関係雑誌・新聞一覧の備忘録

(2006/07/30)


『国家社会主義』

『新社会』から決裂した高畠一派が出した雑誌。特に言うこともないので、気が向けば説明する。

『霹靂』

『国家社会主義』が廃刊した後、高畠素之が遠藤友四郎と出した雑誌。田中真人氏の指摘の如く、個人雑誌の趣が強く、雑誌の内容も暴露本的傾向のものである。大正九年三月に創刊号が出ただけで終わったのではないかと言われている。

雑誌の巻頭語は高畠氏が書いたもので、目次と本文の題名が異なっている。目次タイトル「町奴に白柄組を兼ねた気込(劈頭語)」は、本文では「『破壊』不許!(訂正せる劈頭語)」となっているが、中味は『幻滅者の社会観』に収録されてある。(「『破壊』序」となっている。)

その他、高畠氏の「虫の善い学者の要求」も『幻滅者の社会観』に収録されたが、極めて悪評高い「生田長江君の癩病的資本論」は単行書未収録である。当時高畠氏は大鐙閣版『資本論』の飜訳を行っており、同業者の生田長江に批判を加えたものである。雑誌と関係ないので省略するが、高畠氏に先行して『資本論』の飜訳を行っていた松浦要、生田長江両氏に対して、高畠氏はあらん限りの罵倒を加えて、飜訳事業を辞めさせ、自身の飜訳を世に出したと言われている。

これに対しては世評は決して芳しくないが、本人は或る程度真面目に対応したのかも知れない。(真面目さの意味が他人と違うだろうが)生田長江氏を罵った論文(?)の最後に次の様に云っている。(これだけでも全体がどれほど罵倒に充ちたものか分りそうなものである。)

反訳(殊に資本論のようなものゝ)に対して、生田長江と云ふ人が何れだけ不真面目でまた何れだけ無能力な人間であるかは、以上の指摘によつて大抵得心がついたことゝ思ふ。我々は真理と競争の為に飽くまで彼れをイヂメ苦しめるつもりでゐるが、同時にまた何かの情実で無責任にフラフラと彼れの腐つた肩を持つような連中をも片ツ端から同病扱ひにして葬つてゆくつもりである。

同じ批判を松浦氏にもしたわけであるが、こちらは生田氏に対して加えたような、「彼れの腐つた肩を持つ」云々のような表現は、少しましである。松浦・生田両氏の飜訳した部分のかなりの部分について、一々何処が間違っていると罵り続けたのであるから、評判は宜しくないのも当然である。ただし当時の学問の遣り方からいって、一々訳文が正当か否かを探ることは、行われなかったわけではない。要するに、余計な嘲笑漫罵を加えたので、特に厭なイメージがするのではないかと思われる。

更らに蛇足になるが、津久井龍雄氏の二つの文章を若干引用しておく。

社会主義の学説には頗る多くの魅力を感じたが、しかし日本の社会主義者達が常に醜い仲間喧嘩をし、互ひに悪罵を交換し合つてゐるのに対して嫌厭を感じ、その中に深く入り込んで行かうとする気持はどうしても起らなかつた。……上杉慎吉や高畠素之は最も嫌ひであり、前者は曲学阿世の典型と信じ、後者は「生田長江の癩病的資本論」などと平気で云ふ下品な態度が堪らなくいやだつた。その最も嫌ひな上杉や高畠と数年ならずして最も親縁な関係に立つことになるといふところに運命の奇が潜むと云ふべきであらう。(『日本国家主義運動史論』中央公論社,昭和十七年。123~124頁)

(高畠氏は)また松浦一氏や、生田長江氏が、あまり上出来でない邦訳――むろんその一部だつたが――を出版したときも、大いに怒つて、生田氏などにはすこぶる手きびしい攻撃を加えたようだった。その攻撃があまりに手ひどく、読むものにむしろ不快な感をあたえるほどだったが、氏がそう言わずにいられなかった気持だけは、わかるような気がする。(『私の昭和史』創元社,昭和三十三年。26頁)

恐らくは何れも事実であろう。

『大衆運動』

大衆社から発行された週刊新聞。大正十年五月二十一日創刊、以後毎週出版されたが、廃刊号に当たる十号のみ、半月おくれの八月三日に出版された。

とはいうものの、私は未見なので詳しいことは分らない。ここは一応の説明のため、編輯の任に当たっていた高畠門下の小栗慶太郎氏の「『降参』するまで――国家社会主義運動史(五)」(第二次『急進』昭和五年四月号)によって概略を説明しておく。なお小栗氏は高畠門下としては早いほうで、よく高畠氏の代筆をしていたとのことである。「国家社会主義運動史」は感動的な叙述であるが、事実の指摘そのものは抑制されたものである。その為、小栗氏執筆当時の政治活動のために書かれたか否かは分らないが、その点は左程意識しなくともよいものとなっている。

扨、高畠氏の国家社会主義運動も、『国家社会主義』廃刊によって頓挫した。その際、当面の運動として、実際方面の運動と新聞紙を利用しての文筆活動という二方面を模索した。しかし少人数、資金不足のため、一応は「運動の『第一歩』」として新聞を出すことになったらしい。ところがそれも二三号もでた当りから揉めはじめ、国家社会主義グループの中、北原龍雄氏を中心とする一派は実際運動に繰り出すべく、新聞を捨てて「大衆社遊説部」として地方へ出掛けてしまった。ここに国家社会主義運動創立時には高畠氏の番頭的役割を果たしていた北原龍雄氏は高畠一派から分離することになった。これにともなって、中立を守っていた人々も大衆社を去ることとなり、後に残って新聞を編纂したのは小栗慶太郎、神永文三両氏のみとなった。

ちなみに高畠氏と北原氏は、『解放』(第一次)誌上で「資本論講話」を連載していた。第一回が大正十年五月号、以下七月まで連載した後、第四回は飛んで大正十一年五月、同七月と八月となっている。

閑話休題。小栗氏と神永氏の二人で週刊新聞を編輯せざるを得なくなったのもつかの間、第四号編輯中の六月七日、神永氏も下獄することになった。これは足尾事件で宮崎市八氏と連名で出したチラシが出版法違反に触れたためであったらしい。この神永氏の下獄によって、小栗氏一人で新聞を編輯することになり、到底新聞の出版は不可能となった。当時の高畠氏は、大鐙閣版『資本論』の飜訳に忙しく、巻頭論文と英文欄を受け持つことになっていたらしいが、現実には英文欄のみを担当し、巻頭論文・時評などは小栗氏一人が書かざるを得なかったという。(最後の方で山本という人が加わったらしいが詳細は不詳。)

この様な状態のため、新聞の続行が不可能を知った高畠氏は、小栗氏に廃刊するようそれとなく勧めたらしい。しかし一人奮闘していた小栗氏はそれと気付かずに邁進したため、遂にに第九号の後、高畠氏は矢部周氏とともに廃刊を勧告し、ここに『大衆運動』の廃刊が決まった。小栗氏によると、廃刊が決定したため、廃刊号の準備をする筈だったが、気が抜けて半月ほど出版できずにいたという。結局、八月初頭に最終号十号が出版された。それには高畠氏の「降参」という文章が載っているらしい。

目録類などによると、幾つかの有名大学が所蔵しているらしいが、近辺に出張する機会もないし、第一土日では閉館しているので調べようがないので多分永久に分らないと思われる。(それ以前に、一般人に史料を見せてくれるのかどうか甚だしく疑問だったりする)

第一次『局外』

全八頁の月刊雑誌。局外はOUTSIDERの意。便宜上、第二号に載っている書誌を記しておく。

毎月一回一日発行。
定価一部五銭、半年三十銭。
発行・編輯・印刷人、神永文三。
発行所、大衆社。

大正十一年十月の創刊号から大正十二年の四月号までとなっている。(奥付がないため創刊号の日付は不詳だが、第三号が十二月に発行されていることと、第二号の寄贈雑誌批評が十月号のものとなっていることにより、創刊号は十月と判断している。)以下にも「局外」の名で雑誌を出したため、通常はこの『局外』を第一次と呼んでいる。

第一次『局外』は全何号であるかハッキリしない。創刊号から第三号までは号数があり、大正十二年一月一日号には号数はないが、次月の二月号には第五号とあるので、創刊号から第五号までは問題ない。飛んで同年四月一日号には四月号とあって、第何号か分らない。しかし四月号の最終頁に広告があり、拡大『局外』として「第九号」とある。これは第二次『局外』創刊号を指すと考えられ、実際に第二次『局外』も出版されたので、これに従うと第四号は第八号ということになる。なら第五号と四月号(第八号)の間に六号と七号とがあるはずである。而るに第五号は二月出版であり、四月号(第八号)は四月出版である。毎月出版であることを考えると、三月に第六号が出ていても不思議ではないが、そうすると一号分出版できないことになってしまう。目録類やデータベースで調べても、一つの例外を除き、第五号までと四月号という組合せのようなので、実際出版されたのか否か、よく分からない状態である。なお『局外』拡大の動向については後述する。

雑誌の構成は、第一頁に巻頭論文がくる外、政治批評、文芸批評、社会時評、人物月旦(だいたい仲間紹介)と思われる項目が並び、最後に寄贈雑誌の書評と「千駄木より」(編集後記のようなもの)がある。その他、まま大衆社専用の「新語辞典」(大衆社の内輪で通用する用語)があり、また多くの埋め草がある。

執筆者は別頁の目次一覧に挙げた通りだが、創刊号から第三号までは「執筆者」が雑誌題目の横に附されてある。第四号からは「目次」に代わっている。創刊号に上がっている執筆者を挙げておくと以下の通り。(敬称略)

尾崎士郎
中山啓
神永文三
小栗慶太(小栗慶太郎のこと)
矢部周
宮崎市八
根津力
高畠素之

第一次『局外』時代の高畠党については、小栗慶太郎氏の「転変七年の回顧――国家社会主義運動史(完)――」(『急進』第二巻第十一号,昭和五年十二月。以下、「回顧」)に詳しいので、それも参照しながら、以下若干の説明を記しておく。

『大衆運動』が廃刊した後、高畠党は暫く主だった活動はなかったらしい。『大衆運動』の実質的な執筆者だった小栗慶太郎氏も、出獄した神永文三氏、矢部周氏らと高畠氏の世話で見つけた原稿稼業に精を出していたらしい。しかし表だった動きはなかったといえ、内部では世の中に対する不満から、雑誌でも出して憂さ晴らしをしようとの気持ちが漲ってきたらしい。その間の経緯を「回顧」には次のように説明している。

主義者はロシア輸入の資金をめぐつて分配闘争に醜を晒し……、思想家・文士・華族等々の中からは、社會主義思想のヂヤーナリズム化に伴つて安価な感激屋が輩出し、労働組合業者は聯合の非聯合のと観念的遊戯に忙しく、見るもの聞くもの癪の種にならざるものなき時勢であつた。かういふ不愉快な雑草を刈取ることに依つて、反資本主義運動の健全な発展に役立ちたいと論理的に考へるまでもなく、兎に角、腹の虫をおさめるには何かせずにゐられない時代だつた。

もっともいざ雑誌を出すとなると簡単に事は運ばず、噂ばかりが先行して「お上の方でも相当に頭痛の種にしてゐた」らしいが、「未だ一号も出さぬうちから、もう二三号も出したやうな気持になつて」(創刊号「千駄木より」(無署名))、結局『大衆運動』廃刊から一年以上経過していたということになったらしい。

こうして出た第一次『局外』は、小栗氏が「回顧」にて「雑誌道のウルトラ反動だ」という如く、僅か八頁の表紙も広告もない超小雑誌である。内容に於いても「諷刺・皮肉・結論的な主張だけの雑誌」であると指摘しているが、作っていた本人の言葉であるから当然とはいえ、確かにその通りの内容になっている。ただ極端な主張の多い雑誌だけあって、意外と好評であったらしく、菊池寛氏の『文藝春秋』を創刊させる遠因となったと言われている。(これは小栗氏の「回顧」にも指摘されるし、他にも同様ことを指摘している論者は多い。ただし事実関係は明らかでない。)

ただ雑誌の性格は、明らかに一部の人間向けの編成であるように思われるが、必ずしも国家社会主義の宣伝用雑誌に終わらせる積もりではなかったらしく思われる所もある。製作者の発言であるからどこまで真実かは不明だが、創刊号の「千駄木より」(無署名)に次のような断り書きがなされてある。

最後に断つて置きたいことはこの雑誌は主義宣伝の為めに無代配布する目的のものでない事である。初号は先づ広告代りで致方なしとして二号からは代金を頂戴したいのである。

これは高畠氏平素の主張とも合致するので、あるいは事実なのかも知れない。ただし内容は既にいった如く、極めて偏ったないようであるため、社会問題にさほど興味のない一般人が読んで面白い内容であったか分らない。ただ売れた売れたと言う割りに、随分在庫のあるような発言も残っているので、予想外に売れたという所であろう。ただ第二次『局外』が出る頃までには、在庫はなくなっていたようである。

第一次『局外』で目を惹くものは、高畠氏の「議会運動」「常識国家論」といった論文の外、小栗慶太郎氏の山川均批判がある。第五号に「論争戦術のABC―山川均先生を嗤ふ―」というのがそれである。小栗氏のものは著作権も絡むので省略するが、八頁雑誌の中、殆ど四頁の紙面を費やしてのことであるから、力の入れようが分るというもので、当の小栗氏の回顧にも「当時の労働運動会に一波瀾起した山川均氏の所謂『方向転換論』に対しては、特集号を慥へて僕が喧嘩掛りを引受けたりした。」(39頁)とある。

高畠氏の「議会運動」は『批判マルクス主義』に所収され、「常識国家論」も『週刊日本』により周到な形で「我々の国家観」として再生し、同じく『批判マルクス主義』に収録された。それ以外のものは、「放言」の如き、時評とまでいかない時評のようなものが多い。

八頁雑誌だった第一次『局外』は、頁の制限が大きく、常に拡大の機会を窺っていたらしい。第二号の「千駄木より」にも「来春のうちに少くとも五十頁位に増大させる計画である。」とある。そして予告通り大正十二年の春ごろには拡大の機会を掴み、第五号の「千駄木より」(無署名)には次のように告知するに至る。

局外の評判は悪くもないさうであるが、こう紙面がなくては、いひたいことも云へず、愚論の横行を見す見す見逃して居なければならないのもシヤクな話だ。そこでこれは三月限りで廃めることにして、四月から新たに四五十頁のものを出すことに極めた。

しかし結局四月に拡大号は出ず、五月から第二次『局外』として出発することになった。それでも四月号には第九号となっていることから考えると、この時点までは単なる拡大版として捉えており、第二次というほどのものとしていなかったのであろう。ただし拡大『局外』の出版に関しては、最終号の「千駄木より」に「猶ほ今後販売に関する一切の事務は而立社に委ねますからそのお積りでゐて下さい」とある如く、而立社(大化会出版部)が受け持つことになっていた。とはいえ編輯は大衆社で行っていたこと従来通りであるらしく、「編輯に関することは大衆社でやります」とある。

第二次『局外』

第一次『局外』の拡大版。ただしその生命は短く、大正十二年五月一日の創刊号以来、同年八月号の四号で終わった。短命に終わった原因は、必ずしも好くない経営振りもさることながら、最大の原因は関東大震災によって大打撃を受けたことによる。創刊号の奥付を挙げておくと以下のようになる。

毎月一回一日発行
編輯兼発行印刷人:神永文三(二号と四号は高畠素之)
編輯所:大衆社
発行所:而立社

発行所は而立社となっているが、実際の編輯は大衆社であったらしく、「尚編輯に関する通信は直接大衆社宛にお願ひします」(第二号、千駄木より)と出ている。而立社はもと大鐙閣社員だった面家氏の起業したもので、大鐙閣が関東大震災によって倒産した後、『資本論』の残りの部分を出版した所である。その他、高畠氏関係のものでは、『資本論解説』や『経済学説大系』を出版している。ただ出版社の詳細は不詳。

本誌が第二次であるのは、創刊号に第一号という号を与えていることからも明らかであるが、念のため編集人の言葉を引いておく。(なお小栗氏の「回顧」も『局外』を第三次まで数えている。)

……本号を第一号と呼ぶのは、拡大された『局外』の第一号といふつもりなのである。従来の『局外』読者諸氏は、これからの雑誌を第二巻だとでも思つて下さい。

これまでの『局外』を御存じない方は、これを創刊号だと思つて下さればいゝと思ふ。つまり今迄の『局外』は無かつたものと思つて頂けばいゝ。

本誌は全120頁強の中雑誌で、第一次『局外』が高畠氏周辺のゴシップめいた記事を中心としていたのに対し、本誌は総合雑誌を目指したものである。その為に大衆社同人以外からも執筆者を弘く募り、第二号からは「創作」欄が加わり、小説等も掲載されている。名前を拾うと、菊池寛、水守亀之助、芥川龍之介、松村梢風(高畠氏の友人)、正宗白鳥、宇野浩二諸氏がいる。編集方針も同人誌という性格を脱却することに意識的であったようである。創刊号の「千駄木より」(編輯後記のようなもの。高畠氏の家)には次のようにある。

『局外』は、今後も大衆社同人の手に依つて編輯される事に変りがない。然しこれからは、出来る丈け沢山売りたいのだから、如何なる主義主張のものでも、雑誌の原稿として適当のものならば、大いに歓迎するつもりだ。

四号しか続かなかった雑誌であるから、執筆者の傾向などは明らかにならないが、高畠同人以外の執筆者を多数募集していたようである。また頁数の拡大と共に、長文の論文も増えて、論文内容も比較的軽めの論文から、学問的で堅い論文も多数掲載されている。

「千駄木より」だけから考えると、それなりの売れ行きを示したとあるが、実際の所は明らかでない。ただ高畠氏らが勝算ありと思ってのことであろう、中雑誌から更らに拡大版を出す予定であったらしく、第三号(七月号)には「九月号からは又もや大拡張をやること決した」「九月号からは拡大と共に面目を一新し独特の清新溌溂たる腕前をお目に掛け得る……然し十月には秋季の特別号を出して更に超拡大をやる予定だから」云々と論じている。尤も第四号(八月号)には早速、「次号は十中八九迄まで休ませて貰ふことにしたい。尤もそれは暑いからばかりではなく、実は前号予告の拡張を十月号に延しての準備に奔走しようかといふ案も持ち出されてゐる次第で」云々とある。震災がなかったなら本当に拡大号が出たのか否か、怪しいといえば言えなくもない。

ただ結果から言うとこの第二次『局外』は失敗したそうである。小栗氏「回顧」はその原因を「大衆社の機関誌たると共に、発行所たる書肆の機関たらしめようとした一石二鳥的態度がよくなかつたのである」ことの外、「形式的には上品に納つた行き方に甘んじた為め、徒らに返品を製造する結果になつたのである。第二次『局外』は、印刷部数が多かつただけに何程かの宣伝的効果があつただらうが、数千円の損失を残したまゝ地震と共に消滅した。」(40頁)

高畠氏の論文の中、長文論文は単行本に収録されたものが多いが、労働価値説の崩壊は未収録となった。尤もこれは「マルクス価値説批判文献(一)」なる副題が付くように、労働価値説の批判を連載する積もりだったのであろう、その第一回はベーム=バヴェルクの学説の紹介(マルクス価値説の終焉)である。これは高畠氏の他の研究でも触れられているので、単行本に収録する必要がないといえばないものである。

全体から言うと、小栗氏の言ではないが、大衆的な小説、随筆が掲載される一方で、マルクス研究、独逸の社会主義動向、国家論などなどの一般的とは言えない論策が多数掲載され、どっちつかずの印象を与えられることは否定できない。また大衆社以外の執筆者を入れたとは言え、必ずしも多いものではなく、やはり粉飾した国家社会主義の雑誌である印象も拭えない。

『週刊日本』

『週刊日本』は文字通り週刊新聞として発行された。大正十三年三月二十三日~同年六月一日迄の全十一号。発行所その他は以下の通り。全八頁(最終頁は広告)

発行所:大化会出版部
発行編集兼印刷人:茂木久平
発行期日:毎週一回日曜日

新聞の形態は、巻頭論文(創刊号のみ巻頭論文の前に「吾等の立場」が掲げられてある)、八方塞り、擲散弾(社会時評のこと)、時事週録(週間ニュース速報のようなもの。第二面から第三面にかけて最終段に掲載)、外電解説(海外ニュース)、論壇玉石(書評)、小説の外、役人気質の変遷、悪制度の研究の二大連載がある。(悪制度の研究は十号まで)基本的に全十一号ともに同じ形態を守っている。小説を除き基本的に匿名記事となっているが、高畠氏の巻頭論文には名前を挙げる場合がある。詳細は目次を参考にされたい。

本誌の動機と目的については、創刊号「吾等の立場」を掲げるのが一番よいので(無署名なので、五十年を過ぎているので著作権にはかからない)それを掲げておく。(原文旧字。適宜句読点を補った。)

新聞紙の職能が単なる報道機関に分化して以来、これに最も憾みとするは批評指針の缺如にある。起り来れる事件を単なる事件として報道し、その事件の生起せる由因、もしくはそれの波及する影響等に関しては、極めて無責任な態度で放棄して顧みない。我等はかゝる雑然たる材料を整理し、濾過精錬して骨肉を附するを目的とする。而も我等の持する立場は国家社会主義であり、その視点より政治上、社会上の凡ゆる問題を検覈討究し、空理空説を離れて直截的なる現実批判を加へんとするものである。元より『週刊日本』は、一面に於て週刊万般の事件を抄録的に報道するを看過せぬが、それと共に之を批評解剖し、興起ある中に我等の主張を注入せんとする。かくて『週刊日本』は報道と批判を併せ、実益と宣伝を兼ねしむるところに、我等の念願を添はしめんとするんひ他ならぬ。

第二次『局外』が関東大震災の為に消滅した後、暫くは高畠氏周辺は慌ただしかったらしい。例の如く小栗氏の「回顧」には次のように記されてある。

震災後しばらくは、誰しも落ちつかない。大衆社でも神永君と矢部君が交替で大阪へ出稼ぐことになつたりして、暫く陣容立直しにヒマどつた。その代り大阪今日新聞にゐた茂木久平君が上京し、大化会の岩田富夫君や高畠さんとの交渉が頻繁になり、故上杉慎吉先生と高畠氏との提携も成立して『経綸学盟』が結成されたりした。(「回顧」41頁)

当時『大阪今日新聞』に努めていた津久井龍雄氏によると、本誌は一種の夕刊新聞らしく(その日の日付で出すので「今日」と言ったらしい)、大毎大朝に対抗するため、国家主義の立場から戦うために作ったものといわれている。文中に出ている上杉・高畠両氏は本誌の顧問だったそうである。ここに関東大震災の後に矢部・茂木両氏などが入社したらしい。茂木久平氏は上杉氏の紹介で、主筆格での入社だったそうである。

斯うした高畠門下が入社している時、難波大助の不敬事件が起こり、国体擁護大会を開催することになったらしいが、そのとき高畠氏も講師として大阪を訪れ、津久井氏との面会がなったらしい。高畠氏も大会で演説したらしいが、このときの演説が素晴らしく、津久井氏の感激をさそったとのことである。(以上、『日本国家主義史論』125~127頁)

ただ高畠氏も大化会と提携することになり、高畠門下は大阪から東京に戻ることになったが、津久井氏も同行し、ここに高畠党に津久井氏が加わることになる。

因みに大化会というのは……(以下、執筆中)

第一次『急進』

大正十四年七月から十五年二月までの全八号。田中真人氏の調査によると、大化会出版部、大衆社編纂であったらしいから、『週刊日本』を継承した形になっている。これは高畠氏の出した雑誌の中で一番読まれたものと言われている。(津久井龍雄『日本国家主義運動史論』129頁)これについても筆者未見であるので、引き続き小栗氏の「転変七年の回顧――国家社会主義運動史(完)――」を参照する。なお第一次『急進』というのは、第二次があるからである。第二次『急進』は、高畠氏没後、国家社会主義運動の一環として、津久井龍雄氏を中心として創刊した雑誌で、昭和四年から五年にかけて発行された。

週刊新聞『週刊日本』の続行を断念した高畠氏などは、新聞廃刊を決意するとともに、新聞の号数を次いで月刊雑誌『急進』を出すことになった。『週刊日本』は第十一号で終刊となったのであるから、第一次『急進』は第十二号から始まることになる。毎号六十頁前後であったらしい。

この『急進』は、『週刊日本』の戦闘的精神を受け継ぐことを前提としていたらしいが、頁数の拡大とともに「軽い埋草から文芸・小説に亘る総ゆる方面の原稿があつめられた」ため、雑誌の色彩も少しく変化した。雰囲気的には以下のようなものであったらしい。

この雑誌は『高畠素之編輯』と銘打たれてゐただけに、専ら高畠氏によつて編輯され、石川準十郎君や宮崎市八君がカンカンガクガクをやるかと思へば、神永文三君が小説といふ隠し芸を演じて才気を示したりした。(「回顧」42頁)

田中氏の記載から、この雑誌には高畠氏の「ファシズムと国家社会主義」(『急進』1929年7月)、「性悪観」(『急進』1925年1月)、「社会主義分類上の一考察」(『急進』1925年1月)、「国家論に就いて」(『急進』1924年9月号)、「プロレタリア国家の論理的破綻」(『急進』1924年9月号)が掲載されたらしく、『批判マルクス主義』に多く収録されている。またこれらに展開された高畠氏の国家論は、石川準十郎氏のそれにも影響を受けているとされている。「自称マルキシストの非マルクス的国家論」(『急進』1924年9月)、「マルクス国家論に就ての一考察」(同上10月)、「二種の似而非マルキシスト群」(同上12月)、「復帰コンミュニズム検討」(同上、1925年1月号)など。

第一次『急進』の廃刊理由などは明らかでない。

第三次『局外』

大正十四年十一月一日創刊、翌十五年二月一日まで確認されている。全四号。発行所は北荘閣という所になっている。発行兼印刷人に杉本三郎、編輯人は津久井龍雄(創刊号は杉本三郎)で、「編輯便り」も津久井氏の筆になっている。32頁の小雑誌(創刊号は30頁)。本誌の体裁は「編輯の体裁は文藝春秋や不同調と稍や其の揆を等しうす」(創刊号、編輯だより)とある。

文藝春秋や不同調と同じというように、本誌は随筆を中心としたもので、第一次『局外』以来のゴシップなどが沢山含まれている。また上杉慎吉氏の随筆も掲載されている。上杉氏は君主主体説で美濃部達吉氏と論争したことが有名であるが、名文家としても当時は有名だった。勿論、この雑誌に載せたのは、高畠氏との関係からではあろうけれども。

高畠氏執筆の随筆もゴシップめいた記事が多い。因みに『自己を語る』に収録されている「局外展望」に「旦那」というのがある。これは本誌の「局外展望」の「奇遇」にあたるが、本誌の文章の方が長くて……(以下、執筆中)

創刊号巻頭言(無署名)には次のようにある。(尤も第三次を意識してか、あまり初々しくない創刊号で、単に十一月号と銘打ってあるに過ぎないが。)

文壇も、思想界も、実行部面も、今やすべてが戦国乱麻の状態である。無数の小雄微々将がそれぞれ玩具的の城寨に立て籠つて、思ひ思ひの悪罵と、揶揄と、皮肉と、駄洒落と、揚げ足とりを乱射しつゝある状態は、まことに一代の奇観を享楽せんとするものであるが、余りにフヤケた戦術は見てゐても歯がゆい場合が少なくない。さういふものには、時々活入れの野次を浴びせる必要があるであらう。局外は見物席だが、見物でも素人ではない。昔とつた杵柄は敵を苦しめる模範を示すことに決して吝かではない。議論も善し、愚弄も善し、皮肉も、揶揄も辞するところに非らず。本誌を以て思想界の暴力団と罵るものがあるとすれば、我等はたゞ知識は暴力なりと答へんのみ。

第二次『随筆』

これは勿論高畠氏の主宰した雑誌ではなく、水守亀之助を中心として編纂された随筆雑誌である。(随筆が中心であるが、総合雑誌風になってはいる)時期的に第三次『局外』の後に来ることと、高畠氏が多数寄稿しているので、高畠氏の寄稿目録だけ挙げておく。本雑誌については、『現代日本文芸総覧』(増補改訂版,大空社,平成4年)を参照した。これは資料の未確認から、第二巻第三号の目次が欠落している。また水守亀之助については、桑本幸信氏の『水守亀之助伝』(孔文社,平成四年)を参照した。ちなみに第二次『随筆』は、第三次『随筆』とも呼ばれるものであるが、ここでは一般的称呼に従っておく。三分類法によると、随筆社に移る前を第一次、それ以後を第二次、そしてこの雑誌を第三次と呼ぶ。

第二次『随筆』は水守亀之助の主宰であるためか、高畠さんは創刊号から寄稿している。基本的に随筆が殆どで、同じく水守氏の主宰していた人文会出版部から出版された『論想談』(断片語)に収録されたものが多いが、たまに短文の人物評論・時事評論のようなものもある。

高畠氏と水守氏との関係は、それなりに長かったらしいが、親しくなったのは震災後であるという。(『我が文壇紀行』173頁下~174頁上、また170頁上。また『高畠素之先生の思想と人物』中の水守氏の文章を参照。)この『随筆』に掲載された「顧問」には「そのうち、『随筆』あたりからも顧問になれと言つて来るだらう」とある。

高畠氏の論文・雑文は以下の通り。随筆漫語は諸氏の中の一つ。

かどと丸味……創刊号
危険性のない人柄……第二号
文相内訓のこと……第三号
随筆漫談……第五号
普選内閣……第六号
全集と雪嶺翁……第二巻第一号
史論と随筆(白柳秀湖氏の印象)……第二巻第三号
泥合戦……同上
顧問……第二巻第四号
牛後道……第二巻第七号(巻頭言)
随筆漫語……第二巻第七号
左きき……第二巻第九号
代議士……第二巻第十号
随筆漫語……第二巻第十号

白柳秀湖氏の印象で、高畠氏が白柳氏を評しつつ、自分を回顧して次の様に説明しているのが、如何にも氏らしくて面白いので、最後にそれを挙げておく。

文章は人に読ませるものだといふことを、間接直接私に教へてくれたのは堺利彦、白柳秀湖の両先輩である。私のやうな天性悪筆のぎこちない人間が、これでもどうやら文章らしいものを書けるやうになつて、少なくとも読んで判りにくいといふ非難を余り受けないやうになれたのは、全く以つてこの両先輩のお蔭であると陰ながら感謝してゐる次第だ。

白柳氏はいま一つ、私の思想に善い影響を与へてくれた。それは物を考へるとき世間的水準の型に囚はれず、自分自身の体験から割出した心眼で、既成の学問や物事の筋みちを観察し理解するやうにせねばならぬといふことだ。白柳氏は私の思想が型に囚はれないといつてくれたが、あれは実は白柳氏について言ふべきことで、若し私は幾分でもその長所があるとすれば、それは白柳氏の影響によるところが極めて多かつたことを断言させて頂きたい。

『春秋』

『春秋』は、昭和2年5月号に創刊号された総合雑誌風のものであるが、廃刊ははっきりしない。確認した中では昭和3年7月号が一番遅いようであるが、その場合は都合15号となる。但し第1巻第2号(昭和2年6月)と第1巻第4号(昭和2年7月)の間に第5号があるらしい。月刊誌であるから、或は特別号でも出たのかもしれないが、これについてもよく分からない。編輯兼発行者は高橋龍司とある。発行所は創刊号のみ春秋社で、次号以下全て春秋書院となっている。(第二号の奥付に改名の断りが入っている)

雑誌の性格は、創刊号に掲げられた巻頭言(無署名)によく現れている。それによると三点ほどに特徴を設けたようで、第一に当世第一流の人士に執筆を依頼することが上がっている。第二の特徴として「難易高低の何れにも偏らず、左右両傾の何れにも党せず、一路坦々さながら砥の如く大中至正の公道を堂々と進むものは、即ち本誌である。」と云う。第三は社会の民衆化を考え、米穀国営期成同盟会の組織を志し、実践と研究との両立を図りたい旨が記されている。

この中、恐らく主催者の最も意識する所は第三の米穀国営期成同盟にあると思われるが、雑誌自体はその意味を感じさせないものとなっている。特に当初七月号までは数頁に渡る「編輯便り」を措き、社会時評めいたことをしているにも拘らず、八月号から頁数が激減し、七月号からはごく一般的な編集後記(奥付の上に記される1頁もの)となっていることから、本雑誌の一般化が見て取れる。

この様な意味で、雑誌としての性格は、期成同盟ではなく、寧ろそれ以外の第一、第二の点に存在する。この中、第一の各界の名士云々は総合雑誌の基本性格であるから、この『春秋』なる雑誌が総合雑誌を目指していたということ以外の意味は持たない。事実、この雑誌には当初から「評論」「アンケート」「政治漫談」「文芸」の外、各論文が備えられており、総合雑誌風のものとなっている。

では第二の左右に偏さない執筆陣とは、現実問題どの程度の範圍であろうか。試みに執筆者から判断すると、右から頭山満、三井甲之(蓑田胸喜の先生)から、高畠素之、安部磯雄、麻生久、尾崎行雄、室伏高信、後藤新平と各代表的人物が名を連ね、また文芸には小川未明なども名を連ねている。之を要するに、『春秋』の左右両傾とは、共産派は勿論、所謂労農一派の極左派を排除した左傾から、中道、右傾(右には際限がなかったのであろう)までを覆うものであったようである。換言すれば、合法的左派から右派までを取り込んだものである。

この『春秋』は、高畠氏が早くから顧問をしていたらしいが、途中で水守亀之助氏の人文会出版部(即ち『随筆』)を吸収することになった。その間の経緯について、水守氏自身、次のように語っている。

するうち、「随筆」は立ち行かなくなつて廃刊の悲運に陥つた。その頃、高橋某といふ変り者の実業家が「春秋」といふ総合雑誌風のものを出してゐて高畠素之君が顧問になつてゐた。同君から、「このまゝでは引つ込みがつくまいから、いつそ『春秋』に合併といふ形にして止めたらどうか」と、いつてくれた。こちらは渡りに船なので早速さういふことにして貰つて、「春秋」に発表もし、私も執筆同人格となつた。白柳秀湖、馬場恒吾の両氏にも頼み、われわれ四人で各時評欄を担当して論陣を張つた。(『我が文壇紀行』164頁)

実際の所、いつ頃から『随筆』と『春秋』との合併話が固まったのかは分らないが、『春秋』誌上に初めて合併話が現れるのは、昭和二年十一月号で、その「編輯便り」に次のようにある。(十月十二日付け)

文壇の曉将水守亀之助氏の経営にかかる月刊「随筆」は、都合上本誌と合併することとなつた。で、従来「随筆」の寄稿諸名士並に読者諸君の熱情をば、どうぞそのまま本誌に御移植下さる様希上ます。

翌月、『春秋』の「編輯便り」には改めて「前号にも予報したやうに、いよいよ文壇の曉将水守亀之助氏の主幹せる月刊「雑誌」を、そのまゝ本誌に取り入れたから、一段の豊美とツヨミを増せることは呶々するまでもない。」とある。併し水守氏と馬場・白柳両氏の「時評」は、昭和二年九月号から始まっているので(馬場・白柳両氏のものは七月号から既に始まっている。また高畠氏の時評は存在しない。)実際にはもう少し早くから『随筆』と『春秋』の提携は進んでいたのであろう。

この『春秋』は編輯に於いて、高畠氏と水守氏の名を語って原稿を集めていたらしく、そのために水守氏が高畠党と見做されるようになったと云われている。これも水守氏の言葉を引いておくのが適当であろう。

雑誌「春秋」の編輯者は、諸家に寄稿を乞ふ場合に、屡々無断で、高畠さんと私の名を使つたらしい。両名を並べた場合も多かつたらしい。その為に恰も両名が共同編輯の責任の地位にあるらしく考へた人も多いので、プロレタリア文芸人の某々氏等が私を完全に高畠党に参加したものと見做したことは、いろいろの噂によつて分つたのである。

しかし高畠氏が色々と拘わっていたことは事実であり、人文会出版部から『論・想・談』が出版された折には、「高畠素之論」(第二巻第二号)と題して諸氏が感想を述べている。また『春秋』も後半になると、執筆者に矢部周や石川準十郎、津久井龍雄ら高畠門下の諸氏の名を散見するが、そうするうちに雑誌そのものが廃刊してしまったらしい。

以上、総合雑誌でもあり高畠氏の雑誌でもないので、特別に説明を要するものはない。また内容的には、純粋の学術論文ではなく、高畠さんによく見られがちな軽めの論策となっている。管見の限り総目次などもないようなので、高畠氏の執筆した部分についてのみ下に挙げておく。(アンケートの類は除く)

無産政党漫談(創刊号)
現代の悪制度(上)(第四号)……巻頭論文
現代の悪制度(承前)(第五号)
階級と政党(第六号)……巻頭論文
現代人心浮動の社会的必然性(第八号)……巻頭論文
帝国主義の新旧(第九号)……巻頭論文
世界舞台の三人男(第二巻第一号)……巻頭論文
ムツソリーニを見る(第二巻第二号)
政治青年の今昔(第二巻第三号)……巻頭論文
フアシズムの産業政策(第二巻第四号)……巻頭論文
議会制度は万全か(第二巻第五号)……巻頭論文
労農と共和(同上。一人一話の一つ)
男性的虚栄の代理行使(第二巻第六号)……巻頭論文
贅沢と虚栄と優越本能(第二巻第七号)……巻頭論文

蛇足ながら、この雑誌の第二号に「最も私の心を撼かした先哲の至言」なるアンケートがあり、高畠氏も答えているが、それは以下の二つであったという。高畠氏らしいので最後に載せておく。(尤もダンテのものはマルクスが引用ミスとしたと専らいわれているものだけれども。)

汝の道を行け、人には彼等の言ふに任せよ。(ダンテ)
年少社会主義を信ずる者は痴愚なり、年長社会主義を棄てざる者は更らに痴愚なり。(ムツソリニー)

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