著作目次序文(研究編)


社会主義と進化論(社会進化思想講話)

本書は、大正8年3月24日に売文社出版部より発行された、高畠素之の最初の単行本である。以後、改訂増補を加え、大衆社(大正8年)、公文書院(大正8年)、大鐙閣(大正10年)、アテネ書院(大正14年)、改造社(昭和2年)と相継いで出版刊行された。この中、アテネ書院で刊行されたもののみ『社会進化思想講話』と題され、それ以外は何れも『社会主義と進化論』の名で刊行されている。

各種版本の中、内容上の相違は二つに分かれる。第一は売文社、大衆社、公文書院、大鐙閣において出版されたもので、これらは売文社版第9章までを基礎とし、順次章を増加したものである。第9章までの基本部分に大きい変化はない。第二は、アテネ書院と改造社において出版されたもので、若干の改訂以外は、基本的に同一の書物である。

第一と第二の代表として、売文社版と改造社版とを比べてみると、まず改造社版の方が売文社版より二章多い。ただし改造社版は、売文社版の冒頭の一章を削り、新たに三章を附加しており、単純に二章を加えたわけではない。また文体に於いても、売文社版は高畠初期の直訳調でぎこちない文体であるのに比べ、改造版は読みやすく滑らかな出来になっている。各版本の詳細は、本書のテキスト版の説明を参照されたい。

本書の内容は高畠の序文にある通り、リュイスとカウツキーを種本として、社会主義に関係あるものを説明紹介する形になっている。社会主義と進化論の関係は高畠にとって一生ついて回った問題であるが、最終版となった改造版序文に「本書の主張方面は、必ずしも著者現在の主張を如実に表現したものではない」と云うように、本書の内容が高畠の最終結論となったわけではない。

なお本書の初出論文についてであるが、これは序文に「時々思ひ立つて書いたものを掻き集めて見たら」とあるように、いくつかの章に初出論文めいたものが存在する。しかし本書の全てが既出論文の合成であるのか否かは不明である。

以下には売文社版と改造版の序文と目次を挙げるが、売文社版の目次は、改造版と重複のない第一章を除き、章目のみを挙げる。

大衆社版

『社会主義と進化論』と云つても、敢て社会主義を説く訳ではない。又た社会主義と進化論の比較対照を試みやうと云ふ訳でもない。進化論に関係した問題を比較的多く取扱つてゐるから、それで書名に進化論の一語を加へたものと考へて頂けば不足はない。

然し同じ進化論に関係した問題でも、私は成るべく社会主義思想に聯絡あるものを多く撰ぶことにした。進化論以外の題目に於いても其通りである。此意味に於て書名に『社会主義』の一語を加へたこともまんざら無意義でない。

然しそれよりも重要なる理由は、『社会主義の立場から』と云ふことである。私は社会主義の立場から、進化学者の進化説を論じ、哲学者、社会学者のそれぞれの学説の要点を批評紹介した。

此う考へて見ると、本書を『社会主義と進化論』と題した訳も強がち無意義でないことが分る。要するに、本書は一箇の合財袋である。始めより聯絡を付けて書いたものではない。時々思ひ立つて書いたものを掻き集めて見たら、何となく全体に脈絡がありさうに思はれたと云ふ位ゐの程度で、全然無聯絡のものでないと云ふ事にして頂きたい。

本書は固より創作ではない。さればと云つて、全然反訳でもない。忠実に反訳した所もある。全然(直接には)外国の種本に依らない箇所もある。何もかも著者の独断で取捨し手加減したのだから、反訳と云ふには余りに自力的で、創作と云ふには余りに他力的である。然し左の三書だけは、本書の種本として特に重きを成したものであることを断つて置く。

Arthur.M.Lewis,Evolution Social and Organic.(リユイス著『社会的及び有機的進化』)
Arthur.M.Lewis,Ten Blind Leaders of The Blind.(同上『盲者の手引きする十人の盲者』)
Karl Kautsky,Vermehrung und Entwicklung in Natur und Gesellschaft.(カウツキー著『自然及び社会に於ける蕃殖と進化』)

大正八年三月

著者 識


目次

第一章、社会思想の発達

一、牙と爪のホップス/二、愛と平和のルソウ/三、ダアヰンの自然淘汰説/四、ホップスに逆戻したハックスレイ/五、自然界の教訓/六、ゲーテの詩想からクラポトキンの科学へ/七、マルクスの物質的史観/八、デ・フリーの生物突変説

第二章、遺伝説の両派=ラマルク説とワイズマン説=

第三章、進化説と社会進化=ダアヰン説とデ・フリー説=

第四章、認識論と唯物論=カントとカウツキー=

第五章、保守的ヘーゲルと革命的ヘーゲル=スチルネルの無政府主義=

第六章、哲学の科学化=コムトとヘツケル=

第七章、社会主義犯罪学=ロンブロウソウとフヱルリ=

第八章、進化と蕃殖=マルサス説と収穫逓減の法則=

第九章、単税説の正体=資本主義の弁護人ヘンリー・ジョージ=

第十章、資本主義と無政府主義=スペンサアの社会有機説と個人主義=


改造版

近世に於ける一切思想の枢軸が進化論に置かれてゐることは論を俟たない。進化論は初め生物学上の一学説として提出され、ついで宇宙観人生観上の一支点として哲学と結びつき、最後に社会発展上の中枢概念として、凡ゆる社会運動、労働運動の推進動力となるに至つた。今日、社会思想と称して知識階級なる社会群の常識的水準に普遍化された思想範疇の中枢支点となつてゐるものは、要するに社会方面に応用された進化思想以外の何ものでもない。

そこで、進化論そのものの解説を与へることは今日もはや問題とすべきではないが、進化論に基礎づけられた諸思想が、所謂社会思想なるものと如何なる形態に結合されてゐるか、従来著名の学者思想家に依つて提供された社会上、政治上、哲学上の諸定説が生物進化の観念と如何なる程度に、如何なる様式に交渉してゐるか、ゐないかを考察することは、あながち無益の努力でないと信ずる。本書は斯かる批判的の立場から、近世に於ける著名諸家の思想学説を出来る限り通俗的に観察したるものであつて、近世社会思想の高級常識に対する指針たらしめんとするものである。

本書は大正八年四月『社会主義と進化論』と題して刊行したものであるが、大正十四年六月『社会進化思想講話』と改題して発行するに当り、全般的に訂正を加へて編纂を革命した。然し立論の本質は旧態を維持した。蓋し本書の内容は、アメリカの社会主義者アーサー・リユヰスの諸著書に依ったものが極めて多く、考想の立脚点も成るべく著者の私見を隠蔽するに努めたものであるから、この点まで訂正を延長するときは、自然本書の特色そのものをも没却するに至ることを虞れたのである。随つて本書の主張的方面は、必ずしも著者現在の主張を如実に表現したものでない。茲に刊行する新版は、右の訂正に従つて復題したものである。

昭和二年一月十四日

著者


目次

第一講、進化説と社会進化―ダーヰン説とデ・フリー説―

一、生物進化の原因/二、淘汰は篩/三、ダーヰンを誤るダーヰン学徒/四、漸変説と突変説/五、月見草に得た暗示/六、新ラマルク説の打撃/七、生物学者と地質学者の衝突/八、時代の犠牲者ラマルク/九、仏国革命の代弁者ヰユヴィーエ/十、商工階級のダーヰンと労働階級のデ・フリー

第二講、遺伝説の両派―ラマルク説とワイズマン説―

一、はしがき/二、ラマルク派の遺伝説/三、死ぬ生物と死なぬ生物/四、遺伝を掌る細胞/五、両派の啀み合い/六、『習得性』の遺伝有無/七、足の小指と駱駝の隆肉/八、尾の無い猫/九、ワイズマン勝つ/十、ワイズマン説と社会問題

第三講、競争と共同―クロポトキンの相互扶助論―

一、進化論史上の五人/二、『自然の状態』/三、ダーヰンとクロポトキン/四、動物界の相互扶助/五、新種の発生/六、野蛮人の相互扶助/七、未開人の相互扶助/八、近世に於ける相互扶助

第四講、進化と蕃殖―マルサスの人口論と収穫逓減の法則―

一、暑中の綿入れ/二、マルサス説の根本/三、生殖と蕃殖/四、人間の植物範圍/五、収穫逓減か収穫激増か/六、収穫激増の法則/七、人口論の社会的背景

第五講、生物学と社会主義―ヘッケルの社会主義論批判―

一、畑違ひの議論に基く紛争/二、ダーヰン説と社会主義/三、ヘッケルの主張/四、ヘッケルの自縄自棄/五、悪平等のブルヂオア的起原/六、蜂蜜の階級/七、自然界の競争と人間社会の競争/八、法則の認識と社会の進歩

第六講、宗教と社会―キッドの社会進化論―

一、社会学の後れてゐる理由/二、競争と漸変/三、淘汰と社会進化/四、理性の否定/五、キッドの貧困観/六、キッドの社会主義観/七、キッドの歴史観/八、社会主義と生存競争/九、宗教の使命/十、僧侶と新聞記者と教員

第七講、哲学の科学化―コントとヘッケル―

一、哲学と科学の闘争/二、コントの功績/三、固体は種族を繰返す/四、コントの人知発達論/五、個人心理と人類心理の類似/六、科学の分類/七、科学の研究方法/八、科学の発達階梯/九、コントの空想

第八講、社会主義犯罪学―ロンブロソーとフエルリ―

一、真理に国境あり/二、ロ氏犯罪学の社会的意義/三、ロンブロソーの功罪/四、トゲ一本の力/五、自然と犯罪/六、社会が産む犯罪/七、戦争と児童の刃傷沙汰/八、犯罪衛生/九、犯罪医術/十、無定期隔離

第九講、保守的ヘーゲルと革命的ヘーゲル―スチルネルの無政府主義―

一、結果は予想を裏切る/二、妖魔無政府主義の正体/三、保守的ヘーゲル/四、革命的ヘーゲル/五、ヘーゲル哲学の矛盾/六、偶像から偶像へ/七、スチルネルの幽霊/八、ヘーゲル左党の完成

第十講、単税論の正体―資本主義の弁護人ヘンリー・ヂョーヂ―

一、土地と資本の争い/二、労働階級が漁夫の利/三、地主に対する義人の叫び/四、スペンサーとヘンリー・ヂョーヂ/五、マルクスの炯眼/六、利子の悲哀/七、炯眼なる隼盲目なる蝙蝠/八、ヘンリー・ヂヨーヂから社会主義へ

第十一講、資本主義と無政府主義―スペンサーの社会有機説と個人主義―

一、資本主義の両面/二、警むべき二つの錯誤/三、コントとヘッケル/四、社会と個体/五、社会と個体の異同/六、商人と利潤/七、政策、學問を裏切る

第十二講、認識論と唯物論―カントとカウツキー―

一、唯物的認識論/二、両極端の思想/三、カントの認識論/四、カント説と唯心論/五、唯物論との衝突/六、現象と実在/七、一種の唯物論者/八、カウツキーの批評


マルクス学研究

本書は、公文書院と大鐙閣から大正8年に同時に出版された、高畠素之の二番目の研究書である。両出版社の関係は定かでない。大鐙閣版が青のカバーで、公文書院が赤のカバーとなっている。

本書は既出論文を集めて構成されている。既出論文の大半は『新社会』『国家社会主義』などの身内の雑誌に掲載されたものであるが、その他にも『改造』『解放』『中央公論』の中央雑誌に掲載された論文が一篇ずつ存在する。この中、本書第1章の「マルクスの生涯及び其著述」と第3章「唯物論とカント哲学」――『社会主義と進化論』より存在する部分であるが――は、改訂を加えつつ『マルクス十二講』に再録されている。また第4章の「唯物史観の改造」は、『批判マルクス主義』に改訂増補して収録された外、ツガン・バラノヴスキーの訳書にも『唯物史観の改造』なる題名を与えている。

本書所収論文は何れも高畠のマルクス理解、あるいはマルクス批判の重要礎石となったものである。その中、有名な剰余価値学説と本源的蓄積の最終行程を論じた部分は暫く措くにしても、第2章はマルクスそのものに対する、第3章と第4章は各々認識論と唯物史観に対する高畠の基本姿勢を示しており、彼の生涯を通して問題となる諸問題を圧縮的に論じたものとなっている。

以下の序文と目次は公文書院のものであるが、大鐙閣も同じものである。

本書は旧稿の蒐集ではあるが、謂ゆる文集ではない。マルクス学に対する私の立場と、『マルクス学研究』といふ本書の看板とに照らして、前後脈絡ある一篇の長論文と見て頂かねば困る。

私は第一章に於て、マルクスの略伝を紹介し、同時に其著述史を一瞥した。之れはマルクス及び其学説を主題とする本書の序幕として当然の順序であらう。次ぎに私は第二章に於て、マルクス説に対する私の立場を明かにした。私はマルクス説を哲学、社会学(歴史観)及び経済学の三方面から観察した。そして哲学及び社会学の両方面に於ては私はマルクス説を採らず、経済学に於ては全然マルクス説に心服する旨を断つた。然らば私は哲学及び社会学に於て、如何なる立場にあるか。第三章は私の哲学的立場を明かにしたものである。此章は拙著『社会主義と進化論』に納めた『唯物論と認識論』と題する一文と大同小異であるが、本書の聯絡上省略を許さない。第四章はマルクスの歴史観に対する、私の立場の一端を示したものである。私は更らに、第五章以下に於て、マルクス経済学の紹介及び弁護を試みた。之に比較的多くの頁を費したのは、マルクス経済学の紹介及び弁護が、同時に又、私の経済説の紹介及び弁護に当ることを承知してゐるからである。

マルクス学を取扱つた拙稿の中で、聯絡上本文に収容する余地のないものは総て附録に隔離した。附録の最終篇『収奪者の収奪』は、内容上『資本論』第一巻の結尾を成すもので、曾て堺、河上両氏に依つて訳出された唯物史観要領記と並んでマルクス古典美の双璧と称せられる。私は忠実に逐語訳した。

各篇とも、最初から本書を予期して書いたものでないから、多少の重複は免れない。之は厭なことだが已むを得ない。

大正八年十一月三日

高畠素之


目次

第一章、マルクスの生涯及び其著述

一、生い立/二、ライン新聞時代/三、巴里時代/四、ブルツセル時代/五、共産主義者宣言の発表/六、新ライン新聞時代/七、倫敦に逃る/八、国際労働者協会の設立/九、資本論第一巻成る/巴里一揆の勃発/安らかな眠りへ

第二章、マルクス説と私の立場

一、何もかも自分の為/二、マルクスの人物と学説/三、マルクスの哲学/四、マルクスの歴史観/五、マルクスの経済学/六、マルクス経済学反対論

第三章、唯物論とカント哲学

一、カントの偉大なる点/二、ロツクの認識論/三、カント説との関係/四、カントの認識論/五、唯心論との関係/六、唯物論との異同/七、実在と現象/八、堕落せるカント

第四章、唯物史観説の改造

一、用語のトンチンカン/二、生産技術と経済的変化/三、生産機関の決定力/四、生産と生産関係/五、改造の第一点

第五章、労働価値説及び剰余価値説

一、マルクス経済論の出発点/二、財貨と商品/三、使用価値と交換価値/四、交換価値は社会的関係/五、共通の第三者/六、交換価値と価値/七、社会的に必要なる労働/八、価値と生産力/九、労働力は商品/十、労働力の商品性と資本主義/十一、労働力の価値/十二、利潤の出処/十三、利潤は労働の生産的消費より生ず/十四、余剰価値と可変資本/十五、必要労働と剰余労働/十六、労働時間と賃銀と剰余価値/十七、流通行程は剰余価値を実現す/十八、マルクス批評家の特徴/十九、一般的効用と価値/二十、効用は価値の制限/二十一、富に対して自然を無視せず/二十二、需給とは没交渉/二十三、『自然物』の価値/二十四、剰余価値反対論の類別/二十五、福田博士の帽子の比喩/二十六、社会全体に価値の剰余なし/二十七、泥棒の剰余価値

第六章、資本論第三巻まで

一、はしがき/二、資本論矛盾説の矛盾/三、資本論前期の諸著/四、資本論第一巻の制限/五、第一及第二巻の目的/六、平均利潤及び生産価格/七、利潤逓減の法則/八、独占の出現と利子/九、地代の種類及其本質/十、修正説の修正を要す

附録

マルクスの貧困増大説/富と価値/『労働経済講話』を読む/収奪者の収奪


社会主義的諸研究

本書は、大衆社と大鐙閣から大正9年に出版された、高畠素之の三番目の研究書である。大鐙閣版は筆者未見であるが、田中真人氏の『高畠素之』に依ると、同一版本であるとされている。本書も発表済み論文を集めて作られたものであるが、序文はなく、表紙の後にはすぐ目次がある。本書後半は、検閲による出版禁止を畏れてか、伏字が多くなっている。

本書は『社会主義と進化論』『マルクス学研究』とともに、後の『マルクス十二講』に吸収されていく、高畠の社会主義研究の一齣である。しかし本書目次からも推測されるように、必ずしもマルクスのみに拘ったものでなく、広く社会主義一般の問題を研究したものとなっている。

奥付を記しておくと、大正九年十二月十日発行、低下一円八十銭(郵税十三銭)、著者・高畠素之、発行者・北原龍雄、発行所・大衆社。北原龍雄というのは、高畠素之とともに国家社会主義を立ち上げた初期のメンバーの一人で、後に高畠と分離して別の運動に進むことになった。初期の国家社会主義のメンバーとしては、高畠の番頭的存在であったとされている。大衆社というのは、売文社出版部を潰した後、高畠が運動の活動拠点として設けた出版部である。

以下には本書の目次を掲げるが、原書の目次には若干の不備が見られるため、本文に即して一二の改訂を施した。依って、以下の目次は原書の目次と若干の相違がある。

目次

第一篇 マルクスに関する諸研究

一 マルクス及び其近時の批評家

一、マルクス批評の変調/二、マルクス批評家の虚無主義/三、社会科学の危機/四、十人十色のマルクス説/五、マルクス反対の新武器/六、マルクス説の不可分性

二 唯物史観説

一、哲学から科学へ/二、唯物論と弁証法/三、唯物的と経済的/四、社会の基礎と上部構造/五、優勝階級の強圧力と説伏力/六、新しき器具と新しき階級

三 マルクス主義経済学

一、正統派経済学とマルクス/二、資本制社会の富/三、資本制生産の特徴/四、使用価値と交換価値/五、交換価値は社会的関係/六、資本制的分配の謎/七、工場生産物の特徴/八、工場生産物に関係する人々/九/生産の分配と交換価値/一〇、価値と価格/一一、価値の要素=人間労働/一二、生産器具の発達が価値に及ぼす関係

四 資本主義生産と其の破壊

一、経済学説の革命児/二、商品と二個の価値/三、使用価値と交換価値/四、物々交換の標準/五、交換価値の本体/六、社会的労働/七、間接に費さるゝ労働/八、労働力は商品/九、剰余価値の淵源/一〇、誤れる価値生成論/一一、剰余価値の利潤化と分配/一二、唯物史観説/一三、労働時間短縮と機械の発達/一四、特別利潤追求と機械の発達/一五、利潤低下の法則/一六、購買力と利潤成立/一七、生産と領有との乖離/一八、生産と領有との一致

第二篇 経済学上の諸問題

一 マルサス説の消長と資本主義

一、マルサス説の成立/二、マルサス説の破綻/三、近代に於ける復活/四、英米の人口動態/五、その近世的意義

二 マルサス主義、新マルサス主義

一、マルサス主義の由来/二、人口の増加は食物の増加/三、利用されたマルサス説/四、新マルサス主義の価値

三 ブルヂォア的財産の発達

一、私有財産の起原/二、工業労働者の独立/三、ギルドと小国家の発生/四、親方と職人との対立/五、近世商業の勃興/六、封建都市の経済策/七、新生産方法の迫害/八、旧生産方法の敗北/九、プロレタリアの成立/一〇、地理的分業の成立/一一、全英国の工業化/一二、近代工業の成立/一三、生産集中の大勢/一四、高利貸の近世的再現/一五、貨幣の世界支配/一六、ブルヂオア自滅の日/一七、次代社会の萌芽

第三篇 社会学的諸考察

一 階級闘争と其形態

一、階級闘争の本質と形態/二、二本に於ける特殊性/三、特殊性の考察方法/四、国家社会主義の一根拠

二 階級の社会学的考察

一、階級の概念/二、階級の発生/三、階級と生産機関/四、社会の拘束力/五、社会欲/六、階級と社会欲/七、強者と社会欲/八、社会欲の変動/九、階級の倒潰

三 労働運動の集中化と分散化

一、友愛会解体の噂/二、労働運動の二種/三、二種の欲望と二種の運動/四、模倣心理の社会支配/五、運動形態の変化/六、運動の革命化と集中化/七、国家社会主義との一致

第四篇 社会思想の諸批評

一 個人主義と社会主義

一、自己欲と社会欲/二、社会は自己保存の武器/三、衝突の第一歩/四、征服者の社会主義、被征服者の個人主義/五、ホツブスの国家論/六、個人主義の実行、社会主義の主張/七、ルソウと商工階級/八、プロレタリアの個人主義的社会主義/九、ブルヂオアの社会主義

二 マルチン・ルーテルの社会的背景

一、ルーテル四百年祭/二、ルーテルの打算主義/三、模範的扇動家/四、革命家としてのルーテル/五、民衆を裏切る/六、君主の姦淫を弁護す/七、宗教改革の社会的意義

三 国家社会主義と階級闘争

一、集産主義と共産主義との分配/二、消費の客観的平等の不可能/三、集産主義の分配案/四、共産と集産との生産組織/五、巧妙なる資本主義組織/六、集産主義の政策論的基礎/七、組合、議会、大衆運動


マルクス十二講(マルクス学解説)

本書は、大正15年に『思想・文芸講話叢書』の第13輯として新潮社より出版されたもので、高畠素之の最も纏まったマルクス研究書となっている。後、昭和3年に改造社から『マルクス学解説』と改題して出版された。両書の関係は、通常の改訂の関係にある。出版当時は比較的よく売れたといわれているが、高畠の死後、昭和5年あたりでは既に読まれなくなっていたようである。(『急進』第2巻第11号、高畠素之回想の馬場恒吾の言)

本書の内容は、従前の『社会主義と進化論』『マルクス学研究』『社会主義的諸研究』以来の集大成的なものとなっており、マルクスの生涯から唯物論・歴史観・認識論・国家論を経て、剰余価値を始めとする経済学諸問題に及んでいる。国家論や認識論などは既に独立の論文として発表されたものであり、本書は完全な書き下ろしではない。マルクスの研究は高畠の死後も続くのであるから、以後の研究成果を以て本書を論評するのは公平を欠くが、高畠の主観としては「本書は解説書としては相当専門的に調子を上げたつもりである」との思いがあったようである。

本書の中で出版当時から注目を受けたのは、第4章の「マルクスの国家学説」である。本章は、社会主義の諸国家観からマルクスの国家観に及び、最後に自己の国家観、つまり国家社会主義の国家観に至るまでを解説しており、高畠の国家学説を通覧するには便利な部分となっている。これには社会主義者から批評が加えられたこともあった。(『自己を語る』の「社会主義思想上の観念的傾向と現実的傾向」末尾「附記」参照)

なお本書は、日本の敗戦後の昭和23年、第6章から第12章まで、つまり本書後半部分のみを取り出して『マルクス経済学解説』として彰考書院から出版された。編者は高畠門下として知られた神永文三である。神永の言に依ると、後半部分のみを編集したのは「現在の出版事情から、残念ながらこのやうな形で出版することになつた」とされており、「出版事情がこれを許すやうになれば、かならず残された前半部も出して完全なものにする予定である」とされている。前半部分はマルクスの生涯、哲学、社会観、国家学説などを論じており、既に敗戦後の日本にとって快からぬ存在であった国家社会主義者の言だけに、何等かの推測の加えられる余地もないではないが、編集の真意は不明である。

以下に挙げた序文と目次は、何れも『マルクス学解説』より採ったものである。『マルクス十二講』との相違は、一二を除いて存在しない。念のため相異点を挙げておく。

序文の相異点。(1)『解説』の「欲」は、『十二講』では「慾」になっている。(2)『解説』の「本書は先に『マルクス十二講』と題して刊行したものであるが、今回廉刷版を発行するに当り、諸所訂正と手入れを加へ、殊に拙譯『資本論』からの引抄の如きは総べてその最新版(改造社版)に従つて改訂した。」の一段は、『十二講』には当然存在しない。(3)日付が、『十二講』では「大正十五年一月二十六日」となっている。

目次の相異点。(1)『解説』第八講の「手工業組合」の括弧が、『手工業組合』と二重括弧になっている。(2)『解説』の「マルクス学解説目次」が、『十二講』では「マルクス十二講目次」となっている。

序文

流行思想の盛衰は帽子や靴下の流行の如く、目まぐるほしく断え間なしに展開してゆく。それも大抵は半年、長くて一年の寿命である。タゴールにしろ、オイケンにしろ、ベルグソンにしろ、アインシュタインにしろ、流行してゐる半年か一年の間が花であつて、流行を過ぎていまへば、さながら弊履の如くに捨てて顧みられない。

が、これらの中にあつて、特に著しい例外を成してゐるものが一つある。それは即ちマルクスである。我が国の思想界にマルクスが流行し出してから、もう彼れこれ十年にもなる。その間、多少の浮沈もなかつた訳ではないが、大体に於いて著しい冷熱を示すことなく、殆んど慢性的に流行初期の熱病的歓迎を維持してゐる。これは果して、如何なる理由によることであらうか。

多くの思想家にあつては、思想は一つの観念的構造たるに止まる。人間には観念上の欲望があり観念それ自身の世界があるから、単なる観念的の思想体系であつても、その構成が精緻であり深遠であるとすれば、それだけヨリ多く思想界の憧憬の的となり得ることは不思議でない。然しながら単なる観念上の欲望発動は、それ自身が一個の興味衝動であるから、帽子や靴下に対する興味と同様に、永く一定の体系を憧憬の対象となし得るものでなく、絶えずその対象を換へて行くところに特徴がある。この意味に於いて、タゴールからアインシュタインに至る思想フィルムの速射的展開も、決して単なる軽薄もしくは気まぐれ的遊戯として一笑に附し去るべきでない。それはそれなりに、一定の社会的心理的必然に立脚してゐるのである。

マルクスの思想も、一個の思想体系としては、他の流行思想と違ふ所はない。ただ、彼れにあつてはその思想の研究対象が単なる観念活動の部面に局限せられることなく、最も具体的にして最も感性的に分明なる人類社会の発展を研究の対象としてゐる。それも単なる抽象としての社会ではなく、当面に於ける社会の現実的存在たる資本主義制度の分析に研究の焦点を向けたのである。世界の社会制度は、マルクスの当時から今日に至るまで資本主義的たることを以つて特色としてゐる。資本主義の下に展開せられる一切の社会現象は直接間接の差こそあれ、終極に於いて資本主義の本体に関聯せしめられてゐることは論を俟たない。労働問題、社会問題は固より、婦人問題も、犯罪問題も、その他一般思想問題も総べて資本主義の社会制度に関聯する所がある。而して此等の問題は、現代人の関心の大部分を吸収してゐるといふも過言でない。マルクスの思想が単なる思想としての興味対象たる以上に、深く根強く現代人の関心を捕捉してゐる所以は茲に在る。

勿論、マルクスの学説には、既に時間の歯に掛つて死滅したと見られる部分も決して少なくない。けれども、彼れの思想には、その信奉者も反対者も、兎に角、一応は彼れの提言から出発して掛らなければならぬと信ぜしめるところの、辛辣な現実性がある。彼れは一面、推究の雄であると同時に、また他面に於いては、学的実感の極度な鋭さ鮮かさを持つてゐる。彼れの与へた一切の学説的教理は仮令腐朽に帰することがあるとしても、彼れの捕へた問題の急所は永く現代人の興味を唆らずには置かないのである。

本書はこの問題捕捉と学説的体系との両面から見て、マルクスの提説中最も重要と目せられる部分を抽出解説したものである。勿論、本書に取扱つた以外の方面にも、マルクスの学説として重要な構成部分がないといふ訳ではないが、比較的重要な分子は大抵網羅し尽したつもりである。

マルクスの学説に関する解説書は汗牛充棟も啻ならざる有様であつて、その中には無論推奨に価すべき貴重な文献も少なくない。然し一面に於いて、消化不足の難解蕪雑なものも決して少なくない有様である。本書は解説書としては相当専門的に調子を上げたつもりであるが、著者の最も心血を注いだ点は寧ろ、如何にして一般読者に肩のコリを与へずして彼等の知識水準をこの調子まで引上げるかといふことであつた。即ち通俗書の形で、相当専門的な知識を一般読者に咀嚼せしめようとすることが、著者の最も力をこめた点である。著者のこの努力が如何なる点まで成功してゐるかゐないかは、読者の判定に待つ外はないが、兎に角、其処に執筆上の眼目を置いたことだけは強調したい。

本書は解説を主としたものであるが、学説中問題とされる点はそれなりに疑問の余地を保留せしめ、進んで著者一流の批評を加へた所もある。要するに、弁別なき盲目的信仰に堕せしめざるやうマルクスの健全なる理解を助長することが、本書執筆上の目的の一面であつたとも言ひ得る。

本書は先に『マルクス十二講』と題して刊行したものであるが、今回廉刷版を発行するに当り、諸所訂正と手入れを加へ、殊に拙譯『資本論』からの引抄の如きは総べてその最新版(改造社版)に従つて改訂した。

本書の執筆上、小泉信三氏著『価値論と社会主義』及び『社会問題研究』石川準十郎氏著『マルクス経済学入門』を参考とするところ少なくなかつた。著者自身の既刊書中では『改訳資本論解説』『改訳資本論』『唯物史観の改造』及び『社会主義と進化論』を最も多く利用した。起稿中、友人神永文三君の援助を受けた。茲に明記して謝意を表する。

昭和三年六月三日

高畠素之


マルクス学解説目次

序文

第一章、マルクスの生涯及び事業

一、生ひ立ち/二、青年マルクス/三、エンゲルスとの結合/四、ブリュッセル時代/五、『共産党宣言』の發表/六、『新ライン新聞』時代/七、倫敦亡命/八、『国際労働者協会』の設立/九、『資本論』第一巻の完成/十、巴里一揆の勃発/十一、マルクスの終焉

第二章、マルクスの唯物哲学説

一、マルクス主義の哲学的基礎/二、マルクスとヘーゲル/三、マルクスのフォイエルバッハ/四、唯物論的辯證法/五、マルクスの認識論

第三章、マルクスの唯物史観説

一、唯物史観の要領/二、生産力と社会の上部構造/三、社会発達の過程/四、階級闘争説/五、唯物史観説の批判/六、階級闘争説の批判

第四章、マルクスの国家学説

一、階級国家観/二、プロレタリア国家/三、プロレタリア独裁/四、マルクスと倫理的国家観/五、マルクス主義と無政府主義国家観/六、マルクス国家論の批判/七、国家社会主義の国家観

第五章、マルクスの資本主義崩壊説

一、唯物史観の資本制社会適用/二、資本主義的生産/三、余剰価値生産上の崩壊原因/四、余剰価値実現上の崩壊原因/五、崩壊説に対する批判

第六章、マルクスの労働価値説

一、資本主義社会の富/二、商品の発生/三、商品生産の発達/四、商品の社会性/五、使用価値と交換価値/六、価値の実体と価値の大小/七、価値と富/八、交換価値/九、価格

第七章、マルクスの余剰価値説

一、貨幣の資本化/二、余剰価値は何処から出るか/三、商品としての労働力/四、労働力の価値/五、余剰価値の成立/六、不変資本と可変資本/七、余剰価値の率/八、絶対的余剰価値/九、相対的余剰価値

第八章、マルクスの分業及び協業説

一、マルクスの卓見/二、資本制度の出発点/三、手工業組合の親方と職人/四、労働の社会的平均化/五、協業の一般的意義/六、工場的手工業の二重起原/七、工場的手工業の二つの基礎形態/八、機械工業の発生

第九章、マルクスの機械学説

一、機械とは何か/二、機械を造る機械/三、生産物への機械の価値移転/四、機械経営と婦人小児労働/五、労働時間の延長と能率増進/六、機械及び労働市場/七、機械の将来的使命

第十章、マルクスの資本蓄積説

一、資本蓄積の一般的形態/二、二本に於ける資本蓄積の實際/三、単純なる再生産/四、余剰価値の資本化/五、資本蓄積に伴ふ労働需要の増加/六、資本蓄積に伴ふ可変資本の相対的減少/七、産業予備軍/八、本来的の蓄積

第十一章、マルクスの利潤説

一、余剰価値と利潤/二、平均利潤律/三、生産価格及び費用価格/四、リカルドの平均利潤説/五、マルクス説の理論的批判/六、マルクス学徒の弁護説/七、『社会的に必要なる労働時間』の矛盾

第十二章、マルクスの地代説

一、地代の意義/二、リカルドの地代説/三、マルクスの対差地代説/四、ロドベルトスの絶対地代説/五、マルクスの絶対地代説


マルキシズムと国家主義

本書は、昭和2年に改造社から出版されたものである。前篇「マルキシズム概説」と後篇「国家主義概説」とから成り立っており、各々『社会問題講座』、『社会経済体系』の一つとして書かれたものを持ち寄って構成したものである。

この構成に対し、高畠素之自身も「合冊して刊行することに些か無理がないでもない」と云うが、内容的に「基底には一脈の関連が流れてゐる」として、それなりの意味を感じていたようである。理由は序文に見える通り、前篇においてマルクス主義の国家論の欠陥を指摘し、後半に高畠素之自身の支配機能の展開を明かにしているからだという。

しかしながら、本書は全体としてマルクス経済学と国家学説の簡便な解説ではあっても、『マルクス十二講』の方が詳しく論じられてあり、また高畠的なマルクス理解や国家観の説明としては不足の感を否めない。尤も国家論について、肝腎の国家社会主義の国家論を指して論じないというのは、高畠素之において――後に国家論に集中的研究を加えた高畠門下の石川準十郎においても――よく見られるものであって、例えば『大思想エンサイクロペヂア』の「国家主義」にも、高畠は国家学説の変遷を論ずるのみで、自身の奉ずる国家社会主義の国家観については殆んど論じていない。

以下、序文と目次を掲げるが、序文に存在する若干の誤字脱字を補訂した外、便宜上傍点は一切削除した。(本書はテキスト化しているので、興味のある人はそちらを見て下さい。)

本書納むるところの前篇『マルキシズム概説』は『社会問題講座』のために、後篇『国家主義概説』は『社会経済体系』のために、それぞれ独立の一文として起稿したものである。初めから連絡を図つて執筆したものでないから、茲に両篇を合冊して刊行することには些か無理がないでもない。しかし内容の上からいふと、両篇の基底には一脈の関連が流れてゐる。

『マルキシズム概説』に於ける著者の批評的鋒鋩は、マルキシズム国家論の構造に向けられた。マルキシズム国家論の缺陥は、国家の本質たる支配の考察を等閑に附した点にある。これに対する著者の批判は、マルキシズム国家論の結論的政策を云為する前に、先づ著者みづからの支配観の展開に出発すべき筈であつた。しかし指定紙数の制限は著者がこの方面の考察に深入りすることを許さなかった。

この缺点は、後篇『国家主義概説』に依つて、幾分補充せられてゐると信ずる。ただ、この場合にも指定紙数に制限があつたため、国家主義思想史の項に於いて、国家社会主義の叙述に深入りすることが出来ず、マルキシズムの国家主義的方面の如きも、予定のプランを反古にして全然葬り去るの外はなくなつた。これに対しては、前篇が或る程度まで補充の役目を演じてくれるであらうと思ふ。兎に角、両篇互ひに補足し支持し合つて、茲に不完全ながら、著者一流の国家観及びマルキシズム批判を彷彿たらしめ得たことは、不満足ながら幸福であると思ふ。

国家論は今や、世界に於ける社会学界の最も魅惑的な研究主題となつてゐる。プロレタリアの現実的覇権進出は、マルキシスト学界に対しても国家論をその最重要研究主題たらしめた。身辺多事の著者は、この方面で心ゆくばかり読書三昧に入ることを禁じられてゐるは固より、一冊の原書をも落ちついて読破する余暇をさへ恵まれないことを遺憾とする。ただ、著者自身の体験的実感を基礎とする推論は、時折りの気まぐれ的読書から集め得た彼れの断面的知識を助成材として、茲に或る種の国家論構造をでつち上ぐべき途上に、著者を向はしめてゐることは事実だ。

本書は、その門出の一声に過ぎない。国家論の悶えは、時代の懊みであると同時に、また、マルキシズムの魅惑を思ひ切れない著者の国家社会主義の懊みでもある。国家社会主義理論の完成は、著者一代のもがきである。今は、このもがきの片鱗を以つて、応急の刺胳と自慰する外はない。

昭和二年二月八日

高畠素之


目次

前篇、マルキシズム概説

第一講、唯物史観

一、緒言/二、『科学的』社会主義/三、唯物史観の要領/四、物質的生産力と精神的文化/五、物質的生産力と社会組織/六、階級闘争

第二講、資本主義の必然的崩壊

一、唯物史観の現社会適用/二、資本の生命/三、利潤の源泉/四、資本の集積と集中/五、蓄積の信仰と可変資本の減退/六、余剰価値生産上の困難/七、余剰価値実現上の困難

第三講、中間階級のプロレタリア化とプロレタリアの窮乏増大

一、資本集中の社会的影響/二、小規模生産の衰滅/三、非消滅説及びそれに対する駁論/四、プロレタリアの地位/五、プロレタリアの窮乏増大/六、生理的窮乏と社会的窮乏

第四講、階級闘争並びに未来社会

一、階級闘争の意義/二、プロレタリア階級の結成/三、プロレタリア革命/四、ボリシエイズムと社会民主主義/五、生産機関の国有/六、社会主義社会


後篇、国家主義概説

第一講

一、生物の社会的結合/二、社会的本能とエゴイズム/三、支配機能の必然性/四、支配機能の特殊化/五、階級支配の成立/六、歴史上の国家主義

第二講

一、プラトンの政体論/二、ポリビオスの政体観/三、君主制と共和制/四、君主機関説と君主主体説/五、アメリカの大統領専制/六、多数政治と少数政治/七、多数政治の矛盾と必然

第三講

一、プラトンの共産国家主義/二、マキアヴェリの強力国家主義/三、マーカンチリズム/四、ホップズの契約国家主義/五、ヘーゲル及び其流派/六、国家社会主義


地代思想史

本書は、『社会科学叢書』第10編として、昭和3年に日本評論社から出版されたものである。本書執筆の動機として、高畠は、昭和初年の小作争議に興味を抱いたことを指摘している。基本的にマルクスの地代説の歴史的研究を下敷きにしているが、当時の日本の地代研究の中では、かなり早い部類に属し、地代論争の起る前の著作である。そのためか、余り芳しい研究成果ではないとされ、研究史的にも以後に顧みられることはなかった。

本書には重農主義以後の学説が列挙されている。しかし本書巻末の参考文献に、『資本論』や高畠の著書の外、カール・ディールの『経済学選集』を始め、西欧の「学説史」が挙がっている如く、本書に展開された学説は、高畠自身が諸々の原著書を読破した結果として、独自に地代学説を解説したという類のものではなく、西欧の経済学史から地代学説を抜粋的に紹介したものと考えられる。ただ本書は、諸々の地代論がマルクスの地代論に収斂されるように、先行諸学説を配置した如くではある。

なお以下の序文に見える引用論文は、『農政研究』第6巻第4号に掲載された論文で、今は『批判マルクス主義』第1篇第10章の「地代論と農民問題」に収録されている。文中、若干の改変があるため、煩を厭わず掲載した。

序言

私は地代論について格別特殊の研究をして来た訳ではない。随つて、この問題に関し語るべき何等の蘊蓄も有たぬ。ただ、マルクス資本論の研究に当つて、彼れの経済理論の一節としての対差地代及び絶対地代の考察に特殊の注意を向けたといふに止まる。が、それも、マルクス経済理論の全構造に対する関心の一部に過ぎぬのであつて、地代論なるが故に特に立ち入つた研究をなしたといふ訳では決してない。

それであるのに、ことさら茲に『地代思想史』などを述作したのはどういふ訳であるか。それは、近頃八釜しい農民問題に関する考察の副産物として、寧ろ通りすがり的に、地代論の方へ自分の注意を引き込まれた結果なのである。

日本の農民問題に関する論策は、今日迄のところ、多くは労資階級闘争の延長としてのみ企構されてゐる。農民問題は地主対小作人の階級的利害問題であつて、その起点も、帰趨も、一般労資闘争の鏡にかけてのみ有意義だとされてゐる。この謂はゆる労農主義的農民論策の提唱者たちは、殆んど例外なしに、マルクスの経済理論を以つて彼等の立論の虎の巻としてゐるやうに見える。

ところが、私の読んだ限りでのマルクス経済理論からすると、彼等の行き方とは寧ろ反対の方向に誘はれるやうに感じた。で、これにつき、私は嘗て、或る雑誌に次の如く論じたことがある。


マルクスは資本及び利潤の分析におけると同じく、地代の研究においても、近世資本主義制度の典型国たるイギリスを標準に採つた。イギリスの農業は、地主と、小作企業者と、農業労働者との相互対立した出揃ひを示す。地主は土地の所有者である。農企業者はこの地主から土地を小作賃借して、自己の雇傭する賃銀労働者に農業労働を営ませる。これによつて得るところの収益中から、彼れはその目的のために投じた資本を回収する上に尚ほ地主に対しては地代を支払ひ、みづからは産業上の平均利潤を収得し、労働者に対しては通例の賃銀を支払ふ。地主に地代を支払はなければ、土地を利用することが出来ぬ。労働者に通例の賃銀を支払はなければ、労働力は農業以外の方面に流れ出す。資本も亦、平均利潤が得られなければ、他の産業部面に逃れ去る。

農業以外の産業部面における生産物の価格は、生産価格を中心として上下してゐる。生産価格とは、不変資本たる機械、建物、原料等に投じた謂はゆる費用価格に平均利潤を加へた総額である。非農業生産物の価格はこの生産価格と一致し得るものである。しかるに、農業生産物の価格は常にこの生産価格を超過せねばならぬ。なぜならば、それはこの生産価格以外に尚ほ地代といふ余分の一要素を含むからである。小作企業者は、地代を支払はなければ地主から土地を借りることが出来ぬ。その地代は何処から支払はれるかといへば、農産物の価格の中から支払はれるのである。つまり、農産物の価格はそれだけ工業生産物の価格よりも高くされてゐる訳である。

もちろん、現実においては、工業生産物の価格にも地代が算入されてゐる。けれども、それは農業地代の転化されたものであつて、農業地代の分析後に初めて理解さるべきものなのである。それ故、農業地代の分析に於いては、先づ農業以外の方面の地代は存在しないものと仮定せねばならぬ。

農業地代の一部はこの様にして生ずる。この地代を、マルクスは絶対地代と呼んだ。

イギリスの農業はこの様に地主と、小作企業者と、農業労働者との相互対立した出揃ひを示すものであるから、地代成立の筋みちを辿るには至つて便利である。けれども、他国ではこの関係がさう明瞭に分化されて居らぬ。殊に、我が日本の如きは、農家(大正十三年現在五、五三二、四二九戸)の大部分は小作農(同上一、五三一、一七七戸)及び自作兼小作農(同上二、二七五、四二四戸)に依つて占められ、これらはみな農業働者を兼ねてゐる。残余の自作農(同上一、七二五、八二八戸)にあつても、その大部分が農業労働者を兼ねてゐることは言ふ迄もない。イギリスにおける如く、小作人が一方には地主から土地を借り、他方には賃銀労働者を雇傭して、利潤収得のために農企業を営むといふ関係は見られない。

イギリスのテナント・ファーマースはブルヂォアたる農業資本家である。これを邦訳すれば『小作人』であるが、日本の小作人は事実に於いて水呑百姓であり、貧乏人であり、プロレタリアである。私は『資本論』の翻訳に当りこの語の適訳に困つた末、『小作農業者』といふ妙な訳語を使ふことにした。農業労働者に対する搾取を原則としてゐる農企業者のことを小作人としては、日本人の頭にシックリ来ない。そこで小作農業者とすれば、幾分資本家又は企業者の意味を聯想せしめ得るであらうと考へてこんな訳語を使つた訳だが、果してその效果があつたかどうかは疑はしい。

日本の小作人は、地主に対して小作米を納める。即ち、日本の農村には、物納小作料が行はれてゐる訳だが、この小作料は果して厳密な意味での地代といひ得るかどうか。地代とは、自己の所有地を他人に利用せしめることに対して得るところの賃子である。この意味において、小作料は地代であるといひ得る。けれども、経済学上にいふ厳密な意味での地代は、上述の如く、小作企業者の得べき平均利潤、農業労働者の得べき平均賃銀を支払つた上に、尚ほ農産物の価格中に存するところの過剰分でなくてはならぬ。若しこれに反して、利潤又は賃銀の一部乃至全部を以つて小作料に充てるとするならば、それは法律上又は名目上地代とはいひ得るかも知れないが、経済学上では地代といふことを許されぬ。マルクス自身の言葉をかりていへば『小作農業者が若し、彼れの労働者に支払ふべき通例の賃銀なり又は彼れ自身の手に帰すべき通例の平均利潤なりからの、一の控除分たる小作料を支払つたとしても、それは何等の地代……を支払つたことにはならぬ。……これら一切の場合を通じて、小作料は支払はれるとはいへ、現実的地代は何等支払はれぬ』のである。(改造社版『資本論』第三巻下二九六―二九七頁)。

この見地からすれば、日本の小作人は地主に対して小作料を納めてはゐるけれども、地代を支払つてゐるとはいへぬ。なぜならば、彼等は農企業者として平均利潤を得るどころか、労働者としての『通例の』賃銀をさへ得ることの出来ぬ状態に在るからである。彼等は小作人として企業者たる位置に立つものとされながら『通例の』労働者たるに相応しい生活をすら恵まれて居らぬのである。

それは、彼等は地主のために収益を奪はれてゐるからだと、労農党の弁士たちは言ふかも知れぬ。けれども若し、地主に奪はれるところのものが地代に相当した小作料を代表してゐるとすれば、たとひそれを奪はれたとしても、小作人は尚ほ企業者として『通例の』利潤を、労働者として『通例の』賃銀を収納し得べき筈である。

もちろん、小作人としては小作料が少ないだけが良いし、地主としては小作料の多いことを望む。その限りにおいて、農村の内部に階級闘争の起るべき理由は十分にある。けれども、日本の農民全般が現在の如き悲惨な境遇に呻吟せしめられてゐるのは、単に彼等が地主から搾取を受けることにのみ起因するものではない。彼等は小作人として収得すべき利潤と、農業労働者として収得すべき賃銀との総計中から、小作料を支払つてゐるのであつて、それ以上に生ずべき筈の地代に相当した収益部分は、事実上農民以外の国民部分(都市の資本家、労働者等、等)によつて奪はれてゐるのである。

曩にも述べた通り、地代を生ぜしめるためには、農産物の価格が原則として生産価格以上に出づることを要する。しからんずんば、地代は成立しない。地代は成立しないでも、小作人は無料で土地を耕す訳には行かぬ。地代の有無に拘らず、小作人は小作料を納めねばならぬ。日本の小作人は、これを自己の収納すべき利潤及び賃銀の中から納めてゐるのである。謂はば、彼等は自腹を切つてゐるのだ。なぜ自腹を切らせられるかといへば、地代を以つて小作料たらしめるに相当した程度まで農産物たる米穀の価格が上つてゐないからである。換言すれば、マルクスの認める如き経済上の標準原則が許すところよりも以下の価格で米穀が販売されてゐるからである。

かういふと、都会人は飛んでもない暴論だといつて憤懣するかも知れぬが、生産力の発達が低微で労働を要することが多ければ多いほど、それだけますます生産物の価値が高かるべきことは、マルクスの教ふるところである。そして日本の農業における生産力が、極めて低いことは論を俟たぬ。随つて、日本の農産物の価値は極めて高い。若し精密に計算したならば、日本の米の価値は現在の小売値段の恐らく十倍にも上るであらう。即ち、日本の米は一升四円五十銭といふやうな価値あるものを、四十五銭といふ小売価格で販売されてゐるのである。これが若しイギリスにおける如く、農産物たる特殊位置の上から一升四円五十銭といふ如き価値を最高限界として、その範囲内で米が生産価格以上に販売されるとすれば、日本の小作人は利潤及び賃銀を収得する以上に尚ほ地代をも支払ひ得ることになるであらう。

ところが、事実においては、この利潤及び賃銀の中から小作料が支払はれてゐて、小作人の生活実質は都市労働者の生活水準よりも遥か以下に置かれてゐる。それは、米の価格が余りに安くされてゐるからである。それだけ、米の消費者たる非農業国民は得をしてゐる訳である。即ち彼等は、米価を通じて彼等自身の負担すべき地代をば、小作料として小作人の利潤及び賃銀の中から支払はしめてゐるのである。

要するに、小作人ほど引合はぬ商売はない。彼等は一面において地主に搾られ、他面に於いては都市民に搾られてゐる。二重の搾取を受けてゐるのである。挽臼にかけられてゐるやうなものだ。アダム・スミスは、農産物が国民の生活必需品であるといふ事実から、地代の成立を推論したのであるが、日本では反対に、米が生活必需品であるため、輿論(農業国日本の輿論は、いつも都市民に依つて製造される!)は却つて米価を米の生産価格又はそれ以下の水準に低圧して、地代の成立を不可能ならしめてゐる。

日本の農民社会問題は、一面において地主対小作人の階級的利害問題であると同時に、他面においてはまた、農民対都市民の経済的利害問題である。日本の都市民は、資本家たると労働者たるとを問はず、高い米を安く食ふことによつて農民を搾り苦しめてゐる。日本の小作人にとつては、厳密な意味での経済的地代を支払ひ得る境涯に達することだけでも極楽浄土だ。その場合には、彼等は『通例の』利潤と賃銀とを収納し得る位置に引き上げられるからである。もちろん、その場合にも、彼等の社会問題は残る。といふよりも寧ろ、そのとき初めて、真の農民社会問題が抬頭するといふべきである。なぜならば、そのとき初めて彼等は真の地代を搾取される位置に立つから。

都市民との関係から観た農民問題が、米価問題に集中してゐることは、上述の通りである。農民としては、米の価格を生産価格又はそれ以上の水準に一致せしめて貰はないでは立つ瀬がない。それには、二つの方法がある。第一は、米穀の価値を引下げる工風。価値が低下すれば、必ずしも価格を引き上げるに及ばぬ。それには、農業上の生産力を向上せしめるよりほかに道はない。生産力を向上せしめるには、先づ資本を要する。けれども、農民は精一杯の貧乏であるから、資本どころの騒ぎでない。そこで、この方面から農民問題を解決するには、勢ひ国家の補助にたよるほかはない。国家は、この方面に献身的努力をする義務がある。現に、産業振興のためと称して、他方面の民間営利事業に対しては年々莫大な国庫補助を与へてゐるではないか。ヨリ重大な趣意で、国民の命の根と国軍の精英とを供給するところの農民を補助しないといふ理窟はなからう。これには徹頭徹尾、農業生産力の向上増進といふことが眼目とならねばならぬ。即ち、改良農具の安価提供、肥料の国営又は府県配給、低利資金の融通、等。

若し、この方法によつて、米穀の価値を引き下げる工面がどうしてもつかぬとすれば、第二の方法として、勢ひ米価を生産価格又はそれ以上の水準まで引き上げるよりほかはない。つまり一升四十五銭の米価を一升四円五十銭といふ如き価値水準に向けて問題の解決に必要なる限り吊り上げて行くのである。現在の農業生産率を以つてして、既に年々五六万石の不足を告げてゐる位ゐだといふから、需給率の自然的作用に『輿論』や政府が干渉することさへなければ、都市民は米価がそんなに吊り上げられても泣き寝入るほかはなからう。

もちろん、米価が上れば、労働賃銀も上り、それだけ工業品の価格が昂騰することになるから、工業品の消費者たる農民は結局覿面の報いを受けるといふ理窟も立たぬ訳でないが、そんなことは平時にいふべき事柄であつて、茲まで解決の荒治療を進めた場合には、農民は一切の工業品をボーイコットする位ゐの覚悟で自給自足の臍を固めたものと仮定すべきである。

もちろん、以上いづれかの方法によつて、仮りに米穀の価格が生産価格の水準に一致せしめられたとしても、現在の如き物納制の下では、それに伴ふ利益を地主に壟断される虞れがある。また、これを金納に改めたとしても、小作料の歩合について、地主と小作人との利害は絶えず衝突する。それ故、農民問題を対都市民の関係方面だけから解決するにしても、その条件として不断に対地主問題が絡らんで来ることは避けられぬ。要するに、日本の農民問題は、これを縦にして考へるならば、地主対小作人の階級的利害問題であり、これを横にして考へるならば、都市民対農民の経済的利害問題であつて、いづれか一方を解決した後に他方の解決に著手するといふ訳には行かぬ。互ひに相須ち、互ひに交錯してゐるのである。その解決は同時的たることを要する。

しかるに、近頃流行の労農党弁士式論者の口吻によると、日本現在の農民問題は専ら地主対小作人の階級的利害問題であるかの如く見える。彼等は、これをマルクス学説から推究して来る如くであるが、さう単純安値に推究されては地下のマルクスも浮ばれまい。マルクスを読んだならマルクスの精神に徹する工風が肝要だ。素朴に形骸だけを盲信したのでは、マルクスの理論が死んで応用される。同じマルクスの前提から出発しても、これを日本の状態に活用すれば、反対の観察も出て来ることを知らねばならぬ。


私が地代論について或る程度の特殊興味を感じ、進んでマルクス以外の諸学者の地代論に対しても大体の特色と傾向とを明かにし、その歴史的発展を究めたいといふ気を起したのは、主として斯かる考想の偶然的産物に過ぎぬ。茲に刊行する『地代思想史』は、その偶然的産物の更らに微小な一片鱗たるに止まるものであつて、将来において展開すべき私自身の地代論の一篇を形づくるといふ程度以上には出でない。それは私の研究の完了を飾るものではなく、これより開始せんとする私の研究の一小序曲と見るに相応しいだけのものである。

昭和三年五月三十日

高畠素之


目次

序言

A、初期の地代観

第一章、フィジオクラット派の地代観

一、フィジオクラット派の抬頭/二、フィジオクラティの特色/三、ケネーの『経済表』/四、チュルゴーの地代論

第二章、アダム・スミスの地代観

一、スミスの生涯とその根本思想/二、価値論と分配論/三、常に地代を生ずる土地生産物/四、時に地代を生じ、時に地代を生ぜざる土地生産物/五、スミス地代論の批評

B、地代学説の成立

第三章、リカルドの直接的先駆

一、対差地代説の萌芽/二、マルサスとその時代/三、マルサスの地代論/四、マルサスとリカルド

第四章、リカルドの地代学説

一、リカルドの生涯とその根本思想/二、交換価値の構成要素/三、資本と価値の関係/四、地代の概念/五、対差地代の三形態/六、地代と穀物価格/七、地代の増進と減退/八、地代の社会政策的意義/九、リカルド地代論の批評

第五章、チューネンの地代学説

一、農地地代と一般地代/二、位置による対差地代/三、地代税の経済的意義/四、自然賃銀説

第六章、地代論と土地改革運動

一、土地改革論の台頭/二、地代の法則/三、利子の源泉/四、独占利得の排除

第七章、ロドベルトスの地代学説

一、ロドベルトスの根本思想/二、賃子一般の起原/三、地代の本質/四、ロドベルトスの地代論の批評

第八章、マルクスの地代学説

一、マルクスの生涯/二、地代の概念/三、対差地代の一般的特性/四、対差地代の第一形態/五、対差地代の第二形態/六、絶対地代/七、マルクスとリカルドとロドベルトス

参考書目

索引


マルクス経済学

本書は、『現代経済学全集』の一冊として、昭和4年に日本評論社から出版された。これは改造社の『経済学全集』と出版合戦になったものとして知られており、共産主義的傾向の学者を集めた改造社に対して反感を持っていた高畠は、日本評論社側に与することになったものである。本書の完成に、そして改造社に勝つことに執念を燃やしていた高畠は、病をおして執筆を続け、死ぬ一ヵ月前まで筆を握っていたと言われている。

「本書に私―― 一回の小やかなる浪人学徒たるに過ぎないところの――が序言しなければならないに至つたといふことは、読者にとつて、また出版元たる評論社にとつて不幸であると共に、私自身にとつても甚だ遺憾である。」という石川準十郎の言葉より始まる「序言」には、石川が高畠の遺命に従い本書を完成させた経緯が具に記されてある。これによると、高畠の執筆部分は、都合三分の一強であると推測され、本書は高畠と門下との合作の如きものと見られる。しかし残余部分が高畠の他の著書から抜粋編集して作られたこともあり、著者は高畠素之となっている。

本書が出でた後、福田徳三は『改造』誌上で激賞を加えているが、本書の内容的特質は、石川が本書月報に与えた次の言葉に尽きている。「それ(――本書が高畠の手に完成しなかったこと)を以つてしても尚本書は、マルクス経済学説の全体系に亘つてこれを比較的平明に且つ系統的に開述してゐる点に於いて、また全マルクス社会主義との関係に於いてマルクス経済学説の帰するところを明かにせんとした点に於いて、本邦マルクス学界に他に類書を見ないものであり、充分の存在価値を有するものと思われ」、「これを批判的にあくまで科学的に平明に取り扱つた著書なるものは、他に無いのである。」

なお石川も指摘するように、本書の中、本論に先だって附された「序説」に特に注目が加えられた。ここで高畠は、「マルクスの研究方法」として唯物辯證法を批評し、マルクス経済学は一般的な科学的研究法(演繹・帰納)によって分析できるもので、必ずしも唯物辯證法に頼る必要はないという結論を出している。この部分は後に『国家社会主義』(昭和8年4月号)に「マルクス唯物辯證法に就いて」として再掲載された。

以下、本書の目次を掲げるが、同時に高畠の序文の代わりに、『経済学全集』の為に草した一文を『経済往来』第3卷第12号(昭和3年12月)より掲載しておく。(本書は「序言」のみテキスト化しているので、興味のある人はそちらを見て下さい。)

『マルクス経済学』について

私の担任は『マルクス経済学』であるが、マルクス物については従来幾冊となく訳著を出してゐるので、改めて『書き卸しの新著』と銘打たれると自然気持が固くならざるを得ない。既刊自著の焼直しだとか、寄せ集めだとか言はれさうな気がして手も足も出ない。しかし一旦さう標榜したからには、出版元の面目のためからいつても、この際どうしても非常な決心で机に向はねばならぬ。

私の従来出したマルクス物では『資本論』全三巻の訳書は別として、自著『マルクス学解説』と訳書『カウツキー資本論解説』との両書が最も広く歓迎された。しかし、カウツキーの解説は主として『資本論』第一巻の範囲に限られ、『マルクス学解説』は第三巻の主題をも部分的にはとり入れてゐるが決して十分でなく、加ふるに第二巻の主題は全然顧慮せずにある。

そこで今度の『マルクス経済学』では、『資本論』全三巻にわたつて平易な解説を試み、その間たえず自分自身の批判的態度を臭はせて行くつもりである。私はこれに依つて別段一家の新見地を提供しようなどいふ大それた抱負はなく、ただ出来る限り平明通俗にマルクス経済学全豹の要領を伝へ得れば、それで十二分の成功と思つてゐる。

で、大体の骨格は次の様にするつもりである。

第一部 余剰価値の生産
第二部 余剰価値の実現
第三部 余剰価値の配分
第四部 資本制経済の崩壊

マルキシズム方法論の骨髄たる唯物史観の問題は、右の第四部で取扱ふ。右の第一部は『資本論』第一巻、第二部は『資本論』第二巻、第三部は『資本論』第三巻の主題に該当するものである。

終りに、こんなことを自分で言ふのもどうかと思ふが、私のマルクス物はこれまで実によく捌けた。一体に日本の読書界ではマルクス物が大流行と聴くが、実をいふと種類の多い割に版を重ねたものは至つて少ない。この点で、私一人のマルクス物は、日本に於ける大小マルキシスト全体の既刊総数よりも多く捌けてゐると思ふ。その原因が那辺にあるか。私の考では矢張りマルキシズムに対する私の態度が専ら歓迎されてゐるのではないかと思ふ。即ち、狂信的でなく批判的であり、泥酔的でなく傍観的であるといふやうな点、これが一般読書子にとつて如何ばかり私を愛着の的たらしめたか。要するに、信仰や宣伝が鼻につくやうでは、賢明な読者は立どころに誇張や偽瞞を聯想して鼻も引ッかけない。

この点、評論社の今度の全集計画に通ふ落ちついた空気がひどく私を満足させた。従来私を歓迎してくれた全国数十万の読者諸君は、この際挙つて評論社の現代経済学全集を支持して下さるであらうと信ずる。


目次

序説

一、マルクス経済学説の構成体系
二、マルクスの研究方法

第一部、余剰価値の生産

第一篇、商品・貨幣・資本

第一章、商品

第一節、商品生産の性質

一、資本制社会と商品/二、商品生産の由来/三、商品生産の性質/四、商品の魔術性

第二節、商品の価値

一、使用価値/二、交換価値/三、価値/四、価値の大小/五、価値の変動/六、使用価値と価値/七、労働の二重性

第二章、貨幣

第一節、資本の発生

一、商品生産社会と貨幣/二、商品交換の第一期/三、商品交換の第二期/四、商品交換の第三期/五、貨幣の発生/六、価格

第二節。貨幣の機能

一、価値の尺度としての貨幣/二、流通要具としての貨幣/三、貨幣のその他の機能

第三章、資本

第一節、貨幣の資本化

一、商品流通の二つの形態/二、余剰価値の発生と資本の成立

第二節、余剰価値の源泉

一、流通行程よりは生ぜず/二、商品としての労働力/三、労働力の価値の決定

第二篇、余剰価値の生産

第一章、余剰価値の生産

第一節、労働行程と価値増殖行程

一、労働行程/二、価値増殖行程/三、余剰価値の成立

第二節、不変資本及び可変資本

一、労働の価値創造性と価値移転性/二、不変資本及び可変資本

第三節、余剰価値率

一、余剰価値率/二、余剰価値率の算出

第二章、絶対的余剰価値の生産並びに相対的余剰価値の生産

第一節、絶対的余剰価値の生産

一、絶対的余剰価値の生産と労働日/二、労働日の限界

第二節、相対的余剰価値の生産

一、相対的余剰価値の生産と必要労働時間/二、必要労働時間の短縮と労働生産力の増進

第三篇、協業・分業・機械

第一章、協業

一、協業の意味/二、資本制度の出発点としての協業/三、協業の一般的性質に基く效果

第二章、分業

一、資本化と労働者の対立/二、工場的手工業の二重起原/三、分業に伴ふ效果/四、工場的手工業の総機構/五、機械工業の発生

第三章、機械

一、機械とは何か/二、機械を造る機械/三、生産物への機械の価値移転/四、機械経営と婦人小児労働/五、労働時間の延長と能率増進

第四篇、資本の蓄積

第一章、単純なる再生産

第一節、余剰価値の再生産

一、余剰価値の生産/二、余剰価値の再生産

第二節、単純なる再生産

一、賃銀の労働者の所産化/二、全資本の労働者の所産化

第二章、拡大せる再生産

第一節、資本の蓄積

一、余剰価値の資本化即ち資本の蓄積/二、日本に於ける資本蓄積の実際/三、資本蓄積の基礎条件

第二節、資本蓄積に影響を及ぼす諸事情

一、資本化の節慾/二、労働者の節慾、労働力の追加、その他

第三章、資本蓄積に伴ふ諸現象

第一節、労働力需要の増加

一、資本の組成/二、労働力需要の増加及び労銀の昂騰/三、労銀昂騰の限界

第二節、可変資本の相対的減少

一、生産力の増進と資本組成の変化――可変資本の相対的減少/二、資本の集積と資本の集中

第三節、過剰人口

一、労働者の過剰化――資本制生産方法の人口律/二、産業予備軍


第二部、余剰価値の実現

第一篇、資本の循環

第一章、資本の循環

第一節、貨幣資本の循環

一、資本循環の三段階/二、貨幣資本の循環

第二節、生産資本の循環

一、単純なる再生産の場合/二、拡大せる再生産の場合

第三節、商品資本の循環

一、商品資本の循環/二、商品資本の循環の特性

第二章、資本の流通

第一節、資本流通の交錯

一、単純なる商品流通との交錯/に、資本流通相互の交錯

第二節、流通期間及び流通費用

一、流通期間/二、流通費用

第二篇、資本の回転

第一章、資本の回転に影響を及ぼす諸事情

第一節、資本の回転

一、資本の循環と資本の回転/二、資本の回転期間及び回転度数

第二節、固定資本と流通資本

一、固定資本と流通資本/二、固定資本及び流通資本の回転

第三節、生産期間及び流通期間

一、労働期間/二、自然期間/三、流通期間(販売期間及び購買期間)

第二章、資本の回転が余剰価値の実現に及ぼす影響

第一節、資本前貸の大小に及ぼす影響

一、回転期間と資本前貸の大小/二、追加資本と資本の回転

第二節、余剰価値の年率に及ぼす影響

一、可変資本の回転と余剰価値の年総額/二、余剰価値の年率


第三部、余剰価値の配分

第一篇、余剰価値の利潤化と利潤率の平均化

第一章、余剰価値の利潤化

第一節、抽象の世界より現実の世界へ
第二節、費用価格
第三節、不変資本及び可変資本の混同
第四節、余剰価値源泉の総資本への移転
第五節、費用価格と販売価格
第六節利潤率

第二章、利潤の平均利潤化

第一節、資本組成の差異と其結果たる利潤率の差
第二節、需給作用に依る価格調節
第三節、利潤率の平均化
第四節、生産価格と価値

第二篇、余剰価値の配分

第一章、商業利潤及び利子

第一節、商業利潤

一、商品取引資本/二、商業上の利潤/三、商業上の労働者/四、貨幣取引資本

第二節、利子

一、利子附資本/二、利子率/三、利子及び企業利得/四、信用制度/五、銀行制度

第二章、余剰利潤の地代化

第一節、資本制地代

一、地代の歴史的形態/二、地代概念の分析/三、地代の本質

第二節、対差地代の一般的特性

一、独占的自然力と余剰価値/二、四条利潤を地代たらしむる原因/三、対差地代の諸形態

第三節、対差地代の第一形態

一、対差地代の第一形態/二、対差地代第一形態の補正/三、概括

第四節、対差地代の第二形態

一、第二形態の意味/二、第二形態の対差地代を生ずる三つの場合/三、第一形態と第二形態の複合現象/四、最劣等地に生ずる対差地代

第五節、絶対地代

一、対差地代と絶対地代/二、絶対地代の生ずる原因/三、建築地地代・鉱山地代


第四部、資本制生産の崩壊

第一章、利潤率低下の傾向

第一節、資本制生産の唯一動機
第二節、労働生産力の増進方法
第三節、機械発達とその結果
第四節、資本組成の高度化
第五節、利潤率低下の傾向と法則
第六節、利潤率低下と利潤量
第七節、資本制生産に内在する矛盾

第二章、余剰価値実現上の困難の増大

第一節、販路欠乏と過剰生産
第二節、商品の二重性質
第三節、無産者の購買力減退
第四節、資本制度の崩壊と社会主義実現の必然性


批判マルクス主義

本書は、高畠素之の死後、門下の小栗慶太郎らが、日本評論社から昭和4年に出版した遺稿集である。小栗が序文で指摘するように、高畠の著書の中でも、最も包括的に国家社会主義理論を展開したものである。そのため高畠の国家社会主義理論を知るには、一度は目を通さざるを得ない本となっている。

ただし本書は高畠の原本そのものではない。本書のもとになった原稿は、大正14年の序が存在するように、そして小栗の指摘するように、高畠によって大正14年に完成された原稿であった。しかし高畠は何故かそれを出版せずにしまい込み、高畠の没後、ようやく小栗等がその原稿を見つけ、いくつかの手を加えて出版したのが本書である。

小栗氏の序文に従うと、現行本と原本との差異は以下のようになる。原本は、批判・主張・飜訳の三部構成であり、飜訳部分にはカウツキーのデモクラシー論などが収録されていたらしい。しかし現行本は、(1)第三部(飜訳)は時勢と紙面の問題から削られ、(2)第二部の一論文が論調過激につき削除され、(3)その代わりに第一部と第二部にそれぞれ原本完成以後に考えた高畠の論文を増補された。なお(4)増補部分には他の論文との整合性をとるため、小見出しなどが小栗らによって新たに附された、さらに(5)原本にあった高畠の序文は、新たに草された小栗の序文の中に埋没することになった。

以下、現行本の『批判マルクス主義』中、小栗の序文に埋もれた高畠の序文を取り出して掲げる。また便宜的に現行本の目次を掲げておく。小栗の序文は著作権の関係上省略した。(本書は再編集を加えた上、テキスト化を了えているので、興味のある人はそちらを見て下さい。)

(序文)

『批判マルクス主義』とは『マルクス主義の批判』と『批判的マルクス主義』との両面の意味を含ませたものである。マルクス主義は諸種の個別的学説の集積であつて、これら諸学説の各々を承認し、且つ其総和に依つて与へらるべき有機的体系の中に特殊の感激的尊厳を含ませてゐるのであるが、マルクス主義の提示する各個の学説は果して、現実的批判の俎上に一様の価値を認められ得るものであらうか。また其総和たる体系それ自身の有機的結合の上に何等の無理なる点もないと言ひ得るであらうか。かかる考察の立場からすれば、マルクス主義なるものは、私にとつては一つの批判対象たるに過ぎない。この方面に於ける私の任務は、『マルクス主義の批判』を以つて終始する。

然し私は又、マルクス主義の真理的要素を認めることに、怯懦であつてはならない。マルクスの命題には幾多の錯誤と矛盾とが含まれてゐることは事実であるとしても、少なくとも彼れが資本制度の発達について与へた歴史的考察の価値は不朽である。更らに此考察の結論たる資本制生産の終了、次いで生ずべき新社会の曙光に対する暗示、並びに此推転行程に於けるプロレタリア階級の歴史的役割の強調――これらの貢献も亦、等しく不朽の価値あるものと信ぜられる。若し此等の考察がマルクス主義の本質的要素であり、而してマルクス主義の本質を是認するものは即ちマルクス主義者であるとすれば、私も亦一個のマルクス主義者であると言ひ得るであらう。然し私は又、マルクス主義の誤れる点をも熱心に強調する。そこで、仮りに私がマルクス主義者であるとしても、私をマルクス主義者と認めることはマルクスの神髄の冒涜であると感ぜられるほど、私はマルクス主義に於いて極度に批判的である。

批判マルクス主義の中に、正統派マルクス主義の巨頭と称せられるカウツキーのデモクラシー論を組み入れたことは、聊か調子はづれの嫌ひがないでもないが、社会主義対デモクラシーの論究に於いては、今日では寧ろレニン系共産主義者の主張が正統マルキシズムの本流たらんとする形勢であるから、それに対して鋭き批判的の立場を守るカウツキーの所論を以つて、本書の一部を飾らせたことは、必ずしも無理な場ふさげとして非難さるべきではなからうと信ずる。

本書の内容は、本書を作る為に書いたものではない。従来断片的に時折り書いては発表したものの中から、如上の両意義を含む本書の題名に相応したもののみを選んで蒐めたものに過ぎない。

大正十四年六月二十四日

高畠素之


批判マルクス主義目次

第一篇 批判

一 唯物史観の改造

用語のトンチンカン/生産技術と経済的変化/生産力と生産関係/改造の第一点

二 社会革命と政治革命

二人のマルクス/マルクスの社会革命観/マルクスの政治革命観/マルクスと河上博士の矛盾/政治革命の必要/政治革命の救済

三 マルクス価値説の『矛盾』

マルクス経済論叢/マルクス価値説の要領/矛盾とされる点/弁護論拠の一/弁護論拠の二/第二の反対論/小泉氏の反対論/マルクス説の最大弱点

四 超国家的マルクス主義の矛盾

マルクスの論拠/資本集中と国家の存在/マルクス主義は超国家的/マルクス主義の歴史的煩悶

五 国家論としてのマルクス主義と国家社会主義

両主義の分岐点/応用上の差異/マルクス主義の不徹底

六 プロレタリア国家の論理的破綻

エンゲルスの要領記/ブルヂオア国家とプロレタリア国家/レニンの腹/階級分業観/国家の本質

七 社会主義分類上の一考察

無政府主義とマルキシズムとの異同/国家社会主義の国家観/『過渡』段階の経過が問題

八 無政府主義の空幻

無政府主義の成立条件/クロポトキンの狙ひ所/急進は無政府を否定す

九 資本主義と営利

資本主義の悪い点/自由と統制の調節/自由放任主義の下に於ける統制/欲望としての営利/営利欲望の作用效果/将来の危惧

十 地代論と農民問題

マルクスの地代論/日本の小作人/二重の搾取/農村問題解決の二方法


第二篇 主張

一 大衆の心理

非国家的社会主義の口吻/上流者に愛国心なし/無産大衆の至情/無産大衆の反逆心/大衆の心理と国家社会主義

二 国家社会主義の立場

社会主義と国家主義は一心同体/資本主義の非国民性/社会主義の使命/所謂主義者の罪

三 国家社会主義の必然性

看板の弁/政治権力の否定/労働者と国家/マルクスの国家観/社会的結合の発生原因/支配機能の発動と分化/搾取の廃絶は支配関係の消滅に結果せず

四 我々の国家観

某社会主義者の抗議/国家の本質/国家発生の過程/国家の本質は搾取に先行す

五 国家社会主義の政策

非国家思想の撲滅/過激法案私見/産業国家主義/普選、物価公定その他/国民皆兵制その他

六 消費者本位の大衆運動

労働組合運動の缺点/矛盾の一例/無産者としての労働者

七 議会運動

政治運動と議会運動/議会運動否認論の迂愚

八 暴力論

暴力の流行/暴力の二要素/強制と闘争/暴力と知識

九 軍国主義

西洋かぶれの非国民/米穀の侵略ぶり/ロシアの侵略ぶり/日本に対する歐米人の心理

一〇 帝国主義の発展

帝国主義の変遷/帝国主義と国家主義/政治的支配より経済的支配へ/国際間の弱肉強食/『平和』の経済的利益/町人的帝国主義の打倒

一一 帝国主義の帰趨

帝国主義的衝動/利潤実現の困難/資本の海外販路追求/帝国主義の行詰り/各国資本の競争/帝国主義的世界統一

一二 保守党の天下

果して反動化か/保守党擡頭は当然の帰結

一三 無産愛国党の基調

無産愛国党の必要/現存政党は皆いけない/真の愛国者は無産階級にあり/無産愛国党の綱領

一四 今日の無産党は皆いけない

無産政党の超国家主義/国内闘争と国際闘争/看板に偽りあり/国家的大義名分を高揚せよ

一五 農民政党の将来

農民政党の無力/現実的農民政策を樹立せよ

一六 資本主義否定と共産主義及社会主義

共産主義との対立点/悪平等主義の排撃/国家社会主義実現の原動力

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