私の眼に映れる現文壇の種々相

高畠素之


デモクラシーの招來は資本主義のおかげであつた。資本主義が身分階級的な封權(1)制度から民衆を解放したのである。そして一般の生活が形の上では平等になつた。社會階級はあるが、家柄とか身分とかいふものに關聯する差別は無くなつた。桶屋の倅が大臣になることも出來れば、華族の息子が腰辨の生活をしてゐることもある。物事がすべて實質的になつて、實力さへあれば何でもやる事が出來るし、何にでもなる事ができる、(2)たゞそれが容易であるかないかは問題だが――。馬鹿でも無能でも殿樣は殿樣などゝいふ代りに眞實腕のある人がずんずん地位や權力を握つてゆく。

文壇に師弟關係とか、または何かの縁故につながる一種の閥といふやうなものが餘程無くなつたのも、確かにこの資本主義のおかげである。かつて硯友社の全盛時代だつた頃には非常に問題にされた文壇への登龍門などゝいふ言葉も左程問題ではなく、今では實質さへあればずんずん世の中へ出てゆく事が出來るやうに見える。それはまた見方によつては、文學といふものがそれだけ民衆の生活に近づいて來たのだと云ふことも出來よう。

つまり資本主義は、藝術の世界までデモクラシーを普及さした。

さうした今の社會で、文壇が殊更ら特權的な存在のやうな態度をとつたり、文學の仕事が特別高級なものだといふ風に思はせやうとするのは甚しい時代錯誤と云はねばならない、何故ならば文藝の仕事が如何に特殊な技巧、素質、素養、(3)を必要とするとは云へ、その點は他の職業的諸專門と違ひはない。醫者にしろ、辯護士にしろ、乃至は娼婦にしろ、犬殺しにしろ、いづれも自己獨特の技術と素養とを必要とするのだから――仕事それ自身に高級も低級もある筈はない。それを藝術家が、藝術に特殊的な有難味を付けようとするのは、さうすることに依つて自分達の社會的地位に箔をつけ、出來るだけその金錢的報酬をセリ上げようとするに外ならない。無論、文藝を扱つてゐる一人々々が明瞭にさう思つて藝術の尊貴を叫んでゐるとは言はない。むしろ當人達は藝術といふものを眞に特別尊貴なものと考へてゐるのかも知れぬが、現實を暴露すれば私の言ふ通りであらう。

だが、それは餘りに當然な言ひ方で、その事が藝術の眞價を何等引下げるものでもなければ、不都合なことだといふのではないが、獨り藝術を過重してゐるやうな思ひ上つた態度が笑止だといふに過ぎない。

自分の仕事に對する眞價を一層尊嚴視しようとする傾向は、文藝家といはず、總て文字を取扱ふ人々の間に特に著しいものかも知れない。文藝家と竝んで學者がそれである。學問の自由などとべらぼうな事を言ひ出して、學問に限り特殊な待遇を要求しようとしてゐるが、常識的に考へれば少くとも賢者の仕事だけが治外法權的な待遇を要求するといふわけにはゆくまい。國權の下では如何なる職業、如何なる活動部面に對しても、自由を與へない。たゞ國權が見て、以つて差支へないとする範圍で、おなさけ的に或る程度の自由らしいものを與へてゐるに過ぎない。その標準からすれば、學問の自由は他の方面に比べて從來でも既に過分に失してゐるくらゐだ。

出版の自由、言論の自由といふことについても同じ事が言へる。

それはとにかく、同じ藝術にたづさはつてゐる人と云つても、寄席藝人や役者はそんなに尊大振らない。近頃はだんだん以前ほどではなくなつたやうであるが、社會人としては却つて普通の人よりか頭が低いくらゐである。それがまた、幇間氣分を唆つて厭味でもあるが、前に言つた藝術家氣どりもその反動と見れば罪はないといへるかも知れぬ。

私は最近ずつと病氣して、あまり雜誌なども讀まないから、細かい事に就いては何も云へないけれども、一流といはれる人々の小説はいろいろな意味でやはり面白いと思つて讀む。小説家が社會的に特別扱ひにされる事を望むのは云ふまでもなく滑稽な事ではあるが、餅屋が靴屋の仕事を尊敬するやうに、專門家が別の專門家の仕事を尊敬するやうに、私は小説家を尊敬してゐるし、したがつて、やはり一流といはれる人々のものには何等かの興味を見出し、巧いと思つて感心する。例へば菊池寛氏の新聞小説や、里見氏のものといふ風に。正宗白鳥氏が去年あたりから盛んに書く癖の多い感想とか、隨筆の類は私の最も興味を感じて讀むものであるが、これは一面正宗氏のものゝ見方に對する癖と、自分のさういふ癖とがどこか一脈通ずるところがあるせゐかも知れない。

近頃問題となつてゐる――かどうか知らないが――傾向文學といふものに對しては、私は極端に反感を持つてゐる。反感を持つて居るといふよりは、興がさめると云つたら一層適切かも知れない。一體に藝術本能の趣向が、所謂傾向的なものをさけたがるところがある。それを努めて傾向的にしようとしたり、政治鬪爭の具に供したりするといふのは決して妥當なことだとは言へない。

主張や宣傳が目的なら、三段論法的にテキパキやつて除けて、かたがた煽情口調を弄するといふ、所謂論文體のゆき方の方がより効果的であらう。

私の考へでは藝術は趣味に屬するもので、そのよしあしは表現とその味ひとで定まる。かう言へば必然的に内容の問題が出て來るかも知れないが、内容は表現の一部である。如何にも巧みに、手落ちなく書いてはあるが、讀後に何の感銘も殘らない作があるとすれば、それは無内容といふよりもそんな内容は、表現になつてゐないといふ可きである。表現とは實感を表現することで、個性に於いて普遍性を感得するところが實感の生命だ。だから、實感は個性的であると同時に、本然性を具備したものでなくてはならない。さういふ實感は、それ自身が一個の内容である。だから、表現といふ時には既に實感を前提してゐる。

トルストイの晩年のものには明らかに説教染みた意圖が含まれてゐるけれども、トルストイにおいてはそれが餘り邪魔にならないで讀める。とつてつけたやうな説教ではなくて、その意圖が作として極めて有機的に扱はれてゐるからである。トルストイの如きは、みづから傾向的たらうとしても、作品がそれを許さない程に偉大な藝術家であつたといふべきであらう――。

ともあれ、藝術はどこまでも藝術でなければならない。先の見え透いた議論や主張の單なる變形としてのみなら、ますます興ざめがして來る。要するに傾向文學も文學であるためには藝術的な天分を要する。藝術的天分さへ豐かならば、傾向の毒素も大抵は麻痺される。

(賣文記者)(4)


底本:『文章倶樂部』第十三卷第十號(昭和三年十月。「現文壇局外觀」の一つ)
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和五年)に再録。

注記:

※句読点を増補した場合は〔 〕に入れた。
(1)封建:底本は「封建」に作る。『英雄崇拝と看板心理』によって改めた。
(2)、:『英雄崇拝と看板心理』は「。――」に作る。
(3)、:単行本はなし。
(4)(賣文記者):単行本はなし。

改訂履歴:

公開:2007/12/02
最終更新日:2010/09/12

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