著作目次序文(翻訳書編)

資本論

『資本論』については論ずる必要もないと思われる。本書の本邦初全訳が高畠の手になり、それ故に高畠は有名になった。『資本論』翻訳に関する一般的解説は、鈴木鴻一郎『「資本論」と日本』(弘文堂,1959年)に詳しく論じられている。

高畠素之の翻訳は、前後3回に渉る。第1回は、大鐙閣と而立社から出版したものである。第2回目は新潮社から出版したものである。第3回目が改造社から出版したものであり、これが決定版となった。この中、新潮社版と改造社版とは通常の改訂であり、文章的にもそれほど相違はない。しかし大鐙閣版と新潮社版とは、文章に相当の移動があり、内容的にも多々改訂されており、面目を一新した出来となっている。各々のできばえについては高畠自身がその序文に語っているほか、『自己を語る』の中でも触れている。なお敗戦後、本書は一二の出版社から再版された。

以下には新潮版『資本論』の訳者序文を掲げておく。目次などは意味もないため省略する。(本書は各版の「序文」のみテキスト化しているので、興味のある人はそちらを見て下さい。)


旧改訳版序文

私が『資本論』の飜訳に著手したのは大正八年七月、最後の分冊を刊行し了へたのは大正十三年七月、その間正に五年の星霜を閲してゐる。同一出版物の労作期間としては可なりに大きな年月と言はねばならぬ。勿論、その間には種々なる余儀的享楽に時間を浪費したこともあるから、五ヶ年の全部を『資本論』のためにのみ没頭したとは言ひ得ないが、然しこの間に於ける私の注意と努力と時間の主要部分が、『資本論』刊行の一目的に集中されてゐたことは事実である。

それで昨年七月、最終分冊を刊行し終つたとき、私の過去五年間の努力は曲りなりにも大成された訳であるから、私としては大いに重荷を卸した気分になり、祝盃の一つも上げねばならなかつた筈であるが、事実は更らに苦痛を加へるのみであつた。それは私の過去に於ける労作が、甚しく不出来に終つたといふ自意識に原因を置いてゐる。

私の飜訳は、何よりも先づ難解であつた。訳者たる私自身が読んで見ても、原文を対照しないでは意味の通じない処が無限にある。これは一つには、『資本論』の名に脅威されて、私の訳筆が余りに硬くなり過ぎたことにも起因してゐる。現に『資本論』以前に刊行した『資本論解説』の方は、不出来ながらも難解の缺点は比較的少なかつた。『資本論』も『解説』程度にやつてやれぬことはなかつたであらうが、何分にも硬くなつてしまつて日本文の体をなさなくなつた。

第二に、純然たる誤訳とすべきものが少なからず見出された。これは大抵ケーアレス・ミステークとして恕し得べきものであつたが、中には私の実力不足に依るものも可なりあつた。

第三に、印刷上の誤植その他不体裁の点が少なからず見出された。ことに旧版第一巻第一、第二冊の如きは、刊行を急がされたためでもあらうか、随分物笑ひになりさうな缺点を含んでゐた。

然し、誤訳や誤植を改めるのには、さして時間と労力を要しない。一番困難なことは、難解の訳文をいま一度原文と対照して、日本人に解る日本語に全部訳し換へることである。それも些々たる小冊子ならば兎も角、大冊三巻に亙り一難去つて更らにこの苦戦をきり抜けねばならぬかと思ふと、さう思つただけで気が詰まりさうになる。それほど、私の神経と理解性の尖端は『資本論』のために麻痺し尽されてゐたのである。

然し、私としては、どうしてもこの仕事だけは完成せねばならぬ。原本が原本だけに恥を後世に遺すやうなことがあつては申訳がない。十分とは行かぬ迄も、せめて日本文が読めると仮定したマルクスから、一流の冷笑を以つてあしらはれないだけの成績は収めて置きたい。旧版は兎に角失敗であつたが、第二戦に於いては少なくとも其処まで漕ぎつけたい、といふのが絶えず私の心頭にこびりついて離れない念願であつた。

さういふ決心を以つて著手したのが、この改訳版である。忠実、真摯の二点は勿論不動の出発点として、それ以外、この改訳版で最も力を罩めたのは、旧版の最大缺点たる難解を一掃して、出来得る限り理解し易い日本文の『資本論』を綴ることであつた。この点に於いて私の努力がどの程度まで功を奏したかは、勿論権威ある評者の評価に待つの外はないが、私としては全力的に精根を絞つたつもりである。時間も可なり費した。昨年八月から著手して、少なくとも昨年一杯には第一巻だけは仕上げるつもりであつたが、何分にも手入れを要する個所が多く、今日に及んで漸く第一巻を完了したやうな始末、その間十ヶ月は文字通りこの仕事のためにのみ没頭して来たのである。

改訳については、カウツキー編纂平民版資本論が非常な助けになつた。旧版序文にも断つた通り、私の語学が英独二語に限られてゐるため、その他の国語で原文のまま掲げられてゐる脚註や引抄は如何とも歯が立たぬのであるが、カウツキーの平民版にはそれが全部ドイツ語に飜訳されてゐるので、この点が先づ助かつた。次に、言ひ現しの曖昧な点、難解な点や、句切りの長い処などは、すべて読者の便宜を標準として手際よく編纂されてゐる。これらの点も出来得る限り、平民版に従つたが、然し全体の骨子は旧拙訳版通り原本第六版を基礎として、平民版の編纂秩序には準拠しなかつた。

以下、読者の便宜のため、『資本論』全体の成立につき簡単な叙述を与へて置く。

マルクスは第一巻序文の中にも言つてゐる如く、最初本書を三巻に分かつ考であつた。即ち第一部『資本の生産行程』を第一巻に収め、第二部『資本の流通行程』と第三部『資本の総生産行程』とを第二巻に充て、第四部『余剰価値学説史』を以つて第三巻の内容たらしめようとしたのであつた。

彼れは第一巻執筆当時、既に全三巻の主要部分をあらかた脳裡に築き上げてゐたのであるが、病気のため第一巻を完成したきりで、一八八三年三月十四日その第三版印刷中にこの世を去つた。

彼れの死後、エンゲルスは第二巻の編輯に著手したが、その編輯中、彼れはマルクスの最初の計画を変更して、第二巻には前記の第二部、即ち『資本の流通行程』のみを含めることを適当と信じた。斯くてこの第二巻は一八八五年五月五日(マルクスの誕生日)、第一巻に後るること正に十八年にして漸く刊行を見ることになつたのである。

第三巻の刊行は更らに後れた。一八九三年七月、第二巻再版の公にされたとき、エンゲルスは尚第三巻の編輯に従事してゐた。それが初めて公にされたのは、一八九四年十月四日、第一巻を距ること実に二十七年の後であつた。第三巻はこれを上下に分かち、マルクスが最初第二巻の後半として計画した前記第三部『資本の総生産行程』を取り扱つた。

第二、第三両巻の発行が斯く長引いた事と、マルクスの原稿を整理するに当つての困難とについて、エンゲルスはこの両巻の序文の中に、立ち入つた叙述を与へてゐる。彼れはその労作に対する彼れ自身の貢献を努めて貶下しようとしてゐるが、事実彼れの苦心努力が如何ばかりであつたかは、到底筆紙に尽し難き所であらうと思ふ。彼れは数年間にわたる衰視のため、人工光線の助けに依つて辛うじて筆を手にし得るに至つたことを第三巻序文中に述べてゐる。実に『資本論』はマルクス、エンゲルスの厳密の意味に於ける共同著作といふも過言でない程、エンゲルスの努力に負ふところが多かつたのである。

エンゲルスは、マルクスが第三巻として計画した前記の第四部『余剰価値学説史』をば第四巻として刊行する予定であつたが、その目的を達せずして不幸協労者の跡を追つた。それは一八九五年八月六日、第三巻が刊行されてから、わづかに一年足らずの後であつた。

然し、彼れはかねてこの事あるべきを覚悟してゐたので、死に先だつ数年、ドイツ社会主義者中の碩学カール・カウツキーに第四巻編輯の任を託したのであつた。カウツキーはエンゲルスの死後この事業に著手したが、材料が余りに豊富であつたため、これを独立の一書たらしむるを適当と信じ、『余剰価値学説史』と題して刊行した。これは前後三巻より成り、第一巻は一九〇四年十月、第二巻(二部より成る)は一九〇五年八月五日、第三巻は一九一〇年三月十四日に発行された。目下森戸辰男氏等の手に依つて、これが邦訳進行中と聞く。学界のため、大成を祈望するものである。

拙訳第二巻は比較的手入れを要する処が少ないから、引続き刊行し得る予定であるが、第三巻は相当の日子を要するであらうと予期される。然し成るべく速成し得るやう、努力を密集することは言ふ迄もない。

終りに望み、本書完成のため蔭ながら好意と間接の鞭撻を与へられてゐると聞く学界の一二権威者に対し、茲に特記して謝意を表する。

大正十四年五月九日

本郷に於いて

高畠素之


資本論解説

本書はカール・カウツキーの著書で、正式には『カール・マルクスの経済学説』という。『資本論』(主として第1巻)の解説書として定評がある。本書の飜訳によって、高畠はその名を学界に知られることになった。高畠の出世作である。

本書の成立順序を説明しておくと、まず(1)『新社会』(大正時代の社会主義者が発行していた雑誌)誌上にて連載していたものが原形である。(2)それに全面的改訂を施して、売文社出版部と三田書房(詳細不詳)から出版した。これが最初の単行本である。この段階ではまだ社会主義に対する取締が厳しく、伏せ字も多用されている。また本書のために福田徳三が序文を草している。

この売文社のものは、関東大震災で版が焼失したため、再び全面的な改定を加えて大化会出版部から発行した。それが(3)而立社で出版したものである。その後、大化会出版部がつぶれたため、同じ紙型で(4)アテネ書院でも出版した。最後に、改造社版『資本論』と前後して、(5)改造社から出版された。これが決定版である。一般に古書として流通している『資本論解説』は、この改造版である場合が多い。

本書の飜訳に対して、高畠は大幅に手を加えている。高畠も『資本論』に対しては、自在に手を加えることをよしとしなかったようであるが、本書は入門書のためもあってか、至る所にその苦心の迹を発見することができる。例えば、「G―W―G」を「貨―商―貨」としたり、日本人に馴染みやすくするために「ロスチャイルド」などの財閥名を「三井・三菱」と変えている。

以下には改造版の序文を挙げておく。目次は意味がないので省略する。(本書はテキスト化しているので、興味のある人はそちらを見て下さい。)


訳者序

大正八年五月十六日に第一版を刊行した本書は、大正十一年十一月十五日迄の間に一万三千五百部を発行し、大正十二年九月の大震災で紙型全部焼失したるため余儀なく絶版の姿になつてゐた。旧訳版に幾多の誤訳、拙訳、悪訳の個所あることは、私の夙に気づいてゐたところであり、機を見て根本的の改訂を施したいと思つてゐた矢先であるから、私は寧ろ此紙型焼失を好機として改訳に着手した。改訳版は大正十三年六月、大化会出版部から刊行された。それは四千五百部印刷したが、何の広告もなしに数ケ月で売切れた。その後、大化会出版部がつぶれてアテネ社の手に移つたが、茲でも前後約二千部発売した。それで初版以来の発行部数を総計すると、ちやうど二万部に上る勘定だ。茲に刊行する廉刷版は、大化会以来の改訳版を基礎として、それに数百ケ所の訂正を加へ、改造社版として新たに上梓したものである。以下、旧改訳版の序文中から再録する。

テクニツクの訳語は旧版に依らず、旧版以後に発行された邦訳資本論に従つた。また資本論からの引抄についても、全部、邦訳資本論に依つたことは勿論であるが、資本論の方も旧版には幾多の缺点があり目下改訳中であるから、既刊の訳本に依らず専ら改訳の原稿に従つて引抄することにした。

旧版は原文第十三版(一九一〇年版)に依つたが、此改訳版は第十九版(一九二〇年版)に従つた。学説上の内容に於いては、新版中に何等の変更も加へられてをらなかつたが、事実に関する叙述については、多少の改修が施されてゐることを見出した。即ち第一篇第二章第一節註(ロ)と第二篇第五章中の各国工場立法に関する叙述と、第三篇第五章第二節中の統計的数字とがそれである。何づれも、最近の事実に従つて改修したものであることは云ふ迄もない。

本書は私にとつて、最も因縁の深いものである。私は本書に親しむ以前、すでに数回資本論原本を読むことは読んだが、資本論の本質を可なり正確に掴むことが出来たと信じ得るやうになつたのは全く本書のお蔭である。私は今回新たに本書を閲読してツクヅク感じたことは、本書が実に小気味いいほど、よく出来てゐるといふ事である。世に名著の解説書といふものは少なくないであらうが、解説書たる理想的の資格に於いて、本書ほど完璧の域に達してゐるものは少ないであらう。

由来、解説書といふものは、先づ量の上で小ヂンマリしたものでなくてはならない。然し此条件は、兎もすれば内容の風味を犠牲にする。大抵の解説書が、原本の目次の布衍に終る所以は此所にある。而も本書には此憾みがない。真に『主観的(著者の)の配色と図線とを有する一個の絵画』だと云ふ感を与へる。原本を考慮に入れないで、極めて面白く読める。而も読んで得る所は、原本の精萃以外の何物でもない。之れは著者カウツキーの理解の明晰と文藻の豊潤とに依るは勿論であるが、一面に於いて、彼れが如何によくマルクスの真髄に徹倒してゐるかを語るものである。

本書と私との因縁は、単に本書が斯く私を資本論の理解に導いてくれたと云ふ一点に止まるものではない。私は本書の翻訳――極めて杜撰な翻訳であつたとは云へ――を通して、始めて我国に於けるマルクス研究に幾分の貢献をなすことが出来た。私が後に資本論の全訳を企図し得たのも、全く本書に依る過分の反響が刺戟となつたものである。

本書が私にとつて忘るべからざる紀念であると同様に又、我国のマルクス研究にとつても、幾分の段階的貢献をなしたと認められることは、著者カウツキー以上に私自身の喜びでなくてはならない。

昭和二年二月十日

高畠素之識


マルクスの余剰価値説

本書は、事業之日本社から大正14年に『社会経済思想叢書』の一冊として出版された。単なる翻訳書ではなく、マルクスの剰余価値に関する部分を『資本論』などから抜粋し、またカウツキーなどのマルクス経済学者の見解を附加し、さらに高畠自身の解説を加えながら論述したものである。本書の意味は序文にあるように、できるかぎりマルクスの言葉によって、マルクス経済学の根幹にあたる余剰価値(剰余価値のこと)の解説をすることにある。


マルクス学説、殊にその経済的方面の研究については、学界諸家の驥尾に附して私も従来幾分の貢献をなして来たつもりであるが、私は研究は尚いまだ決して充分とはいひ得ない。この方面に於ける私自身の研究は、尚ほ(一)マルクス学説全般にわたつた通俗平明なる講話的叙述と、(二)高級専門的なるマルクス批判研究との両面を以つて補充されなければならない。私は目下、これらの執筆刊行に従事してゐる。

茲に刊行する『マルクスの余剰価値説』は、此等両面のいづれにも属せざるもので、マルクスの原本『資本論』の中から、余剰価値の原理に直接関係ある部分を抜萃し、傍らカウツキー、ボルヒアルト等諸家の研究を参考にしたものである。通俗書としては既刊『資本論解説』に及ばざること遠いが、マルクスの学説を直接マルクス自身の叙述に従つて一括的に捕捉せしめる点は、本書の唯一の特徴とすべきである。

本書は主題を『余剰価値』に局限したため、資本全般、利潤その他に関する学説的展開は勢ひ削除せざるを得なくなつた。此等については、いづれ題を改めて公刊する機会があらうと思ふ。

大正十四年八月二十六日

高畠素之


目次

序文

第一章 商品、価格及び利潤

一、三つの収入源泉/二、価格の決定要素/三、労銀の決定要素/四、費用説の自家撞着/五、平均利潤率の成立/六、一般的の平均利潤率/七、利潤は資本から生れるやうに見える

第二章 利潤及び商品交換

一、利潤は何処から来るか/二、買手の余剰に基くといふ説/三、価値以上に売買するといふ説/四、販売者のみの余剰に基くとする説/五、余剰価値は流通行程より生ぜず

第三章 使用価値及び交換価値

一、使用価値と交換価値の区別/二、交換価値の内容/三、商品に体化せる人間労働/四、生産力の変化と価値の変化

第四章 労働力の売買

一、問題の難点/二、労働力を商品たらしむる条件/三、労働力の売買は歴史的産物/四、労働力の価値/五、労働力の日価値

第五章 余剰価値の成立

一、資本主義的労働行程の二特徴/二、生産物の価値組成/三、余剰価値是正の苦悶/四、問題の解決/五、価値形成行程と価値増殖行程

第六章 不変資本及び可変資本

一、価値の保存と附け加へ/二、労働の二重性を示す例解/三、附け加へられる価値と保存される価値の比例/四、生産機関と価値形成との関係/五、生産機関の輪廻/六、労働力の価値形成力

第七章 余剰価値の率

一、資本組成の公式/二、現実的の価値変化と価値資本化の比率/三、余剰価値は可変資本のみから生ず/四、必要労働時間と必要労働/五、余剰労働及び余剰労働時間

第八章 労働日

一、労働日の両部分/二、労働日の限界/三、労働日を無制限に延長せんとする資本の努力/四、労働者の反対要求/五、労働日に投射された労資の抗争

第九章 相対的余剰価値の概念

一、必要労働日部分の可変性/二、労働の増進/三、絶対的余剰価値と相対的余剰価値/四、資本主義的生産の矛盾/五、生産力の増進は労働者の幸福を齎らさず

第十章 協業

一、労働者の数の問題/二、数から生ずる質的差異/三、社会的平均労働/四、労働者の数が対象的条件の上に齎らす革命/五、協業の定義と利益/六、協業の条件/七、資本の生産指導

第十一章 分業及びマニュファクチューア

一、マニュファクチューアの二重起原/二、マニュファクチューアの分業/三、部分労働者及び其道具/四、分業の利益/五、マニュファクチューアの二つの基礎形態

第十二章 機械及び機械工業

一、機械の特徴/二、機械の構成要素/三、機械の協業と機械組織/四、機械発達の歴史的起点/五、機械工業と旧工業との衝突/六、機械に依る機械生産/七、機械の採用と相対的余剰価値/八、労働日の延長、過剰人口の生産


哲学の窮乏

本書は、昭和2年に新潮社から『マルクス著作集』第2編として出版されたものである。同著作集は、第1編が猪俣津南雄訳『経済学批判』、第3編が堀真琴訳『革命と反革命』となっていたが、第3編は出版されなかった。

本書は、通常『哲学の貧困』として知られているマルクスの著書である。高畠訳本の特徴は、「訳者小言」にあるように、ドイツ語版に依拠して飜訳した所にある。本書附録も、ドイツ語編修版に従って、『経済学批判』抜粋、「自由貿易論」が収められてある。なお高畠の飜訳した当時、既にフランス語からの飜訳も出版されていた。

以下には「訳者小言」を掲げるが、著明な本でもあるので目録は省略する。

訳者小言

本書はそのサブタイトルの示す如く、プルドーンの『窮乏の哲学』に対する批判の形を採つてゐるが、マルクスの目的は、これに依つて彼の学説の三大支柱ともいふべき彼れ自身の経済学、唯物史観、並びに階級闘争説を積極的に展開せんとするにあつた。彼れはこの書に於いて、当時の小ブルヂオア的ユトーピズムに対する自己の立場を明かにすると同時に、経済学殊にリカルド説に関する立ち入つた研究と、英仏社会主義文献に対する豊富なる知識とを以つて、彼れ一流の現実主義的社会観の理論的根拠を確立しようとしたのである。

本書の邦訳としては、既に浅野晃、安倍浩両氏の訳本が提供されてゐる。比較対読せられなば得るところが多からうと思ふ。殊に浅野氏の翻訳はフランス原版に拠られたものであり、私のは専らドイツ版(Das Elend der Philosopie, Antwort auf Proudhon's "Philosophie des Elends", von Karl Marx, deutsch von E.Bernstein und K.Kautsky, mit Vorwort und Noten von Friedrich Engels, Stuttgart, 1907)を台本として傍らクエルチの英訳本を参考にしたものであるから、いろいろの意味で両立の理由があると信ずる。附録、脚註、序言等は全部ドイツ版の編纂に従つた。二三、訳者の註を施したところもある。テクニックの訳語は、すべて拙譯『資本論』に準拠した。訳筆は正確を毀けない範圍で平明に努めたつもりであるが、それがどの程度まで成功してゐるかは、識者の判断に俟つほかはない。

昭和二年八月十八日

高畠素之


人種改造学

本書は『新知識叢書』の第8編である。実業之世界社から大正4年10月に出版された。標題には高畠素之訳とあるが、奥付は高畠素之著となっている。訳者(或は著者)の序文がないので、本書成立の経緯は明らかでない。他の叢書の書目から考えるなら、高畠の手になっても不思議ではないが、もとより詳細は不明である。

本書は、標題の通り、人種改造を目的とした「科学的」読み物である。内容的には、まず進化論とメンデルの遺伝説などを概観し、ついで病気・環境の遺伝の有無を突き止めることの意義を説明している。これらの考察を経て、科学的な立場に立って、人種改造の実際的行動(人種改造を助成する法律の制定のこと)をすべきであるという、本書の最終的な立場が説明されている。

最近(2007/11/15)知りましたが、国会図書館の近代デジタルライブラリーに登録されているようです。現物はそちらでご覧下さい。

奥付には、大正4年10月7日印刷、同21日発行、著者高畠素之、発行者野依秀一、発行所実業之世界社とある。以下、目次のみ記しておく。


目次

第一章、緒論

第二章、進化と遺伝

第三章、メンデル説

第四章、才能の遺伝

第五章、結核病、躁狂、痴呆、瘋癩

第六章、境遇の影響

第七章、問うたの働因

一、総体的出産率と死亡率/二、特種の原因に依る淘汰的死亡/三、淘汰的結婚率と雌雄淘汰

第八章、人種改造学的政策

一、婚姻法及び婚姻習慣/二、性能削除


修養講話青年実訓

本書は、謂ゆる『ダイアモンドの土地』の翻訳本である。自教社から大正6年4月に出版された。本書の書名は、「修養講話・青年実訓」という意味で、「青年実訓」の方が大きい題目である。副題に「金剛石の土地」とある。金剛石はダイアモンドのことである。

本書には、「ラセル・ヱチ・コンヱル博士著、高畠素之訳」とあるから、高畠素之の訳であることは間違いないようである。またここから本書の著者は、啓蒙家のRussell H Conwellと同一人物であることも確認できる。しかし本書には、高畠の序文や跋文などは一切存在せず、本書翻訳の動機は不明である。高畠素之という名前はそれほど一般的であるとも思われないが、本書の訳者「高畠素之」が、本サイトで問題にしている高畠素之か否かも不明である。

本書はコンウェルの友人の序文とともに、「「金剛石の土地」譚」、「演壇五十年」、「金剛石の土地」の三つから成っている。「「金剛石の土地」譚」はコンウェルの友人の文章で、後の二つがコンウェルのものである。ただし前二者の末尾には、(素水訳)とある。「水」は「之」の誤ではないかと思われるが、断定は避けたい。

表題には、「ラセル・ヱチ・コンヱル博士著、ジヨン・ワナメーカア序、高畠素之訳」とあり、「修養講話・青年実訓/『金剛石の土地』」とある。奥付には、「大正六年四月二十二日印刷、同二十五日発行、訳者高畠素之、発行者宇野富夫、発行所自教社」とある。本書の収録内容を挙げると、以下のようになる。


目次

「金剛石の土地」譚

演壇五十年

金剛石の土地


社会主義社会学(社会学講話)

本書は、アーサー・レウヰス『社会学への手引き』(An introduction to sociology / by Arthur Lewis)からの抄訳(自由訳)である。本書は多数の書店で出版され、筆者が確認したものは、三田書房(大正9年)、大鐙閣(大正10年)、アテネ社(大正14年)、改造社(昭和2年)である。(大鐙閣版の本文は未見。)なおアテネ社で出版されたもののみ、『社会学講話』というタイトルに変更されている。

本書は、高畠の指摘の通り、一度大きい改訂が加えられている。それは三田書房・大鐙閣とアテネ社・改造社の間でなされたもので、三田書房本に存在した最後の2章が、アテネ社以後では削除されている。また、文体も後の出版になればなるほど、比較的なめらかなものに変っている。改訂の理由として、高畠は、改訂前の文章は、講話ものの割りに難解に過ぎた為であるとしている。元来、原書が社会学の入門書であるため、それにあわせた配慮であると考えられる。

以下には本書初訳である三田書房版の「はしがき」、本書の最終訳である改造社版の「序文」を挙げる。アテネ社のものは改造版に等しいので省略する。また目次は基本的に各本を通じて等しいので、改造社版のものを掲げた。ただし三田書房版に存在する最後の2章のみ、別に掲げることにした。


三田書房版「はしがき」

はしがき

本書はアメリカの社会主義者アーサー・リユウス著『社会学への一の手引』(Arthur Lewis,An introduction to sociology)を訳出したものである。著者は其序文の中に言つてゐる。――『本書は、きつかり其題名の示す通りのものである。即ち社会学への一の手引である。其れは、之れ迄まだ大学の社会学者たちの手の届かなかつた読者階級を目当に書かれたものである。大学で学んだことのない、或は何等かの科学に就て特殊の訓練を持つたことのない人たちに依つて、其れが理解され得るように、専門語は努めて之れを避けた。其れは幾許の批評と、多量の評価とを含んでゐるが、然し其の主要目的は説明である。其れは決して、読者たちが社会学に就て知らねばならぬ一切の事柄を、彼等に語り聞かせようなぞとするものではない。目的は、社会学の起原及発達の縮約した歴史と、社会学の現在の位置に関する一般観念とを与へんとするにある』と。私は本書に就て、これ以上に附言する必要を見ない。

私の訳し方は、思ひ切つて自由である。冗々しい所や、余りに無批判にマルクス主義かぶれしたような所は、遠慮なく刳り棄てた。まゝ原著にない文句をも挿入した。省いた章もあり、章の順序を前後した所もある。原著者に対しては何とも申訳ない次第だが、私としては之れで最善の努力を尽した積りである。

一九二〇年五月五日

高畠素之


改造社版「序文」

序文

人類の理知活動は、人類に最も遠い対象から始まつて、次第にヨリ近い対象に拡大されて来た傾がある。人類が先づ驚異の目を見張つて、理智的解釈の俎上に載せようとしたものは天体の現象であつた。天文学は科学発展史の第一段を飾つたものと言ひ得る。次いで数学や諸種の自然科学を経て、漸く人類科学の展開を見たのであるが、人類科学の中でも社会学の発達は最後の段階に保留された。これ蓋し、知識が幼稚なればなるほど、研究の対象を外部に求めんとする傾向が著しく、且つ空間的距離が大なれば大なるほど、外部的領域が明瞭に区画されるといふ原因にも依るが、また一面に於いて、人類に接近した現象ほど条件の変化が甚だしく、科学的法則の発見に困難を感ずるといふ事実も、これが原因をなしてゐる。この後ちの意味に於いて、人類社会なる存在は科学的分析の対象とするに最も困難とせられるものである。蓋し人類それ自身が生理的に心理的に極めて可変的なる存在である上に、社会として結合された人類には、更らに可変的にして捕捉し難き社会的条件が追加されるからである。

かくして晩近漸く科学の領域に加へられたと称する社会学も、今日尚ほ幾多の曖昧と粗雑とを有し、他の社会科学に於ける程の正確に達することですら、近き将来には到底期し難いであらうと信じられてゐる。

社会といふ言葉は、社会ダネ、社会記事などの如き用語から聯想される如く、通俗的には極めて親み多きものとせられてゐるが、一度び社会学の論著を繙くとき、何人もその難解曖昧なるに辟易する。科学は難解を特色とするものでなく、寧ろ正確と平明とを生命とすべきであるに拘はらず、社会学に限つて特に著しく論旨の曖昧と難解を感ずるは、これ畢竟するところ、社会学が尚いまだ科学的正確に達して居らない結果であるとも言ひ得る。

本書は、斯かる難解の社会学的論究を科学的に正確化せんとする如き野望を以つて書かれたものではない。寧ろ社会学とは大体どんな事を研究するものか、成るほど社会学といふものは面白さうだといふ感じを読者に与へ、読者をして知らず識らず社会学の門に引き寄せて来ること、これが本書の主なる目的であつて本書の原名が『社会学への手引』(Arthur Lewis,An introduction to sociology)と題された所以も其処にある。そこで原著者の其序文の中で次の如く述べてゐる。

『本書は恰度、その題名の示す通りのものである。即ち社会学への手引きたらんとするものである。本書は社会学上の学説に対して、新たなる何物かを附け加へようとするものではない。本書は、これまで大学の社会学者たちの手の届かなかつた読者階級を目当に書かれたものである。大学で学んだことのない、又は何等かの科学について特殊の訓練を与へられたことのない人たちにも理解し得るやうに、専門語は努めてこれを避けた。本書は幾許の批判と、多量の評価とを含んでゐることは事実であるが、然し主もなる目的とする所は解説にある。著者は決して、社会学について知らねばならぬ一切の事項を読者に語り聞かせようとするものではない。約して言へば、本書の目的は、社会学の起原及発達についての縮約した歴史と、社会学現在の位置に関する一般的概念とを与へんとするにある。』

本書は嘗て『社会主義社会学』と題して刊行したこともあるが、当時の訳筆は直訳的難渋に過ぎて『手引書』『講話書』たる使命に副はざること夥しかつた故、後に全部的の改題を行ひ『社会学講話』と題して刊行したものを、今回更らに復題して面目を新たにしたものである。

昭和二年一月一日

高畠素之


改造社版「目次」

目次

序文

第一章、コントの人類発達説

一、コントの二功績/二、人知発達の三段階/三、神学の衰頽/四、コントの誤謬/五、科学発達の段階/六、個人は種族を縮写す/七、生物発達の原理

第二章、コントの科学分類法

一、コントの分類法の特徴/二、七ツの科学/三、スペンサーとコントの優劣/四、コントの唯物主義/五、コントの分類上の論拠/六、ウォードの分類法

第三章、スペンサーの静的社会学

一、不知と不可知/二、歴史の改造/三、スペンサーの静と動/四、ス氏社会学の欠点/五、スペンサーの功績

第四章、スペンサーの類推社会学

一、スペンサーの殊勲/二、有機と超有機/三、ヘッケルの社会主義反対論/四、生理的階級と社会的階級/五、社会とは何ぞや/六、社会体と生物体との類似/七、スペンサーに対する批評

第五章、ラツェンホーファーの社会学

一、スペンサーとラツェンホーファー/二、四種の社会学者/三、シエフレの社会学的位置/四、自己保存慾と性慾/五、階級の形成と国家/六、進化と競争/七、二つの政治原則

第六章、社会学史上に於けるマルクスの地位

一、黙殺されたるカール・マルクス/二、マルクスの功績/三、マルクス社会学説の要領/四、スモールのマルクス評

第七章、社会学と社会科学

一、生物学の起原に関するハツクスレーの見解/二、冷遇された社会学/三、社会学と生物学/四、ギツヂングスの説明/五、スモールの知識分類

第八章、社会学と科学的研究方法

一、科学の通俗化/二、知識通俗化の途上に於ける難関/三、聴講生としてのマルクス/四、ハツクスレーの功績/五、真理の真理/六、進歩的社会学と保守的経済学/七、進歩思想と社会学/八、社会学者は比較的急進的/九、保守的社会学者ギツヂングス

第九章、社会力

一、物質とは何ぞや/二、物質の三聚合/三、社会の四期/四、社会力の分類/五、感情と機能/六、ウォードの欲望観/七、審美力、道徳力/八、ウォードの宗教観

第十章、社会進歩の諸因子

一、社会進歩に於ける理知の役割/二、社会的存在と社会的進歩/三、感情と理知/四、人類と動物との差異

第十一章、社会過程の要素

一、幸福/二、進歩/三、行動/四、見解/五、見聞/六、教育/七、摘要

第十二章、社会進歩と間接的方法

一、急がば廻れ/二、間接方法の発生/三、自然と技術/四、間接方法と教育/五、禁酒運動と社会主義

第十三章、社会学の目的

一、社会学者の慧眼/二、応用社会学と純理社会学/三、ウォードとスペンサー/四、人類改造の使命


三田書房版「目次」(第14・15章)

目次

第十四章、社会学の自由意志説

一、科学と自由意志説/二、自由意志反対論/三、カントと自由意志説/四、自由位置説の衰滅/五、社会学と定命説

第十五章、社会学と偉人説

一、科学と偉人説/二、カアライルのルーテル観/三、英雄は時代の産物/四、科学史の證明/五、偉人説の衰凋


財産進化論(財産の進化)

本書は、ラファルグの同名著書の飜訳である。大正10年に大鐙閣から『財産進化論』として出版され、また大正14年に新潮社から『財産の進化』と改題して出版された。新潮社のものは、『社会哲学新学説大系』の1冊である。原書そのものが小冊子であるため、何れも全訳の形になっているが、高畠によると、大鐙閣版は逐次訳的に、新潮社版は比較的自由に飜訳したようである。底本はフランス語原本ではなく、英訳版である。なお高畠は、大正9年に「西洋におけるブルジオア的私有の発達」として、第1次『解放』第2巻6、7、8号に、本書の綱要を紹介している。これは重要部分の抜粋・自由訳という形をとっている。

以下には、大鐙閣版と新潮社版の序文を掲げる。本書はかつてよく読まれた本であるため、目次は省略する。


大鐙閣版「序」

本書は固と巴里の『新評論』誌上に連載されたもので、後ち単行本として刊行せらるゝに及び仏蘭西社会主義読書会に非常なる好評を博し、忽ちにして独、英、伊、波諸国語に翻訳せられ、今日ではエンゲルスの『家族、私有財産及国家の起源』と並んで、財産進化家族進化に関するマルクス主義古典書中の双璧と称せられてゐる。殊に原始共産制を取扱へる第二章は、ルソーの平等論に対するハックスレー教授の駁撃に答へたもので、著者の純真なる共産的信仰と、豊富なる引例と、淡麗なる文藻とは茲に渾然たる一大雄篇を形づくつてゐる。

著者は歴史哲学観に於て原著者と立場を異にするを以て、本書に説く所を悉く受け入れることは出来ないが、少くとも財産進化の発達順序に就ては、大体に於て著者の見解に従ふものなることを言明して置く。

台本としては専らゾンネシァイン会社版英訳本を用ゐた。訳し方は大体逐次訳を旨としたが、訳文を理解し易からしむる為、多少の手加減を施した所もある。脚註は二三のものを除き全部訳載した。各章の小題標は訳者が勝手に附したものである。

大正十年八月一日

訳者識


新潮社版「序」

議会で、治安維持法案に関し『私有財産』といふ言葉が大ぶん問題になつたことは、我我の記憶に尚ほ新たなる所である。本書の題名を成してゐる『財産』といふ言葉は、厳密には『所有』と訳すべきであるが、この所有といふ概念は、所有さるべき対象物を指すのではなく、寧ろ一定の対象物を所有する関係を意味するものである。

今日では、この所有の関係は個人的又は私的たることを根柢としてゐる。そこで所有といへば、直ちに私有を意味し、所有物たる財産は私有財産に外ならず、これ以外の所有形態は寧ろ例外であつて、原則とすべきではないものの如く考へられてゐる。勿論、現在の社会状態のみを標準として観察すれば、かく考へることは必ずしも失当とすべきではないが、然しかかる仮定から出発して、社会進化の如何なる段階の下にも、私有が所有の原則的段階であつたとするは驚くべき錯誤である。寧ろ人類の歴史は共同所有から出発して、久しきに亙る発展の後、比較的最近に至つて私有の段階に到達したものである。人類の歴史を十万年と仮定すれば、その九万五千年までは共同所有の時代であつたとされてゐる。将来に於いても、一定の社会的条件が与へられると仮定する限り、私有が更らに発展して何等かの形態の共同所有に転化さるべきことを推論し得る。

そこで人類の所有制度が、如何なる段階を経て今日の状態に達したかを知ることは、社会研究者にとつて極めて興味あり、且つ至つて重要な研究対象たるを失はない。ポール・ラファルグの『所有進化』(Paul Lafargue, The Evolution of Property)は、この方面に於ける重要文献の一つとせられてゐる。この書はもと、巴里の『新評論』誌上に連載されたもので、後ち単行本として刊行されるに及び、仏蘭西の社会主義読書界に非常なる好評を博し忽ちにして独、英、伊、波諸国語に翻訳せられ、今日ではエンゲルスの『家族、私有及び国家の起原』と相並んで、この方面におけるマルクス主義文献の双璧とせられてゐる。殊に原始共産制を取扱つた第二章は、ルソーの平等論に対するハックスレー教授の駁撃に答へたもので、著者の純真なる共産的信仰と、豊富なる引例と、淡麗なる文藻とは、合して渾然たる一大雄篇を形づくつてゐる。

訳述とはいつても、原本が小さいのであるから、殆んど逐字訳に近い。第四章農民に対する土地収奪に関するマルクスの叙述は、原本では梗概に止められてゐるが、私は拙訳『資本論』の中から直接採用した。訳者は仏蘭西語に無知であるから、仏蘭西固有名詞の発音に不正確な点が多々あるべしと懸念される。

大正十四年六月二十五日

高畠素之


唯物史観の改造

本書は、大正13年に新潮社から『社会哲学新学説大系』の1冊として出版された、ツガン・バラノヴスキイの著書『マルキシズムの学説的基礎』(Theoretische Grundlagen des Marxismus / von Michael Tugan-Baranowsky)の部分・自由訳である。高畠が言及することの多い著書の一つである。

現在のところ、トゥガン・バラノフスキーは、一般に景気変動論の論者として著明である。しかし本書出版当時は、唯物史観の修正主義者として注目されていた。高畠の前にも、安倍浩と水谷長三郎が各々翻訳している。

トゥガンの原書は全3部構成であり、第1部は唯物史観の修正について、第2部は余剰価値論について、第3部は資本主義の崩壊についてを論じている。この中、安倍、水谷、高畠ともに第1部は翻訳しているが、第2部は安倍のみが、第3部は高畠のみが翻訳している。高畠に即して翻訳部分を指すと、原書の第1部と第3部を翻訳したことになる。

以下には序文と目次を掲げる。


序文

マルクス学説は哲学、社会学、経済学の三方面に亘つてゐる。哲学も、社会学も、経済学も、今日では夫々特殊の一学科として各専門的に攻究されてゐるが、問題に依つては、此等の諸学科の総合的共同関与を前提せずしては解決し得られないものがある。此場合には、かかる共同関与その事が既に特殊の一学科を構成するものと言ひ得る。社会問題の如きは其もつとも顕著なる一例であらう。

けれども社会問題にして既に特殊の一学科とされる以上、マルクス説も亦当然一学科を構成すべきものとなるであらう。なぜならば、社会問題の学的方面は、マルクス学説を中心としてのみ展開されてゐるといふも過言ではないからである。

例へば、社会政策学といふものがある。これはマルクス学説と同一のものでないことは論を俟たないが、然しマルクス学説と標準として展開されない限り、如何なる社会政策説も學問としての根柢から除外されるに至ることは事実である。社会政策的攻究の中、些かでも学的根拠を有すると見られるものは、挙げてマルクス主義の提唱にあらざれば、マルクス批判の別名に過ぎないといふ現状は如何ともすることが出来ない。マルクス説の形骸は死んでも、マルクスの把握した問題は生きてゐるからである。マルクスに在つては、試問その事が深き哲理であつた。

此意味に於いて、マルクス学又はマルクス批判を以つて社会科学中の特殊の一学科とすることは不当でない。私は此見地から、各大学が競つてマルクス講座を新設するに至らんことを期待するものであるが、それは兎もかく、今日すでにマルクスが一般社会思想界に特殊の際立つた位置を占めてゐる事は争はれない。此現象はドイツに於いて最も著しい。ドイツにおける最近一流の社会科学者といへば、ブレンターノにしろ、シュタムラーにしろ、ゾンバルトにしろ、ディールにしろ、その他等、等、皆これマルクス批判の専門学者であると言つても不当ではないのである。

茲に学説梗概を紹介せんとするミハエル・ツガン・バラノヴスキーは、ドイツ人ではないが、其活動部面はドイツを中心とし、ドイツにおけるマルクス批判家中特殊の一位置を占むるものである。

彼れは一面カントの流を汲む理想主義者であるが、他の一面に於いては又、マルクス学説の攻究に深く没頭し、マルクス学説に対する充分の理解と彼れ自身の理想主義的傾向とに基いて、一種の科学的理想主義的社会主義を提唱してゐる。彼れの批判における特徴を挙ぐれば左の通りである。

(一)カント的理想主義。

(二)マルクス学説に対する深き理解。

(三)マルクス学説は幾多の概念錯乱と論理的矛盾とを含んでゐるが、然し其根柢たるべき学的本質には捨て難きものがあるとの見地から、マルクス学説の改造を主張せる点。

(四)社会主義それ自身の真髄は、寧ろマルクス前期の所謂空想的社会主義に求むべきであるとし、マルクス主義に至つて社会主義は単なる階級利害的実際運動に堕した嫌があるとする点。

以上の中、(一)及(二)は彼れの凡ゆる社会主義的述作に共通してゐる所であるが、(三)は主として『マルキシズムの学説的基礎』(Tugan-Baranowsky, Theoretische Grundlagen des Marxismus)、(四)は主として『歴史的発展より見たる近世社会主義』(Tugan-Baranowsky, Der moderne Sozialismus in seiner geschichtlichen Entwicklung)の中に展開されてゐる。

本書は右の『マルキシズムの学説的基礎』の中、唯物史観に関係ある部分のみを採つて抄訳したもので、翻訳といふには余りに自由であり、紹介といふには余りに翻訳的であるが、いづれにしても原著の真髄を伝へる点には遺漏なかつたことを期するものである。原著者の理想主義的傾向を是認する者と否とに拘らず、マルクス学説に対する彼れの批判の内容には、幾多の学ぶべき所あるを疑はない。

大正十三年十月十二日

高畠素之


序文

第一章、唯物史観の根本概念

一、生産力の概念/二、経済の物的因子/三、階級闘争説

第二章、唯物史観の心理的起点

一、マルクスとヘーゲル/二、歴史の起動力としての意志と悟性/三、心理学上の主意的傾向/四、十八世紀啓蒙学派とマルクス

第三章、社会的発展の起動力としての欲望

一、自己保存慾/二、性的衝動/三、同情的衝動/四、優越的衝動/五、超利害的欲望

第四章、経済及び社会生活

一、生物界並びに人類史上における生存競争/経済の概念/一切の活動の基礎としての経済/四、多数人民の最重要なる活動部面としての経済/五、経済の物的要素/六、意識と社会的存在

第五章、社会階級及び階級闘争

一、減車会の階級組成/二、社会的闘争の働因/三、階級闘争と精神的活動/四、階級闘争並びに近時の社会運動

第六章、資本主義経済制度の崩壊

一、経済的発達と社会主義/二、販路欠乏の学説/三、利潤率低減の法則/四、社会主義制度の実現


社会学思想の人生的価値

本書は、大正14年に新潮社から『社会哲学新学説大系』の1冊として出版された、アルビオン・スモール『一般社会学』(General Sociology, an Exposition of the main Development in Sociological Theory from Spencer to Ratzenhofer / by Albion W. Small)の抄訳である。高畠によると、人類の生活に関係ある純理的考察を選んで翻訳したという。

以下には、目録は序文と目次を掲げておく。

一科の社会科学としての社会学は、その誕生が新しいだけ、定説と認むべきものを発見するに困難である。のみならず、各派が各個の立場を強持して見解を狭量にし、さらでだに陥り易き混迷を、倍加的に助長すると云ふ傾向さへ見受けられる。

然し社会学そのものは、時間空間を包括したる人類生活の総体を対象とする学である。人類生活を一の完体として対象とするには、人類経験の如何なる部面に関する知識と雖もこれと他の総ての知識とを相互に関聯せしめ得て初めて可能である。知識獲得の分野が如何に多方面であらうとも、各個の探究は寧ろ社会学完成の為の一分業に過ぎず、相互補正の関係なることが絶対に知られねばならない。

本書の原本なるスモール『一般社会学』(Albion W. Small, General Sociology, an Exposition of the main Development in Sociological Theory from Spencer to Ratzenhofer)は、この事実を解説するに頗る明快である。その点、一般素人にとつては、社会学上の原理が如何なる範圍に亘つて適用されるかの概括的観念を得るに便利である。が、本書のヨリ大なる価値は、かかる認識論的貢献よりも寧ろ方法論上に求められる。即ち、社会学上独立的研究を試みんとする専門学者に対して、赴くべき新たなる方向を提示した点に存するのである。

社会学研究に関してスモールの採つた態度は社会過程の実在的分析と云ふことである。而も彼れは、題名に示す所のスペンサーよりラツェンホーファーに至るまでの、社会学研究方法上の主要なる発展概略を、社会構成の類推的説明から社会過程の実在的分析への推移だと云ふ。尤も、これに就いては一々例証的に説明した訳でなく、努めて文献解題の愚を避けてゐるが、而も巧みに社会学史の梗概を写し、学説大系の背景を示してゐる。

方法論に於いて、飽くまで現実に即したる彼れは、更にその態度を発展せしめて社会改造の実際問題にまで突入した。彼れの謂ゆるテクノロヂーなる実行論はそれであるが、これだけでも十分、異色ある社会学者たることは窺はれよう。

尚ほ原著者スモールについて一言すれば、彼れはウォードと併称されるアメリカ最大の社会学者で、系統もそれと等しく、更らにラツェンホーファーの影響を受けた如き傾向が著しい。目下、シカゴ大学教授として社会学部長の椅子を占めてゐる。牧師出身だと伝へられるが、それを想像せしめるやうな臭味は割合に少なく、寧ろ構想はアメリカの社会学者に珍しい程、ドイツ的な特色が濃厚である。

マルクスに対する理解の如きも、社会学者中随一だと云はれてゐる。

大正十四年七月九日

高畠素之


目次

第一章 社会学の主題

一、人類の結合過程/二、中心的概念/三、一の完体としての社会過程/四、社会学と他の諸科学との関係/五、人種学と社会学/六、歴史学と社会学/七、経済学と社会学

第二章 社会学の定義

一、社会観察法の多岐/二、第一種の定義/三、第二種の定義/四、第三種の定義/五、社会工芸学

第三章 社会学の衝動

一、慈善的衝動と科学的衝動/二、社会学は活科学

第四章 社会の条件

一、社会の要素、社会、物理学的環境/二、自然の力/三、自明の理と社会学/四、外界力の測定/五、人間界に絶対自由なし/六、社会学上の人間/七、バックルの自然科学観/八、社会学者の権限/九、物質力影響の程度

第五章 社会結合と社会過程

一、社会結合/二、結合の偶発事物/三、社会とは何か/四、個人と結合の関係/五、結合は人類事実の一局面/六、社会的といふこと/七、社会過程/八、フランス革命の社会学的考案/九、アメリカの労資紛争/十、社会学と他の諸科学の協力/十一、社会過程の内容

第六章 社会構成、社会機能、その他の基本観念

一、社会構成/二、社会機能/三、社会力/四、社会目的/五、主観的環境/六、社会意識/七、社会学的見地

第七章 結論


古代社会

本書は、大正13年に而立社から『社会科学大系』の1冊として出版された。上下全2巻である。戦前にいくつか出版された、モルガン『古代社会』の翻訳の一つである。

本書の訳者は高畠素之ということになっているが、本人も本書凡例に指摘するように、村尾昇一との共訳である。それも第1巻は幾分高畠も飜訳しているが、第2巻は全く村尾に任せている。

以下には上下両冊の凡例を挙げるに止め、目録は省略する。


上巻

凡例

▽本書は紐育のHenry Holt and Company発行にかゝるLewis H.Morgan著"Ancient Society"を訳出した。

▽本章は其サブ・タイトル(副題)"Researches in the lines of human progress from Savagery through Babarism to Civilisation"の示す如く、『野蛮より未開を経て文明に至る人類進歩の趨向を研究』したものである。

▽飜訳は首め高畠素之の専任であつたが、震災の際印刷中の訳稿全部滅失したるため、新たに執筆したるも、雑務百出して目的を果さず、百八頁(訳本)以下巻末に至る迄は村尾代つて分担することとなり、高畠は大体に亘つて之れが校閲加筆の労を執つた。

▽原著の毎章冒頭には各章内容の小目次が附せられてゐるが、訳書に於いては便宜上これを小見出として本文中に挿入した。

▽原始社会の研究書として既にクラシツクの範に入れる本書を茲に邦訳し得たることは、学界と共に訳者の窃かに欣幸とする所である。

大正十三年五月二十六日

飜訳者


下巻

凡例

▽本巻は全部村尾の執筆になつたもので、高畠の身辺寸暇なきため校閲を加へずして上梓するの已むなきに立ち至つた。

▽勿論訳筆大過なきを期するものであるけれども、一切の欠点は後日の訂正に待つことゝして、茲に全巻の刊了を急いだ次第である。

▽予期せらるべき内容上の欠点については、読者の叱正を待つこと大である。

大正十三年八月

高畠素之 識

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