高畠素之
欲望といへば『慾』を聯想する。だが普通に『慾』といはれてゐるものは、極めて單純な欲望の一種であつて、欲望の全部ではない。慾張り、慾ふか、強慾などといふ言葉が示す通り、『慾』について誰しも先づ聯想することは口腹の慾、財産慾、金錢慾、即ち概括していへば、經濟上の欲望である。それで欲望といへば、ただ此經濟上の欲望のみを指すものの如くに考へる人が少なくない。
然し通例の用語からいつても、『慾』の範圍がいま少し廣く考へられないこともない。例へば肉慾とか、慾情とかいふ場合には、單なる金錢慾だけではなく、色戀の慾までが含まれて來る。情慾といふ場合には殊に色慾の方に重きを置くやうである。つまり經濟上の欲望のほかに、性慾をも含めて『慾』といふ場合もあるのである。
そこで我々が普通に『慾』と稱するものは、謂ゆる食氣と色氣、食慾と性慾、經濟慾と戀愛慾とを包括するもので、要するに肉體上の欲望といふ一語を以つて概括し得るやうでもあるが、嚴密にいふとこれにも語弊がある。食氣と色氣、食慾と性慾といふだけの範圍内ならば、單なる肉體上の欲望の一語に概括し得られないことはないけれども、食慾が經濟慾となり、性慾が戀愛慾となると、單なる肉慾の一語を以つて之れを概括することに無理が生じて來る。戀愛學者の説に依れば、戀愛のみを以つて終始するものではなく、更らにヨリ崇高な精神的要素をも含むといふのであるが、かうなると戀愛慾を肉慾の一語に沒し去ることは勿論妥當でない。
佛教で五慾と稱してゐるものは、色、聲、香、味、觸の欲望を指し、いづれも肉慾として戒められてゐるやうであるが〔、〕五慾が嚴密に肉慾のみであるとすれば、美術や音樂も肉慾發動の範圍を出でないことになつて、讀經の『聲』や、線香の『香』まで禁戒されることになつたら、それこそ坊さんの商賣は上つたりだらう。
要するに、通用の『慾』といふ言葉は頗る漠として、嚴密に何を指すのか去就に迷はされる次第だが、大體に於いて肉體上の欲望を意味するらしく、肉體上の欲望は汚いものであるから『慾』を發揮することは人間として愼むべきであるといふ風に考へられてゐる。それで五慾を戒め、『心の貧しきものは幸なり』と感じなければならないといふやうなことにもなるのであるが、近頃の學問では欲望の存在を先づ前提して、人間の凡ゆる活動は此欲望の發動に基くものと解してゐるのであるから、隨つて欲望の研究といふことが非常に重要視されて來る。欲望は『慾』であるから善いの惡いのといふことは勿論問題にならない。欲望がなければ、人類史上の凡ゆる活動――宗教も、藝術も、科學も、經濟も、政治も、戰爭も、戀愛も、喧嘩も、獻身も何もかも無くなつてしまひ、人間その者が無くなつたのと同じことに歸する。それで欲望發達の研究は、即ち人類文化史の研究であるともいひ得る。茲では主として欲望と社會進化との關係を論じて見ようと思ふのであるが、本論に入るに先だち、一應欲望の意義と種類を限定して置きたい。
欲望とは、何等かの不足を感じ之れを滿足せしめんとする願望の謂である。欲望の成立には、先づ何等かの不足を感じなければならない。精神上の不足であると、物質上の不足であるとは問はない。とにかく何等かの不足を感ずればいい。うまい物がない、美人に接したいがないといふ不足でもいい。神の存在がわからない、宇宙は何だろうといふ知識上の缺感でもいい。とにかく茲に何等かの缺感が生じて、それを充たさんとする所に欲望が成立するのである。だから慾張りの『慾』も、情慾の『慾』も、みな欲望の一種には違ひないが、『慾』と(1)抑へて神に縋らうとする慾も、身を殺して仁をなさうとする慾も、みな之れ欲望の一種である。
そこで欲望には幾許の種類があるか。ツガン・バラノヴスキーは人間の凡ゆる欲望を五種に大別してゐる。即ち
(一)肉體的欲望
(二)性 欲
(三)同情の衝動
(四)優 越 慾
(五)超利害的の欲望
彼れは此分類に從つて、次の如く論を進めてゐる。
先づ第一の肉體的欲望は、直接の生存竝びに肉體上の享樂を得んとする欲望であつて、人間と動物との間に共通してゐる。生存欲の滿足は何等かの快感を伴ふものであるから、一面に於いては之れを肉體的享樂の欲望と見ることが出來る。いづれにしても兩者は互ひに表裏してゐるものであるから、概括して肉體的の欲望といふを至當とする。
マルクスやエンゲルスが人類社會進化の決定力と稱してゐる『直接的生産資料の生産』なるものは、要するに此欲望の充足に外ならないのである。此欲望の發動が、人間の凡ゆる活動の必要なる豫備條件となることは言ふ迄もない。早い話が食はなければ命がない。命がなければ人間もない譯で、人間のない所に、人間の活動がある筈はない。そこでエンゲルスは斯う結論してゐる。――『人類は政治や、科學や、藝術や、宗教などを行ひ得るやうになる前に、先づ食つたり、飲んだり、住んだり、着たりしなければならない。そこで直接の物質的生活資料の生産、隨つて一民族又は一時代の經濟的發達段階なるものは、當該人類の國家制度や、法制上の觀念や、藝術や、甚しきは宗教的觀念をも發展せしめるところの基礎となるのである。』
衣食住がなければ、人間の生命も〔な〕く、人間そのものもないといふだけの意味ならば、エンゲルスの謂ふところは勿論些かも疑を容れない。だが之れだけの斷定で、『直接的生活資料の生産』と、政治、藝術、宗教との關係が解決できたと考へるならば、それは驚くべき無邪氣さである。此關係は左樣に單純なるものではない。生活資料の生産が政治、宗教、藝術の基礎であると同樣に、政治、宗教、藝術が又生活資料の生産の基礎ともなり得るのである。
一例を擧ぐれば、衣服の生産といふものは、經濟上における生産の最も重要な一部面である。ところで、衣服の生産は如何なる欲望の衝動に依つて發達するかといふに、單なる肉體上の欲望としての衣服慾、即ち單に寒さや濕氣を凌がうとする欲望の衝動に須つ範圍は至つて局限されてゐる。大抵は装飾慾の發動に依るのである。人類は衣服を造る前に装身具を造つてゐた。衣服は装身具の展化したものである。衣服を着けない民族はあるが、何等かの装身具を着けない民族はないといはれてゐる。濠洲の土人は衣服に冷淡ではあるが、装身具には熱中する。彼等の身に着けてゐるものは、衣服といふよりも寧ろ装身具である。アフリカの黒人も、衣服を装身具と見てゐる。彼等は雨天には裸體で出かけ、晴天にはデコデコに着飾つて歩く。
要するに衣服の始まりは装身具であつて、装身具が轉化して衣服となり、かく轉化した衣服が後に生活必需品の一つとなつて來たのである。
尤も装身上の欲望といふものは、單なる審美的の衝動にのみ依るものではなく、身を着飾つて他人の注意を集めようとする虚榮心の發動に依る點が多いのである。原始人の衣類は、己が身を美しく見せようとするよりも、寧ろエラさうに見せようとする手段に過ぎなかつた。謂はば勳章のやうなものである。猛獸の毛皮を着けることは、武勇と指導の表徴であり、社會における優越的地位の表章とされてゐた。
かう考へて來ると、衣服の發生には政治が極めて重要な役割を演じたことがわかる。政治のほかに、宗教も亦與つて力ある。リツペルトに依れば、原始人の装飾品の中には本來禮拜のために使用されたものが少なからずある〔といふ〕。
更らに食物の生産についても、同樣なことが言ひ得る。人類の經濟發達上に極めて重要な一段階となつたものは、狩獵から牧畜への推轉である。ところで此牧畜の手引となつたのは、動物の馴養であるが、之れは經濟上の必要から生じたものではない。寧ろ人間の社交慾又は遊戲慾の發動が最大の原因となつてゐるのである。リユヰス・モルガンに依れば動物馴養の端緒となつたものは、狩獵に犬を伴れて行つたことであるが、其狩獵で生け捕りにした他の動物を持ち歸つて、オモチヤに飼畜したことが、そもそも動物馴養の濫觴となり、之れが軈て牧畜を喚び起す導因となつたのである。
即ち牧畜の採用には、人間の遊戲慾が絶大の貢獻をなしてゐる。宗教も亦、この點に與つて力ある。原始民族の中には聖獸として犬を飼畜するものが少なくなかつた。犬以外の動物を聖獸として大切に畜養する民族もある。更らに虚榮の欲望や優越を誇示せんとする衝動から、猛獸を捕へて馴養し、これらを家來にして得々としてゐるといふやうな傾向もあつた。牧畜の發生には、此等の欲望が主要原因となつて居るので、經濟上の欲望は殆んど與からない。ただ此等の欲望に依つて隅々喚び起された牧畜が、後ちにはそれ自身獨立して、重要なる經濟上の活動となり〔、〕他の活動に影響を及ぼすこととなるのである。
要するに、經濟の發達を喚び起すものは、マルクスやエンゲルスの主張する如き單なる經濟上の衝動、單なる肉體上の欲望のみに依るものでなく、名譽心や、装飾慾や、宗教上、審美上の衝動なども、此點に重要なる決定原因となり得るのである。
かくいへばとて、單なる肉體慾の發動、エンゲルスの謂ゆる直接的生産資料の生産が、人類社會生活(2)の基礎たることがないと斷言する譯ではない。それが社會生活の決定原因となることもある。勿論、ならないこともある。如何なる場合になるかといへば、人類が生活資料の窮乏に苦しむ場合である。かかる場合には、生活上の欲望が決定するのであるが、一度び飢餓の危險から遠けられると、茲に樣々の欲望が發動して來て、此等の欲望が却つて、直接的生活資料の生産に決定的の影響を及ぼすこととなるのである。
肉體上の欲望の中では、食慾が最も原始的で有力なものであるが、此食慾と竝んでいま一つの有力な原始的欲望は性慾である。食慾と性慾、色氣と食氣は、人間の自然的性質に深く根ざした動物的の欲望であつて、性慾には戀愛といふやうな特殊の活動も伴はれるのであるが〔、〕歸するところは性慾の發動である。而して此性慾と食慾とは、人間の最原始的な動物的欲望であつて、共に種屬保存の原動力となるものであるが、社會の發達に及ぼす影響からいへば、兩者の間には著しき相違がある。
元來、生活上の衝動なるものは、人類を間斷なき自然との鬪爭に前進せしめる所の積極的刺戟力となるものであつて、人類は一定の經濟的段階に達すると更らに新たなる段階に上進しようとして、此努力は限りなく續いて行くのであるが、性慾上の衝動は寧ろ保守的、反覆的であつて、一度び充足されると直ちに飽滿状態に達し、一定の時間を經るとまた同じ規模で反覆される。經濟部面における人類の進路は直線的であるが、性慾部面における夫れは寧ろ曲線的である。社會進歩の上に於いても、性慾の影響が保守的、不動的、反覆的となることは是非もない。
第三の同情的衝動と稱するものは、二つの方面から發生して來る。第一は母愛、第二は社交衝動である。動物の中には親が子を養ふ必要のあるものとないものとがある。いづれも自然淘汰の上から生じて來る現象であるが、子を養ふ必要のある動物の間には自然、子に對する親の愛が發達して來る。人間には特に此傾向が著しい。母愛がなければ、人類は存在し得ないであらう。さればこそ、人類には此衝動が特に著しく發達したのである。而して此母愛が基礎となつて、家族及び血縁者間に同情の衝動が發達するやうになる。
然し同情の衝動は、家族及び血縁者間にのみ限られるものではない。ヨリ大きく結合された一社會内の他人に對しても向けられる。此方面の同情心は主として、社交衝動に基くものである。これまた人類と動物との間に共通する所の本能であつて、群居生活を必要とする動物の間には自然に此社交衝動が發達して來る。人類も亦社會的動物として、著しく此衝動を具備してゐる。
此等の原始的衝動が基礎となつて、謂ゆる愛他心――同情の欲望が成立することになつたのであるが、然らば此欲望は人類社會の發達上に如何なる影響を及ぼしたかといふことが問題となる。
イギリスの社會學者ベンジヤミン・キツドに依ると、近世社會の發達は愛他心に依つて決定された。蓋し民族の生存競爭上に於いて決定的の因子となるものは、知識の大小ではなく道徳心の強弱であるといふのが、彼れの立場であつて、彼れは此見地から近世社會の發達を論究したのである。
だが之れは事業に當て嵌まらない。人類社會の政治的組織は戰爭に伴はれるものであつて、戰爭に必要な諸種の資格――蠻勇や、忍耐や、敵愾心などを最も多分に具へた民族のみが近世文明の域に到達し得たのである。キツドの『道徳心』と稱するものは『愛他心』の別名であつて、此等の資格とは寧ろ反對のものであるから、道徳心の強弱が近世社會の發達原因になつたといふ彼れの斷定は意味を成さない。愛他心の發達に於いては、近世の文明國民を遙かに凌駕するやうな原始民族も、今日尚ほ少なからず殘存してゐるが、彼等の政治組織は何れも放漫杜撰であつて、激烈なる民族競爭には到底堪へられないのである。
近世の資本主義社會も亦、愛他心の發達を助長しない點に於いて、古代の戰爭的專制社會と選ぶところはない。勿論、人類の風習が今や益々平和的となり、殺人その他の暴行が、戰爭の場合を除き滅多に許されなくなつたことは事實である。戰爭それ自身も亦、ヨリ稀有となり、從前の如く久しきに亘ることはなくなつた。人間の性質の中から、獰猛性が減じて來たことは事實である。然し資本主義的社會制度のもとに於いては、眞の愛他心を普及せしむべき餘地が與へられて居らないことも亦事實である。暴力の形態は軟かくなつた。然し暴力そのものが無くなつたわけではない。資本主義社會も亦奴隷制社會や封建社會に劣らず、少數者に依る多數者の搾取に立脚してゐるからである。
資本主義社會に於いては、競爭は經濟上の繁榮に達すべき最大の法則となるのであつて、生存競爭の激烈は驚くべき程度に高められる。尤も外觀的には生存競爭の殘忍性が減じたことは事實であるが、此競爭の爲に注がれる個々人の努力は從前に比して遙かに高められてゐるのである。かかる状態のもとに、愛他的の感情が發達し得ないことは論を待たない。
要するに人類歴史の進行中、愛他心なるものが社會發展の強大なる動力となつたことは、未だ曾てないやうに見える。此點は古代史も、近世史も、區別するところはない。同情心が人間行爲の素地として大なる意義を得るのは狹小なる群社會の内部にのみ限られてゐる。
由來、他人の苦痛や歡喜に對する同情といふものは、他人の意識生活をば己れ自身の意識の裡に喚び起す能力に基くものであつて、かかる能力を生ぜしめるには、豫め他人の意識生活を充分に理解することが必要である。然るに此理解は、雙方の心的經驗に相共通する所多き場合にのみ可能である。相互に交通する人々の範圍が小なれば小なる程、彼等の間における同情心は益々強くなる。同情心が最も強く發動するのは、家族の内部であつて、此狹小なる社會の内部に於いてのみ、利己を離れた眞實の温味ある相互愛が見出されるのである。
又、同一の社會階級に屬する人々の間に於いては、異つた階級に屬する個々人の間に比して、同情心がヨリ強く發動することを常とする。かかる階級的同情心は更に利己心竝びに優越的の衝動と結合して、茲に階級心なるものを生ぜしめ、此形で以て歴史を促す強大な動力となるのである。
近世の人間は他人の苦痛に強く同情する所の能力を缺いてゐるとは云へ、他人からの毀譽襃貶に對しては頗る敏感である。彼等は他人から認められ、注意され、賞讚され、聽從されることを欲してゐる。己よりも認められること多き者を妬み、社會的勢力や聲望を最大の幸福として追求する。此等の感情は、文明人と原始人との區別なく凡ゆる人類を通じて、其行爲の極めて重大な動機となつてゐるのである。
リツペルトの言ふ如く、如何に粗野な人間でも、獸の如く生存することだけで滿足するものではない。彼れは他人から注意されることを望み、同類の間に價値を認められんことを望んでゐる。またスペンサーは、『文明人の虚榮が如何に大であるにしろ、それは到底非文明人の虚榮に及ぶものではない。己れの身邊を飾らうとする欲望に於いては、現代の上流婦人と雖も野蠻人の首長には及ばない』と言つてゐる。野蠻人は己れの風容を印象深くするためには、最大の肉體的苦痛を辭する所でない。彼等が如何に、文身その他の肉體的不具化に熱中するかは人のよく知る所である。フイージ土人の酋長は刷毛のやうな長い頭髪を四方に逆立せてゐるが、彼等は此髪を保護する爲に、睡眠中と雖も決して頭を横へることなく、丸太で頭を支へることを以て滿足しなければならない。又、鼻環を下げたり、下唇に木節を附けたり(ボトクードス人)、齒の先端を尖らせたり(マレイ人)する習慣も、決して生命の愉快を増進するものでないことは確かである。而も此等の習慣は、神を喜ばせる爲にする苦業と同樣に、避くべからざる強制として耐え忍ばれるのである。
輿論に對する驚畏の念が人間行爲の強大なる動機となることは、スペンサーが『社會學原理』の中に指示した所である。愛他心の強い人は滅多に得られないが、更に輿論の襃貶に無頓着な人は殆んど絶無だと云つてもいい。その理由は、從來における人類の社會的生活條件に依つて説明される。一社會の内部的組織が鞏固であつて、社會全體に對する個々人の倚屬が完全であればある程、各個人が輿論を恐れ、輿論に依つて自己の行爲を規制せしめねばならぬ事由は益々大となる。政治的に組織された如何なる社會も、一切の個々人を從順ならしむべき權力を有してゐる。社會に依つて非とされた行爲に出づる者は恐るべき刑罰に處せられ、反對に社會の是認した行爲をなすものは大なる賞讚を酬いられる。階級鬪爭にしろ戰爭にしろ、愛他心の普及を妨げたことは極めて大であるが、今日における人類の殆んど支配的な感情となつてゐる名譽心の發達を助けたことは極めて著しい。『權力意志』は人類世界の神髓であるといふニーツチエの主張の中には、多大の眞理が含まれてゐるのである。
階級心とは、同じ社會階級の成員間における協同一致の精神を意味するものである。此精神は種々樣々の要素から成る極めて複雜した感念であるが、此等の要素の中で最も主位に在るものは即ち利己心竝びに優越上の欲望である。
生活條件を等しくする人々の間には、自然に同情心が湧いて來る。それが階級的精神の發生を助けることは確かである。然し此要素は、階級的精神の核心となるものではない。それは同一階級の成員間には、非利己的な相互扶助が缺けてゐるといふ事實に依つて日々立證さえてゐる所である。同一階級の内部に強烈な同情心が發達し得ないことは、次の事實に依つても推知し得る。即ち同一階級の成員は相互競爭者となるものであつて、互ひに愛し合ふといふよりも寧ろ恐れ合ふ場合が稀でない。
勿論、此等の人々も、他の階級に對立する場合になると、協同一致の精神を發揮し、大なる勇氣と獻身とを以て自階級の利益を擁護することは屡々認められる所である。大革命當時におけるフランスの貴族がそれであつた。此場合には、門閥上の名譽を重んずる精神や、自階級の輿論に一致した行動を採らうとする努力や、更に又自階級の利害と自己一身の利害とが密接に關聯してゐるといふ意識などが決定を與へたのである。
しかのみならず、當面の輿論に反對し挑戰する少數の人々でも、輿論全般の影響から免れることは出來ない。彼等は現在を輕蔑する。が、それだけに又、將來を信ずることに篤いのである。彼等は現在の輿論から獨立してゐるとは云ふものの、それは畢竟、將來の理想的輿論を觀念して、それに倚屬してゐると感ずる結果に過ぎないのである。
愛國心も亦、愛他心と利己心と優越的衝動との三要素からなるものであつて、此等の中、後ちの二要素は決定的に優勢を占めてゐる。即ち同一國民間の相愛といふ要素よりも、寧ろ異國民に對する嫌惡、敵意、甚しきは又憎惡といふやうな要素が、愛國心の決定的要素となつてゐるのであつて、強大なる國に屬することの誇り、異國の理解し難き風習や生活樣式に對する嫌惡、共同利害の意識――これらの要素こそ、歴史上に重要な役割を演じた愛國心なるものの根底となつてゐるのである。
社會的勢力を求むる努力は、自己を保存し肉慾的の享樂を得んとする努力と竝んで、社會的行爲の二大動機たるものであつて、社會的榮譽を追求する競爭は人類の間に於いては生存競爭と同樣に激烈を極めてゐる。此點に於いて、人類の歴史は他の動物の進化史から著しく區別されてゐるのである。
しかのみならず、富即ち經濟上の利福を求めんとする努力も亦、社會的勢力を求むる欲望に依つて直接刺戟される場合が多いのである。人が富を追求するのは、富に依つて可能にされる肉體的享樂を得んとする動機にのみ倚るものではなく〔、〕又富が不可避的に齎らすところの社會的勢力を得んとする衝動にも依るのである。人類は實生活上の利害を超越した諸種の欲望をも有してゐる。此等の欲望の中、最も單純なるものは遊戲衝動である。
遊戲慾の發生は、意識生活の發生ほど古くはない。下等動物の中には、遊戲しないものもある。動物進化の最初の段階に於いては、如何にして生存するかといふ苦心が一切の精力を吸取して、遊戲の爲には何等の精力も餘されないことになる。然し遊戲は既に早くから、生存上の苦心とは全く區別された活動として行はれ始めた。動物は飛んだり、跳ねたり、時には又獵の眞似事などをして遊ぶのであるが、此等の活動はいづれも、運動それ自身に伴ふ快感以外には目的がない。かかる無目的活動の原因は、活力の過剩といふ事實に存するものの如く見える。即ち有り餘つた活力をば、有用勞働がないため快感を與へる自由活動に振り向けるのである。かくして遊戲衝動なるものが生じて來るのであるから、支出せられざる蓄積活力の過剩が大なれば大なる程、此遊戲衝動も亦益々旺盛になる。
活動力の旺盛な、動作の機敏な動物ほど遊戲衝動が強い。猛獸が著しく遊戲を好む所以は茲にある。自然人も亦遊戲を好む。
ビユヒアーは多大の事實資料に基き、『人類發達の初期に於いては、勞働と遊戲とは相互に區別されて居らない』といふ結論に到達した。經濟上の勞働と遊戲との分化は、ヨリ後の時代に行はれたものであつて、自然人は我々の勞働する場合におけると同樣の眞面目を以て遊戲し、我々が遊戲の領域に算入する所の諸要素をば勞働に結びつけてゐる。彼等の勞働は唱歌を以て伴はれ、場合に依つてはダンスと殆んど區別し得なくなるのである。
勞働を遊戲から嚴密に區別する所のヨリ高級な段階に達すると、舊來の低級な遊戲は其意義を失墜してしまふ。文明民族に於いて身體運動的の遊戲が著しく發達し、それが重要な歴史的の力となつた場合も極めて稀には見受けられる所であつて、例へばローマ及ビザンチーンに流行した曲馬術の如きは、政治的に重要な意義を獲得したものである。『パンと曲馬』といふ言葉もある通り、生活必需品と遊戲とを等位に置くことは、古代ローマにとつては極めて特徴的な事實となつてゐたのである。
が、遊戲について特に重要とすべき點は、藝術の如き貴重なる精神活動が遊戲から生じて來るといふ事である。
ビユヒアーの重要なる研究に依れば、詩と音樂とは本來經濟上の勞働と密接に結合されてゐた。しかのみならず、此等の藝術の本質を成してゐる所の韻律も、主として勞働の律動的作用から生じたものの如く見える。音樂は其初め、經濟上における勞働の單なる補助具に過ぎなかつた。それが時經る間に最高美術の一つとなつたのであるが、之れがため社會力としての音樂の意義は格別高められた樣子もない。音樂は極めて純粹な美的快感を與へる。此點に於いて、音樂の價値は如何に高く評價しても、尚充分でない位ゐである。けれども音樂が社會生活の諸形態の上に如何なる影響を及ぼすかは、容易に發見し得るものではない。
これは他の藝術について〔も〕言ひ得る所であるが、音樂におけるほど著しくはない。蓋し音樂なるものは、實生活上の利害を遠ざかること最も著しいからである。文藝に至つては、確かに顯著なる社會力となるものであるが、それは畢竟、文藝が一定の觀念内容に美的形態を結合せしめたものに過ぎないからであつて、此觀念内容は社會的思惟の他の部面なる哲學や科學との間に共通する所のものである。文藝が斯く偉大なる歴史的勢力となり得たのは、要するに此知的内容の結果であつて、嚴密なる審美的要素の力に依るものではない。
知識慾も亦、超利害的であるか、又は超利害的たるを得るかの點に於いて、審美的の欲望と共通してゐる。知識は何等の實利的意圖なく單にそれ自身に對する興味の上から涵養せられ得るのである。知的天性を有する人々は、眞理のために眞理を追究する。勿論、人類發達途上の最初の段階に於いては、知識の衝動は極めて微弱であり、其後に及んでも、大多數の人類について言へば、強さに於いて知識慾は到底審美慾には及ばないのである。尚また知的性質を有する人々は、詩的及音樂的の性質を有する人々に比して、遙かに稀れである。小説や樂曲が多數人民に與へる興味は甚大なものであるが純知識的の勞作を以てしては到底、其樣な效果を期待し得るものではない。かやうに純知識的欲望は多數の人々についていへば極めて微弱であり得るかも知れないが、とにかく一個の獨立した欲望として存在するものであるから、これを人間精神の中から廢除して考へる譯には行かないのであるから(3)。
とは云へ、科學の發生及び發達を專ら此欲望の作用にのみ歸するは誤りである。蓋し科學の發生は學説上の興味、換言すれば客觀的眞理の知識を求めんとする衝動に基くものではなく、寧ろ實生活上の利害に基くからである。これは抽象的の純粹科學についても、實際的の應用科學の場合に劣らず言ひ得る所であつて、如何なる科學部門にしろ、最初の發達段階に於いて先づ決定を與へるものは實生活上の利害である。
此事實は凡ゆる科學部門の歴史が證明する所であつて、ヴントのいふ如く、古代における數學の二大部門たる算術及び幾何學が相互に分離して、おのおの獨自の發達を遂ぐるに至つたのは、通商上竝びに測量上の必要に餘儀なくされたのであつた。測量竝びに建築術の必要上、幾何學が生じたのであるが、一方に又價値物件を計算する必要上算術が生じて來た。自然科學も亦同樣にして、實際上の必要から喚び起されたものである。
錬金術を生ぜしめたものも、學理上の興味ではなく、一切の物を金に轉化せしむる手段を見出さうとする實生活上の利害であつた。而して此錬金術から、科學としての化學が生じたのである。學理としての生物學も、其應用部門たる醫術や動物解剖や、農業經營などの影響を受けて發達したものである。
精神科學の起原についても〔亦〕同樣である。論理及政治上の諸問題が、科學的思索の對象となるに至つたのは比較的後年のことである。『紀元前五世紀に輩出した詭辯學徒なるものは、もと政治上における雄辯術の公教師たりしもので、自然對象の關係に對する一切の思辨(4)を不用と見做して排斥し、個々人の實際的殊に政治的教育に對する生活上の要求に應じて活動したものであるが、彼等の出現以來ここに始めて、修辭上竝びに政治上の活動と關聯した學理的の諸問題に對する興味が目覺めて來た』と、ヴントは言つてゐる。言語學なるものが特殊の科學として獨立するに至つたのも、彼等詭辯學徒の功績に歸すべきである。彼等は雄辯術の實際的教師たる立場から、勢ひ言語の要素を研究し分析すべき必要に迫られたのである。
更らに法律科學は何うかといふに、これまた實生活と密接に結合されて發生したものである。ローマ人にとつて最初に法學的研究の對象となつたものは、經濟上の生活と密接に關聯せる法律部門――私法であつて、公法は當時組織的研究の範圍に加へられなかつた。社會科學の他の一大部門たる經濟學も亦、同樣に社會生活の實際的必要に根底を置いたものであつて、今日に至るまで實生活上の要求と極めて密接に結合されてゐる。
要するに、學理上の興味よりも寧ろ實生活上の利害が人知の發達上に主動力となつてゐたことは、科學の歴史が完全に證明する所であつて、此關係は知識の領域についても藝術の領域についても區別はない。それにも拘らず、學理上の興味は科學的認識の獨立した不可缺的の動力と見做し得るのである。實生活上の凡ゆる顧慮から自由にされた此學理的興味がないとすれば、何等の科學も繁榮し得ないであらう。人知發達上の最初の(5)段階に於いては、學理上の興味は極めて微弱であつた。然し科學が發達するにつれて、此興味は益々有力となるのである。學理的科學的の知識部門は最初、實際的の知識部門に從屬してゐた。所が後に至り、實際的知識の方が却つて學理的知識の支配を受けるやうになつたのである。
技術上の發明は、二つの方面から成立して來る。先づ實生活上の必要が人類の意識に一定の實際的問題を課し、多數の人々が其解決に從事して結局彼等の中の何人かが目的を達成する。かの産業革命なるものを喚び起した十八世紀の大發明は、斯くして行はれた。イギリスに紡績機械が發明されたのは、綿絲の需要が急激に増大した結果であり、又織機の發明は、織機の能率を増進せしめんとする必要に迫られた結果である。
が、技術上の發明はまた他の方面からも成立し得る。即ちそれは、學理的認識の結果として豫期せざる所に偶然生じて來ることが屡々ある。學理上の興味は一定の研究を呼び起すものであるが、此研究を行つてゐる間に、思ひがけなく重大なる實際問題の解決に到着する。斯種の發明は十九世紀の特徴となつたものであつて、十八世紀の發明が實際的方面から成立したのと相對立してゐる。例へば十九世紀における電氣工學の一半は、ヴオルタの學理的研究に基くものであり、又他の一半はフアラデーの學理的勞作に依つて呼び起されたものである。最近における最大の發見――無線電信の發明は、光の電性に關する學理的問題の解決を目的としたヘルツの實驗と密接に關聯してゐる。またクルツケスの學理的研究に刺戟されてレントゲンはかの實際的方面に重要なるエツキス光線を發見し得るに至つた。ホフマンの如き實際家が、コールタールからアリザリンを製造するといふ極めて重大な實際的問題を解決し得るに至つたのも、これまた學理上における幾多の勞作に依つて誘發されたものである。
要するに、實生活上の必要が、科學を生ぜしめたことは事實であるが、一方に又、科學は實生活を革命し、果てはそれ自身が目的となる程に勢ひを増して來たのである。人類は單に實際上の利用を得んがためにのみ知識するものではなく、又知識それ自身に伴ふ快樂を目的としても知識するものである。勿論、進歩した民族の間に在つても、此快樂を著しく感じ得る人は至つて少ない。然しこれに對する欲望は如何に微弱であるにしろ、それが歴史の動力として有する社會學的意義は至つて大である。僅少の人々の間における此欲望の充足は、知識慾といふものを殆んど知らない多數人の運命に極めて大なる影響を及ぼすものであつて、人類總體に隱れ場を與へる科學の宏壯な建物は、數少なき研究者の孤獨的勞働に依つて打ち立てられるものである。眞理を求め、論理の一貫を喜ぶ衝動は、審美的の欲望と同樣に利害を超越してゐる。それは、思惟の勞働から生じ得べき實利に對する欲求ではないのである。
以上のほか超利害的欲望の中には宗教上、道徳上の諸衝動もあるが、餘り冗長に亘るから此邊で切り上げる。
要するに人間の欲望は頗る多岐多樣のものであつて、それが社會發達の上に及ぼす影響も中々複雜してゐる。本文は此方面に於ける研究の片鱗を示したに過ぎない。欲望それ自身についての立ち入つた考察は、後日の機會に讓る。(終)
底本:初出:『世紀』第一卷第三號(大正十三年十二月)
『英雄崇拜と看板心理』(忠誠堂,昭和5年)に再録。
注記:
※本文第二章以下は、ツガン・バラノヴスキー著、高畠素之訳述『唯物史観の改造』の第三章「社会的発展の起動力としての欲望」と類似する。
※『英雄崇拜と看板心理』を用いて文字を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)『慾』と:『英雄崇拜と看板心理』は「『慾』を」に作る。
(2)人類社會生活:『英雄崇拜と看板心理』は「人類社會」に作る。
(3)あるから:『英雄崇拜と看板心理』は「ある」に作る。
(4)辨:『英雄崇拜と看板心理』は「辯」に作る
(5)人知發達上の最初の:『英雄崇拜と看板心理』は「人知發達上の」に作る。
改訂履歴:
公開:2006/07/30
最終更新日:2010/09/12
© 2008-2010 Kiyomichi eto Inc.