逝ける高畠素之君

新居格


高畠素之君突如として逝去す。まだ極めて壯齡(四十三歳明けて四十四歳)である上、どこまでも元氣な彼と思つてゐた丈に全く意外の感に打たれた。筆者は彼竝に彼に近しい諸君(小栗慶太郎、矢部周その他)と面識はあつたが、特に交際はなかつた。これは僕等が無政府主義の立場に居り、彼が國家社會主義の立場に居たと云ふ互に相反的な立場に居たためであらう。にも拘らず、箇人としての彼の存在はいろいろの意味で筆者に教へるところがあつた。彼はきはめてエネルギツシユであつた。だからこそ「資本論」と云ふ大册を獨力でしかも精緻極まる飜譯を遂行したのであつた。彼とは正反對に非精力で氣の散る自分であるだけに、彼から毎日缺かさず、机に身體をしばりつけても飜譯をすることにしてゐると直話で聞かされて驚嘆したのである。文壇にさうした高畠君のやうな精力を誰が持つて居やう。中里介山氏の如きは兎にも角にも精力家である。だがトルストイの「戰爭と平和」の如き大作を高畠君の如き精力があつてこそ出來さうに思はれた。筆者が彼に感心することは彼のエネルギーであつた。彼はどこか精悍と思へるところがあつた。精悍と精力とが彼を特徴付けてゐた。筆者の如き臆病で氣の弱い男は彼の精悍に鼓舞されていゝと思つた。高畠君はマルクスの書册を精讀してゐながら彼はコムミユニストにはならなかつた。コムミユニズムを奉じなかつた許りでなく、コムミユニズムを甚しく嫌惡した。如何なる事情が彼をさうさせたか。その間の事情に就いては言議を避けるが、一言で盡せばそこには彼をさうさせた感情があつたらしいのである。彼が「資本論」の飜譯を完了した日、彼の業績の勞苦を慰めるために諸友が相會した。その會の案内状の發起人は上杉愼吉、石川三四郎、宮島資夫その他(今一々は記憶から逸脱したが)國家主義者、國家社會主義者、無政府主義者の珍奇な取り合せであつた。共産主義者は筆者の記憶ではなかつた。而してマルクスの「資本論」の會であつた。筆者も發起人の一人として名前を列ねてゐたが、病の故に缺席した。彼は國家社會主義者であつたが、何故だかアナキストに好意を持つてゐたらしい。理論上最も離れてゐるアナルシズムの徒に好感を寄せ、マルクス理論の延長でもあるコムミユニズムに嫌惡を抱いてゐたらしい彼の心境には何事かの理由がなからねばならぬ。

彼の國家社會主義に國家的或は國粹的色彩の方が立ち優つてゐた時代があつた。大化會に關係し經綸學盟(?)を上杉愼吉と共に組織してゐた時代がさうである。或は彼がムツソリニーを推賞した時代があつた。筆者が高畠君と逢へば相變らずの談笑を取交はしてはゐたが、心持に於いては最も距離の遠い感覺を持してゐたのである。

雜誌「平凡」の合評會に同席したのを最後の會合とする。思ふに彼に筆者の會つたのは賣文社の樓上で大正何年かに逢つて以來、概して集會の席上だけであつて十回以上には出でない。だから筆者は私生活の彼を全然知らない。彼の嗜好も彼の趣味も知らない。筆者は篤學なマルクス學の研究者としての彼を知つてゐた。しかし、筆者自身がマルクス學に就いて學究的には殆ど知るところがないから、茲で彼のその方面に關する批評は差控える。

時評家としての高畠君は一種獨特の色彩をもつてゐた。人は彼の時論を目して反動的だと評する向きもあつた。しかし、筆者はむしろ反撥的と云ひたい。マルクス學には緻密な研究をする彼は、時論には皮肉にもなり辛辣にもなり、パラドキシカルになる。學究的面目が完全に影を沒して遊侠の徒の啖呵と痛撃と揶揄とに早變りをする。そこに彼の言説を痛快がられた向きもあるが、私はむしろそれに贊することが出來なかつた。そしてさうした外部に取られる彼の表現よりも、彼が事程左樣な表現を取らざるを得なかつた心の中に鬱屈した何事かに反激する物自體の所在を見るものである。何にか知ら絶えず彼の心を激性に驅らしめるものがあつたのではないか。それが時には彼をして反動的な動きにまで突き進めて行つたのではなかつたかと、筆者には觀察されたのである。心が平かであつたりせば、彼はロシヤ流のマルクス學者にならなくも或はカウツキー、乃至ベルンシユタインの路を學究的に歩んだかも知れない。彼にして慶大教授であらしめたなら、小泉信三君のやうなマルクス修正派の立場を取つたかも分からないとも想像されうる。だが、高畠君には爭氣があり激性があり過ぎた。であるから、彼があつたやうにあつた譯であらう。

彼の事業として「資本論」の飜譯が最もよく銘記されよう。彼がさまざま出したところの社會思想に關する著書飜譯の類も殘らう。時論は主として彼の正確の反映として特長視されうる。たゞ、彼の國家社會主義に關して纏まつた論著を思ひ出せないのは稍さびしい。壯齡の彼としてはこれより漸く彼自らの思想的建築に取りかゝるべきであつたのかも知れない。彼としてもその死が殘念だと思つたらうと思はれる。文藝書も博讀して彼一流の文藝批評があつた。雜誌上にもその方面の所説がしばしば掲載されたこともあつた。彼は今の批評壇の大勢とも云ふべき時流にはマルクス學者でありながら抗せざるを得ない立場にあつた。その點は高畠君と相反的な立場に居る筆者達も同樣である。相反的ではあるが高畠君は輕微な筆者とは異り、この國の論壇に於ける一つの大きな地歩を占めてゐた。彼の死を弔する所以である。


底本:新居格『風に流れる』(新時代社,1930年)所収「人物觀」。
初出:不詳。

改訂履歴:

公開:2007/9/16
最終更新日:2010/09/12

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