『社会主義運動史話』(高畠素之)

堺利彦

三 大杉、荒畑、高畠、山川

この四つの名前について順次に語ってゆくことは、ちょうど、わたしの『自伝的に見た日本社会主義運動史』の骨髄を成すものである。しかしわたしは今だにそれを『史話』の一連として、ほんの思い出すままを、断片的に書いてみるにすぎない。そして、何よりもまず、それについて深く感ずるのは、この大きな四つの名前のうち、二つがすでに過去に属していることである。ああこのわたしが彼らをその死後において語ろうとは!


(中略)


九 高畠素之

わたしはかつて(昭和三年)読売新聞の紙上に、「あの濃い太いまゆ」と題して、「高畠素之君の追懐」を書いたことがある。今ここでは、それに多少の注釈を施しつつ、それを転載することが一等便利であり、適切である。

「高畠素之君は四三歳で死んだ。五九歳のわたしがその告別式に列しようなどとは、夢にも思いがけないことであった。

わたしが初めて彼と相知ったのは彼がはたちあまり、わたしが四〇ばかりのころ(明治三九年ごろ)であった。彼は同志社の脱走組の一人として、彼の郷里上州高崎から我々の社会主義運動に投じてきた。ほどなく彼は『東北評論』という雑誌を出して、それに関する事件で二、三ヵ月入獄したりした。(この脱走組の中には、遠藤友四郎、伊庭孝=いばたかし、などがあった。)

彼に関するわたしの記憶の最初のものは、わたしが彼にカウツキーの『倫理と唯物史観』の英訳本を貸したことであった。彼はそれを一ヵ月ばかりの間に読了して、批評的の感想文と共にそれを返送して来た。わたしはその時から彼の将来に嘱望していた。

大逆事件の後、わたしが売文社という商売を東京で始めた時、彼は京都にくすぶってドイツ語など勉強していたが、わたしの勧めに応じて売文社の「技手」となり、翻訳だの文章代作だので食うことになった。

しかし売文社は一面において社会主義運動の一城塞であって、大正五年わたしが衆議院議員立候補のまねごとをやった時、売文社はその選挙事務所であり、高畠君はその選挙事務長であった。後に売文社が大いに発展してやや営業らしい営業になった時、高畠君と、山川均君と、わたしが三人でそれを合名会社組織にした。そして売文社から発行した雑誌『新社会』は社会主義の機関紙で、高畠君は山川君と共にその主なる執筆者であった。

大正七、八年ごろを境として、高畠君の性行に急激の変化が起こった。それまでの高畠君は、むしろ無口な、無愛想な、ブッキラボウの、たばこだけはかむように好きだが、酒はほとんど全く飲まない、またどこか本当に成熟しないような、学問好きの青年であったが、……(彼と一対の人物なる伊庭孝君が言った。そのころまでは確かに自分が高畠をリードしていたと。いかにも、伊庭君は怜悧な軽妙な、俊敏な、高畠以上の才物だった。外国語についても、高畠君は英語からドイツと一つずつ順々に征服していったが、伊庭君は若い時から英、独、仏いずれも少々ずつは、話すことも書くことも器用にできるという風だった。高畠君は本を読みかけたら、飯を食うと小便に行くとの外五時間でも六時間でもブッつづけにかじりつくのであった。彼が資本論翻訳に成功したのと、伊庭君が音楽評論などの名人になっているのとを比べて、わたしのような古い友人は種々うなずかれる点々を感ずる。)

(しかるに彼は)そのころから急に酒を飲みだし、談論風発という調子で盛んに気炎を吐き、ついには短刀をふところにしてけんかを売り歩くというところまで脱線した。いわゆる上州長脇差のはだあいを示してきたのであった。これは実に意外な発展であったが、ついにいろいろのことを考え合わせて見ると、そうした先天的の傾向が深く彼のうちにひそんでいたものと思われる。

高畠君はそれより少し前、しきりに講談本に読みふけっていた。理屈の本ばかり読んで面白おかしい雑談などは無益だと言わぬばかりの態度であった彼としては、これも一つの大変化であった。しかしそれもやはり、彼の成熟の途上における必然の一過程であったらしく、彼はとにかくそれで「文学修行」をやったわけである。(彼の文章はそのころから急にくだけて、うまくなった、それまでは、ずいぶんゴツゴツした、面白味のない書き方だった。彼の翻訳も初めは不消化な直訳であり、後には融通のついた読みやすい、意訳になった。資本論の旧訳と新訳との上に、その変化がよく現われている。その点ではわたしと反対で、わたしが意訳癖をむしろ得意としていたころ、彼はむやみに忠実な直訳家であったが、近年わたしがやや直訳的興味を持っている時、わたしはむしろ彼の意訳過ぎた点に目がついている。)

酒と講談と長脇差と、因果関係の前後は分らないが、とにかくそこに何らかの関連があったものと考えられる。要するに彼は三〇歳過ぎにおいて、初めて人間が世俗的に成熟したのであった。(彼が、死んだ子供の骨つぼの灰を植木ばちに入れて肥料にしたことは有名な話である。それが彼の理屈癖の現われだとも言えるが、しかし晩年の豪放磊落の趣とは、よほどその調子が違っている。早く発達した科学的一面と、おそく発揮された英雄的一面との矛盾か、調和か、配合かだろう。)

この変化と共に、彼の社会主義者としての態度にも変化が生じた。彼には元来、どちらかと言えば修正派的態度があって、日本でまだ社会主義と無政府主義とがハッキリ分離しない時から、彼はすでに明白に無政府主義をきらい、やや議会政策的態度を示していた。(無政府主義万能時代において、明白に無政府主義ぎらいを表明したのは、たしかに一見識だったとも言える。)

かくて欧州戦争やロシア革命の影響として、デモクラシーが日本にまき起こった時、高畠君は早くすでにわたしらと分離して社会主義の城塞から下って行った。それがすなわち彼の「国家社会主義」運動であった。そして我々が「社会主義同盟」を作って、あらゆる社会主義的要素を打って一丸とした時、彼はもはや全くその圏外に立っていた。その後の高畠君については世間がよく知っているとおりで、いわゆる国粋的傾向がだんだん濃厚になって、ついにわたしらとは全然対立する地位になってしまった。あるいは(もしくはもちろん)それが彼の本色だったのだろう。

しかしわたしとしては、資本論の翻訳を完成した、マルクス学の大功労者が、ついに自ら純正のマルキシストでありえなかったことを、いくらうらんでもうらんでもうらみきれない。

わたしは彼の告別式に臨んで最後に彼の死に顔を見たが、ゲッソリと肉の落ちたほほの上に、あの黒々とした、濃い、太いまゆが、ことに著しく目立っていた。

売文社の第一機関紙『へちまの花』に、高畠君の写真が載って、次の「自首自賛」が添えてある。「僕の首はかつて大久保時次郎と言われ、りすと言われ、ジゴマと言われた。このころ、売文社の番頭福田某はまたこれをはととよんだ。時次郎と言われ、りすと言われ、ジゴマと言われるに不服はないが、これをはとと言うは何の意ぞや。聖書に『へびのごとくさとく、はとのごとくおとなしかれ』とある。僕はむしろへびと言ってもらいたい。」

また第二機関紙『パンとペン』に次の一文がある。「高畠素之、彼はその昔三〇〇石の知行をはんだ前橋藩士のむすこでありながら、上州無宿国定忠次の子分をもって任じている。まゆが太くて濃いところから、かつてジゴマのあだ名を得たことがある。しかしまさか毛虫のようなまゆではない。あの男らしいキュウッとしたまゆがよい、とヌカした娘もある。」


底本:堺利彦『社会主義運動史話』(『堺利彦全集』第六巻,法律文化社,1970年)

改訂履歴:

公開:2006/03/06
最終更新日:2010/09/12

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