死の懺悔讀後の印象

高畠素之


私は死刑囚の書いたもの、死刑囚について書かれたものが好きで、これ迄もできるだけ廣く目を通すやうにして居り、それぞれ得る所が多かつたやうに記憶してゐるが、かつて雜誌解放や改造にのつた古田大次郎君の獄中記ほど心を引きつけられたものはない。で、今度それが『死の懺悔』となつて發行されたのに對しても、恐らく私が購買者のイの一番であつたらうと思はれるくらゐ、私は古田君に魅惑されてゐた。

私はこの人と生前面識がなかつたことを惜まれてならない。尤も、なまじい面識があつたならば、この獄中記から得る通りの美しい印象は得られなかつたのではないかとも危ぶまれるのだが、とにかく彼は稀に見るよく整つた人物だと思ふ。素直といふか、澄み渡つてゐるといふか、些も作意がなく、こだわりがない。彼れが素直であつたことは、江口渙君も序文の中で言つて居らるゝが、江口君の言ふのは、『唯、思ふことを至極素直に云ふ人だつた』といふ一點に關聯してゐるらしいが、私が彼れの『死の懺悔』から讀みとつた素直さの意味は、もつともつと廣く大きい。彼れは單に、思ふことを素直に語つたといふのみではなく、その思ふことそれ自體が極めて素直に思惟され抱懷されてゐたのだ。彼れに於ては、人生そのものが、人生のすべてが、自然の儘に、よどみなく澄みきつた形で、素直に包攝されてゐる。

よほど素質の良い人でなければ、殊にああいつた場合、かういふ心境を持ち且つ示すことは困難であらうと思ふ。じたばたしたやうな、往生ぎわの惡さを聯想させる態度は微塵もない。かういふ方面の青年に兎かくあり勝ちな、あの場合いこぢに肩を張つて萬歳でも叫び出しさうな、惡びれた所もない。さうかと言つて、志士きどりの泰然自若とした厭味もなく、ただ、作意なく、ありの儘に、友を語り、花を語り、戀を語り、思ひ出を語り、人間そのものを語つて死んでゆく。すべてが如何にも自然で飾り氣がない。

かういふ人だから、たまたま強氣らしいことを言つても、それが負け惜みや、捨鉢の豪語や、てれかくしのやうには少しも聽えない。――監獄は別莊ではない。死に來る所だ。僕達の墓場だ、といふやうな言ひ方も、それが心の素直な人でないと、へんに肩を張つた理屈にこぢれてしまふのだが、古田君のは非常に美しく響く。

それに、死の瀬戸ぎわに立つて絶えず、自分の心境を省察し、分析して行くやうな、ゆとりある心の持ち方が奧床しいと思つた。――自分は宗教を信じないが、唯物論者のやうに腐體(1)の死と共に一切が壞滅してしまふとは思はない。肉體はなくなつても、自分といふのは、自分が愛し自分を愛してくれる人達の心に、長く生きてゐるのだ。だが、自分の心を靜かに觀察してゐると、さうした氣を起すのも、やはり死に對する恐怖そのものを和げたいためではないか、といふやうな心境分析も、言ひ知れぬ理外の理で人を打つ所がある。

兎にかく、この『死の懺悔』一卷は、私にとつては非常に感銘深い死生一線の自己告白であつた。これを藝術的立場から評價しても、不自然な死に直面しつゝある純眞な一青年が素直な囚はれない心境で、人生の眞實をさながらに刻み出した活ける記録として、永遠に紀念せらるべき極致藝術の結晶であらうと思ふ。

(七月四日夜)


底本:古田大次郎『死の懺悔』(春秋社、昭和三年十二月。改版・縮刷版) 初出:不詳

注記:

(1)腐體:ママ。

改訂履歴:

公開:2008/05/07
最終更新日:2010/09/12

inserted by FC2 system