「津久井龍雄『ファスシズム伊太利とムッソリーニ』」

高畠素之


ムツソリーニの樣な複雜な時代型性格者の風格及事業を描くには、書く人それ自身が深く時代に嵌つてゐないと面白くない。いはゆる愛國者流の扱ひ方では途方もなく氣の抜けたものになつてしまひ〔、〕さればといつて例の主義者張りの類型的な舌足らずでは上つらだけの輕薄な漫罵に陷る事を避けられない。この點に於てわが津久井龍雄君は最も適格なムツソリーニ評傳者たる名譽を擔ふ。彼は國士の雰圍氣に育つた。名をきいただけでもそうであるが、その自若として沈痛な風貌格は、そぞろに維新血盟の志士を偲ばしむるに足るものがある。さればといつて大きな下駄と床柱のやうなステツキだけに聯想を止ましめるやうな、いはゆる國士流の低能的陳套さは微塵もない。彼れの神經は二十世紀を突破してゐる。時代を超克すればとて、時代に取りのこされるやうなドヂでない。叛骨はアナーキストを越えてゐる。腹があつて、氣が勝つてゐて、神經が鮮かで、加ふるに糞度胸を多量に持ち合せてゐる。いはゞ、特殊な超時代的時代タイプである。

ムツソリーニ評傳の執筆は、かういふ特異の青年にのみ保留された特權であることを強調したい。彼れにムツソリーニを取扱はせないのは嘘だと思つてゐたら、ちやうどこの快著が創作された。ムツソリーニ及び我が津久井君に關心をもつ同憂の一人として、茲に數言を濫費した次第である。

――高畠素之――


底本:津久井龍雄『ファスシズム伊太利とムッソリーニ』(『フアスシズム叢書』第一巻,自由評論社,昭和二年)

注記:

句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。

改訂履歴:

公開:2006/07/30
最終更新日:2010/09/12

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