第3篇 勞銀及び資本収入

第6章 資本制生産方法の曙光

1.本來的蓄積のお伽噺

資本が如何に、それ自身の前提條件を絶えず新たに造り出すかは、前數章の中に述べた通りである。然し此等の前提條件が一定の程度まで發達しない間は、典型的形態に於ける資本は尚未だ生じ得なかつた事は明かである。所で、此等の條件が如何なる事情に依つて生ぜしめられたかといふ事は、我々の未だ解決を與へなかつた問題である。我々は曩に貨幣の資本化を研究するに方り、一方に多額の貨幣が私個人の所有に屬してをり、他方に勞働力が商品として市場に販賣されるといふ前提から出發した。然し勞働力なるものは如何にして商品となり、又如何にして斯くの如き貨幣額が集積されるやうになつたかは、我々の未だ研究せずに置いた所の問題である。此問題に就いて、尚、最も本質的な事項を語らなければならぬ。

資本の蓄積なるものは、資本の前提條件の更新を意味する。資本の發達に先だつて生じた斯かる前提條件の最初の發生は、マルクスが本來的蓄積と名づけた所のものである。

資本起原の問題に就いても、我々は經濟學者たちから、彼等が事實上の關係を知らない場合、又は知らうとしない場合にいつも持合せてゐる所の解答――ロビンソン物語を與へられる。斯種の物語には二重の利益がある。即ちそれを發見するに何等の豫備知識をも要しないといふことが其一、又それに依つて論證せんとする事を語るやうに、常に按排され得るといふことが其二である。

而して資本の起原を説明し、之れを通例の權利觀念と一致せしめようとするロビンソン物語こそ、此種の物語中もつとも無味なるものに屬する。それがお伽噺の物語りから區別される所は、ヨリ冗長で退屈を感ぜしめるといふ一點のみである(イ)。

註(イ)例へばロツシアーの言ふ所を聽け。――『土地私有も資本もなく、裸體で洞窟に棲息し、退潮の際置き去りにされた海魚を素手で捕へ、之れを食物として生活してゐる漁民を想像して見よう。此場合には、一切の勞働者が平等であつて、いづれも日に3匹づゝ捕へて消費するかも知れない。所が茲に一人賢明な男がゐて、100日間に亘つて毎日の消費を2匹づゝに節減し、斯くして貯藏した100匹の魚を以つて、50日間彼れの全勞働力をば一つのボートと魚網との製造に振り向けることに利用する。此資本の助けを以つて、彼れは其時以後、日に30匹づゝ捕へるやうになる。』(『國民經濟要論』1874年版第1卷423頁)。資本の起原に關する此種のお伽噺は、いづれもみな斯樣な腐れ魚に歸着するのである。

それはまたしても例の――勤勉善良なる節制を守る勞働者は資本家となり、而して目前の快樂の爲に一切を浪費する所の無用漢は、之れが報いとして以後子々孫々に至るまで、他の善良なる勞働者及び其子孫のため、永遠にわたり額に汗して、營々勞苦せねばならないと言ふ物語りである。

2.近世史の忘れられたる一面

14世紀以降の歐洲史を研究するとき、本來的の蓄積は此物語りの言ふ所とは異つた趣きを呈することが見出される。14世紀以降に於ける歐洲史には二つの方面がある。而して從來、自由主義的の史述に依つて弘く知れ渡るやうにされたものは、其中の一面に過ぎない。

元來、工業上の資本は、農奴制、賦役制又はギルド強制の如何なる關係の下にも立つことなき自由なる勞働者なくしては、發生し得なかつたものである。それは封建制度の桎梏から解放された生産の自由を必要とした。即ち封建君主の後見から解放されねばならなかつたのである。この見地よりして、新たに興起せんとする資本制度の戰鬪は強制及び特權に對する抗爭として、自由平等の爲の戰として現はれることになつたのである。

ブルヂォアの文筆的代辯者たちに依つて繰返々々紹介される所のものは、實に此方面である。我々は固より、此戰鬪の意義を小ならしめようとする考へはない。殊にブルヂォア自身が其過去を否認し始めた今の時に於いて尚更らさうである。然し此誇るべき光榮ある一面の爲に、プロレタリアと資本その者とが造り出されたその裏面を忘れる譯には行かない。而も此裏面こそ、學者に依つて尚未だ充分明かにされなかつた所のものである。マルクスは『資本論』のうちで、英吉利といふ一國について此方面を根本的に研究した。蓋し英吉利は資本制生産方法の母國であり、本來的蓄積が典型的の形で現はれた唯一の國なるが故である。尚、茲に問題となる事情についての若干の暗示は、『哲學の窮乏』(第2章第2節121頁)の中にも見出される。

獨逸に於ける此方面の發達は、不幸にして完全には論證し得ない。蓋し東洋への商路が地中海から大西洋に轉じ、次いで三十年戰爭となり、獨逸が數世紀の長きに亙つて世界市場より驅逐せられたため、右の發達は阻止せられ萎縮するに至つたからである。

3.土地私有化の完成

萌芽し始めたる資本の逢着した最大の障害は、都市に於けるギルド組織と村落共産體(時としては又大なる共同組合)に依る土地の共有とであつた。此等のものゝ存立せる間は、プロレタリア群は尚未だ存在するに至らなかつた。所が資本にとつて幸なことには、封建貴族が此方面の仕事を處理して呉れたのである。十字軍以後、商業竝びに商品生産は多々益々發達した。都市の商工業者が貨幣を目的として供給した商品に對して、新たなる欲望が生じた。然るに封建貴族の富なるものは、隷從農民の物的又は人的給付に基づいてゐた故、貨幣は極めて手薄であつた。そこで彼等は、購買する事の出來ない物を盗まうとしたのである。然るに、國家の權力は、益々強大となつて來た。小貴族の知行地召集兵は、富裕なる都市及び王侯の傭兵に依つて對立されるやうになつて來た。追剥は不可能となつた。封建貴族は農民の手から貨幣や財物を誅求しようとした。之れが爲、自營農民を絶望に陷らせることゝなつた。(1500年より1525年にかけて獨逸の南部及び西部地方に頻發したる農民一揆を見よ)が、封建貴族自身にとつては大した利益もなかつた。そこで彼等も遂に、新たなる享樂に與り得んが爲、都會民に倣つて商品生産者たらんと決心し、羊毛や穀物や其他の農産物をば、販賣を目的として(從前に於ける如く單に自家消費のみを目的とすることなく)生産することに依り、貨幣を獲得しようと決心するに至つた。

之れがため彼等の農業經營は擴大され、其指導は差配(Inspektor)代官(Intendant)又は小作農業者(Pächter)の手に移つた。此農業擴大は、自營農民を犠牲としてのみ可能であつた。斯くして農奴に轉化された自營農民は、今や『追放』され、換言すれば其郷土より驅逐されて、彼等の郷土は領主の經營に屬する土地と併合され得るやうになつた。封建君主に依つて最高支配を握られてゐた村落の共有は、此等君主の私有に轉化され、斯くして自營農民は經濟上破滅せしめられることゝなつたのである。

4.プロレタリアの出現

當時特に歡迎された農業上の商品と言へば羊毛であつて、之れは都市の織物製造業に依つて需要されたものである。然るに羊毛生産の擴大は、農耕地の牧羊場への轉化を意味し、又合法的手段に依るにしろ、非合法的手段に依るにしろ、經濟上の強制を以つてするにしろ、直接の物理的強制を以つてするにしろ、兎に角、多數の自營農民をば其所有地から驅逐する事を意味するものであつた。

斯くて都市に於ける織物製造業の發達と同一の率を以つて、郷村から驅逐され無産者となつた自營農民の數が増大することになつたのである。

加ふるに、封建貴族は幾多の家臣を解役した。蓋し上述の如き新たなる事態の下に於いては、封建貴族にとつて家臣は權勢上の何等の手段ともなるものでなく、寧ろ財政虚弱の原因となるに過ぎなかつたからである。而して家臣の解放は又遂に、資本のため宗教改革を喚び起すことになつた。之れがため、單に修道院の住民がプロレタリアの中に放り込まれたのみでなく、又寺領が、舊來の世襲的寺領轉借人を驅逐した投機者の手に委せられるといふ結果をも齎らしたのである。

斯かる手段に依つて、農民中の著しき部分が其土地から、生産機關から分離されるに至つた結果、かの人爲的『過剩人口』換言すれば資本の求むる勞働力をば日毎に販賣することを餘儀なくされる無産プロレタリアが、造り出されたのである。

5.大地主は資本制度の先驅者

斯樣にして資本の道ナラシを勤め、都市竝びに農村の資本にプロレタリアを供給すると同時に又、農村に於ける大規模な商品生産の爲に、換言すれば資本制農業の爲に自由なる活動の範圍を與へたものは、實に封建君主であつた。爾來、大なる土地所有の下に於ける農業は資本制的性質を採るに至つた。此性質は尚、農奴制竝びに賦役制を伴つてゐたとはいへ、之れが爲に抹殺される事はなく、單に歪められたに過ぎなかつたのである。

今日、大地主は自分こそ資本に對して勞働を保護し、兩者の調和を圖ることを本來の使命とする階級であるといふやうな素振りをしてゐるが、以上の事實を思ふとき、之れはますます滑稽なことになつて來るのである。

15,6世紀に亙つて西歐に流行した浮浪といふ現象は、自營農民に對する數多き収奪の結果であつた。それは社會の頭上を蔽はんばかりに増殖せんとする勢を示した。之れを防がんが爲に、社會は鞭や烙印を以つて、或は耳を切り、甚だしきは死刑をさへ課することに依つて、慘酷なる所罰を與へたのであつた。

6.熟練勞働者の不足

當時資本に依つて吸収され得るよりも多數の勞働者が遊離されたとはいへ、實際役に立つ勞働者の供給は、資本の需要に添はないといふ現象が屡々生じた。蓋し資本制生産方法なるものは、それが尚工場的手工業の時代に止まつてゐる限り、部分作業の上で一定の熟練を得た勞働者に倚頼することを免れなかつたからである。此熟練を得るには、しばしば數年を要するといふ有樣であつた。然るに當時、資本の可變部分は不變部分よりも遙かに大であつた。されば資本の蓄積が行はれる都度、賃銀勞働に對する需要は急激に増大したが、實際役に立つ賃銀勞働の供給は遲々として其後に曳かれると言ふ有樣であつた。單に熟練勞働者が比較的稀少で歡迎されてゐたといふのみではなく、職人がまだ、社會的に其雇主たる親方に接近した位置に立ち、進んで自ら親方たる事を期待し得た所に在つては、手工業の傳統が尚、勞働者の間に生きてゐたのである。當時の賃銀勞働者たちは自覺を有してゐた。彼等は暴慢であり強情であつた。彼等は資本制工業の訓練と永久の單調とに從ふことが出來なかつた。又從はうともしなかつた。そこで資本の爲に柔順なる勞働者を得る目的を以つて、『ヨリ高き權力』が干渉しなければならなくなつた。浮浪者の侵害に對して所有權を保護した場合や、共有の私有化を助長した場合(マルクスは英國に就いて、その立ち入つた叙述を與へてゐる)などに於ける如く、また勞働者を資本的訓練に順應せしむることが問題となつた場合にも、國家權力が干渉して來た。國家は峻嚴なる法規によつて勞銀の最高限度を確定し、勞働時間を延長し、且つ勞働者の團合を禁止した。

此等すべての事實が、當時『自由』の爲に力爭してゐたブルヂォアの精神に如何ばかり一致したかは、佛蘭西革命によつてブルヂォアが政權を略取した時に示された所である。當時、ブルヂォアは佛國に尚殘存せる土地共有と激しく鬪ひ、勞働者の結合に對しては嚴重なる禁止命を發したのであつた。

然しプロレタリアの發生と同時に、また資本の國内市場が現はれて來た。從前には各農家が自家の要する生活資料竝びに家内工業の生産物をばみづから生産してゐたのであるが、今はさうではなくなつた。生活資料は今や、從前に於ける共有地と個々の自營農民の所有地とが合して成つた大所有地に於いて商品として生産せられ、工業地方に販路を見出すのである。地方に資本制工業の生産物(此時代に在つては工場的手工業の生産物)は、工業及び大所有地に於ける賃銀勞働者と、自營農民自身との間に販路を見出す事となつた。自營農民の土地は彼等を維持し能はざるほど縮小された場合も屡々あつた。農業は彼等にとつて副業となり、自家の必要を目的とした家内工業は廢れて、資本家の爲に、商人の爲に商品を生産する所の家内工業が是れに代つた。此新たなる家内工業こそ、資本主義的搾取の最も忌はしく最も利益多き形態の一つとなつたものである。

7.最初の資本

プロレタリア竝びに人爲的過剩人口は、資本制生産方法の發達を可能ならしめたものであり、資本制生産方法は又、プロレタリア竝びに相對的過剩人口を絶えず益々多量に再生産するものであつて、此等のものが如何にして生じたかは、我々の既に述べた所である。

然らば資本制生産方法のいま一つの前提條件となつた、かの數少なき人々の手に集中せる富なるものは何處から來たか。

二種の資本が古代から中世に傳へられた。それは即ち高利貸付資本と商業資本とである。十字軍以來、東洋との貿易、隨つて又商業資本竝びに數少なき人々の手への其集中が異常に發達した。茲では其一例として、アウグスブルグに於けるフッガー家を指摘するに止める。之れは15及び16世紀に於ける獨逸のロスチァイルド家とも稱すべきものであつた。

然し高利貸付業と商業とのみが、15世紀以降益々増進する所の率を以つて産業資本に轉化されねばならなかつた貨幣額の依つて生ずべき唯一の源泉となつたものではない。マルクスは『資本論』の中で他の源泉に就いても説明を與へてゐる。此説明は實に『本來的蓄積』を取扱つたマルクスの光輝ある史述的屹論の貴重なる結論を成すものであるが、詳細は原本に就いて見られんことを希望する。茲にはたゞ、此蓄積の種々なる方法の概括をば、マルクス自身の含蓄ある言葉を以つて示すことにしよう。

『亞米利加に於ける金及び銀産地の發見、土著民の勦絶、奴隷化、竝びに鑛山内への埋沒、東印度に對する征服及び刧掠の開始、亞弗利加を商業的の黒人狩獵場に轉化した事實――此等の事實こそ、資本制時代の曙光を示すものである。斯かる牧歌的の諸行程こそ、本來的蓄積の主要原因たりしものであつた。此等の行程に相踵いで、歐洲諸國民の地球を舞臺とせる商業戰が起つた。それは、西班牙に對するネザーランドの離反によつて開始され、英吉利の反ジァコビン黨戰爭に於いて巨大なる範圍を占め、更らに支那に對する阿片戰爭等に於いて、今尚續演されてゐる。』

『本來的蓄積の種々なる要素は今や多かれ少なかれ時間的の順序を以つて、特に西、葡、蘭、佛、英諸國の間に配布されることゝなつた。英國に在つては、此等の要因は17世紀末、植民制度、國債制度、近世租税制度、保護制度等に依り、組織的に總合された。此等の方法は、一部分は殘虐極まる強力、例へば植民制度の如きに立脚するものであつたが、何づれも封建的生産方法の資本制生産方法への轉化行程を温室的に助長し、其推移を速める爲に社會の集中的竝びに組織的強力たる國家權力を利用した點に於いて共通してゐる。強力なるものは、新たなる一社會を孕める總べての舊社會に對する産婆となるものであつて、それ自身が一つの經濟力となつてゐるのである。』

右の産婆云々といふ一節は從來しばしば引用された所であるが、大抵は前後の連絡から引きちぎられてゐる。それを如何なる意味に解すべきかは、前の言葉と關連させて考へる人の知る所である。資本制生産方法の産婆として役立つた強力の中には、『社會の集中的竝びに組織的強力たる國家權力』も屬してゐることは事實であるが、それは一階級の道具としての國家であつて、階級的對立を超絶して高く雲間に鎭座する『國家それ自體』の權力ではないのである。

人民殊に自營農民が益々プロレタリア化した事、竝びに一方には國内市場が發生し、他方には多大の富が蓄積され集中されると同時に、就中商業戰爭及び植民政策の結果として國外市場が發生した事――此等の現象は、15世紀以降時を等しうして西歐に出現したものであつて、生産の總體を益々商品生産に轉化せしめ、單純なる商品生産を益々資本制商品生産に轉化せしめたる條件となつたものである。自營農民及び手工業者の分散的小經營は、此時以後益々破壞され驅逐されて、資本制大經營に位置を讓ることゝなつた。

inserted by FC2 system