「尾崎士郎・茂木久平『歐米社會運動者―評傳―』」

高畠素之

個人と社會(序)

英雄が時代を作ると云ふ言葉がある。又、時代が英雄を作ると云ふ言葉がある。社會が個人の基か、個人が社會の中心かと云ふ事は、古來人間觀察、社會觀察の上に用ひられたる二大方針である。

社會現象のすべてを經濟的實質の形式として考へる吾人は、素より精神主義的の個人中心の人間觀察を肯定する事が出來ぬ。時代は常に、其の時代の經濟的實質を構成する所の全社會、即ち其の時代の人間全部が作るものである。そこで、『英雄が時代を作る』との見方は錯誤であると斷定する。

それなら、世に英雄がないかと云へば、そうではない。すべての時に、すべての所に、何等かの意味に於て卓越したる能力を認めらるゝ個人が居る。是が英雄若しくは英雄的人物であろうから、世には必ず『英雄』がある。即ち『時代が英雄を作る』ものとなる。

そこで吾人は、すべての時代に其の時代の作つた英雄が居ると言ふ見解を前程として、英雄性を帶びたる人間を捉え、それを觀察する事に依つて、其の英雄を作つた時代を知る事が出來る。例へば桂太郎と云ふ軍人が英雄性を示した事に依つて、明治三十年代、四十年代前期の日本が、軍國主義的時代であつた事が解り、原敬と云ふ地主を基礎とした政黨の首領の英雄的地歩を得た事に依つて、現在の日本が地主の勢力の肯定せらるゝ時代である事が解る。更に、地主の勢力は商工資本家に取つて代らるゝ原則が、社會變遷の上に行はるゝ事を稽えると、次に來るべき日本は、眞の商工資本家の時代であろうとの觀察も下せるし、資本主義は必ず軍國主義を伴ふとの見地に立てば、今後又軍國主義的色彩の濃厚な時代の到來を豫想する事も出來る。そうなると、桂太郎を作つた時代の軍國主義は、資本主義を基礎とせる西洋流の軍國主義でなく、封建時代の傳統に立脚した東洋流の軍國主義であつたなどとの面白い觀察も出來て來る。

斯くの如く、時代を理解し、時代を批判するの過程たる意味に於てのみ、吾人は人物研究に意義を認め、興味を覺える。英雄に心醉し、英雄に眩惑する所の中等教科書的人物傳、御神輿擔ぎ的英雄論は、素より智識的に唾棄すべきである。

尾崎、茂木兩君の此の評傳が、最善のものであるとは素より云へない。本人が自稱するが如く「非常なる努力」の産物だとも、實は客觀し兼ねる節もある。又年の若い割に立派な作だなどゝの世間並の頌辭も連ねたくない。唯而し兩君が、社會現象を自家研究の對照物とするだけの、天分と智識とを持つて居る事に依つて、本書が時代批判としての人物傳であり、社會觀察としての個人論であるの一點は、全く推賞するに足ると思ふ。殊に日本の學者、評論家と云はるゝ人の多くが、社會觀察の能力を、極めて露骨に缺いて居つて〔、〕世に行はるゝ人物評傳の大多數が、中等教科書的の社會無視に陷り、御神輿擔ぎ的の人物盲拜に捉はれて居る現事實に鑑みて、科學眼に立脚した兩君の此の小著は、其の特徴と價値とを認めなければならぬ。


底本:尾崎士郎・茂木久平『歐米社會運動者―評傳―』(改訂増補版,南星堂,大正八年)

注記:

句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。

改訂履歴:

公開:2006/07/30
最終更新日:2010/09/12

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