現實を操る夢

高畠素之

家族制度の崩壞(1)

長い間の懸案だつた普選案も、今度はどうやら通過しさうな形勢である。ところが、一部の國粹主義者は『純正普通選擧』なるものを提唱して、從來の普通選擧案に反對してゐる。

彼等によれば、日本は家族制度の國であるから、選擧權も當然、家長たる戸主のみに與ふべきであつて、家長以外の成年男子にも平等な權利を與へようとする普選案は、國家の基礎を危くするものだといふのである。ヨーロツパ諸國は個人主義の國であり、我が日本は家族主義の國であるといふことは、これまでも常に國粹論者の説くところであつた。彼等は絶えず家族主義の武器を振り廻して、個人主義的經濟制度の招來する現象と戰つて來た。今また彼等は傳家の寶刀を抜いて、個人主義的社會における個人主義的普選案と戰はうとするのである。

一體、何を論據として日本は家族主義の國であると説くのであらうか。もちろん、資本制生産の發生以前、我國の家族制度は完全な存在を示してゐた。けれども、現にその家族制度は資本制生産の成立以來、刺々に崩壞されてゐるではないか。家長である男子も、その妻も子も工場に狩り出されてゐる今日、兄は九州に弟は北海道に、老父母は足尾にと勞働力の需要を求めて轉々してゐる今日、どうして家族制度が保たれるであらう。生産制度の變化は、生活の必要上、われわれを狩つて家族主義から個人主義へと追ひ込むのだ。

資本制生産の發生以前に家族主義が行はれてゐたといふことをもつて、日本を家族主義の國だといふならば、彼等が個人主義の國だといふヨーロツパ諸國も、一として家族主義の國ならざるはない。いづれの國家も最初から個人主義の國だつたのではなく、永い間家長的家族制度の下に發達したのである。けれども家族經濟時代、莊園經濟時代を經て、資本制生産が行はれるに至つたからこそ、ヨーロツパ諸國の家族制度が崩壞しだしたのである。いひ換へると、個人主義的經濟制度に適應するために、個人的な生活が行はれるやうになつたのだ。

たゞ、ヨーロツパでは十八世紀に成立した資本制生産が、日本では二十世紀に至つて始めて成立したまでゝある。即ち日本の經濟的社會的發達がヨーロツパ諸國に遲れてゐたといふまでゝある。家族主義も個人主義も、經濟的發達に附隨した避け難い現象である。家族主義といひ個人主義といふも、畢竟するに人類が經濟的社會的發達の途上で、必らず經なければならぬ一過程であり、決して絶對的なものではない。從つて家族主義が未來永劫を支配するものでない如く、個人主義も必ず人類社會の將來を支配するとは限らないのである。

家族制度の崩壞(2)

ヨーロツパ諸國は個人主義の國であり、我國は家族主義の國であるといふ事は、ヨーロツパ諸國だけに資本制生産が行はれ、日本にはまだそれが行はれて居らない一時期についてのみいひ得る。しかし今日では、我が日本も立派な資本主義國である。資本制生産の下にあらはれる當然の現象として、漸次に家族制度が崩壞しつゝあることは、動かすことの出來ぬ事實ではないか。

しかも今日、國粹論者の一部が依然として「家族主義の國」を寶刀と心得てゐるのは、この嚴然たる事實を認識することが出來ぬからである。前時代の經濟生活が生んだ封建思想を無批判に傳承してゐるからだ。經濟的社會的生活の上でも、多少前時代の殘映があるごとく、社會的經濟的生活から派生する思想にも、絶えず前時代の餘榮が殘つてゐる。しかし餘榮的思想は遂に亡びゆく思想であり、經濟的社會的に多分の餘榮が殘つてゐる間こそ支配力を保つてゐるものゝ、それらの餘榮が消滅すると共に結局、支配力を失ふ運命を帶びてゐる。國粹論者の一部が振りかざす寶刀も、前時代の殘映が濃厚な間こそ多少の勢力もあれ、今日社會の傾向をはゞみ得る威力を持つはずがない。

若し彼等のいふ如く、普選案の個人主義的傾向が國家の基礎を危くするものであるならば、先づかゝる傾向の生ずる根源を究むべきである。枝葉末節の問題にとらはれず、禍の根本を明らかに認識し、これに應ずべき新武器を案出すべきである。十年一日の如く同一の武器を振り廻して、枝葉末節と戰ふことは、決して聰明な戰術ではなからう。

しかしながら、家族主義から個人主義への推移は、我々の價値判斷を超越した避け難い傾向である〔。〕經濟生活が逆轉出來ぬかぎり、我々が如何に憧憬しやうとも再び家族制度を招來することは出來ない。親も子も、妻も夫も生産場裏に狩り出されてゆく資本主義社會で、從來のやうな家族的團結を求むることは絶對に不可能である。たとひ家族制度の形骸は保たれてゐるとしても、家族は今や一つの合宿所たる實質を帶びて來てゐる。

家族の分裂、個人の經濟的獨立が避くべからざる以上、參政權が總ての成年男子に平等であるのは當然な事ではないか。婦人參政權の要求が叫ばれるのも、またかくの如き傾向の生む必然の現象である。家長以外の男や女に選擧權を與へることが、國家の基礎を危うくするならば、家長が全家族の生活を保障し得ない状態も、また國家の基礎を危うくするものでなければならぬ。

國粹主義もとより尊ぶべし〔、〕「國家の基礎」の爲に戰ふこともちろん結構である。しかし國民生活の基調をなす經濟關係を顧ることなく、無條件に殘映的思想を傳承し、それによつて動かす可からざる現實の傾向を阻止しようとするのは、決して國家の基礎を強固ならしむるゆえんではない。眞の國家主義は現實の社會的傾向に對する正しい認識と理解の上にのみ成り立つものである。

所得の個人化

この近年、家出をする者が著しく増加して來たといふ事だ。この一年に搜索願を出されたものが、警視廳管内ばかりでも九千人あり、家出の原因のうちで一番多いのは、夫婦間の爭ひとか、親子の爭ひとかいふいはゆる家庭の不和だといふ。

この現象は一體何を語るものであらうか。考へて見るまでもなく、それは我國における家族制度の崩壞を示すものに外ならない。國粹論者の群が、個人的普選案は家族制度の國たる國家の基礎を危くするものだ、などゝいつてゐる間に、肝心の家族制度は普通選擧の實施を待つまでもなく、刺々に崩壞しつゝあるのだ!

嘗て家族制度が、完全な形で存在を保つてゐたのは、すべての家族は家長によつて扶養されてゐたからだ。永い間、家長に扶養力が保たれてゐたのだ。しかるに家長の扶養力は漸次減退して來た。國民の大多數を占める無産階級では、男も女も親も子も、同樣に生産場裏へあらはれて賃銀を漁らねばならなくなつてゐる。即ち嘗ては、家長が全家族のための所得を得てゐたのであるが、今日では一家の所得が次第に個人化して來てゐるのだ。

生活の基礎である所得が個人化して來る以上、家庭における家長の支配權も當然減退せざるを得ない。家庭の不和は家長に對する家族の信頼と服從が減退したところに生れる。家族は家長の扶養と支配とに信頼し服從してゐることが出來ない。一家の生活は、最早や家長の所得のみでは行はれなくなつたのである。全家族の個人的所得を合計して行はれる家庭生活で、どうして家長の支配力が保たれやう。

家出をするといふ事は、家長の支配に對する絶對の廻避である。妻は夫の、子は親の支配に甘んずることが出來なければこそ、家庭を逃避することになるのだ。子が親に、妻が夫に信頼し服從してゐることの出來ない現状は、もちろん喜ぶべきものでない。けれどもこれは、所得の個人化といふ社會的傾向の必然に生む現象なのだ。從つてそれは是非善惡を超越した問題なのである。

家出人の激増、家族制度の崩壞の禍根は、資本制生産の招來した所得の個人化にある。家族制度の崩壞を阻止しようとするならば、先づ所得の個人化を阻止しなければならないのだ。家族制度の維持存續のために戰はふといふ國粹論者は、いはゆる個人的普選案を阻止する前に、先づこの傾向を阻止すべきである。しかも彼等は、枝葉末節の現象をとがめる計りで、禍の根源に對しては甚だしく寛大なのは何故であらうか。

個人的な普選案が行はれて、家族制度が崩壞するのではない。家族制度が漸次に崩壞してゐればこそ、これに應ずべき普選案があらはれるのだ。しかも、家庭の分裂、所得の個人化は、避け難き社會的傾向である。我々は自然の前に無力であると同樣に、かゝる必然的傾向を阻止し得る力を持つものではない。個人的普選案といふ附隨的現象を阻止することによつて、その根源である社會的傾向を止めることは到底不可能な事である。

野性の滿足

ジヤツク・ロンドンに『野性の呼び聲』といふ小説がある。そり引きの犬が、主人と一緒に餓えと寒さと狼の群の襲撃を避けながら荒野の旅をつゞけてゐるうちに、だんだん心の底に抑へつけられてゐた野性を呼びさまされ、到頭狼の群へ歸つてゆくといふ筋だ。

いくらじゆん育された犬でも、心の底には野性が潛んでゐる。永い間のじゆん錬と習慣とで平生は抑へつけられてゐるものゝ、機會さへあれば呼びさまされる野性があるのだ。強い呼び聲さへかけられゝば、犬としての生活を捨てゝ走る程の野性がいつも潛在してゐるのである。

しかし、犬が狼の生活に還るといふことは、事實上滅多にあり得ないのである。それは犬の心のうちに、生活に對する適應性、環境に對する適應性が絶えず働らいてゐるからである。即ち犬はかういふ適應性によつて、無意識の間に野性への還元を阻止されてゐるのだ。けれども犬は、潛在してゐる野性を無意識の間に滿たさうとする。そして、無意識のうちに野性を滿たしてゆける行動を樂しむのである。

犬の場合の野性と比べるのは少々無理かも知れないが、これと略々同じやうなことが人間についてもいひ得ると思ふ。われわれの生活、われわれの環境は多くの場合、われわれの内心に潛んでゐる本然的な欲求即ち野性の發揮と一致しない。犬がわれわれから犬らしい生活を期待されてゐるやうに、われわれは社會から社會的ないし職業的地位に應じた一定の生活を期待されてゐる。議會における代議士の暴行が非難されるのは、彼等が社會から期待されてゐる代議士らしい生活の埒外に踏み出したからだ。

犬が外部からの期待に適應しようとする如く、われわれも無意識のうちに社會からの期待に適應しようとしてゐる。即ち『體面を重んずる』といふ事は、かういふ期待に副はうとする事に外ならない。大臣に大臣の體面がある如く、車夫には車夫の體面がある。犬が犬としての生活に適應しなかつたら、その生活の便宜を失ふやうに、大臣も車夫も社會的に期待されてゐる生活に適應しなかつたら、それぞれ生活の便宜を失ふことになるであらう。意識的に體面を重んずるかどうかは知らず、すべての生物は無意識の間に期待されてゐる生活に適應しようとしてゐるのだ。

ところで、われわれの適應しようとする生活と、野性の發揮とは多くの場合相背馳してゐる。即ち如何に我まゝ勝手な乘客があつたところで、相手を撲り飛ばして快哉を叫ぶことは、電車の車掌としての生活が許さぬといふ風に、われわれは體面のために野性を抑壓しなければならぬ場合が少くない。しかし、われわれの心のうちに潛んでゐる野性は、抑壓することは出來ても消滅させることの出來ぬものである。そこで社會的期待を裏切らない範圍で、現實の生活に觸れない部面で、かういふ欲求を滿たさうとする事になる。

芝居や活動でいはゆる活劇が盛んなのも、宮本武勇傳や侠客傳の講談が歡迎されるのも、われわれが體面上滿たすことだ出來ずにゐる欲求を、現實生活に觸れない部面で滿たしてくれるからではなからうか。もちろん、活劇や勇敢な講談の流行することには、他にもいろいろな理由があらう。けれども、その重要な理由の一つとしてわれわれの野性とわれわれの生活とが次第に背離してゆくといふ傾向を見逃すことが出來ない。

今度、八代大將などの肝いりで侠客清水次郎長の銅像が建てられるといふ。次郎長も大した人氣になつたものである。彼が今日のやうな人氣をかち得た重要な理由の一つとして、語り傳へられてゐる彼の生涯が、われわれに潛在してゐる野性を呼びさまし、それを現實生活の埒外で滿たしてくれるといふことを見逃すわけに行かない。かれ次郎長のなした野性そのものゝやうな生活は、われわれの現實生活と極めて縁の遠いものである。われわれは社會的に期待される生活に適應する爲に、いろいろな他の欲望を充足する爲に、餘儀なく野性を抑壓してゐるのだ。

然るに彼は、われわれが無意識に抑壓してゐる野性を、われわれに代つて發揮してくれる。われわれは彼によつて、自分自身の野性を滿足させることが出來るのだ。だからこそ、彼は今日のやうな人氣をかち得ることゝなつたのであらう。英雄崇拜は英雄的行爲が現實生活で許されない場合に盛になるのである。野性の英雄清水次郎長が崇拜されるのは、われわれが今日容易に野性の英雄となることが出來ぬからである。彼が明治の初年、如何に文明の普及につとめたかといふことが、銅像建設について吹聽されてゐるけれども、次郎長の身上は文化の普及ではない。彼の社會的價値は野性の英雄たる處にあり、しかもその價値はわれわれの生活と野性の發揮とが一致しなくなるに從つて、益々増大してゆくであらう。いひ換へると、野性の發揮がだんだん現實の生活で許されなくなつたからこそ、彼の銅像も建設されやうとするのである。

文明の呪咀(1)

九つの時に東京へ出て來られたといふ島崎藤村氏が、その令息を信州のふるさとへ歸へし、百姓をやらしてゐられるといふことを新聞で知つた。その新聞記事によると、令息の健康があまり優れないためだといふ事だ。もち論氏が「青い山のつゞいて景色の美くしい」ふるさとへ令息を歸へすことを決意し、「若い一人の農夫として達者でゐることを心から祈つて」ゐられるやうになつた直接の働因(1)は、令息の健康のためだつたであらう。

しかし、氏の決意の裏には、多かれ少なかれ都會人が抱いてゐるところの、田園生活へのあこがれが働らいてゐなかつたであらうか。「かりこみの忙しい時なんか、こちらから親子兄弟そろつてお手傳ひに行きませう」といふ氏の言葉のなかには、都會生活に對する嫌惡と、その反動から來る田園へのあこがれが、多分に潛んでゐるのではなからうか。

都會生活を捨てゝ田園に逃れることは、何も今始つた話でない。文明の病弊と都會生活の煩雜さに耐へられぬ特殊の性格者が、若しくは田園生活を人間至上の生活だと信ずる思想家が、都會を避(2)つて田舎へゆく傾向は昔からあつた。けれども今日では、さういふ特殊の人々に限らず、一般に文明の病弊を感受し、都會に對する嫌惡、文明の浸じゆんが比較的淺い田園の生活に對するおぼろげなあこがれを抱かせられてゐるのである。

藤村氏は感受性の強い詩人なのだから、氏がかうした病弊を人一倍強く感じて令息を田園へ送られたのだとしても、それが直ちに田園生活へのあこがれが一般に潛んでゐるといふ證據にはならないであらう。しかし、室伏高信氏が「土に還れ」の叫びを擧げ、一部の文士が農民文學、郷土藝術を提唱することが、らん熟した資本主義文明への反動であるが如く、氏の決意もまた今日の文明に對する反動に扶けられたものであり、しかも一般人の胸底にこの種の反動に共鳴する幾分の萌芽が生じてゐると考へるのは、必ずしも評者の獨斷でなからうと思ふ。

田園への逃避も「土に還れ」の叫びも、ことごとく今日の文明が生む必然の、しかし病的な現象である。そして、これらの現象が多少一般人の共鳴を呼ぶのは、田園が實際我々の樂園であるためでもなく、今更ら機械文明を破壞して土に還り得るためでもない。たゞそれが、我々に不滿を感じさせてゐる現實の生活と反對なものだからである。

文明の呪咀(2)

勞働の非享樂化、生活の機械化は進み、我々の身邊を圍繞する社會的關係はこんがらがつて來る。そこで、勞働を單純化し非享樂化する機會に向つては、理論を超越したのろひ(3)と反抗を感じ、營利的な對人關係、あわたゞしい都市生活の惱みを感じては田園にあこがれるといふことになるのだ。如何にのろひと反抗を感じても、我々は機械文明から脱却出來るものでない。田園の風景が如何に美くしくとも、風景ばかりで田園が構成されてゐる譯でない。田舎には田舎なりの對人關係があり、社會的交渉がある。文明の浸潤が比較的淺いとはいへ、田園も決して資本主義文明の埒外にある譯ではない。

資本制生産の、從つて資本主義文明の病弊の(4)益々進行するのは阻止することが出來ぬ。しかも、この逃れる事の出來ぬ傾向の支配力が強ければ強い程、それに對してのろひと反抗と嫌惡が感じられるのだ。そして、求めて得られない夢を追ふことになる。機械文明の病弊がいとはしい程、非機械文明(?)が美くしい幻影となり、都會生活の惱みを感ずるごとに、田園生活が樂園化して來る。即ち現實生活の惱みが増加するごとに、幻想生活が美化されるのだ。

田園生活へのあこがれ、土に還らうとする幻想が盛んになつて來ることは、要するに資本主義文明のらん熟を物語(5)るものだ。從つてかういふあこがれは益々強く、かつ一般化して來べきものである。特殊の感受性を持つた人々だけに抱かれるのではなく、一般の人々に多かれ少なかれ感じられるやうになつて來るものである。そしてそれは、資本主義文明に對する反動であると共に、逃れることの出來ぬ社會的傾向に向つて擧げられる一種の悲鳴なのだ。しかし、資本主義文明の進行が、是非善惡の價値判斷を超越した必然的傾向である如く、かゝる悲鳴の擧げられるのもまた價値判斷を超越した現象だといはねばならない!


底本:『報知新聞』大正十四年二月二十日~二十五日
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和五年)に再録。

家族制度の崩壞(1):『報知新聞』大正十四年二月二十日(夕刊)七面、現実を操る夢(一)
家族制度の崩壞(2):同年同月二十一日(夕刊)十面、同(二)
所得の個人化:同年同月二十二日(夕刊)七面、同(三)
野性の滿足:同年同月二十三日(朝刊)二面、同(四)
文明の呪咀(1):同年同月二十四日(夕刊)十面、同(五)
文明の呪咀(2):同年同月二十五日(夕刊)十面、同(六)

『英雄崇拝と看板心理』は全四篇構成で、(一)家族制度の崩壊/(二)所得の個人化/(三)野性の満足/(四)文明の呪咀となっている。

注記:

※句読点を増補した場合は〔 〕内に入れた。
※漢字の表記は『英雄崇拝と看板心理』に適宜従った。

(1)働因:『英雄崇拝と看板心理』は「動因」に作る。
(2)避:『英雄崇拝と看板心理』は「去」に作る。
(3)のろひ:『英雄崇拝と看板心理』は「呪咀」に作る。以下同じ。
(4)の:『英雄崇拝と看板心理』は「が」に作る。
(5)物語:底本は「物詰」に作る。『英雄崇拝と看板心理』も同じ。

改訂履歴:

公開:2007/12/02
最終更新日:2010/09/12

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