高畠素之君を懷ふ

堺利彦


高畠君は四十三歳で死んだ。五十九歳の私がその告別式に列しようなどとは、夢にも思ひがけない事だつた。


私が初めて彼と知つたのは、明治四十年頃、彼が廿二三、私が四十近い時だつた。彼は京都同志社の脱走組の一人として、彼の郷里たる上州高崎から、我々の社會主義運動に投じて來た。程なく彼は東北評論といふ雜誌を高崎で出して、それに關する事件で二箇月ばかり入獄したりした。

彼に關する私の記憶の最初のものは、私が彼に(郵便で)、カウツキーの『倫理と唯物史觀』の英譯本を貸した事だつた。彼は程なくそれを讀了して、批評的の感想文と共に返送して來た。私はその時から、相當に深く彼の將來に囑望して居た。


それから私は赤旗事件で二年あまり入獄して、明治四十三年に出獄して見ると、大逆事件が起つて居た。四十四年春、私は『十二の骨を葬』つた後、その遺族を歴訪すべく岡山、大阪、熊本、土佐、紀州新宮あたりに旅行したが、その途中、思ひがけなく京都で高畠君に會つた。當時(及びその後も)我々のパトロンであつた丹波須知町の岩崎革也君が、私を京都まで送つて呉れてこゝに高畠君が居るからと云つて、直ぐに呼びにやつて三人一緒に鳥屋で飯を食つた。私が高畠君に、今何をして居るかと聞くと、女房の居候をしてると云つた。細君の初江さんが、同志社の教師のケデー君の賄方を引受けて居たので、高畠君は三歳ばかりのアキチヤンと共に、ケデー君の家に住んで居たのである。尤も、高畠君自身も何處かに英語か何か教へに行つて、六圓ばかり月給を取つて居ると云つた。


私はその時、賣文社といふ營業を東京でやりかけて居たので、高畠君にも出かけて來ないかと勸めた。彼は程なく上京して來た。そして賣文社の『技手』になつた。彼は京都で、暇に任せてウント勉強して居た。ドイツ語などやりはじめると、小便に行くより外、六時間もブツとほしに坐りつゞけたと、自分で云つて居た。彼は賣文社で主として英獨語の反譯をやつた。英獨語教授の看板をかけた事もあつた。

賣文社は初め中々繁昌しなかつた。高畠君は京都に於けると同じく暇が多くて金が少なかつた。彼は京都に於けると同じく、勉強しつゞけた。殊に資本論と首引をやりだした。

當時の彼は、むしろ無口な、無愛相な、ブツキラボウの、煙草だけは噛むように好きだが、酒は殆んど全く飲まない、面白おかしい雜談など無益だと云はぬばかりの、趣味嗜好の少ない、センチメンタリズムのない、またどこか本當に成熟しない、只コツコツ勉強する、學問好きの青年であつた。


彼の二番目か三番目の小いさい子供の亡くなつた時、彼は久しくその骨壺を埋めないで居たが、或時遂にその骨を粉にして、植木鉢の肥料にした。あの爲だらう、今年はバラが大へん善く咲いたと云つて、いつもの癖の、獨り、クツクツと自ら嘲けるような笑ひ方をして居た。

和田久太郎君の獄中からの手紙の中に、こんな一節がある。『フト思ひ出したのは、先年歐洲戰爭の最中に、獨逸軍が屍體から油をとるといふ事が日本の思想界に憤慨を起させて「惡魔の所業だ!!」「人道の敵だ!!」と、やかましく論ぜられたことです。そして貴君と高畠素之君とは、それ等の人々の、エセ人道主義を嘲笑つて「流石に獨逸だ!! 徹底してゐて面白い。戰爭で生きた人間を平氣で殺す人道主義者が、死體から油をとるのを惡魔といふんだから滑稽だ!!」と大いに皮肉られた、あの事です。僕もあの當時、實に痛快に感じました。』

高畠君はこうした點に於いて實に私と共通して居た。否、彼はそうした點に於いて私よりも一層善く徹底して居た。私には可なり多量なセンチメンタリズムがある。そしてそれを自ら嘲る所に『僞惡』が生じて居る。所が高畠君の自嘲的僞惡は、私に比べて遙かに自然であり率直であるように思はれた。


高畠君は或時、賣文社の少年から『ジゴマ』といふ仇名をつけられた。當時、盛んに新聞で謠はれて居た惡漢ジゴマを思ひ出させるような點が、どこか彼にあつたと見える。それは主として、あの黒々とした、濃い、太い眉の爲であつたかも知れない。


賣文社は後に頗る發展して可なりな事務所をも持つようになり、社員の數も段々ふえて來たが、初から終までの最も重要な社員は高畠君であつた。中頃から以後は山川均君が高畠君と共に中心人物となり、遂には三人の合名會社組織にまで發展した。然し賣文社は我々の營業所であり、衣食の道であつたと同時に、一面には又、社會主義運動の一城塞であつた。我々は雜誌『新社會』をそこから發行して居た。高畠君は勿論その執筆者の主なる者であつた。

大正五年、私は衆議院の總選擧に對し立候補の眞似事をやつたが、その時、賣文社は選擧事務所となり、高畠君は選擧事務長となつた。從來、あまり事務の方面に關係しなかつた高畠君が、この時、初めて大いに事務的才能を發揮して見せた。


高畠君はしばらく日本蓄音器商會に雇はれた事がある。それは初め私が賣文社の出仕事として、半日づゝ勤めて居た處だが、後に高畠君が正式の社員として出勤する事になつた。仕事は主として往復文書を英譯する事であつた。高畠君は英文を書く事も可なり達者になつて居た。この會社で從業員のストライキが起つた時、彼は少々それを煽動したと云ふので、首になつた。それから再び賣文社に戻つて居た。

彼は同志社仕込として、英語を話す事も少しは出來た。賣文社は英語の本統に話せる人が無いので困つたが、高畠君は比較的出來る方だつた。

彼は後にロシヤ語をやりかけて居た。これは電車の中だけでやるのだと云つて、中々熱心だつた。然し物にはならなかつたらしい。フランス語には手を出さなかつたようだ。


文章としては、彼は初め大してウマイ方ではなかつた。彼には多くの文學青年が持つような厭味が少しもなかつたが、それだけに又天才的の器用もなかつた。けれども彼の理智的發達は遂に彼を明快暢達な文章家に仕立てあげた。後には、彼は又、一種奇抜な、大膽な筆鋒を持つ、碎けた隨筆家に成長した。

彼は又その演説と講演とに於いて、むしろその文章に於けるより以上の明快暢達を示した。彼はノートを持つて演壇に立つた事がない。それで居て理路が亂れたり、言葉に詰つたりした事がない。それを聞いて居ると、確かに頭が善いなと感じられた。


彼と一緒に同志社を脱走した人に伊庭孝君がある。伊庭君はあの通りの才人で、若い時から英語の會話などもうまいし、ドイツ語でも、フランス語でも、少しづゝは自由にペラペラやつてのけるといふ器用さを持つて居たが、高畠君にはそうして(1)輕快さが無かつた。

高畠君は善くそこを自覺して、自分は其の代り人の二倍くらい勉強し努力するといふ遣口だつた。そこに彼の大成する所以があつた。

今一人、同じ同志社の脱走連に遠藤友四郎君があつた。高畠君は社會主義運動に投ずる事に於いて遠藤君よりも晩く、又世才に於いて大いに遠藤君より劣つて居たが、學才に於いては早くから遙かに其の上に立つた。後に二人とも國家社會主義者として盛んな反動振を示したが、さすがに高畠君には猶ほ相當の氣品を失はない所があつた。


高畠君と山川君とは同じ同志社出ではあつたが、時代が大ぶん違つて居た。賣文社に於ける、この二君の關係については、本誌の前々號にもチヨツト書いて置いたが、私が山川君を重んじて高畠君を輕んじたから、高畠君が不平で飛びだしたのだと云つた樣な見方は餘り淺薄である。

二君は性質上からも餘り親しくはならなかつたが、主義の上、運動の上の立場が大ぶん違つて居た。山川君は一時よほど無政府主義に接近したサンヂカリストであつたのに反し、高畠君は大の無政府主義ギライで、早くからむしろ修正派的傾向を持つて居た。然し彼としては、必ずしもそれを固執するわけでなく、『ナニ、運動の全體がソウならソウと、しつかり極つて居りさへすれば、僕はその通りやるのだ』と私に打明話をした事もある。

然し彼としては、どうしても無政府主義を容認することは出來なかつた。その上に於いて、彼は山川君と一致する事が出來ず從つて又私の不決斷を齡がゆく思つて居ただらう。

雜誌『新社會』の紙上で、『經濟行動』と『政治行動』とについて、高畠君と山川君と少々論戰した事がある。高畠君はロシヤのボリシエヰキの革命的政治行動を指ざして、政治行動が必ずしも妥協的でなく、又それが必ずしも墮落するものでないと云つた樣な意味を説いた。その時、高畠君は多少ともボリシエヰキに興味を持つて居るかにも見えた。然し山川君のマルクス主義的サンヂカリズムはその頃から全く無政府主義と別れて、段々に共産主義的となり、之に反し、高畠君は一轉して『國家社會主義』となつた。

高畠君が『國家社會主義』をやりだす時、彼はもちろん山川、荒畑等と別れる事の必要を認めて居た。然し堺を道連にする事が出來るかも知れぬと考へた。丁度その頃山川君等が數個月間入獄したので、その不在中、『新社會』は高畠君編輯の下に於いて著るしく國家主義的色彩を發揮した。そして私は色々とその方に引張られて居た。

當時『新社會』は一個の山寨と稱されて居た。高畠君等はモウ山を下るべき時機だと考へた。私はまだまだ山を下り得なかつた。今、山を下れば、全滅か降伏の外はないと私は考へた。全滅は愚であり、降伏は忍びない。そこで私は猶ほ山川君等と共に暫く山寨に踏みとまつた。

そこで高畠君等は私等と別れて山を下つた。『國家社會主義』の旗が飜へされた。合名會社賣文社は解散された。但し高畠君等は、その後、猶ほ引續いて新たに賣文社を經營して居た。


先頃、山川君からの葉書に、次の如く書いてあつた。

『中央公論の人が來て、高畠君の病氣の話をして、……大分惡るいらしい、しかし一年もすれば全快する、「よくなつたら大にあばれるんだ」と氣焔を上げてゐた、などゝ話してゐました。今朝の新聞を見て、ちよつと驚かされました。早速弔電を送つておきました。高畠君には賣文社時代、毎日顏を合せながら、實はしみじみと話をしたことは一度もありません。それであゝ變つてからの同君にも一度逢つてみたいような氣持がよくしました。「大いにあばれ」させてみたかつたが、惜しいことをしました。死んだ人や遺族に對する同情はしばらく別問題としても、自分が可なり長い間、續いて見ていた過程が急に目の前で中斷されたようで惜しい感じがします。』


大正七八年頃を境として高畠君の性行に急激の變化が起つた。それ迄の彼は前記の通り、世間的にはまだ頗る未成熟の人物であつたが、その頃から急に酒を飲みだし、醉ふと、從來無口であつた男が急に談論風發と云つた調子で盛んに氣焔を吐き、遂には短刀をふところにして喧嘩を賣りあるくといふ處まで脱線した。謂ゆる上州長脇差の肌合で、少々狂的に見える點すらあつた。當時に於ける彼の相棒たる遠藤君が『會津の小鐵』を氣取るのに對し、彼は同郷の先輩たる『國定の親分』の後繼者を以て自ら任じて居た。

これは私等に取つて實に意外な發展であつたが、後に色々な事を考へ合せて見るとそうした先天的の傾向が深く彼の中に潛んで居たものとも思はれる。

それより少し前の事だと思ふが、彼は頻りに講談本に讀み耽つて居た。理屈の本ばかり讀んで、文藝趣味の少なかつた彼としては、これも一つの大變化であつた。然しそれも矢張り、彼の成熟の途中に於ける必然の一過程であつたらしく、彼は兎にかくそれで『文學修行』をやつたわけである。

酒と講談と長脇差と、因果關係の前後は分らないが、兎にかくそこに何等かの關連はあつたものと考へられる。要するに彼は三十過ぎに於いて、初めて人間が世俗的に成熟したのであつた。そして社會主義運動上の態度も、その時期に於いて一變したのであつた。


然し彼のそうした狂態も永く續いて甚だしきには至らなかつたらしい。一面に於ける、或は元來の、彼の克己性と努力性とは常に彼の放縱性を引止めて居たのだらう。

彼は屡々私に語つた事がある。『僕は滅多に好い氣にはならないから』と。『好い氣にならない』とは、輕々しく調子に乘り過ぎるような事はしないといふ意味であつた。多くの友人や知人が、學問上なり事業上なりに於いて少しばかり成功すると、直ぐに『好い氣になつて』調子に乘りすぎるのを平生から苦々しく思つて居たので、それを深く自分に警戒するのであつた。彼にはそうした自制心が可なり強かつた。

彼は又ある時、私の身の上を批評して、『永いあいだ、大した失策を仕でかさなかつたのは、さすがにエライ』と賞めてくれた。それは他の天才的な人物が、著るしい功業を立てると同時に、謂ゆる調子に乘つて、飛んでもない大味噌をつける場合のあるのを見て、それに對比しての言葉であつた。私は私の平凡を賞められたのであつた。然しこれは、私を賞めたと云ふよりも、矢張り彼が彼自身を戒めた言葉であつたと思ふ。

彼は白柳秀湖君が面白く指摘して居る通り、女の事で餘り噂を立てられなかつた。失策らしい失策は遂に無かつたらしく見える。彼にそんな興味が無かつたかと云ふに必ずしもソウではなかつた。彼にそうした誘惑が來なかつたかと云ふに、又必ずしもソウでは無かつたと思ふ。然るに彼は遂に浮名を流し、非難を招くほどの、大なる失策はやらないで濟んだ。彼には可なり強い自制力があつた。

彼には若い時、少々盗癖があつた。それは彼が自ら私に語つた所である。然し私は彼が私と交つた以後、そんな馬鹿な眞似をしたとは思はない。彼は勿論氣の弱い正直者では無かつた。然しケチな惡い事をするほどの馬鹿者では斷じてなかつた。私は彼の聰明を信じ、判斷を信じ、意志力を信じて居た。

私は初め彼の人物に對し、面白味の不足を感じて居た。それが私の彼に對する、第一の不滿であつた。こゝに『面白味』といふ中には、『人間味』と云つたようなものも含んで居る。前に書いた肥料の話のような『面白味』(2)はあるにはあつたが、しほらしいとか、可愛らしいとかいふ點が足りないように感じられて居た。然るに彼が酒を飲んであばれたりするようになつてから、實は折々眉をひそめないでは居れない場合もあつたと同時に、却つて又、そこに少なからず、面白い人間味を感じたのであつた。

彼が大化會に行き、國粹會に近づき、建國會に擁せられた事などに就いては、私は善くも知らないし、又書きたくもない。

私は只、それにも係はらず、彼が遂によく資本論反譯の大事業を成し遂げたことを喜ぶ。彼は『資本論反譯の時に當つて』『決死的覺悟を持つて事に從ふと宣言した』とは、宮嶋資夫君の言葉である。その點に於いては、私は深く彼を信ずると同時に、又深く彼を尊敬する。

彼は資本論の反譯について、『全くいやになつてくる。變化がないので退屈するから晝寢を二度も三度もやるが、胃が惡くなつて困る』と云つた。『痼疾はその頃から喰ひ込んでゐたのであらう。』これも宮嶋君の言葉である。

然し私としては、それほどの大功績を擧げた人が、遂に本統のマルキシストであり得なかつた事を、幾ら憾んでも憾んでも憾みきれない。


資本論の外、高畠君の著譯の中、一番廣く行はれたのは『資本論解説』であらうがあれについては私に思出がある。

私等の雜誌『新社會』に連載した、ゴルテルの『唯物史觀解説』の反譯(私の擔任)が完結した時、次にはカウツキーの『資本論解説』をやりたいと考へた。私はあの本を赤旗事件の獄中で讀んで、ぜひいつか反譯したいものだと思つて居たのだつた。然し同じ人が續けて反譯するよりはと思つて今度は高畠君に頼んで見た。高畠君は初め餘り進まなかつたが、ヤツト引受けてやりだした。ずいぶん苦心して骨を折つて居た。その時には勿論、一錢の報酬も出なかつた。それが後に(幾度も改譯されて)あれほどに流行した。

資本論の新譯第一卷が出來あがつた時、高畠君はそれを私に寄贈して、その譯文に對する私の批評を求めた。私はその時、第廿四章の第七節について、新譯と舊譯と原文と英譯と、更に私のその部分に對する舊譯文とを仔細に比較して、遠慮のない批評を書いた。その批評文は雜誌『マルクス主義』に載つて居る。

その時の私の意見では、新譯と舊譯と一長一短だが、私はむしろ舊譯の方を取りたいと思ふ點が少なくない。舊譯は直譯風であり、新譯は意譯風である。意譯風の方が讀み易く、分り易いには相違ないが、そこに少しく不適切な場合も生ずる。一例を擧げれば、直譯の『經濟關係』を意譯して『經濟事情』とすれば、分りやすいには相違ないが、何だか充分適切でない氣持もする。それが私の批評の中心であつた。

所が、これには餘ほどおかしい歴史がある。私は元來、意譯癖の強い男であつた。高畠君は昔から直譯風であつた。二人でお互いその譯風を比較して研究したりした事も幾度かあつた。私はどうも高畠君の稍や不熟な直譯に滿足しなかつた。所が今度、資本論の新譯を見ると、高畠君は甚だ多く意識に傾き、そして私は却つて直譯に傾いて居た。私は自分の古い色々な譯文を訂正して居る中、自分の古い意譯の不完全を痛感して、出來るだけそれを直譯にしようと努めた。然るに高畠君は、自分の古い直譯の難解に不滿を感じて、ずいぶん思ひ切つてそれを意譯にしようと努めた。高畠君は反譯文を出來るだけ本當の日本文にせねばならぬと考へたらしい。私も『日本文』には大贊成で、昔からその點の主張者であつたが、今ではその『日本文』を以て、巧みに直譯を作りたいと考へた。

斯くて高畠君は直譯風から意譯風へ、私は意譯風から直譯風へと方向を變じたのだから、二人の譯文は大いに接近した筈である。所がそうでない。二人の譯文は行違ひになつてしまつた。そこで私は今却つて高畠君の意譯風に不滿を感じたのであつた。

文章の技巧上から云へば、私はまだ種々の點に於いて、高畠君の資本論に不滿がある。然しそんな事は今問題にならない。あの大部の反譯を、兎もかくも、そして誤譯の滅多にないといふ程度に於いて、完成させた大功績を誰が何と爭ひ得るものか。私は只だ讀者諸君の多少の興味の爲に、こんな事を書き添へたに過ぎない。


高畠君の告別式の時、私は最後に彼の死顏を見た。ゲツソリと肉の落ちた頬の上にあの黒々とした、濃い、太い眉が、殊に著るしく目立つて居た。

告別式には古い社會主義者の一團も列して居た。榊の札に、上杉愼吉、梅津勘兵衞などの名があるのも見えた。建國會長赤尾敏君のニヤニヤした笑顏も見た。やつれた顏の、白装束の初江さんと、元氣な少年の學校服の××君(3)との姿も見た。

美しい娘さん達の姿は、その日、見る機會を得なかつた。


底本:『經濟往来』第四卷第二號(昭和四年二月)

注記:

※原文の句切り(×××××)は罫線に変えた。
(1)そうして:ママ
(2)『面白味』:底本は「』」なし。
(3)××:個人名につき削除。

改訂履歴:

公開:不明
改訂:2006/03/06 改訂:2007/11/11 最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system