事實を示す二つの例證を引用することにする。

其一は、1861年より1871年に至る大英國の木綿製造業に關するものであつて、次の如き數字を示してゐる。

1861年1871年
工場數28872482
紡錘數3038746734695221
蒸氣機織數399992440676
職工數456646450087

即ち、被傭勞働者數が減少すると同時に、工場の數も減少して、紡錘及び機械織機の數は増大したことが認められる。之れ即ち、資本の集中及び蓄積を示すものである。

1895年より1904年に至る間、英國に於ける木綿消費は15億5000萬斤より17億萬斤に増大したが、それと同時に木綿工場に雇傭される勞働者の數は53萬9000人から52萬3000人に減少した。

獨逸に於ける織物製造業の多くの部門も亦、右に類似せる、勞働者數の著しき減少といふ光景を示すものであるが、それは小工業にのみ限られてゐる。大工業及び其勞働者は寧ろ殖えてゐる。即ち勞働者の遊離と同時に、資本が著しく集中され蓄積されたことを示すのである。例へば、獨逸帝國の絹物機織業に於ける状態は次の如くである。

1882年1895年1897年増減
小經營
(職工六人以下)
經營數3950016527827231228(減)
職工數57782204841282344959(減)
中經營
(職工六人以上五十人迄)
經營數41219234666(減)
職工數490234695650748(増)
大經營
(職工五十人以上)
經營數69140240171(増)
職工數13580321294871935139(増)

リンネル機織業に於ても同樣である。即ち

1882年1895年1897年増減
小經營
(職工六人以下)
經營數71915340821427557640(減)
職工數91039432281894972090(減)
中經營
(職工六人以上五十人迄)
經營數404291265139(減)
職工數52264598521412(減)
大經營
(職工五十人以上)
經營數73120180107(増)
職工數7543199662817720634(増)

以上の兩機織業に於ける勞働者の數は25年間に6萬540人の減少を來たした。而も此減少は小經營の減退にのみ基くものであつて、兩生産部門に於ける小經營は8萬8868即ち8割の減少を示してゐる。同時に其勞働者數は11萬6959人の減少を來たした。反對に大經營は、142から420に増加した。即ち約4倍の増加を見た譯である。而して其勞働者數は、2萬1123人から7萬6896人に増加した。即ち3倍強の増加を來たしたのである。

6.蓄積の増進と勞働日の延長

以上の説明に於いては、可變資本の増減が被傭勞働者數の増減と正確に一致するものと假定したのであるが、事實は必ずしも此假定通りにはなつてをらない。勞働の價格に變化なきときは勞働時間を延長すれば、ヨリ以上の賃銀を支出することになるであらう。即ちヨリ多くの勞働者を雇解することを必要とせずして、可變資本は増大することになるのである。しかのみならず、可變資本の増大と同時に、勞働者は却つて減少する場合も生じ得る。

今、或る企業家が1000人の勞働者を使用し、而して勞働日は10時間、1日の勞銀は2マルクであると假定する。彼れは此經營に追加資本を投じようとしてゐる。それは營業の場所を擴張し、新たなる機械を据ゑつけ、ヨリ多くの勞働者を雇入れるといふ方法でもなし得るが、此追加資本がヨリ多くの原料の購買に役立つことを要しない限り、既傭勞働者の勞働時間を延長するといふ形に之れを充用することも出來る。假りに此勞働時間が5時間延長され、而して勞働の價格には變化が生じないとする。然る場合には、1日の賃銀は3マルクとなり、可變資本は(他の條件に變化なき限り)勞働者の數が増加せずして5割の増大を來たしたことになる。ヨリ多くの勞働者を雇傭することに依るよりも、寧ろ勞働時間の延長なり勞働能率の増進なりに依つて、勞働の増加を得ることは、如何なる資本家にとつても有利とされてゐる。蓋し資本家の支出すべき不變資本の額は、後の場合に於いては遙かに緩慢の速度を以つて増大されることになるからである。而して此利益は、生産の規模が大となるに從つて、益々強くなる。隨つて其力は、資本の蓄積が進むにつれて増大することゝなるのである。

例へば、勞働者の使用する勞働要具が2マルクに價する鋤であるといふやうな場合には、企業家は、勞働者の數を適當に増加せしめることに依つて勞働の増加を得ることに、甚しく反對するものではないであらう。所が、10萬マルクにも價する機械を勞働者が使用するといふやうな場合にはさうでない。

然るに資本の蓄積が進むにつれて、勞働者の數を適當に増加せしめずして勞働の増加を得ようとする資本家の努力が甚だしくなるのみでなく、同時に又、此傾向に反抗すべき勞働者階級の力が、減退するといふ結果も生じて來る。蓋し資本の蓄積に依つて過剩とならしめられた勞働者たちは、其競爭に依つて、就業勞働者の反抗力を減退せしめることになるからである。之れがため就業勞働者は過度の勞働に服することを餘儀なくされる。而して過度の勞働は又、過剩勞働者の隊列を膨大ならしめる。斯くして一方の失業と他方の過度勞働とは、互ひに相須つものとなるのである。

7.勞働階級再生産期間の短縮

斯くの如く、資本の蓄積なるものは、其隨伴現象たり結果たる資本の集中、舊資本の技術的革命、過度の勞働等と相協力して、充用總資本に比し、時には又絶對的にも、雇傭勞働者の數を減少せしめようとする傾向を有してゐることを、我々は認めるのである。

それと同時に又、資本の蓄積は職を求むる勞働者、即ち資本の支配に屬する勞働者の數をば、一般人口の増殖率を遙かに超過した率で増殖せしめるものである。

工業的手工業、更らに著しくは近世の大工業が、其發達の進行中如何に修練ある勞働者に換ふるに修練なき勞働者を以つてしたかは、第2篇に叙べた所である。即ち勞働者の修練期間は最低の限度まで切り縮められた。彼れは夙くから資本に依つて使用さるべき地位に置かれ、彼れの再生産に要する期間は短縮されることゝなつた。同時に又、成年男子勞働者が、婦人及び兒童に依つて無用とされるやうになつた勞働部門も少なくない。斯くして勞働者軍が直接に著しく膨大することゝなるのみでなく、又少年少女の經濟的獨立や、彼等の共同勞役や、夙くから兒童に共稼ぎさせ得るやうにする目的などのため、早婚が助長されて、之れまた勞働者階級の再生産期間を短縮することになる。

8.田舎より都會へ

資本制生産方法が農業に侵入するや否や、勞働者軍を急激に膨大せしむべき更らに有力なる原因が作用し始める。農業に於いては、生産力の増進なるものは最初より雇傭勞働者數の相對的減少のみでなく又絶對的減少をも喚び起す。大英國に於ける農業勞働者數は、1861年には221萬449人であつたが、1871年にはそれが151萬4601人に減じた。即ち約70萬人の減少を來たした譯である。斯く『過剩』にされた人々の中には、國外に移住したものもあるが、然らざる限り彼等は工業地方に流れ込み、彼處に於いて資本家に職を求める所の勞働者軍を膨大ならしめる。

最後に尚、鐵道及び汽船の影響を忘れてはならない。蓋し此等のものに依つて、資本は産業の後れた土地から新たなる勞働者群(愛蘭人や、スロワツク人や、伊太利人や、支那人や、日本人などの)を吸引し得るやうになるからである。

斯くの如く、勞働者人口は非常なる急速力を以つて(使用すべき勞働力を求むる資本の慾望よりも一層急速に)増殖するものであつて、其結果は即ち相對的過剩人口となつて現はれる。之れはさきにも述べた如く、資本の蓄積に依つて生ずるものである。即ち相對的過剩人口なるものは、經濟學者たちの主張する如く勞働の不生産力の増進に基くものではなく、寧ろ生産力の増進に基くのである。

而も、過剩人口と稱せられる産業豫備軍の存在は資本の發達を阻止するものでなく、寧ろ或點から先きは、資本の發達に對する前提條件の一つとなるのである。

9.産業上の恐慌

我々の既に知る如く、資本は伸縮自在の大さである。而して資本制生産方法が發達すればするほど、周期的に生ずる資本の伸張及び収縮は益々激烈となり廣大となる。第2篇の中にも既に仄めかして置いた通り、近世の大工業は特殊の循環運動をなすもので、此運動は1873年迄は約10年毎に一循するものであつた。それは營業状況に於ける中位の活氣を以つて始まり、次いで急激に活氣を加へ、經濟上の大好況を齎らし、生産は突如として大擴張を遂げ、生産の熱病的状態を喚び起す。次いで恐慌が生じ、營業は沈衰状態に陷るのであるが、それから又市場は適當に擴大されて、過剩の生産物を吸収する結果、活氣が恢復され、新たにヨリ大なる規模を以つて同一の運動を開始することになるのである。

マルクスが『資本論』を書いた當時は、丁度この恐慌の襲來せるときであつた。(『資本論』は1867年に始めて刊行されたものである)。又1873年1月24日、彼れが『資本論』第2版の結尾語を書いたときにも矢張りさうであつた。マルクスは此結尾語の中に、一般的恐慌が進行しつゝあることを言明したのであつた(イ)。

註(イ)曩に第2篇の中に示したシユテーゲマン博士は、此一句につき慄然として述べて言ふ。――『マルクスは一般的恐慌が眼前に迫つてゐることを言明するに、何等躊躇する所がなかつた。』(『普國年報』第57卷227頁)と。マルクスは右の場所で『近世工業の通過する周期的循環の轉變、及び其絶頂たる一般的恐慌』の事を語つてゐる。之れ以上明瞭に語り得るものではない。それにも拘はらず、此學識ある博士先生はマルクスの謂ふ恐慌を革命の意味に解してゐる。此種の『混同』(議會の慣用語を借りて言へば)は、常に凶惡なる解釋の爲になされることは言ふ迄もない所であつて、マルクスを讀んで(或は讀まずして)引抄してゐる多くの『學者』にのみ見られるものである。

此豫言が如何に迅速に、且つ正確すぎる程美事に的中したかは、我々の皆な知る所である。

然るに1873年に始まつた恐慌と共に、資本制生産方法は新たなる段階に入つたやうに見える。その當時までは、大工業の生産力は一時世界市場の擴張以上に急速な發達を遂げるといふ有樣であつたとは言へ、今や生産技術の驚くべき大進歩と資本制生産の支配範圍の、露國、亞米利加合衆國、東印度、濠州等に迄も亙つた異常なる擴大との結果、世界市場は暫行的に且つ例外的にのみ世界産業の生産物を吸収し得るに過ぎぬ時期が到來したかのやうに見える。即ち、經濟上に於ける中位の活氣と熱病的な生産詐欺と、恐慌と、營業沈衰と、活氣恢復とが相互に交代する10ケ年毎の循環に代つて、1873年以降慢性的の營業停滯が、經濟方面に於ける持續的の沈衰が出現するやうになつた。此沈衰は1889年に及び漸く營業状況の改善に依つて中斷されたが、それも投機心の一時のヒラメキに過ぎず、間もなく經過し去つて經濟生活の更らに惡性な沈衰が代つて生じた。それが更らに顯著なる『經濟上の振興』に達する時期は、最早決して來たらないやうに見えた。

然し此想像は誤つてゐた。1895年より1900年にかけて、再び經濟上の振興期が來たのである。經濟生活は非常なる活氣を呈するやうになつたので、曩の場合とは反對に、恐慌の時代は最早一般に過ぎ去つたとか、或は少なくとも恐慌は減退に向ひつゝありなどと想像する樂天家も少なからず生じて來た。

此想像は固より維持し難きものであつた。蓋し資本制生産方法の下に於ける經濟上の振興は、結局恐慌に終ることを免れないのであつて、此場合にも恐慌は即時襲來することになつたからである。

10.資本の伸縮と人口の増減

然し茲に問題となる事は、資本が周期的に經驗する所の伸張竝びに収縮のみであつて、斯かる現象は10年毎に反覆される恐慌と好景氣との循環の場合に於ける如く、慢性的營業停滯の時期に在つても同樣に行はれるものである。

斯種の周期的な資本伸張が行はれる毎に、勞働力に對する需要は増大する。此増大した需要は如何なる結果を伴ふか。勞銀が昂騰することになるのである。而して勞銀の昂騰は、經濟學者の説に依れば人口の増殖を伴ふ。斯くて20年後には、勞働者人口は資本をして機に乘ぜしめ得るに充分の増殖を來たすであらうといふのである。然し斯樣な好機は僅かに數年間しか持續せず、甚だしきは數月間しか持續しないことも屡々ある。所が資本にとつて幸ひなことには、現實の事態は、『賃銀鐵則』説の教ふる所とは異つた趣きを呈してゐる。曩にも述べた如く、資本制生産方法なるものは、人爲的に過剩の勞働者人口を造り出すのであつて、此過剩人口は資本が何時でも要求するだけの追加勞働者を採用し得る所の豫備軍となるのである。實に此豫備軍なくんば、資本制大工業の斯く特殊的にして發作的なる發達は不可能となつたであらう。獨逸の工業にして若し、19世紀70年代の初期竝びに90年代の後半期に支配し得たる斯く多數の『自由』なる勞働者を、鐵道の敷設や、炭坑や、製鐵所などに投じ得たる全勞働軍を見出すことがなかつたとすれば、其今日の隆昌は到底望まれなかつたであらう。然し此豫備軍は單に資本の突然的伸張を可能ならしむるのみでなく、又、賃銀の上にも壓迫を加へる。而して營業が隆昌の絶頂に達した時にも、此豫備軍が全部吸収されるといふことは滅多にないので、賃銀は生産が最も活氣を呈した時にも、一定の限度を超えて昂騰し得るものではないといふ結果が生じて來る。

要するに、人口の増減として現はれる所のものは、實は資本の周期的伸縮の反射に過ぎないのである。されば、勞働者たるものは自己の爲に存する就業の程度に準じて人口の増殖を鹽梅せよと、マルサス論者が要求するのは、これ取りも直さず、各場合に於ける資本の欲望に勞働者の人口を適合せしむべしとの要求を意味することになる。

マルサス主義なるものは、生産上に於ける資本の轉變常なき欲望をば現存生産機關の生産力と混同する事に立脚してゐる。此混同は常に背理であつたとはいへ、それが最も明かになつたのは最近20年來の事であつて、歐洲の平地には此20年來、生活資料の過充に基く過剩人口、換言すれば、米、印、濠諸國より來たる食肉竝びにパンの競爭に基く過剩人口が見出されるやうになつたのである。

斯う言ふと不條理のやうに聽えるかも知れないが、マルサス主義の要求するところは畢竟、今日勞働者が資本に對して占めてゐる位置を適當な形に言ひ現はしたものに過ぎない。其位置とは次の如きものである。――勞働者は資本の附屬物に過ぎない。生産行程の持續中、生産機關が彼れを使用するのであつて、彼れが生産機關を使用するのではない。更らに勞働者は勞働に從事せざる時に在つても、資本に隷從してゐることは、曩に述べた通りである。彼れは生産物を消費して、自己の生存を維持し子孫を繁殖せしむるに方り、資本の利益に最もよく適合した形でさうしなければならぬ。要するに、勞働者は、彼れ自身の生産物に隷從してゐる。彼れは單に、其勞働力を以つて生産物に奉仕せしめられるのみでなく、又人間としての凡ゆる活動を以つても、是れに奉仕せしめられてゐるのである。

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