張り合ひ

伊庭孝


日露戰爭のすんだ歳、といへばもう二十五年前になるが、東京の燒打騷ぎをあとに、私は京都へ行つて、同志社の神學校に入學した。今日の私を知つてゐる人は、神學生としての私を考へたら可笑からうが、それよりも尚ほ可笑しな存在は、高畠がやはり神學生であつた事である。彼は私より一年前に入學してゐた。即ち上級生なのであつた。

最初のうちは、口もろくに利かなかつたが、三月ばかりたつて、非常に仲よくなつた。高畠は二十で、私は一つ年下の十九であつた。私は何も神學校になぞにはいらなくともよかつたのだが、あまり學費の事で兄に心配をかけ度くなかつたし、早く卒業をしてアメリカへでも行つて、向ふで奬學金を貰つて勉強しようと思つてゐたのであつた。高畠の考へもその通りであつた。彼は秀才であつたし、友達が皆一高などへはいるので、彼としては、どれだけか一高へ行き度かつたらう。然し家の方の財政が思ふ樣にならなくて、なまじ信仰があつた爲めに、神學校を選んだのであつた。高畠は他の多くの學生と同じやうに、學校から補助金を貰つてゐた。その補助金は月七圓であつたが、寄宿舎の食費が四圓七十錢位で、一圓五十錢位の小遣があつた。神學生であるから、酒ものまず煙草ものまず、芝居も見にゆかず、活動寫眞は京都には當時はないし、うどんを喰ふのと、上立賣の牡丹餅を食ひにゆくのが、一番の悅樂だつたから、一圓五十錢位の小遣でも、どうやらやつてゆけたのである。

高畠は、マルクスの資本論を譯した頃は、ひどく骨ばつてゐたが、當時は丸く肥つて眉がこく、瞳が黒く、愛す可き青年であつた。當時、寄宿舎では一人に一室づつを與へられてゐたが、私と高畠とは相談して、一室に寢る事にして、一室は勉強ばかりする事にしてゐたと記憶してゐる。

當時の學生は、今の學生とはちがつて、勉強するより外に仕事(1)がなかつた。お互ひに競爭をして勉強した。中學を出たばかりで同志社へ來て見ると、此の國では、英語が自由に讀めなければ、自分の免強しようとする學科が丸でのぞけないのであるから、大に緊張せざるを得なかつた。在學四年間に、圖書館にある目ぼしい本を讀んでしまふには、非常な讀書力がなければならなかつた。誰それは一時間に二十頁讀む、誰それは三十頁だ、四十頁だといふので、早く讀みさへすれば偉いと思つてゐた。我々の先生に、ドクターラーネツトといふ人がゐて、此の人は大變な讀書家で、もつともアメリカ人が英語の本をよむのだから大してむづかしい事はあるまいが、それにしても恐ろしい早い讀書力で、本を讀むのが丸で寫眞を見るやうな早さで、見てゐるうちに百頁や二百頁は讀み了るといふ人であつた。我々は學者になるには、あゝいふ風に本を讀まねばならぬと思つて、大に自己を鞭撻したものである。

高畠は非常な勉強家であつたが、本に向ふと一向氣が散らなかつたらしい。日曜日などに朝から晩まで一册の本にかぢりついて、それを讀み上げてしまふ事が隨分多かつた。私にはそんな根氣のいゝ事はとても出來なかつたので、彼のねついのを羨ましく思つた事が多かつた。彼は二十歳のときのねつさで、とうとう資本論を譯了する樣な事になつたのである。

高畠の生前に、資本論の出版記念で、私がテーブル、スピーチをやつて、その中で素つ破ぬいて、大に喝采を博した事であるが、當時の高畠は、決して後年の彼の樣ではなく、非常なセンチメンタリストであつた。よく藤村詩集を抽斗から出しては朗吟して、自分で感じて涙ぐんでゐた。

此の事を二十年後に私が話した時、彼は長い夢から醒めた樣に、始めて當時の記憶を呼び起した樣であつた。さうしていつた「なるほどさうだつた。二十歳の時の心持は四十歳の者には分らない。同時に四十歳の者の心持は二十歳の者には分らない。四十歳の者が二十歳の者に意見をしたつて無駄なことだなァ」と。

高畠は中學時代から社會主義に感染(?)してゐたらしい。同志社當時は、熱心なプロパガンデイストだつた。併し、當時の彼の社會主義は人道主義のそれで、キリスト教的な考へであつた。

私は當時ドイツ文學に傾倒してゐたから、社會主義にはちつとも興味がなかつた。けれども彼は私を社會主義者にしようとはしなかつた。

當時の彼は、容姿や擧動は男らしかつたが、心持はごく細やかな、女性的かとも思はれるほどの優しみを持つてゐた。後年彼が土佐犬を養成したり、猛者を配下に薫育したりしたのは、性來の氣質に反する或る力を養はうとした努力の結果であると思はれる。

やがて夏の休みが來た。私は京都に殘り、彼は夏期傳道といつて、傳道の見習ひに大阪に行つた。此の間に二人とも信仰がぐらつき出した。當時同志社の神學生の間には汎神論が問題になつてゐた。然し、二人は、汎神論實は無神論になつてゐた。

私の同級生に、遠藤無水がゐた。遠藤が神學生であるなどは最も不似合な事だが、彼も同志社在學中に無神論になつたのである。かういふ反逆思想と社會主義とは結びついた。そして當時の同志社は、ひどく社會主義者を嫌つたので、先づ遠藤が睨まれた。我々は毎日の禮拜には必ず缺席し、日曜日には教會に行かず、寄宿舎で葡萄酒をのんでその空瓶を寮の庭の眞中に放り出したりした。その下手人は遠藤であつた。遠藤は先づ補助金をとめられた。遠藤は去らなければならなくなつた。寒い十二月の晩の事である。遠藤を京都の驛に見送つて歸つて來た後、高畠は泣いてゐた。遠藤ばかりを放浪させて自分は相變らず外國教師の補助金を貰つて晏如としてゐるのは濟まないといふのである。

それ以來、高畠も妙に學校に居づらくなつてゐたが、高畠は友人から敬愛されてゐたので、寄宿舎では氣まづい事はなかつたが、それでも寄宿舎を出る決心をして、鞍馬口といふ所に出張の講義所があつたのをそのまゝ家賃なしで借りる事になつて、そこで私と高畠とが自炊する事になつた。

〔私は、自炊の事など何も知らなかつた。高畠はどこで覺えて來たのか、飯を焚くのも漬物をつけるのも、味噌汁を作るのから、何から何まで實に上手であつた。私は彼から炊事萬端を教はつた。後年私が料理が上手になつたのは、此の時の經驗が始めである。此の時、都育ちの私は、初めて蕨といふものゝ味を知り、且つその煮方を覺えたのである。〕さうして半年はたつた。やはり高畠はどうしても學校を去り度いといふし、私も文學の方で身を立てやうといふ心持になつてゐたし、二人とも學校へは丸で出なくなつたので、とうとう退學した方が宜いやうな形になつた。

明治四十年の初夏、二人は學校をよして東京に出た。

私は東京に家があつたが、高畠は一先づ上州の前橋へ歸り、すぐに東上して來た。そしてかねて高畠が尊崇してゐた堺利彦氏を二人して大久保の寓居に訪れた。高畠は何かに使つて貰ひ度い心持であつたのだが、此の時の堺氏の應對はあまりアツサリしてゐたので、高畠としては取りつく島がなかつた。

高畠は、學校に背いて出て來たものゝ、そして心は無神論唯物主義であつたものゝ、教會の恩惠から離れる事は出來なかつた。巣鴨の家庭學校の教師も暫くしてゐたし、また歸郷して、夜學の先生などもしてゐた。夫人を得たのは、此の放浪時代である。

やがて高崎で遠藤と協同で發行してゐた「東北評論」の記事によつて、筆者の遠藤と、編輯者の高畠とは、獄に下る事になつた。〔此の時分、東京の私の家に巡査が問ひ合せに來たりして、私は兄などの手前、非常に困つた。此の頃、私は田山花袋氏の御世話で、文章世界に北歐文學の紹介を數回載せて貰つて、無名な小文士の一人になつた。

〕高畠の入獄は短いものであつたが、是は彼を一人前の社會主義者にした。〔「即ち「入幕」したのである。〕それで今度は東京に出て、四谷にあつた堺氏の賣文社の社員として働く事になつた。此の時分に私の家も四谷に引越していつたので、私は毎日のやうに賣文社に遊びに行つた。〔堺夫人が産科醫である私の兄が教へてゐる産婆學校に通つて、兄のお弟子であつたのは此の時分の事である。〕

私と高畠とは同時に同志社を飛び出して來た手前、どうにかして、どつちも負けないやうに世間に現はれるやうに競爭せねばならぬ羽目になつてゐた。堺氏はじめ賣文社關係の人達は――それは當時の殆ど凡ての社會主義者を網羅してゐたが、さういふ意識で二人を眺めてゐた。二人は、妙にフイールドに引き出されたランナーのやうな形になつた。

少くとも、初めには私が彼をリードした。私の方が世間に知られるやうになつたのは、ずつと早かつた。それは彼にとつては、憂鬱の種だつた事は爭へなかつた。けれども、十九、二十の年から、一日机に向つて飽きなかつた努力家の彼が、成功(?)しないといふ事は私には信じられなかつた。

高畠が世に知られるやうになつてからの事は、私はいふ必要はない。たゞ殘念なのは、私が忙しかつた爲めに、晩年の彼にはたつた一度しか會はなかつた事である。然し、彼は、資本論が美々しく書棚に竝ぶにつけ、本郷の邸宅が落成するにつけ、多分微笑をもつて私の事を考へたであらう。彼には、勿論競爭す可き人は他に幾人もあつたらうが、無邪氣な「出世競爭」の相手は、私ひとりだつただらうと思ふ。〔最近數年間に私の友人や後輩がおびたゞしく死んだ。然し高畠の死ほど私を暗い心持にさせたものはなかつた。無沙汰にしてゐた事を本當にすまないと思つた。彼の死ぬ日も、通夜の日も、葬儀の日も、私は非常に忙しくて、長く彼の遺骸の傍に侍する事が出來なかつたのは、尚更殘念であつた。然し、何にしても、私にとつては、張合ひの抜けた事である。〕私だつて、彼がもつとながく生きてゐるなら、彼を憂鬱にさせるほどの仕事をして見せてやるのだが、(2)恐らく彼も同樣の事を思ひながら眠をねむつたのであらうか(3)…………。

(七月二十三日記)


底本:『高畠素之先生の思想と人物』(大衆社,昭和五年九月)

注記:

※伊庭孝:1887~1937年。
※校本に『急進』第二卷第十一號(昭和五年十二月號)を利用した。『急進』は「同志社時代とその後」の項に入れ、「張り合ひ」という題目はない。
※原則として底本に従ったが、句読点の一部を『急進』によって改訂した。
※『急進』に欠落のある場所は〔 〕を加えた。 テキスト間の小異は記さない。『急進』に欠落箇所がある場合は〔〕に入れた。

(1)仕事:『急進』は「仕方」に作る。
(2)、:『急進』は「。」に作る。
(3)か:『急進』は「が」に作る。

改訂履歴:

公開:2006/06/04
改訂:2007/11/11
最終更新日:2010/09/12

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