「遠藤無水『社會主義者になつた漱石の猫』」

高畠素之

神樂坂あたりの本屋から出版するものを書く爲と云ふ事で、廿日ばかり賣文社へ顏を見せなかつた遠藤君が、突然、いよいよ書き上つて既に前の方の校正が出てゐる、急いで序文を一つ書けと云つて來た。本の名前□(1)『社會主義者になつた漱石の猫』だといふが、一體ドンナ事が書いてあるのか、内容も見せずに序文を書けとはヒドい。然しハガキに依ると、本屋が大變に急いでゝ濟まないが見ないで書いて頂くやうにとのことだと云ふ。これは何うしても書いて遣らずばなるまいが、さて由來序文なぞを餘り書いた事のない僕は、何うもペンが動かない。況んや遠藤君の著作が、一流の筆致で、興味タツプリの名文に違ひないとすれば、僕たるもの閉口せざるを得ない。オイ遠藤君、僕の序文は寧ろ無い方がいゝぢやないか。君の名文に僕の惡文では、女郎屋に救世軍の趣きがあらう。

然し既にこゝ迄書いて見れば、これでチヨン切つて置く譯にも行くまい。聊か友誼に酬ゆる形で、アトを續けやう。

假令ザツトなり目を通さない事には、今度の著作に就いて言ふ事は出來ない譯だが、遠藤君日頃の思想と文才とから推して、それが屹度讀書界の大向を唸らせるに違ひない。『社會主義者になつた漱石の猫』なら、定めし社會主義を主張するか實行するかの間に、滑稽、皮肉と云つた調子もあり、社會主義者にならない前の猫よりは、ズツと面白からうと思ふ。全體夏目漱石の『猫』は、その當時は世間で大持てゞあつたが、それほどの名著だと僕は思はない。あれ程の紙數を費やして、要するに取りとめの無いものだつた。少なくとも今日吾々の眼から見れば、其邊で見受ける赤本と大差はない。遠藤君は此間、注文で『べらぼうめ』と云ふのを書いたが、あれと漱石の『猫』と果して幾許の相違があるか。若し遠藤君をしてユツクリ、時間紙數に制限なく書かせたならば、恐らくはあの數層倍價値の多いものを書くに違ひない。斯ういふ見地からして、僕は遠藤君の『社會主義者になつた漱石の猫』を一讀もせずに、大いに價値のあるものだと斷定する。

今これをモツト具體的に言ふならば、唯の漱石の猫では、現代人に與ふる何物も無いけれども、社會主義者になつた猫なら、必ず現代人をして得る處あらしめる。遠藤君は漱石氏の持つて居た程の文學の知識を持つて居まいが、漱石氏の殆んど持つて居なかつた社會主義の知識を多量に持つて居る。現代に於いて社會主義の知識を持たない者は、到底理想的に現代社會を裨益する事は出來ぬ。漱石の猫が若し資本主義者になるのなら、復活しても價値がない。從つて若しも社會主義者になつたとすれば、大いに價値のある猫だと云ひ得る。但し漱石の猫が社會主義者になつたと云つても、果して如何なる性質の社會主義者になつたのか。若しも危險なる社會主義者になつたのなら、折角復活しても忽ち死刑にされて仕舞はなければならぬ。と云つて危險ならざる吾々の國家社會主義も、民衆が『危險好み』で官憲が極端な『無無差別の危險嫌ひ』の今日當分は持てまいから、人間の社會主義者と同じく猫も定めし苦勞をするであらう。その官憲から危險視されて苦勞をするか、或は民衆から軟過視されて苦勞をするか、早く社會主義者になつたと云ふ漱石の猫に會つて、意見を聞いて見たい。僕も人間の社會主義者には、書物を通じて世界の大抵の人物に會つて居るけれども、人間以外の社會主義にはまだ會つた事がないから、好奇心も頻りに動いて居る。


大正八年六月十七日

資本論の譯稿を前にして

高畠素之


底本:遠藤無水『社會主義者になつた漱石の猫』(大正八年,文泉堂)

注記:

(1)底本、一字空白。

改訂履歴:

公開:2006/07/30
最終更新日:2010/09/12

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