高畠素之君を憶ふ(上)

宮島資夫


高畠君の死を新聞で知つたとき僕は如何にも高畠君らしく死んで行つたな、と思つた。蓋し同君は平常相對して話してゐる時、別れ際が實にアツサリしてゐたからである。左樣なら、と云ふ事もある。また云はない事もある。電車が來ると默つて飛び乘る事もあつた。そして最後にも遂に、左樣ならとも何とも云はずに此世の中を去つて行つた。

由來、社會主義の人々は、人が死ぬと、取別けて騷ぐ癖がある。生前餘り仲がよくもなかつたのに一朝此世を去ると、死せる者に光榮あれ、などゝ云ひ出す。それ程ならば生ある中にもつと好意を示しておくべきであると僕は思つてる。高畠君もさうであつた。彼は死者に對して餘り何か云ふのを好まなかつた。たゞ、古田大次郎君の死の懺悔に對してだけは珍らしく涙に滿ちた文章を書いた。彼は眞劍を愛したからである。古い話であるが、一度ダーウインの事を話し合つたとき、種の起原を讀む時だけは、實に肅然として襟を正す氣になると言つた事があつた。僕は之れで、彼に對する一種の敬意を持つた。

伊庭孝君の説によれば、高畠君は同志社時代には藤村の詩を愛誦した、と云ふ事である。さう云ふ一面も多分に持ち、そしてそれに反抗した人であることゝ僕には思はれる。現にその話を伊庭君がした、資本論の會の晩、高畠君は藤村の『嵐』を批評して、

『何だいあれは、昔のセンチメンタリズムから一歩も出てゐないぢやないか』と冷評したがさう云ふ高畠君も昔は、

『世の中の事を考へていやになると坊主にでもなりたくなる』とよく言つた。また僕が比叡山にゐた頃手紙を寄越して、

純眞プロレタリアの理論を持ちながら、こうしてぐづぐづしてゐるのは實に堪らなくなる、とも述懷した。心中に可成りの苦悶を持つてゐたらしい。

ホツブス・スペンサーを好み、カントには可成りの敬意を拂つてゐたらしい。ウオードの社會學は面白いには面白いが、結局に於て不明な點が多いのが不滿だ、と社會主義社會學を出した時の僕の手紙に對して言つて來た。漢文は餘り好かない、と言つてゐたが、僕は高畠君を思ふ度にいつも韓非子を連想したのである。その性惡説、功利説、主權説に於て、また文章の辛辣なる點に於て、更にその態度の非回顧的で進化的な點に於て、實に相通ずるものゝ多くあるのを見る。

殊に、韓非子が、老莊の虚無思想に相通ずると云ふが如く、高畠一派の人々は、辻潤と何等かの意味に於て、一脈相通じてゐた事を考へると、僕は更に此感を深くするのである。想ふに高畠君は、この混沌茫漠とした人生に處するには、そこに何等かの截然たる條理を設けてそれに從ふのでなければとても納まりのつくものでないと考へてゐたのではあるまいか知ら。從つて、ダーウインに襟を正すが如く、自己の仕事に對しても實に嚴肅な態度を執つてゐた。資本論次譯(1)の時に當つて、高畠君は決死的覺悟を持つて事に從ふ、と宣言した。(2)そして文字通り、決死的な仕事であつたやうである。

四五年前、千駄木町の舊居に訪ねたとき、机の上にはドイツ本と英譯本とをのせて傍には原稿が堆く積まれてあつた。

『全くいやになつてくる。變化がないので退屈するから、晝寢を二三度もやるが、胃が惡くなつて困る』と云つた。痼疾はその頃から喰ひ込んでゐたのであらう。



高畠素之君を憶ふ(下)

宮島資夫


今年の正月、辻潤を東京驛に送つたとき丁度同君と出會はせた。

『顏色が惡いね』と云つたら

『うむ、胃が惡い』と答へた

『もう校正は濟んだのだらう』。訊くと

『いや、まだ少し殘つてゐる』と云ふので

『君は全く校正で苦勞ばかりするね。校正で命をとられてしまふぜ。矢張り犬でも引張つて運動すると好いのに』と云ふと、

『此の頃は犬も引張らないので』と笑つた。その歸り、東京驛の精養軒で矢部君(3)と三人で飲み合つたが、之れが同君との最後の會見であつた。全く資本論に決死的精力を注いだとも思はれる。

だから高畠君はよく云つた。飜譯だつて、創作だつて、賣文する以上商品である。そして商品を提供する以上、自分は優秀なる商品を提供したい。それが自分の良心である、と。(4)

一寸この言葉を聞くと、何だか町人らしい處があるやうに思はれる。が彼れほど町人嫌ひな人もなかつたやうである。その服装なども以前可成り弱つてゐた時分でも、紬の五ツ紋の羽織などを着てゐた。貴族的といふより寧ろ武士的なものを好んだやうである。だから雜誌『急進』を出した頃にも、白柳組の意氣に何とかを加味して、といふやうな宣言を書いてゐた。(5)高畠君にして見れば、徳川時代の町奴は多く、大名の番犬みたいに思はれて、寧ろ徳川麾下の旗本に共鳴する點が多く、これが今日の世の中になると、町人根性のブルヂヨアよりも、軍閥に共鳴する所の多くを發見したのであらう。現に、レーニン死後の勞農政府時代にも、ジノヴイエフ(?)このやうな町人根性の人間はつまらないから、トロツキーを押し立てて、ムツソリニと鬪はしめたならば痛快だらうなどゝも云つてゐた。

資本論と云へば、道路傳ふる所によると、政友會の人達は、高畠君があれぼどマルクスに精通しながら、赤化しない所が實に偉い、と感心してるさうである。がもし之が本當とすれば隨分間抜けな話である。そんな量見だから、マルクス・エンゲルス全集を取る學生に黒點をつけたりする結果になるので、これこそ、依らしむべし、知らしむべからずの古ぼけた政治思想である。現に我々は、胡麻油で揚げたカツレツも喰ふし、ザンギリ頭でシヤツの上に着物を着て下駄を履いて電車でも飛行機でも乘るのである、マルクスに精通したからと云つて必ずしも赤化しなければならない理由もないと、高畠君も亦そんな事で尊敬されてはマシヨクに合ない話である。寧ろそれよりもあの短時日の間に之れだけの勢力を獲得したとすれば原因は他になければならない筈である。事は思ひ當る人も尠くないと思ふ。

十一二年前、堺氏の前で、當時から政友會の好きな高畠君に、

『それほど現實的に進みたいなら政友會に入つたらどうか知ら』と云つた事があつた。

『今僕が政友會に入つたつて、何にも認められはしない』之れが同君の言葉であつた。が遂にその政友會とも深く接觸を持ち、これからどれだけ手腕を振るひ得るかの秋に當つて、突然の死に襲はれたのは同君としては遺憾な事であらう。日本も亦維新以來六十餘年のドイツ、フランス、メリケン、イギリス、ロシア、イタリー、と詰め込むだけの物は已につめ込んでそれをどの位に消化して、日本流に表現するかの秋に臨んでゐる。アナンもボルでもステートでも修正でも、日本は日本らしい現はれを誰れもが望んでゐるのである。それは反動でも何でもない。自己の生活に忠實ならんとする者の當然に持つ要求である。この秋に高畠君の死は、痛惜の感に堪へないが、由來生死の事は人力の如何ともすべからざる所、止むを得ない次第である。

けれども僕とすれば、曾てクリスチヤンであつた同君、醉へばゲツセアネ(6)の夜を歌つた人が、最後に神式の告別式に到るまでの心的徑路を何よりも聞きたかつた。先には別種の日本主義者となつた徳富蘆花氏の死に接した時も此感が深かつたが、それも今更には愚痴である。英譯資本論の教を受け、その他種々の點で啓發された益友を失つた悲に、人一倍深い。偏に故人の冥福を祈るのみである。


底本:
(上)『やまと新聞』昭和四年一月三日(朝刊)
(下)同翌日四日(朝刊)

注記:

※宮嶋資夫:1886~1951年。
※底本は原則総ルビ。今回はすべて省略した。

(1)資本論次譯:ママ。 (2)て事に從ふ、と宣言した。:底本は「て事に從ふ。と宣言した、」に作る。
(3)矢部君:矢部周のこと。
(4)それが自分の良心である、と。:底本は「それが自分の良心である。と、」に作る。
(5)恐らく『霹靂』の巻頭言「『破壊』不許!(訂正せる劈頭語)」を指すと思われる。同書目次には「町奴に白柄組を兼ねた気込」とある。この論文は『幻滅者の社会観』第三篇の「『破壊』序」に収録されている。
(6)ゲツセアネ:ゲツセマネの誤か。

改訂履歴:

公開:2006/06/18
改訂:2007/11/11
最終更新日:2010/09/12

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