更新日記

○5月28日(日)

十二回目:社会××××

かろうじて一ヵ月に一回は更新できたか……

ごぶさたしてます。ほんとーにご無沙汰でした。いや、つくづくブログを続けてる人は立派だと思いますよ。毎日毎日よくもまあ、書くことがあるもんです。ほんとうに日記を書くだけでもめんどくさいのに、ネタを考えて書くわけですから、いやはやとても真似できないものですなぁ~

今回は相も変わらず論想談の更新のみ。もう少し更新したかったのですが、諸般の事情で延長しました。それどころか、当初の予定ですと、今回は右翼関連、次回は時事ねた、その次は長文論文、その次にいやいや文芸関連ということになってました。併しまあ、もう、ねえ。とてもそんな余裕が無くなって、「談」から片づけることにしたわけです。

論想談の目次を御覧の方は、のこり尠く成ってきたとお思いかも知れませんが、全くその逆。論想談は論が一番長く、全体の半分以上を占め、その中でも未公開の部分に長文論文が集中してます。ですから、目録の見かけとは正反対に、本文以上、未だ未公開という状態なのです。

ですからこれからまだまだ長い道のりがあるのですなぁ……

そうそう、それと今回は公開中の幾つかの論文を更新してます。ただし更新記録は出してません。更新したのは、現行の漢字を旧漢字になおした部分です。実はこれ、かなり前の更新の折りに終わった積もりだったのです。ですから手持ちのWEB用のデータは既に更新されてるのです。ところが、最近自分のサイトに立ち寄って不備がないかチェックしてると……何故に新漢字が?という衝撃に出くわしたのでした。

どうも更新したつもりが、更新できてなかったようですね。多分、寝ぼけてたんでしょう。前も書いたような気がしますが、私は普段、内蔵固定記憶装置のサイトのデータを利用してますので、ネット上のデータは見ないのです。ま、更新後にチェックはしてますけど、そのときは眠たかったんだろうなーーーーー

ネットといえば、当サイトにはカウンターがついてます。誰も来るまいと思っていると、全くというわけでも無いのに駭いていたわけです。で、上記の件で折角自分で自分のサイトにアクセスしたので、リロード繰り返してカウンタの数増やしたろか……などとセコイことを考えて、且つ実践してみたのですが・・・・・・・駭いたことに一度カントされただけで、二度目は動きませんでした。確かカウンタを借りた時には、チェックの為に何度かリロードすると、その度ごとにカウントされた筈なんですけどねぇ。

もちろん、クッキーを削除すればカウントされるだろうし、そんなことしなくてもいったんブラウザを切るか、若しくは別の場所に行ってから改めて新規に訪れれば更新されるだろうと思いますが、さすがにそんなアホくさいことはしませんでした。しかし一寸した驚きでした。

以上……

と、今回はこれで終わってもよかったわけですが、折角ですので、私が最近……でもなくて、一月頃に知ったことを一つ書いておきます。実際には私の備忘録程度の記事になりますけど、お暇ならちょっとおつきあい下さい。

山川均さんの自伝に『山川均自伝―ある凡人の記録・その他』というものがあります。弟子なのかどうか知りませんが、『資本論』翻訳で有名な向坂逸郎さんと、山川さんの奥さんの菊栄さんが編纂したものです。資料を肆ままに閲覧できる権威ある学者は兎角、普通の人が山川さんに興味を持った場合――私の身近には誰一人いませんでしたけどね――多分、この本を手にとって読むのではないかと思います。岩波書店から出てましたけど、恐らく今では古本でないと手に入らないと思います。こういう人々の自伝というと、堺利彦が未完ながら存在し、大杉栄もあったように思いますけど、一番有名なのが、荒畑寒村の『寒村自伝』だと思います。〔寒村のものが何故有名なのか、〕理由は知りませんが、岩波文庫に入っていて、比較的手に入れ易いのが一番大きい理由のような気もしますけど、まあそれはどうでもいいのです。

勿論、わざわざこのサイトで山川さんと荒畑さんのことを論ずるのが目的では全くないのです。ですが高畠さんと山川・堺両氏が袂を分かった時のことを知ろうとすると、上の自伝類に書かれてあることを中心に考えざるを得ないのです。で、〔売文社の決裂の真相?につき、〕荒畑寒村のものだったと思いますけど――『寒村自伝』はみんなが買っているという噂を聞いたので断固として買わなかった為持ってません、ですから今は確かめようがない――高畠さんは当時のことを自分に近い人間にも話さなかったそうですから〔、そんなわけで高畠さんに敵対?する人々のものを使うのも、やむを得ないわけです。〕まあ〔とはいえ、同じような話しを、〕高畠さん方面でいうと、尾崎士郎の『逃避行』というの〔に〕も〔書いて〕ありますが、これはあまり一般の図書館には置いてないので、都市圏以外に住んでいる人間には読む機会の余りない本です。

……だいぶん話しがそれましたが、本当に言いたかったのは、『山川均自伝』の中に出てくる、「しかし翌六年、高畠君が『社会××××』という小さな本を書き、さいわいある本屋が出版を引き受けてくれたものの、標題に「社会」という文字があったのでは、というので堺さんと三人で評定をしたあげく、もうここらで発売禁止を覚悟で冒険してみようということにおちついたほどだった。(358頁)とある中の、『社会××××』という本は一体何だったのかということなんです。

本には「ママ」とありますので、原稿にもそうなっていたのでしょう。『社会××××』の×の数からいうと、四文字のような気もしますが、まったく無関係にテキトーに×を着けただけの可能性も大きい。併し高畠さんが大正六年段階で「社会××××」なんてものを書いたというのは初耳です。気になるのは「修養講話青年実訓」、別名「ダイアモンドの土地」が同年に出版されてますから、これのことかとも思いましたが、流石に話しが離れすぎてますので、やっぱり分らず終いだったのです。

ですが最近……でもなく一月頃、高畠さんの社会時評を調べる為に『太陽』という雑誌を調べた折り、山川さんの「社会主義運動小史」という文章に出くわしました。正直、中味には全く興味が無かったのですが、何となく高畠さんとの関係部分を調べてみると、「大逆事件の後は、『社会主義』といふ言葉を用ひることさへも困難であつた。そこで大正七年に高畠の『社会主義と進化論』といふ著述を刊行する際にも、非常な冒険のつもりでこの標題を選んだほどであつた。」(弟33巻弟8号)という文字があります。年代に齟齬がありますが、前後の文脈からして多分これだろうと思います。

私は別に感動屋ではありませんから、あぁこれのことだったのか、で終わりましたが、兎にかくそういうことでした。しかし『社会主義と進化論』なら、『社会××××××』として欲しかったです。そうすれば分りやすかったのに。でもこの本は大正八年なわけですが、随分前から計画されてたようですね。六年という年限はともかく、堺・山川・高畠の三人で話し合えたわけですから、そのくらいの時期でしょうし。

大袈裟に話しを振ったわりに、しょぼい終わり方になってしまいましたが、今回の話しはそんな所です。次回は高畠さんの写真は何枚公開されたか、という話しでもしようかしまいか、しないだろうなぁと思いつつ、今回はこれでしまいです。

次回の更新日時は未定ですが、できるだけ早めに更新できるようにします。なので、たまには来てみてください。お終い。

*〔〕内、6月4日補入。

○4月30日(日)

十一回目:製本

実は大変イライラしてます。理由は簡単ですが、暫くそのままおつきあい下さい。

ご無沙汰してます!何とか四月中に二回更新できてよかったです。思わず、最近身辺多事でして、思うように校正できない次第です。誰も気にしてないと思いつつも、たまに自分でここにやって来ると、カウンタが増えてたりしますから、どなたか気に懸けて下さっている御仁もいらっしゃるようです。ありがとうございます。感謝に堪えません。何卒、末永く気長に見守って頂きたく思います……といいつつ、何時消えるか分らなかったりするところが心許ない。

扨、今回はデモクラシーと議会に関するものを更新してみました。他にも無産政党とか右翼方面の話しもあったのですが、これはまた纏めて更新できればいいなと思っています。この方面の話しも、高畠さんは中々おもしろいことを言ってますが、そう言う話しをしているときりがありませんから止めます。でも一つだけ、確認事項を。

『論想談』の論の最後に、「議会政治の正体と将来」という論文があります。この最後から二段落目の最後の件に次のようにあります。

表面の少數政治が擡頭して、議會政治を無殘に破壞する。

この「表面の」というのが、「表面に」の誤植かもしれないと思い、少々気にしておりました。なかなか面白いことをいうので気に入っていた文章なんですが、如何せん、誤りがあったとあってはちょっと様になりません。そこで何とか初出を調べてみましたが、運良く間に合いました。結果から言うと、「表面の」のままでいいようです。(初出は『経済往来』にあります。後の『経済評論』のことですね。初出一覧をご覧下さい。宣伝!)前から気にはなってましたが、疑問が解けて一段落という所です。

で、今回はその話しではなく、今まで書こう書こうと思いつつ、ついつい書きそびれてしまっていた話しをしたいと思います。そう、製本の話しです。製本というのは、なかなか道具がないと難しく、道具があっても、いざ作ってみるとなかなか思い通りにはいきません。そもそも日常から出来の良い本をしょっちゅう目にしているわけですから、自分の手製のものなどは無様すぎて見る気になれないのです。

しかしここで道具といっているのは、何も製本そのものの道具ではなくて、ソフトのことです。かくいう私もInDesignを使っていますが、なかなか巧くいかないことが多くて困ります。特にスタイルなどの経験のいる作業は、とてもとても私がやってしまうと、自動よりも不細工になってしまって、悲しい限りです。

とはいえInDesignを使っているのは趣味のようなものですから、それは構わないのです。しかし高畠さんの本をテキスト化して、本にしようと思った場合、どうすればいいか?まさか自分でつくって製本屋に持っていくような無意味な真似はしてはいけない。第一、スタイルが巧くいったとしても、そしてInDesignを使っている時点でそれなりのフォントを用意していたとしても、紙が問題なのです。そこらへんの紙を使ってしまうと、目がちかちかして読む前に別の所に神経を使ってしまう。

そこで結局、どこかの印刷屋さんを捜すことになるのですが、これがなかなか結構なお値段で。しかも50部以上とかなんとかおっしゃってまあ……だれが一人で同じ本を50部も揃えるんだ!と思いつつ、まあ商売だから当り前かと思って居りました。

併し世の中には自分で本を書いて、自分で読もうという奇特な人もそれなりにゐるらしく、最近のオンデマントの普及と相俟って、なんとか頼める値段で印刷してくれる所が見つかりまして、私も希に利用してます。ここ。(怪しい所ではないです。でも気になる人は行かないように。……こう書くと行きたくなる~)

商売しているくらいだから、勧められて文句をいうことはないと思うので、挙げておきます。とはいえ、余り細かいことは書くと商売の妨害だと言われても困りますので、大雑把に言っておきますと、利用しているフォントもなかなかよく、紙質も決して悪くなく、値段も『自己を語る』くらいの量だと一冊三千円ていどなので(一冊しか印刷しないということです)、まあどうしても欲しい場合は、印刷所で何万も出して何十冊もするよりはお手軽です。便利な世の中になりましたな~

あとわす……

ここで本題にもどる。何故に私がイライラしているか。それはここでいきなりソフトが落ちて、これ以前のデータが全部消えたからです。……しかもそんなに書くつもりがなかったので一々上書きしてなかったものですから、結局以上の文章を二度書くことになってしまった!!で、あとどれだけで終わりだったかというと、見ての通りです。

あと忘れてましたが今回はもう一つ更新があります。これ!というほどではないですが、『自己を語る』のhtml化をしてみましたので、宜しければご覧下さい。何かご希望があれば(1ページが短すぎるとか)、メールでもどうぞ。ご期待にそえれば頑張ってみます。

それでは今回はこのへんで。また次回にでも!

○4月10日(月)

十回目:修正主義

前回は失礼しました。すっかり忘れてまして、気付くと今日でした。人間、忙しいといろいろ忘れますねえ~(年だという話しは聞きたくない)

そういえば、前回の日記を読むと、どうも頭がバカになってたのか、もともとアホウなのか、意味不明なことが書いてますね……記念に残しておきますけども。それと前回はつまらん日記に時間を費やしたために書き忘れましたが、「モガ・モボ」とは、モダン・ガールとモダン・ボーイの略称です。ここに尋ねてくるような人が知らないとは思わないですけど、全然関係ない所から飛んで来る人もいますしね。一応の解説――正確には換言か――だけでも。

とまあ、いきなり話しの腰を折ってしまいましたけど、今回は更新が遅れた揚句、新しい論文も殆ど無く、読者諸賢の期待に添えず申し訳ない。(もちろん誰も期待してないのはわかってます! かたちだけ、かたちだけ)

扨、更新が尠いというのは私としても余り面白くないわけですが、今回はそうでもなかったりします。実はこの「マルクスの不滅性」というのは、私にとっては思い出深い短編なのです。この雑文を読まなければ、高畠さんの文章をテキスト化などという馬鹿げたことは、絶対しなかったでしょう。第一、真っ先にタイプしたのも、この雑文なのですから。これ以外にも、例えば『自己を語る』の偏局哲学(道は中庸になし)なんてのも好きなんですが、やはり私が高畠さんの文章の中で一番を挙げるとすれば、この「マルクスの不滅性」でしょうね。

でも弁解しておきますが、私は高畠さんがマルクスを不滅だといったとかいう意味で、この雑文が好きだというのじゃないですよ。そこの所は断じてお間違え無きように。私が好きなのは、彼の次の文章です。(いい所を太字にしようと思ったら、全部太字になったので止めときます)

この生命は彼れの學的實感の強さ鋭さから來てゐる。彼れは單なる組み立ての雄ではない。社會人生の生きた現實に對して、錐の穗のやうな實感力を有つてゐた。そして、この鋭い實感力に觸れた現實の生命は、直ちに彼れの鋭い直感的推理を通して尨大なる學的構造の鎔爐のなかに流し込まれる。彼れの偉大さは試問(フラーゲシユテルング)の急所にあるのだ。必ずしも、問題の解決案そのものにあるのでない。彼れの提出した學説的命題は、時間の齒にかかつて磨滅することもあるだらう。けれども、彼れの捉へた問題の急所は、永遠に腐滅することがないと信ずるのだ。

高畠さんはむかし修正主義者と呼ばれてたこともあったそうですが(最終的には反動派と目されたそうですね)、これは典型的な修正主義者の考え方でしょうね。とはいえ、私は彼が、マルクスの諮問の急所を掴み(掴んだと思った)、それを彼自身の直感的推理を通して、学的構造の溶炉に流し込み、社会人生の生きた現実に立ち向かった、そのことに感銘を受けたわけです。高畠さんとしては、国家社会主義なる、社会主義の一つ――と本人は思っていたらしい――に属していたつもりだったようです。しかしその社会主義なる立場を支える理窟や物事の考え方は、彼自身の頭や実感であって、そこから主体的にマルクスに挑んだために、例の国家社会主義に進んだのでしょうけども。社会主義はどうでもいいですけど、やはりそういう、誰かの頭を藉りず、自分の頭で考えようとする態度は、なかなか共感するものがある。とかく知識人は何故か借り物が偉いと思ってる風な人がいますからね。

そうそう、ことのついでに言っときますと、高畠さんは国家社会主義のことを、急進愛国主義(急進主義=愛国主義のことで、急進的愛国主義ではない)とか、無産愛国主義とか、色々な名称を挙げてますが、彼の主観からは何れも同じ国家社会主義のことだそうです。例の有名な、国家主義者は社会主義者でなくてはならず、社会主義者は国家主義者でなければならないとかいう、あれです。

脱線ついでにもう一つ書いておくと、高畠さんは自分を社会主義者だと思ってますけど、社会主義は共産主義とは違いますので。彼は共産主義(ロシア共産主義)のことは、赤色帝国主義と罵倒して、ロシアは帝政の時代から一貫して帝国主義を取っていたと言い放っています。勿論、日本が大好きな彼としては、ロシアの植民地になんぞなりたくないわけですから、共産主義には徹底的に反対するという事になるのです。確か共産主義の主義とか思想そのものには面白味を感じるけども、現実的には単なるロシアの帝国主義の思想版だから叩かないと駄目だというのが、彼の主張だったと思います。(出典は忘れた。悪しからず)

とまあ、とりとめもなく思いつきを書いてしまったので、何が何だか分らなくなってきましたが……取り敢えず、「マルクスの不滅性」が一番好きだという、個人的な話しでした。もともとたいした頭でないくせに、先週くらいから疲労困憊で、どうも頭が日常的にパンクしてるようです……

最後に更新したものを列挙しておかないと意味がない。ということで、先ず社会時評のいくつか。次に『新小説』の最初のもの。それと初出一覧を少し改訂更新。もう一つ著書の備忘録も一部改正。『財産と進化』を改訂しようと思っていたのですが、どうも違う所に目がいってしまって、主眼の筈の『財産と進化』は手を着けられませんでした。『財産と進化』を改訂しようと思ったのは、最近になって大鐙閣版の『財産進化論』を手に入れましたので、それと新学説体系の『財産と進化』を比較しようと思ったのです。大体同じようでしたけども、まだちゃんと見てませんので、その内にでも改訂します。

ええ~と、こんなものですかね。社会時評は時代物ですから、当時のことに興味がないとか、場合によっては知らん!と言う人は面白くもへったくれもないでしょうが、ちゃんと読んでみると中々どうして、深い指摘がなされてますので、是非ご覧下さい。もちろんその場合は、学者チックなものを求めて読まれない方が時間の浪費に成らずに済むと思いますけども、それはどうぞ御自由に。

それでは今回はこのへんで。

○3月27日(月)

九回目:拝金主義

漸く論想談の校訂を始めました。取り敢えず中をとって、文芸的なものから始めてみました。藝術の唯物史觀、無政府主義論、そして現代人心浮動の社會的必然性です。文芸時評と鬼面芸術(芥川さんの死についての話し)、文壇社会学が残ってる~まだまだ難関はこれからです。

扨、前回の言葉をたちどころにひる返して、今回は社会時評なる枠を設けて、短文を二つほど更新してみました。もちろん裏を掻こうとかそういうセコい考えからではありません。最近読んだばっかりだったのですが、思わず大笑いしたので、このページにわざわざおこし下さってる人のために、公開しようと思っただけです。彼は社会時評の名手として、当時(晩年の昭和初期)有名だったわけですが、大正の中頃からそういうことをしていたらしいですね。白柳秀湖の出していた、『実生活』という雑誌がありますが、このなかには高畠さんの社会時評も多数掲載されているそうです。ただ残念ながら私は『実生活』そのものを拝見したことがないので、どんなものかは知りませんが。(その中の二三は当時の人の引用で見たことがありますけども)ちなみに今回の社会時評で何が面白いかというと、もちろん二番目の方です。敢えて細かくは書きますまい。

最近は、中国との関係が取りだたされることが多いですね。ここ数年来、特に去年あたりから、中国との関係―経済のね―が重視されるようになったため、日本と中国の文化の相違なんてものが話題に上ることが多くなってきました。中国のみならず、それなりの文化を育んできた国や地域であれば、差異があって当然なのですけど、それについて最近面白いことを聞きました。今更耳タコのような気もしますが、それは次のようなものでした。曰く、中国は拝金主義で、日本は和を尊ぶらしいと。彼等は云ふ――

日本人は組織に忠実で、ちょっとやそっとの賃金の差では、旧来の居所を保守するし、それを美徳と考えている。それに対して中国人は少しでも自分に有利な待遇が約束されると、積極的に旧来の関係を平気で断ち切って、そちらに乗り換える。と、要するに、日本人は調和的で消極的だが、中国人は積極的=拝金的だというのだ。

勿論、ここで中国人にも色々いるとか、そんなことを言うつもりはないですよ。流石にそんなことくらいは、言った方だって分ってるでしょうから。ここで眉を顰めるのは、その拝金主義という考え方。中国人は拝金的だという連中に聞いてみたいのだが、では何故日本人は調和的なのか、何故調和を重んじるようになったのか。

日本人が調和を重んじる理由、それは多々あるであろうけども、しかし突き詰めて仕舞えば調和が最終的な利益を自己に齎して呉れるからではないか。日本のように、こじんまりと生活している人間にとって、和を乱さないのは最も有効な保身術であり、拝金方法ではないのか。たいして能力もない、或は結構な能力があっても、一度失敗すればそれで終いな国なのだ。なら失敗半分の危険事に首を突っ込むよりも、黙って堪えて金を貯める方が、よっぽど得じゃないか。それこそ徳ってもんじゃないか。そんなら、中国が冒険的で拝金的なら、日本はこそ泥的で拝金的なんじゃないか。

こんな日本的なこと自体も、既に敗戦後に生れた価値観に過ぎないものが余りに多数あることも、悲しい現実であるかもしれないけども。

とはいうものの、私は日本が好きですよ。逆に中国を贔屓目に見なければならぬことを生業としている人間でもない。ましてこんな日本語を書いてる人間なのだから、日本が好きなのは当然なのだ。併しだからといって、自分の醜悪を棚に上げて人を譏る気にはなれない。日本をよりヨリ善くしようというなら、大賛成。併し自分の醜悪には目を瞑って、それで他人をとやかく言うのは、あまりにお目出度い話しだ。

尤も、こんなところで書いていながらこういう事を云うのもなんだが、海外の人間に向かって、日本を誉めるのに少しの躊躇もないことは、改めて云うまでもないことではある。

あ、そうそう、初出一覧も少し改訂しましたので。

○3月19日(月)

八回目:可及的急速に

……やってしまったか。

というのが感想です。『批判マルクス主義』は何を血迷ったのか、今回の更新で完了しました。誤植は絶無、と云いたいですけど、多分それはないでしょう。とはいえ、一ヵ月くらいかけてのんびり更新しようと思っていたにも拘らず、終わってしまった。

資本論解説と違って、こちらは短い論文の集まりですから、読んでいても苦痛じゃないし、何より分量が圧倒的に少ない。なので、ついつい寝る前の校正に力が入り、夜更かししながら終わらせてしまったのでした。いや、ねえ、完成させてもちょびちょび更新すると言う手もあるんですけど、何分そういうのは出来ない質のようです。他人のそんな話しを聞いたときは、私なら絶対そんなことはないね、と高を括って(?)おったわけですが、いざとなると自分自身も同じことをしていたという、よくある話しです。

とは言え、流石に分量的に圧倒的に多い論想談はこうはいかないでしょうね。正直な所、論想談がこんなに簡単に進んでくれるのなら、もっとはやくに着手したはずなのです。それがちんたらちんたらして、結局のびのびになったのは、他でもない、興味のない文章が三分の一くらいあるからです。何が興味がないか……勿論、文学の話し。雑文とか世評とか、右翼左翼批判とか、国家社会主義とか、こういうのは私は好きなんですよね。経済とか政治の話しならなお宜しい。両性問題も、ま、悪くはない。併し文芸の話しはどうもねえ、全く興味がない。

菊池寛みたく、政治家にでもなろうという話しなら別段、ほんとーに単なる文芸家さんは、読むにたえん。念のため断っておきますけど、文芸家にケチをつけてるわけじゃないですよ。私の興味が全くそこにないという意味です。ですからねえ、文芸なんたら時評とか、なんたらを読むとかいうたぐいのものは、タイプしているときからイライラしてましてね、それがやっと終わったのにもう一度読まないといけないとなると……気が遠くなる。

そう言うわけですので、次回は論想談の更新の筈ですが、嫌なものは真っ先に抹殺すべく文芸関係から始まるか、或は嫌な者は最後に廻すということで政治の話しか。それとも無関係にてきとーに更新するか、どれかですね。あたりまえか。

なぜか無性に眠たくなったので、このへんでおわりますー小夜奈良。

○3月13日(月)

七回目:資本論解説

今回で資本論解説は終了。(もしかすると高畠さんの序文を一回くらい改訂する可能性はある。)予定にはなかった福田徳三さんの序文を加え、且つ初版本以来の高畠さんの序文も挿入したので、少し長めになりました。ともあれ当初の目標だった資本論解説のテキスト化が終了して一安心ですな。

当初、私としては資本論解説ではなく、高畠さんの資本論の方をテキスト化しようと考えてました。ただ、まあ、ねえ~。例のあの長さをタイプするのが面倒なのと、資本論解説の方が幾分意味もあるかと思い(無論無いとは思っている)、結局こちらにしたわけです。ホームページに資本論の第一章があがっているのは、その名残です。尤も第三章の三分の二くらいまでは終わってるのですが、如何せん続きをする気になれない。

資本論解説は折角完成したので、pdfファイルにして圧縮をかけて置いておこうかと思ってます。A4かA5か迷いますねえ。紙ですよ。私はA5なんてのが好きなんですが、用紙があまり売ってないので、そこが便利の悪い所ですね。でもでも、資本論解説のpdf化はいつになるかは不詳です。余り期待しないで俟ってください。誰も期待してない、とは云わないように!

そうそう、資本論解説だけではなくて、今回は溜まっていた著書の解説めいたものを更新しておきました。へんてこりんな凡例をややましにして、それから余計な初出部分を省略しときましたので、宜しければご確認を。初出部分を削除したのは、別に初出一覧を作ったからです。ですので、一覧に出ていない、マルキシズムと国家主義は初出を残しています。ついでにマルクス経済学の方も手を入れておきました。福田徳三さんの絶賛(!)があったそうですけど、私はどっかで立ち読みしたくらいで、手許にないので今は何とも申し上げられないです。あ、記事は『改造』です。高畠さんが死んでからですけどね。

批判マルクス主義は手を加えて、pdfからhtmlに変えました。pdfの方が私は楽なんですけど、他ならぬ私が使おうとしたとき(偶然別の場所からネットで開いたのでした)、余りに面倒なのでhtmlに変えることにしました。論想談の方もそのつもりで作製しますけど、自己を語ると幻滅者の社会観、マルキシズムと国家主義はどうしたものでしょうねえ。ま、暇なら考える……というのは絶対しないということなので、保留程度に留めておくことにしましょう。

併し批判マルクス主義は厄介です。急進という高畠さんが主宰してたような雑誌があるのですが(大衆社から出た津久井さんのとは違うもの)、私はこれを見たことが無いので、初出の年代が断定できないのです。備忘録にも書いてますが、高畠さんが編集した時期と、所収論文の時期がずれるので、再編集するには便利の悪いことこの上ない!足を使えと謂われそうですが、今のところその予定がない。というか、したくても出来ないのが現状です。尤もあの高畠さんの序文、信用できるのですかねぇ。いや、小栗さんが嘘を書いたというのではなく(多分ケアレスミス――第一篇第九章のこと――はあると思うが)、高畠さん自身、編輯し終わってから、もう一度書き加えたとかいうことはなからうか。かういふ版本とか初稿(?)と完成稿とかの違ひは、モノを見たならば一目瞭然といふのが多いですから。

高畠さんの編輯ということで、最近知りましたのでことのついで一つ。例のマルクスの価値論のことです。むかし小泉さんと山川さんの価値論争が日本で起った時、高畠さんも参戦して論文を書いてます。それが「マルクス価値説の矛盾」なる論文です。内容は省略しますが、ここで高畠さんは標準労働時間が市場を抜きにして成立し得るか否かを提言して、以後の価値論争にそれとなく影響を与えたと謂われてます。これは戦前の定説となった櫛田民蔵氏の説が出て、ひとまず価値論争――この部分の――は終わる筈なのですが、高畠さんは納得したのかどうか。ま、マルクスさんも価値論争それ自身も、それはどうでもいいですが、高畠さんが決着を付けたのか否かは疑問が残る。批判マルクス主義は大正十四年の編纂ですから、その時点で疑問があっても、以後には解消された可能性もある。高畠さん本人が『批判マルクス主義』を再編集したなら、「マルクス価値説の矛盾」一篇は破棄したかもしれない。現行本に載っているということが、高畠さんの定説だとは断定できない。

そこで思い出したのが春秋社なる出版社から『大思想エンサイクロペヂア』という大型叢書。この叢書は、最後の冊いくつかが辞典になっております。この中、『経済辞典』というものがあり、高畠さんも大分世話をしたらしいことが序言の中に触れられてます。で、この中の價値論(項目は忘れた。ゴメン!)の所を見ると、小泉信三、山川均、河上肇、高畠素之、櫛田民蔵など諸氏の名が列挙されてます。これらを読めとのことだそうですね。とすると、彼は自身の絡んだ価値論争がその後、どのように進んでいるかは勉強していたということになる。(勿論高畠さんが辞典に目を通していなければ意味はないが、他ならぬマルクス関聯の、しかも自分の論文が関連する部分に関わらない筈がない……だらう。)

とはいえ、『マルクス十二講』の改訂版として出版された『マルクス学解説』。これは昭和三年の六月に出版されてますので、まず高畠さん最晩年。(昭和三年十二月二十三日に亡くなるので)この中の價値論の所は、やはり標準労働時間の疑問を改訂せずに残してます。と言うことは、やはり高畠さんは最後まで標準労働時間は市場なしには成立しないと考えたのでしょうかね。辞典は公平に作ったのでしょうか?ま、高畠さんは『社会問題辞典』もそうですけど、そういうところでは結構公平な人ですから。この点、戦後に彼の評判が著しく悪くなって以後とは違い、戦前の昭和二、三年頃の評判は、寧ろ頗る良かったりします。主義に対しても盲信しない点とか、公平だとか謂われてますね。これはまたいつか紹介したいような、出来ないような話ですけども、時代の移り変わりは面白いものです。

扨、今後の方針としては、取り敢えず批判マルクス主義と論想談とを並行して終わらせていこうと思ってます。勿論両方ともタイプ済みなので、校訂作業を進めていくという意味です。

思えば論想談は始めにタイプを完了した著書でした。比較的早くに手に入ったので、喜び勇んでタイプしたものです。……でもそのお陰で間違いの多いこと多いこと。ま、兎に角そういうことなので、手許にタイプを終了している英雄崇拝と看板心理、欲望の研究なる二論文以外は、久しく更新できませんのでそのつもりで。

忘れてましたね、さよなら辻潤も更新したのでした。さよならといっても、辻潤が死んだということではなくて、彼の洋行が決定したので、そのお別れに関係者諸賢の一文をどうぞということです。さよなら辻潤という標題は高畠さんのものではなくて、雑誌の見出しです。

それでは今日は忙しいのでこのへんで……の割りにはいつもながら無駄に長い。

○3月6日(月)

六回目:回想記

……日曜日の深夜に更新するつもりが、最近は月曜日の深夜となりつつある。あと一二回すれば火曜日になるかも。

近藤憲二さんの本でしたか、高畠さんは時間に厳しい人だったとか。近藤さんではないですけど、確かに自分に出来ないことがちゃんとできる人は気持ちいいですね。がらにもなく。

扨、今回の更新は二つ。一つ目は『資本論解説』第三篇の前半部分と福田徳三の序文。あと一二回で終わりたいところ。そうそう、漢数字をアラビア数字に直すのは、思った以上に面倒なことでした。んで、福田先生のはそのまま漢数字を用いておきました。

完全な経済的問題の場合は、横書きの場合は漢数字よりもアラビア数字の方が読みやすいわけですが、原本を翻訳してる人も序文を書いてる人も、縦書きを前提に文字を用いていますからね、どうしても縦書きでないと気持ち悪い漢数字の用い方が目立ってしまいますね。とはいえ、部分的にアラビア数字を使うのも、気持ち悪い気もしますし。

二つ目の更新は、白柳秀湖の「哲学者の槍さび」。高畠素之の追悼文みたいなものです。これは大幅に増補されて、『高畠素之先生の思想と人物』に収録されてます。題名も「社会時評の兄弟分」となってますが、骨格は「哲学者云々」と同じです。ただ二三、文句めいたことを書いてたりしますけど。

回想記ではないですけど、人物論のような形で高畠さんの生前に幾つか出てますね。伊井敬(近藤栄蔵だったと思ふ)の「高畠素之論」(これは大杉栄とか山川均とかいふ人々の評論と同時に発表されたもの)が『解放』に載ってる外、同じ『解放』(第五巻第二号)同人の岡陽之助(岩沢巌のこと)に「高畠素之」なる一文がある。彼には『日本社会運動史』(同じ解放社から出た)があって、国家社会主義の動向についてその第四篇第一章にて書いている。もう一つ、『経済往来』第三巻第十号に「高畠素之論」が出ており、これに対して同じ『経済往来』第三巻第十二号に、「高畠とXと堺」なる堺利彦の文章がある。『経済往来』の「高畠素之論」は紙面に依ると「人物評論(19)」の一つのようですけど、著者はXYZ氏でよく分からない。人物評論を担当していたようですけど、見た限りでは他の部分もXYZでしたね。堺利彦は「Xとは誰か。少し注意ぶかい諸君には分つて居るだらう。」とあるので、その道の人が見れば誰なのかはすぐに分るようですね。私も少し考える所はありますけど、何分専門家でもなんでもないので、恐いから書くのは止めときます。因みにこの「高畠素之論」は叙述が細かいですけど、基本的には国家社会主義の立ち上げまでを詳述してまして、右傾化以後の高畠さんに対してはさらりと流して、雑誌の名前を挙げてるくらいに止めてます。それから宮島資夫(宮嶋資夫)さんの「社会主義運動の現状」(『第四階級の文学』。私が見たのは『宮嶋資夫著作集』第六巻)や、尾崎士郎さんの『逃避行』にも載ってます。併しこれはまあ触れ出すと切りがないので逃げときます。因みに尾崎士郎さんは、初期に高畠さんに世話になった人です。『逃避行』はいろいろあって再版されなかったようですね。(古本屋で恐ろしい値段で売ってるのをみたことある)でも似たような話が『著作集』(『全集』だったかな?)に入ってますので、それでもいいのかな。その他、高畠さんの人物論にはあと一つ二つあるようですけど今は省略。

回想記はここにあげた堺利彦と白柳秀湖の他にも幾つもあったようですね。『高畠素之先生の思想と人物』はたくさんの回想記が入っていて便利です。それ以外にも、『祖国』(祖国会。北昤吉さんの主宰した雑誌)にも「論壇・文壇の逝ける二明星」と題して、大木雄三と津久井龍雄両氏の文章が載ってます。大体、『高畠素之先生の云々』と同じようなものです。ただ『祖国』の方は、十二月二十六日の日付(昭和三年ですよ)が入ってるだけあって、津久井さんの文章は特に感傷的ですね。何せ二十三日に高畠さんが死んだばっかりですから。併し『高畠素之先生の云々』は有名な人の回想は沢山入ってるんですけど、高畠門下と称された人のものが余りないのが不思議ですね。理由は知りません。

今一つ、高畠さん没後三年目に『急進』第二巻第十一号(第三次。津久井さんたちが運営していたもの)に「高畠素之追想記念号」と銘打って、関係者の「その頃を語る」、「回想記」と「座談会」があります。回想記は大半が『高畠素之先生の云々』に入ってるものですけど、異同もありますね。山川均さんの一文が入っているのも特徴です。あと娘さん(名前は伏せときます。いや、まずいことが起るからじゃなくて、名前を出して活動してた人とは違うでしょうから、出すのが憚られるだけです)の一文があります。『急進』には高畠さんの遺文を掲載してたりした様です。全部を見た訳じゃないですから断定できなひですけど。遺文というと、『日本社会主義』と『国家社会主義』(何れも日本社会主義研究所。津久井さんとか石川さんが関係していたもので、高畠さん生前の『国家社会主義』とは違います)の外、『進め』なんていう雑誌にも載ってます。

もう一つ、敗戦後に『新勢力』とう雑誌から、「高畠素之の思想と人間」という特集が組まれました。関係者の他、学者の論文も載ってます。他にも敗戦後じゃないですけど、津久井さんの『日本国家主義史論』とか、戦後に出た同氏の『私の昭和史』あたりにも載ってます。他にもあると思いますけど、戦後のものはちょっと後回し。

……調子に乗って書いてると、随分無駄な文章が……と思ったらもう火曜日?。

○2月27日(月)

五回目:新自由主義

今回は『資本論解説』の更新のみ。漸く第二篇まできましたね。後は第三篇のみ。分量的には第三編の方が第二篇よりも短いので、何とか来月中に終わらせたいものです。そうそう、何も今から第三編をタイプしようというわけではありませんよ。勿論。タイプは一二ヶ月前に終わってます(福田さんの序文を除いて)。今は校訂作業中です。この『資本論解説』は直接タイプしてます。基本的には直接打ち込んだテキストの方が多いですけど、『幻滅者の社会観』とカウツキーの翻訳三編はOCRで読み込んで見ました。間違いが非道すぎたのと、意味の分からないミス(字形の近い?誤字)が続出したので、結局今は打ち込みの方に変っています。

それと前回は何か引っ掛かりを覚えながら更新しましたけど、「新自由主義」について書いておこうと思って忘れてました。

新自由主義。勿論これは昨今のneo-liberalism(”-”は要るんだっけ?)とは違うものです……まあ広い意味では同じでしょうけど、高畠素之さんの所で出て来ている新自由主義とは時代的意味が違います。

ここで云う新自由主義というのは、上田貞次郎さん(1879~1940)が提唱したものです。それは『企業と社会』なる雑誌を創刊して宣言したものですけど、下のものが上田さんを語る時によく引っ張られてますね。

学者は実際を知らず、実際家は学問を知らず、政治は産業を離れ、産業は社会に背く、是実に産業革命の波濤に漂へる現代日本の悩みではないか。吾人は此混沌裡にあつて、企業より社会を望み、社会より企業を覗ひ、眼前の細事に捉はれず又空想の影を逐はず、大所高所より滔々たる時勢の潮流を凝視して、世界に於ける新日本建設の原理を探らんとする。吾人の悪む所は虚偽と雷同とであり、吾人の戒むる所は煩瑣と冗長とである。吾人が訴ふる所の読者は純真にして且聡明なる満天下の青年識者である。

上田さんの『企業と社会』の冒頭に掲げられた「宣言」なんですけどね。もちろん原文は旧字です。ここは『上田貞次郎全集』第七巻より取ってます。かっこいい文章と言えばそうだし、宣言に反して煩瑣と冗長な感じがするといえばそういう気もするんですけどね。

大正十五年の四月に『企業と社会』が創刊されて、本格的にこの新自由主義を提唱したらしいですけど、自立的な個人による自由主義というか、国家の干渉は認めないではない自由主義というような感じでしょうか。本式の解説は『全集』同巻の解説などを参照してください。

この新自由主義は中々流行したらしいです。同年の『中央公論』六月頃には、「新自由主義の提唱」(だったと思ふ)を書いて注意を喚起してます。それで『改造』でも十月(第十一号)に特集を組むことになって、高畠さんのところに依頼に来たというものらしいですね。本文中にあるように、高畠さんは新自由主義を知らなかったそうです。

『改造』の第十一月号には「『新自由主義』批判」と題して、新自由主義の特集(合評)が組まれてます。大森義太郎の「たちの悪いカリカチュアだ」に始まり、高畠さんを挟み、新明正道の「自由主義の終期」、そして上田貞次郎氏その人の「新自由主義と私」、堀江帰一の「新経済政策の基調如何」と続きます。前の三人は批判です。大森さんが左派の代表、たちの悪い文章を書いてます。高畠さんは何か知りませんけど、新明さんはちょっとセンチメンタルな批評です。上田さんと堀江さんは学問的な文章です。

本当は上田さんの『全集』を使って高畠さんの引用文を正そうと思ってました。が、上田さんの論文を読み終わると、何故かそのまま図書館に返却してしまったので、調べられませんでした。返してから気付いてのですけど、もう一度借りる気にはなれなかったので、そのままです。なんとも馬鹿なことしました。

まあそれだけなんですけどね。忘れないように書いておこうと。因みに上田さんは東京商科大の学長です。今の一橋大学ですね。

おわり

○2月19日(土)

四回目:少数派

どーでもいいし、今更調べても意味ないんです。でもちょっと気になる、知っておく必要がありそうだという時、調べずにはおれないときはありませんか?

私も高畠素之を調べて、その著作を読んで、何か御利益があるとは到底思えない。けど何か引っ掛かるし、何か傾向的なもので共感するものがある。自分でいうのも何ですが、こういうどうでもいいページをつくったのはその為です。ところがこういう少数派はとかく調べるのが面倒で困る。

高畠素之はそれなりに有名なお陰で、少ないとは言え評伝もあるし、大学に通える人なら、論文なども少数ながらある。同じ系統の有名人でも堺利彦は全集もなく(全集と名の付くものはある)、外にも著作集も目録も評伝もない人が沢山いますから、高畠素之は恵まれてる方かも知れません。でも、それでも困ることがあるんです。

それは高畠素之を知ろうとすると、どうしても誰かの高畠素之観で知るしかない。勿論、研究者の見解は信用できないという意味じゃないですよ。ただ研究というのは、テーマに向かって進めるものです。ですから、全く同じ分野の二人の研究者が、全く同じ資料を使って論文を書いても、且つ二人の研究者の研究が正しくても、全く違う答えが出て来るものなのです。

私が高畠素之を調べる必要を感じた理由はともかく、とにかく一寸読んでみたいと想った時、幾つかの研究は私の興味の外にありました。資本論の翻訳の争いやマルクスの理解がどうであろうと、私には興味のない話しで、ハッキリ言う読み飛ばしたくなる部分が結構あったのです。私はマルクス主義者でも社会民主主義者でもないですから。ただそういった論文からも、高畠素之に興味を感じる所があったのでしょう。

そこで実際に高畠素之の本を読もうと思たのですが、その点、私は恵まれていたようです。私の住んでるところの公共図書館(県立とか市立とか)に幾つか本が寄贈されてまして、それで読むことはできたわけです。ただ所蔵のないものは分らない。ましてや著書未収録の著作は読めないわけです。まあ著作はともかく、取り敢えず著書を集めることから始めまして、現在にいたるわけです。ま、他人が見ると無駄な資力を費やしたようにしか見えないでしょうけどね……

兎も角、調べていてもっと困ったのが、国家社会主義のその後。高畠素之の国家論(国家社会主義)なんてものは、『批判マルクス主義』に大体入っているのでそれで大凡分る。というより、その程度しか完成させずに死んじゃったんが、彼の後になると話しは少しややこしくなる。

別段、私は国家社会主義運動が日本に大きい影響を与えたとか、多数の人々が影響を蒙ったとかいうつもりはないですよ。ましてやソ連共産主義の本質を見抜いていたとかどうとかいうのは、全く興味がない。今更、答えが分かった後でそんなことを知っても、あーそーですか、という程度の話しに過ぎない。今現在、私が知りたいのは、少数であれ、劣勢であれ、彼等が国家なり社会なりをどう捉えて克服しようとしたかという点だけです。彼等の解答にも結論も、それそのものは今更もはや興味がないし、知ったとしても趣味的なものでしかない。

わざわざこのページにおこしの方は御存知の方も多いでしょうけど、石川準十郎氏なり津久井龍雄氏なりのことを調べようとすると、結構これが大変なんですね。『日本社会主義』『国家社会主義』なんて雑誌から、『国社』のようなちょっとした雑誌まで、幾つか関係あるものがあるのですが、流石に趣味的なものでこんな物を全部調べていくのは出来そうにないですしねえ。

で、今さっき文句いった許りの先生方の研究書にたよる破目になるわけです。

そうそう、忘れてましたけど今回は「薬石の效なき普選」「新自由主義の『必要』」「右翼こき下ろしの記」「反動団体を煽動す」という単行本未収録著作と、晩年の著名な「学界に与へる公開状」を公開しました。まあなんというか、表現がユニークだこと。笑ってしまいますね。真面目な人は眉を顰めるでしょうけど。それと、高畠素之の回想記である堺利彦の「高畠素之君を懐ふ」と「高畠素之」も御愛想で。それとかなりいい加減ですけど、「単行書初出一覧(未完成)」も作ってみました。……いかに調べてないかが分ってしまふ。『資本論解説』は続きの第二篇の前半部分を更新しました。

因みに、誰もこないページで弁解する必要もないと思いますけど、国家社会主義というのはナチズムとは全く別物ですので。少なくとも高畠素之にとっては。

○2月5日(月)

三回目:思想の実体

早速ですけど、次のような言葉があります。

「思想の危険性は、思想それ自体の本質的特性に発動するのではなく、それが或る現実的な力と結びついて、始めて危険にも穏健にも変通し得るに過ぎない。」

今回の「思想善導論」に見える言葉ですけど、高畠さん愛用だそうで、仏教哲学や老荘思想は穏健だけども、共産主義は危険だという話しは外にもお目にかかる題目だったりします。(以下、数段落削除)

今回はこれで終い……ではなくて、今回は「思想悪導論」ともう一つ、「警官論」もあげてます。で、お馴染みの『資本論解説』は第一編まで。『資本論解説』はもともと縦組みですから、数式を除く数字が漢数字なのです。で、今回は横書きにしましたから、アラビア数字に改めたわけですが、思いの外、改める範圍が曖昧だったり。

『資本論解説』第二篇は長いので、それなりに時間が懸かりそうです。こちらは表やら何やらが多いので、また数字と標記で悩みそうです。ま、全三篇を終えた所で、改めて数字の処遇を検討してみます。

……またまた長くなってしまった。三日坊主ならぬ、三回坊主ですかな。

○1月30日(月)

二回目:性悪説
最近性善説が批判されてますね。人間は善だと思って何もしてなかったら、善人がコロリと騙されて痛い目を見てしまう。どうにもこうにも、損害は大きいし、一向に善くなる気配もない。そうなのだ、人間が善だと思っていたのが間違いなのだ。人間っていうのは悪いんだ。だから悪いことをすると思って、最初から対策を立てておかないといけなかったんだ。とまあ、強引な漢字は伴うけども、こんな感じじゃないでしょうか、性善説を批判している論拠というのは。
でも、こう書いたからといって、別段私が性善説を辯護したいと思っている訳でもなく、逆に性悪説を推奨したいとも思わないですよ。いやいや、性には善と悪が混ざってるんだ、といって性善悪混論などと云ってみるつもりも勿論なし。要は私は性説なんぞには全く興味がないのです。
そもそも善とは何で、悪とは何か。いや、性とは何なのか。性と言った場合、普通は心とは異なるものを指し、人間の本質や本性を意味する。なら人間の本質が悪だといえば、そもそも何故人間は、悪に対して前もって対策を立てておく必要があるのだろうか。対策など不用じゃないのか。人間は悪なんだから、悪いようにしかならない。放っておけばいいのだ。世の中悪用され、悪くなればよかろう。固より人間の性が悪なら、それこそ望むべき世の中じゃないか。それは兎角、人間の性が悪ならば、何故に悪というのだ。悪が本質なら、悪こそ善じゃないか。
とまあ、無益な空論ですけど、最近の性悪説なんてものは、抑も性なり悪なりをちょっと単純に捉え過ぎてるんじゃないのかと思ったりして、ついつい余計なことを書いてしまいました。私は思うんですけどね、性善説を唱えたからといって、どこの世の中に、今生きている人間が善そのものだ、などという寝言を信じる人間がいるのでしょう。人間の本質が善だというなら、本質ならざる現実の人間は、必ずしも善じゃない。もし善である場合があったって、同じように悪のときだってあるだろう。それは性が善だといった以上、どうにもならないことなんじゃないか。
世の中、何を規準に動いているのかは知りませんよ。人間の意志が世の中を変えているのか。それとも人間として存在する限り不可避のものとして、人間の意志や努力の介在できないものが、世の中を動かしているのかも知れない。でも、人間の心が悪くなったから世の中が悪くなったというようなことは、全く信じられない。歴史が繰り返すというのなら、如上の主張を今まで嘗て人類史に於いて如何に多くの達人賢者がそう言って嘆いたことか。過去に世が変らぬなら、今も亦、変りはしない。
扨、前書きが長くなりましたけど、今回の更新論文、「政党心理の解剖」は、性悪説の立場に立って政党の存在目的と意義を明らかにしようとしたもの。無論これは、彼一流の性悪説やデモクラ論、或は議会政治観と密接に関連するもので、何れも彼のエッセイ集『論・想・談』中の「性悪観」「議会政治の正体と将来」「デモクラシーの馬脚」で見ることができる。今一つの論文「大衆主義と資本主義」は、彼が独立後に名乗った「大衆」なる語が、如何に流布し、世上に蔓延ったか。世の中を動かす実質が、大衆なるものに存在しなければならぬ理由を追及したものです。
とは言え、高畠素之はマルクスの経済学、就中カウツキーの『カール・マルクスの経済学説』(高畠素之は『資本論解説』としている)に見えるマルクス理解に相当程度影響を受けていますから、『資本論解説』は単にマルクス経済学研究の便利な一書としての意味を持つと同時に、高畠素之を理解する上に不可欠な書でもあったりしますね。
必然が世を動かすからこそ、高畠素之はそれに共感したのでしょうね。それが嫌だからこそ、人間の可能性を求める人も出て来るんでしょう。私は高畠素之の主張を認めることは出来ないけども、どちらかと言えば高畠素之の接近した必然に、限りなく魅力を感じますねえ……
とまあ、二回目も長々書いてしまった。因みに『資本論解説』は目次を挙げただけです。

○1月21日(土)

一回目:初回
単なる更新記録ですので、読んでも面白くないですよ。備忘録ていどのものです。
先ず、毎度予定としていたカウツキーの飜訳三種「社会主義とデモクラシー」「階級独裁と政党独裁」「労働者とは誰か?」。これは高畠氏の取り寄せた原稿ではなく、ベルリンに派遣されていた岡上守道(黒田礼二)が、カウツキーから原稿をもらってきたもの。どういう経緯で高畠氏が飜訳することになったのかは不詳。一番目の「社会主義とデモクラシー」には、飜訳の冒頭に「カール・カウツキー小伝」(著者不詳)、「カウツキー氏とその原稿」(カウツキーと原稿第1頁の写真)があり、最終頁後に「伯林便り」(黒田礼二。11月10日付)が付されている。「階級独裁と政党独裁」「労働者とは誰か?」は翻訳文のみ。この三論文は、何れもソ連共産党に対する批判的見地から書かれたもので、民主主義の堅持を主張したもの。
次に『解放』と『改造』から。「階級の概念と其の近世的体現」と「カール・マルクスの階級観批判」は、連載ではないとはいえ、密接な関係のある論文。この中、「階級概念~」は高畠氏没後に『急進』と『日本社会主義』とに再掲載された。もう一つの「カール・マルクスの国家理論」も『解放』に掲載された研究論文。以上の三論文は、何れも単行書未収録のもの。このあと「カール・マルクスの唯物哲学」を加えると、『解放』所載の長い研究論文はそれなりに出揃うことになる。何れも高畠氏のマルクス理解の進展と、自身の国家社会主義理論の形成過程を見ることが出来る。高畠氏によるマルクス研究の集大成は『マルクス学解説』(『マルクス十二講』改訂)にあり、また同氏のマルクスに対する接近方法は「マルクス説と私の立場」(『マルクス学研究』第二章。もと「マルクスの坊主と袈裟」)に書かれてある。どっちにしても、今更という気はしないでもないが、流石に近代のものだけあって、読んでいるとそれなりに面白かったりするのが、逆に面白い。
「士族の商法」は菊池寛の政界進出宣言を承けてのもので、論文というようなものではない、高畠氏によく見かける諧謔的な読み物。高畠氏の他に、正宗白鳥らがコメントを寄せている。餅は餅屋云々との発言は、高畠氏のお気に入りの言葉だったと思われ、他の文章中にも見える。なお菊池氏に対する同様のコメントは、「烏の雌雄」(『論・想・談』所収)にも見える。まあこの手の読み物は、人によって評価が分かれますからね。嫌いな人は嫌いだと思いますよ。でも相手の口論を逆手にとっての皮肉は、単に菊池氏に対するものという以上に、いつ読んでも面白いですね。私はね。
他に著作目録(仮)を公開しましたけど、これは専門家が作ったような大したものではありませんので、そのつもりでご覧下さい。なにぶん、素人の趣味でやってるだけですから、専門家には常識でも、全く抜け落ちている論文なんてのも沢山あると思います。まあそんな程度のつまらんものです。
気付くとそれなりの長さに……こういうことをすると、二回目以後は続かないから駄目なんですよ。いやほんと。

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