利潤觀さまざま

高畠素之

資本の目的は利潤の獲得にある。資本を知るには利潤を知らねばならぬ。資本主義經濟の解剖は利潤の分析に集中するといふも過言でない。然るにこの利潤の本體については、學者の間にいろいろ異説があつて歸する所を知らない有樣だ。利潤觀の相違は直ちに現資本主義制度に對する見解の相違を示すものであるから、これをあらまし知つて置くことは、資本主義批評の旺盛な今日、社會思想の常識水準にとつても幾分必要な修業だと思ひ、この雜誌にはちと不向きかも知れないが(1)出來るだけ通俗單純に解説して見る。

いろいろある利潤觀の中から、一番標本的なものを三つ選ぶ。第一は勞働搾取説、第二は節慾賃銀説、第三は監督賃銀説、この中、第一の勞働搾取説は有名な餘剩價値説であつて、マルクス經濟説の基調をなすもの、これが當今一番目醒しく流行してゐるやうだから、便宜上茲に基點を於いて順次に他の二つを考察して見る。

勞働搾取説に依れば、利潤(餘剩價値)の本體は資本家が使用勞働者から搾り取る所の餘剩勞働にある。餘剩勞働とは、必要勞働以上に出づる勞働の意味である。そこで『必要』の意味を明かにする必要がある。

今の社會の原則としては、資本を有つ人と、勞働をする人とが、別々に分れてゐる。資本を有つ人(資本家)は、資本を有たないで勞働する力だけを有つ勞働者に一定時間勞働させて産業を營む。けれども只で人を使ふ譯には行かない。自分の工場なり作業場なりで勞働者の勞働力を發揮させるためには、相當の代金を支拂はねばならぬ。これが即ち賃銀と稱するものであつて、資本家はこれを自分の資本の中から支拂ふ。資本家の資本の他の部分は、建物や機械や原料など、約していへば生産の物的條件に投ぜられる。この方面の資本は餘剩勞働搾取の必要條件であるとはいへ、餘剩勞働の原因とはならない。これはその儘生産物に價値を移轉して行くだけである。

然るに、賃銀として勞働者に支拂う所の資本は、それ自身の價値を増殖する。資本家は一日分の勞働力の代金として、一日分の賃銀を勞働者に支拂ふ。一日分の賃銀の大小はいろいろな條件に左右されるが、終極に於いては一日分の勞働力を造り出す費用、即ち勞働者の一日分の生活費に依つて決定される。この一日分の勞働力を買つて、資本家はこれを生産上に發揮させる。勞働力の發揮は價値の生産である。これを發揮させてゐるうちに、支拂つた賃銀を回収するに恰度相當した價値限點に達する所がある。この限點迄の勞働を『必要』勞働といふ。資本家から見れば、投下賃銀を回収するに必要な勞働であり、勞働者から見れば、自己の生活費を造り出すに必要な勞働であるといふ所から、この『必要』といふ概念が出て來るのだ。

若しこの『必要』な限點で生産を打切つてしまふとすれば、資本家は損も得もない。得をえ(2)ようとすれば、更らにこの限點を超えて働かせねばならぬ。必要勞働の時間が六時間であるとすれば、それ以上に出づる一日の勞働時間部分は悉く資本家の儲けになる。一日分の賃銀は一日分の勞働力の代金であるから、一日の最高限二十四時間迄は一日分の賃銀で勞働させることが出來る。假りに十二時間勞働させたとすれば、このうちから必要勞働六時間を差引いた殘餘の六時間といふものは全部資本家の儲けになる。これが即ち『餘剩』勞働時間であり、この時間中に造られる價値が即ち餘剩價値である。資本家の得る利潤とは、この餘剩價値の具象化された形態に外ならぬ。

資本家は斯樣に、勞働者の餘剩勞働を搾取することに依つて利潤を造るのであるが、若しこの造つた利潤を全部享樂的に消費してしまふとすれば、資本家の資本は何時までたつても増大することがなく、永久に同じ規模の生産を繰返へさねばならぬ。然るに社會の生産は絶えず進歩發達する。生産が發達するにつれて、ヨリ大きな建物、ヨリ精巧な機械、ヨリ多量の原料、ヨリ多數の勞働力を必要とする。若し此等のものを支配することが出來ないとすれば、資本家は競爭場裡の敗北者となる。然るに此等の物を支配するには、より大きな資本を必要とする。資本家は如何にして、このヨリ大きな資本を左右し得るか。

それには獲得した利潤の(3)全部を享樂的に消費しないで、その一部なり全部なりを原資本に組込んで行かねばならぬ。最初一萬圓の資本を有ち、その中の二千圓を賃銀に充用して、一年間に二千圓の餘剩價値(利潤)を得たとする。若しこの二千圓を全部享樂的に消費したとすれば、翌年も亦一萬圓の資本で生産を繰返す外はない。ところが若し、この二千圓全部を原資本に組込んだとすると、二年目には一萬二千圓の資本を以つて出發することが出來る。若し同じ率で餘剩價値が造られるとすれば、二年目の終りには二千四百圓といふ新らしい餘剩價値が生ずる。これを又全部資本に組込むと、三年目には一萬四千一百圓といふ資本を以つて出發することができ、二千八百八十圓といふ餘剩價値が新たに造られる。これを資本に組込むと、一萬七千二百八十圓となつて、三千四百五十六圓といふ餘剩價値を生ずるから、四年目の終末にはその合計二萬七千三十六圓といふ金額が資本家の手に保有されることになる。即ち資本家が利潤を消費しないで、これを全部蓄積したとすれば、四年後には原資本の二倍以上を所有し得る譯である。

利潤は資本家のものであるから、それを煮て食はうが燒いて食はうが資本家の勝手である。資本家も人間であるから、なるべくは贅澤三昧をして遊んでゐたい。けれども、そんな事をすると利潤の全部は愚か原資本まで食ひ込んで、遂には資本家の隊列から落伍してしまふ。

資本家が資本家としての位置を確守し發展せしめる爲には、不斷の努力と克己とを要する。資本家の胸にも、フアストの心の裡と同じやうに肉慾と禁慾と、異教とキリスト教と、享樂と蓄積との爭ひが絶えず鬪つてゐる。そして蓄積の意志が享樂の慾念に打克つ限りに於てのみ、資本家は彼れの資本を増大することが出來る。今日、社會に存在する資本の殆ど全部は、斯樣な克己と節慾の産物である。資本は節約の結果であり、利潤は節約の努力に對する一種の賃銀と見做すべきものだ。勞働者が勞働に依つて賃銀を得る如く、資本家は節慾の努力に依つて賃銀を得る。努力なくして利潤は造られるものではない。――これが即ち節慾賃銀説の論法である。

けれども節慾といふのは、利潤の浪費を節慾するといふことだらう。して見れば、節慾する前に利潤が豫め存在して居るべき筈だ。一年目の終末に二千圓の利潤を得た。その利潤を浪費しないで、節約するといふのだ。それなら、節慾は利潤の原因ではない。この二千圓が何處から生ずる〔か〕といふことが問題なのだ。勞働搾取説は上述の如く、その説明を與へてゐる。節慾説は利潤の説明にはならぬ。勿論、節慾しないで浪費すれば二千圓は蓄積されない。この意味に於て、節慾は蓄積の一條件といひ得る。が、この節慾も資本家の主觀的道徳的な努力にのみ依るものではない。資本家が利潤の幾部分を消費して、幾部分を蓄積するかといふことは、資本家としての存在の社會的必然に強制される所が多い。餘り濫費して放縱な生活をすることも、餘り節慾し過ぎて貪婪と見られることも、共に資本家社會の信用を毀ける所以となる。そこで大抵の資本家は、その資本家たる位置の上から、利潤の或る部分を消費して、或る部分を節約するといふことになる。これは資本家の道徳的努力といふよりも、寧ろ社會的必然の結果なのだ。

が、利潤の蓄積はそれで好いとして、然らば最初の資本はどうして出來たかといふ問題が起る。曩に最初の資本(4)として、一萬圓を假定した。その一萬圓は、どうして出來たか。所有者自身(単行本+の)節約の結果ではないか。

社會的に云へば、最初の資本は掠奪の結果である。イギリスに於ける共同地の圍込み、ドイツに於ける農民(5)追放の事實等によつて、土地が先づ特殊個人の私有に轉化された。これが近世資本の起點形態である。

が、假りに一歩を讓つて、各資本家の最初の資本が、すべて彼れ自身の勞働及び節慾の結果であつたとしても、或る一定の年限を經るうちに彼の資本は悉く蓄積された餘剩勞働を代表するものとなつてしまふ。

最初の一萬圓は所有者自身の勞働の結果であつたとする。彼れはこれを産業に投資して二千圓の利潤を得た。この二千圓を全部享樂的に消費してしまふ。そして翌年また、一萬圓を投資して二千圓の利潤を得、これを同樣に消費する。いま、この關係を五年間續けたとする。この五年間に、彼れは一萬圓消費したことになる。即ち最初、彼れ自身の勞働の結果として、節慾の結果として有つてゐた一萬圓は五年間に全部消費されてしまつた譯だ。それでも依然として、一萬圓と云ふ資本が彼れの手に殘つてゐる。この一萬圓は最初の一萬圓だと彼れは言ふかも知れないが、最初の一萬圓に相當した金額は五年間に消費してしまつたのであるからこれは寧ろ年々勞働者から搾り取つた二千圓づつの利潤を五年間蓄積した結果だといひ得る。即ち最初の資本は、所有者自身の勞働及び節慾の結果であるとし、且つこれを以つて年々獲得する所の利潤に等しい金額を全部消費したと假定しても、或る一定の年限を經た後には、彼れの資本は全部他人の餘剩勞働の蓄積を代表したものとなつてしまふ。

茲まで追ひつめられると、節慾説の逃げ場は殆んどなくなつてしまふ。そこで同じやうな立場から、いま一つ、別な行き方の利潤説が編み出された。監督賃銀説といふのが即ちそれである。

これは節慾説に比べると、幾分論據が深い。利潤を以つて、資本家の生産勞働の報償に過ぎないと見る。生産には勞働が必要である。生産上の勞働にはいろいろな種類がある。單純な筋肉勞働もあれば、複雜な頭腦勞働もある。頭腦勞働の最も複雜なるものに、生産上の指導、統制、監督といふ勞働がある。資本家はこの勞働を擔任する。そしてその勞働の賃銀として受けるものが、即ち利潤だといふのである。

勿論、廣い意味の利潤といふ中には、この勞働の賃銀に相當しない部分も含まれてゐる。普通、利子と稱するものがそれである。この關係は、資本主と企業資本家とが別々の人である場合を考へて見ればよく解る。企業家が金貸や銀行から資本を借りて産業を營む場合を考へて見る。彼れが自己の産業から得る一年間の利潤を上例に從つて二千圓と假定する。彼れはこの二千圓の中から、一部分を利子として金貸又は銀行の手に支拂はねばならぬ。それを假りに五百圓とすれば、この五百圓は収納者の不勞所得を代表するものとなる。けれども殘餘の一千五百圓(狹義の利潤、又は企業利潤)は企業者の監督勞働の賃銀に相當するものであるから、決して不勞所得ではない。勞働者の賃銀と本質的に何等異なる所のない勞働所得を代表するものだ。

蓋し如何なる生産も社會的生産である。そして如何なる社會的生産も(6)、個々の勞働者の生産行爲の外に尚、此等の個別的生産行爲を指導し統括し調節する所の監督勞働を必要とする。オーケストラに樂長を要する如くである。各合奏者の勞働が特殊の熟練勞働である如く、樂長の勞働も亦一種の熟練勞働である。同樣に、資本家の監督勞働も亦、一種の頭腦勞働であり熟練勞働である。狹義の利潤(企業利潤)とは、資本家がこの勞働について受ける所の賃銀に外ならぬ。――これが監督賃銀説の論法である。

けれども勞働者は資本家から賃銀を受けるのであるが、資本家としての勞働者は一體誰れから賃銀を受けるのだ。資本家の監督勞働なるものが假りに一種の勞働であるとしたところで、この勞働は資本の所有又は占有と固く結びついてゐるのではないか。然るにオーケストラの樂長は、使用すべき樂器の所有者又は占有者たることを要しない。ところが資本家の勞働なるものは、資本の所有又は占有を離れては意味をなさない。だから、假りに資本家が勞働をするとしても、その勞働は樂長の監督勞働と同じ種類のものではない。樂長的の勞働は、資本家としての資本家の機能とは何等關係する所がない。資本家なる者の未だ存しない原始的の共同生産にも、この勞働は行はれてゐた。勞働者の共同組合的工場に於いては、この種の監督勞働は、勞働者に對立して資本を代表するものではなく、寧ろ勞働者に依つて賃傭された特殊勞働者の仕事となつてゐる。

金貸や銀行に比べれば、企業資本家は勞働者であるといふ。この場合の勞働とは、右に言ふ如き樂長的の勞働ではなく、他人の餘剩勞働を搾取するについての勞働である。他人の勞働を搾取するには、この意味の特殊監督勞働を要する。けれども搾取される餘剩勞働は、この特殊の勞働に依つて造り出されるものではない。それは、資本家に雇はれる勞働者の勞働から來るものである。又、この餘剩勞働の大小も、資本家の勞働ではなく被傭勞働者の勞働の生産力や能率の如何に依つて決定される。資本家の監督勞働といふのは如何にしてこの生産力や能率を十分に發揮せしめるかといふこと、其他類似の操作に限られる。

而もこの餘剩勞働搾取上の勞働は、必らずしも企業資本家自身がするに及ばない。資本家は、これを自己の雇傭した監督勞働者に一任することが出來る。株式會社に於いては、株主及びその代表者たる重役が企業資本家である。けれども彼等は監督勞働をしない。この勞働は支配人以下、監督、工場長等に一任する。此等の人々はその勞働について一定の給料を支拂はれる。この給料こそ、寧ろ監督賃銀と稱すべきものだ。然るに企業資本家たる株主は、この監督賃銀を支拂ふ以外に尚、利潤として一定の配當を受ける。この配當は利子とは違ふ。若し株主の投資が彼れ自身の所有資本でなく、銀行から借入れたものであるとしても、彼れは銀行に支拂ふ利子以外に尚、純粹の企業利得を収納する。

今日の産業界の状勢を見ると、企業資本家の資本家たる機能と、如上の意味の監督勞働の機能とは益々分離されて、後者は資本家の下に雇傭される特殊熟練勞働者の擔任に歸する傾きがある。監督勞働者には夫々相當の賃銀給料が支拂はれる。この賃銀以外に尚、企業資本家としての資本家に歸すべき利潤が存立してゐるのだ。だから利潤を以つて、監督賃銀なりとする論據は成立しない。利潤の源泉は、資本家の資本家たる機能以外の處に求められねばならぬ。

勞働搾取説は、少なくともこの源泉をつきとめようとしてゐる點に於いて、最も根柢的である。他の二説は利潤の原因を説明する如く見せかけて、實は利潤の道徳的辯護をしてゐるに過ぎないやうにも見られる。強いてさう見たくはないのであるが、さう見まいとするには餘りに問題の急所をはづれてゐるやうに思はれる。以上。


底本:『文藝春秋」第四年第十一號(大正十五年十一月號,「特別讀物」)
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和五年)に再録。

注記:

※『英雄崇拝と看板心理』によって文字を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)『英雄崇拝と看板心理』に「この雜誌にはちと不向きかも知れないが」の一句なし。
(2)え:『英雄崇拝と看板心理』は「し」に作る。
(3)の:『英雄崇拝と看板心理』は「に」に作る。
(4)資本:『英雄崇拝と看板心理』は「資本家」に作る。
(5)農民:『英雄崇拝と看板心理』は「謀民」に作る。
(6)も:『英雄崇拝と看板心理』は「を」に作る。

改訂履歴:

公開:2007/12/09
最終更新日:2010/09/12

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