高畠君と僕と

辻潤


高畠君はたしか僕より一つ年下だつたと思ふ。然し僕は高畠君に逢ふといつでも君の方が先輩で年上のやうな氣がしてゐた。最近において殊にそんな風な感じを受けた。學問から云つても世間智から云つても、彼に較べたら僕なんかまるでコドモだと思ふ。自分のやうな空想兒は恐らく死ぬまで少年期を脱却することが出來さうもない。

僕が東京驛を發つ時、高畠君は見送つてくれた――それが最後の御別れだつた――今考へるとあの時の高畠君はどことなく寂しさうな顏をしてゐた。しかし僅一年たらずのうちに他界の人にならうとはどうしても考へられない。

こんだ汽車でかへつて來る途中〔、〕長春と奉天との間で偶々小山内氏の訃を『大毎』の雜録で知つて意外なのに驚いたが、沼津の少し手前で僕の反對側のベンチに棄てゝあつた『ジヤパンクロニクル』紙をなんの氣なしにとりあげて見ると〔、〕最初に僕の眼についたのが

The Late Mr.Takabatakeと云ふ文字だつた――

『氏の最後は如何にも新劇の幕切れらしくアツサリしてゐる』と云ふ『大毎』雜録子の文句を讀んだ時も、どうしても腑に落ちず幾度か繰返してやつと小山内氏が亡くなられたのはほんとうに違ひないと思つたが〔、〕高畠君の方のは『レート』で先づ驚き二行目のwhose prematune death(1)で呆氣にとられてしまつた。これにはもはや疑ふ餘地がなかつたのである。品川驛へ着くまで僕の頭の中には兩氏のことが交るがはる思ひ浮べられた。

生前、僕は氏と個人的に接觸する機會が極めて少かつた――偶々會つても御相互にたわいもない戲談口をとりかはした位で――一度も眞面目に議論をしたこともなく〔、〕しんみり話したこともなかつた。それでゐてなんとなく親しみをかんじてゐた。『文藝公論』に書かれた僕への送辭を讀んだ時、僕は改めて氏のハートに觸れたやうな氣がした。

若し氏と僕との間にどこか共通した點があるとしたら、僕等が二人ともセンチメンタリストだと云ふ點で一致するらしい。表現された外形は著しく異なつてはゐるが〔、〕自己性格への叛逆兒としては僕も敢て氏に讓らぬ自信はある積りだ〔。〕

氏の生活態度を見ると意志と云ふよりも意地と云ふ感じである。晩年政治的な野心を抱かれたやうにも思へるが、これもやはり意地の仕業としか思はれない。順調に行つたらジミな學究として大學の教授にでもなつてゐた方が自然だといふ氣がする。

終りに今から十四五年前、僕が下谷の稻荷町に住んでゐた頃、僕のところへ集つた當時の若い秀才達がその後期せずして高畠君の門下に走せ參じて今日迄に至つたことは不思議な因縁と言へば言へる、さうして、氏と僕とが常に離れてはゐたがこれ等の諸君を通じて不即不離に相違の氣持(2)が絶えず疏通してゐたに相異ない〔。〕何にしてもこれからと云ふ時に、突如として逝かれたことはかへすがへすも殘念な次第である。


底本:『やまと新聞』昭和四年一月十二日(朝刊)

注記:

※辻潤:1884~1944年。 ※底本は原則総ルビ。このたびはすべて省略した。
※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。

(1)prematune death:premature deathの誤。『ジャパンクロニクル』("The Japan Chronicle"か)は未確認。
(2)相違の氣持:ママ

改訂履歴:

公開:2006/06/04
最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system