社會思想の觀念的傾向

高畠素之

マルクス主義の極左派を以つて自認する一團に依り、唯物辯證法の重視が盛んに叫ばれてゐる。唯物辯證法といふのは、無産戰線を止揚したり、宣傳費用を鬪ひ取つたり、どうやらシーソーや陣屋取りに類した遊戲らしいが、よほど面白い遊びと見えて、坊つちやん御成人の學生や教授などにも歡迎され、麻雀熱や野球熱と併行して、文壇の一部などにも流行してゐると聞く。何事も流行とあれば致し方もないが、傍の見る目には苦々しき限りである。

元來、私などに言はせると、辯證法といふのは單なる物の考へ方の練習で、それ自體が『鬼の首』に街頭するものではない。全面的な理解を助けるため、出來るだけ流動的に考へるといふことは、三圓五圓の借金をする場合にも踏用する手段で福本某の御托を俟つまでもなく先刻ちやんと御承知の理法なのである。尤も物も云ひやうだから、同じ『赤』の概念を説明するに際しても、それは『赤くつて白くい』といへば勿體もつき、加へて『赤くもく白くもい』ところの別個の概念に『止揚』し得れば、それこそ鬼面嚇人の効果にアウフヘーベンするかも知れない。だが、そんな煩雜を繰り返して、八幡の籔知らずに彷徨するより單刀直入の『赤』で澤山である。ピストンの開閉度數に、心臟の鼓動を調節しなければならぬほど目まぐるしい人間が、脛齧ぢりの現業員や前科者と一緒になつて、そんな觀念遊戲に耽つてゐたのでは、第一その鼻の下を于なければならないであらう。藤森良藏著はすところの入學試驗用『考へ方と解き方』だつて、もう少し性急なところを見せてゐるのである。

勿論、マルクスに對する理解の促進に、唯物辯證法を重視しろといふなら文句はない。何となれば、マルクスも日の永い時勢に生れたヘーゲルの弟子であり、ヘーゲルの唯心的辯證法に對して、唯物論的適用を試み得た程の閑人だつたからである。だが、彼れの適用も忌憚なくいへばケレン師のそれであり、無理を最初から承知の上で牽強付會したと見られる部分が甚だ多い。これは彼れが不幸にして進化論に對する十分の理解がなかつたからで、それ故にこそ、進化論前期のメタフイジークたる辯證法を以つて、社會進化の合法則性を發見せんとしたに過ぎない。進化論が常識化した今日、何にを苦しんで唯物辯證法などを擔ぎ出す必要があらう。

とは言ふものゝ、機關銃を棄てゝ石火矢を擔ぎ出したことも、擔ぎ出した當人に取つては滿更ら無意味でなかつたことも察するに餘りある。けだし、文明開化した當今の時勢となつてしまへば、石火矢の使ひ手などは滅多にあるべき道理がなく、その限りに於いて、鳥なき里の蝙蝠たること必らずしも困難としないからである。勿論、某々諸君に依る唯物辯證主義の使ひ分けが、一から十まで、さうした打算に出發したといふのではない。有意か無意か知らぬが、事ひとたび哲學の段になると指を咬へて引き退がるしか藝當のない舊派社會主義者の間にあつて、彼等の放つた哲學的巨彈(?)は確かに肚膽を抜くに十分であつた。何にが何やら無我夢中のところへ、哲學上の術語を遠慮會釋なく濫用して『戰線』や『現段階』を批評し、それが『揚棄』でこれが『廢棄』だなど、まるで煙に卷かれてしまつたから耐らぬ。新紺の匂ひと初鰹の味ひに陶醉する國民性が然らしめた結果、無産陣營の兵卒共は、擧げて初もの喰ひに憂き身をやつし、唯物辯證法が上下を風靡するに至つたのである。

一方、本職たる青年にして見れば、マルクス學といふのは、價値だの價格だの利潤など、或は企業だの協業だのと、凡そ彼等とは縁が無かりさうに考へてゐた學だが、チヤチな辯證法ぐらいで幅を利かせ得るならといふ安心も手傳ひ、滔々としてこれに流入して來たも道理である。無産戰線の極左翼を自稱する彼等に、甚だ多くの教師上がりや學生上がりを發見するも故あり、哲學概論一册で『克服』し得るなら、誰れだつてマルクス=レーニン主義を看板にしたくならうではないか。

斯くて、社會主義思想に於ける觀念的傾向は愈よ助長され、露國共産黨支店たる勞農黨首ともあらう者が、口を開けば『我黨の使命とするところは、政治的自由獲得の鬪爭である』の一本槍、どこに誇稱する如きマルクス前衞黨の面目があるのか判らぬ。マルクス主義を眞ツ仰に振り翳すからには、普遍自在の唯物辯證法の方面ばかりでなく、マルクス主義の全般を把握した政綱政策を披瀝して貰ひたい。漠然たる政治的自由の獲得なら、四十餘年前の民權運動に寸尺も増減するところがあるまい。

國法の制約を蒙むる以上、勞働農民黨が看板を赤裸にすることは事情が許さないであらう。隨つて、野暮に正體を現はせとは要求しない。唯だしかし、ウルトラならウルトラらしく、もう少し理窟のメリハリをマルクス=レーニン的ならしめて呉れねば困る。書生的英雄主義で萬事を片づけ、一流の官憲横暴論で韜晦しやうとしても問屋が許さぬ。雨が降る日は天氣が惡く、官憲は横暴なものと昔から相場が定つてゐる。今に始めて横暴を發揮したといふならまだしも、手前の方から拳固を見舞つて置いて、それで對手の官憲が激怒したから横暴だといふやうな理窟は、ロシヤと同時に日本でも通用しないのである。それもシラを切つての横暴論でもあらうことか、三ツ兒の魂のデモクラ的馬脚を露出したそれであるかた助からぬ。斯くの如き觀念主義は、神聖なるべき社會運動を劇畫化するに止まり、百害あつて一利なきものと言はざるを得ない。

百害あつて一利なき他の一つは、プロレタリア文士諸君に依つてなされる革命家氣取りである。分裂に分裂を重ね、今では本流の無産黨を凌駕する程の亂脈さらしいが、文藝を通じて革命思想を注入しようとする見地に於いて一致するなら、何にも猿眞似に類するテーゼの何んのと人おどかしの文句は使つて貰ひたくないものである。第一また、諸君の文藝行動(!)とやらを主義主張に一致させようといふ企ては、意氣や以つて壯とすべきであるか知れないが、木に竹をつぐより以上の不自然さを免れがたい。現の證據に、諸君の凄じき主義主張の鼻息にも拘らず、諸君の文藝行動は少しもこれと併行せず、どこに分離しなければならぬ行動的必然があつたか、何人もこれを認得することが出來ないであらう。

成るほど、唯物辯證法の術語的適用は、自分と共に他人をも煙に卷くことが出來た。けれども諸君のそれは、自分達ばかりが煙に卷かれ、他人を被害から超然たらしめてゐる意味で、傍の見る目には、甚だしき噴飯さと悲慘さとを印象せしめる。柳の下に泥鰌がゐないと知つたら、もう少し氣の利いた方向轉換を考へるのが悧好である。


底本:『英雄崇拜と看板心理』(忠誠堂,昭和五年十二月)
初出:『不同調』第六卷第四號

改訂履歴:

公開:2006/04/16
最終更新日:2010/09/12

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