高畠素之
一、雜誌の新年號なるものに對する感想。
二、諸雜誌の新年號を讀み、最も印象深かりしこと。
一、雜誌は多く寢ころんで讀むことにしてゐるから、重々しいのはいけない。せいぜい二百頁がらみの手輕なものがいゝ。新年號に限らず、特別號と稱して踏み臺のやうなのを作ることはこの點からも有り難くない〔。〕改造新年號のやうなのは、鉋丁で三つ割りにして掛かる手間だけでも大變だ。
二、どれもこれも平號以上と思つたものはない。創作では武者(1)氏の愛慾に感服した。その限りで改造がよかつたと思ふ。新潮の表紙が百姓臭いコツテリした色彩に改惡されたことは印象に殘る。
※『不同調』第二卷第二號(大正十五年二月)
文壇名家の人物と藝術とに對する諸方面人士の觀察感想及び想像
生田長江――群□(2)のツクダニ文藝評論家に比べると確かに傑出した實力を持つ人とは思ふが、アクの抜けない厭味があるので讀む氣になれぬ。皮肉や駄洒落もこの人のやうに大げさで作意が鼻につくと、却つて其事が皮肉になる。矢張り人生の急所が掴めぬ悧口馬鹿の一人であらう。)
正宗白鳥――現物を見たことはないが、恐しく無口な人と聽いてゐた。然し新潮の合評記事などでは、言ふだけのことをサツサと言つて了つて、あとは見物するといふ齒切れの良いところが見えるではないか。何もかも腹で呑み込んで、野暮には吐き出さない冴えた聰明さがある。人としても藝術家としても一種名人の感を與へる。長江氏と良いコントラストだ。
※『不同調』第二卷第四號(大正十五年四)(3)
注記:
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)武者:底本は丸傍点の強調。
(2)群□:群の下、一字不鮮明につき不詳。
(3)生田長江/菊池寛/正宗白鳥/里見弴に対する評論。
改訂履歴:
公開:2006/12/17
最終更新日:2010/09/12
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