社會時評(大正十三年八月)

高畠素之

政變に伴ふ制變

苦節十年といへば、一應の聞こえは如何にも尤もらしい、しかし、その所謂苦節を十年の永きに亘つて、曲りなりにも辛抱し得たのは、偏へに政權獲得の日に於ける或種の希望からであつた。一陽來福して熟柿はその手に落下した。然るに加藤子がこの熟柿の配分法に關し、官僚出身の旗本に厚く舊來の黨人に薄からしめたことは、名利に對して豺狼の如き黨員から、甚だしき不平不滿を買ふに至つた。而も形勢の進展如何によつては、決して前途の樂觀を許さぬものがあつた。そこでこれを緩和すべく案出したのが政務次官制度である。

政治學で教へる政黨なるものの概念は、主義綱領を同じうする各個人が、その政策を實行する上の必要に基いて結合せる集團である。しかし、洋の東西を問はずその實情とするところは、これに依つて立身出世の足場を築かんとする道具である。殊に日本の政黨の如く何等階級的利害を反映せず、單なる地方的もしくは個人的な勢力の抗爭牽制のために存在してゐるものにあつては、その程度の殊に著しい事が認められる。さてこそ、官僚内閣に於ける場合よりも、政黨内閣下にあつて獵官運動や利權運動の激しい所以である。かかる有象無象の豺狼に對して、政黨内閣の採る手段は、常に不必要な官職の濫造と、無益なる事業の擴張とである。

大隈内閣にその例を求むれば、當時の與黨たる同志會、中正倶樂部、大隈伯後援會等の中に漲れる獵官連を封じるため、特に參政官制度を設け、これを以ても全部を収容し切れないところから、窮餘の末に副參政官までも設けた。寺内々閣に至つてこの制度は廢止され、原内閣に至つてまた勅參制度なるものが實施された。御多分に洩れぬ加藤内閣も、多少の面目を變へて政務次官制度を提案したものである。

元來、わが國の官吏は、冗員の多すぎることを以て非難されてゐる。民間の會社ならこの人員の半數を以て、立派に事務の遂行をなし得るとさへいはれてゐる。國費多端の今日、殊には綱規官規の肅正振興を使命とした現内閣が、無用の官制を新設することの矛盾は説くまでもない。しかし、何事も『十年の苦節』に免じて野暮をいはぬとしても、而も尚ほ筋道の通らないのは新官制設定の理由である。それに依れば、從來、内閣の更迭を見るごとに、事務官たる各省次官までが大臣と進退を共にする例であつたが、これは國策運用の上に支障を來たす事が重大であるから、事務次官と併立して政務次官を置き、これに政治上の責任を負はせるといふのである。表面に現はれた範圍に於いては、一應の理屈があるやうに思はれる。しかし、これも從來の例に徴すれば、かかる制度の存廢そのものが、既に内閣の更迭によつて變化する浮動的なものである。現に最近十年間の實例に於いて前述の如きものがあつたばかりでなく、調査研究の名に藉(1)りた幾多の諸制度さへも、内閣の運命と共に生死を決せられて來たのである。從つて、加藤内閣によつて制定された政務次官制度そのものが、次の内閣によつて改廢されぬと斷言することは出來ない。事務官をも内閣の運命に從はしめることは不當であるかも知れぬ。しかし、事務次官を制度に超越せしめるがため、政務次官を置くのは意味がないばかりでなく、次代の内閣に於ける生命をも期待し得ないのである。次官が政變と共に變るのがそれほど慨嘆すべきものなら、前内閣の次官を全部その椅子に留めさせ、卒先して新例を拓(2)く方が有効である。新官制を設けたところで、この官制そのものが自由に改廢し得るなら何の役にも立つまい。

二鳥一石の危險性

人氣取り政策としての贅澤品關税引上は、ある程度までの成効を収(3)め得たと見ていい。しかし、政府によつて發表されたこの法案の内容は、如何にも不徹底極まるものであり、この法案の効果を信ずる政府の期待は、如何にも沒常識過ぎるものである。さすがに氣が差したと見え、濱口藏相は諸法案提出に際して、輸入を防遏し、國際貸借の均衡を計らんとすることに主要目的を置くのではなく、これが實施によつて勤儉節約の美風を、間接に奬勵するのだと語つてゐる。贅澤品と目する政府發表の品目の如き、全輸入品に對しては一割にも該當しない金高であるから、これを以て輸入抑制、正貨維持、爲替調節等の目的を達し得ないこと、藏相の謙遜的な期待に比較してさへ、更に數倍する薄弱な期待しか掛ることが出來ぬ。そんなら『勤儉節約の美風』の上に期待されるかといふに、これもまた全然望みがないと見ていい。

國民の奢侈贅澤な氣風を一掃し、勤儉力行節約精進の美風を涵養する必要は、いふまでもなく刻下の緊急必要であるが、それだけに關税引上といふやうな簡單なことで達成されはしない。元來、圓價低落に終る爲替關係の變動により、輸入品の市價はこれまでだつて著しい昂騰を見てゐた。その當然の結果により、政府の關税引上策を待つまでもなく、直接に贅澤品に影響を受けてゐなければならないに拘らず、一向輸入減退の傾向は見られなかつた。これは、政府の提示したが如き所謂贅澤品が、眞の贅澤品でないことに據るか、金に絲目を見せず買ひ込む者が多いかに據る。羅列して掲げられた品目中には、ダイヤモンド(4)の眞珠のといふ眞の贅澤品もあるが、その購買能力を有つ者は何れも富豪で、目下の關税五分が重價十割となつたところで、決してこの法案の趣意を徹底し得ないのみならず、容易に密輸入をなし得るところから、意外の惡結果を招くぐらゐが關の山である。その他の品目に至つては、多く諸種の原料品に數へられるものである。原料品が多いといふ事實は、その内地品がないか、あつても使用に耐えないかの何れかを意味する。最も卑近な例を取れば、眼鏡の原料硝子といふ品目があるが、内地品が値段の如何に拘らず、眼球を傷め視力を損じ、その使用を愉快ならしめざるは直接筆者の經驗するところである。その意味に於て、藏相の『内地品にて間に合ふ品』といふ條項は適用し難い。さればといつて他の二つの條項、即ち嗜好品とも娯樂品ともいひ難いのである。

話の序だからであるが、嗜好品や娯樂品を直ちに贅澤とするは非常識にも程がある。齒磨、石鹸等の材料たる香料を加へた意味で化粧品業者から反對され、運動具を加へた意味で學校から攻撃されてゐるやうだが、もつと直接卑近な生活必要品たるべきものさへ加へられてゐる。殊に驚くべきは、唯一の疾病治療劑たる藥品類の多數加へられてゐることである。金持ちに比して遙かに罹病率の多い貧乏人から服藥を奪ふことは、貧乏人そのものが贅澤であり、生活そのことが贅澤であるといふに等しい。かうなると、單なる非常識を以て論ずることさへ出來なくなる。

贅澤品關税引上法案は、消極的にかかる惡法であるばかりでなく、突飛な課税實施によつて、賣惜しみ買占めの弊風を助長し、内地奢侈品生産を奬勵し、引いて一般の輸入品國産品の價格を昂騰せしめる等影響する範圍の惡は數へ切れない。在野時代にあれほど財政的懷疑論者だつた濱口藏相は、僅かばかりの増税収入の財源を捻出しようとしたばかりで、一朝にして『競爭が自然に行はれて價格騰貴を來すものとは認めない』といふ程の、打つて代つた樂觀論者になつてしまつたのである。それも致し方ないとして、贅澤品なる名稱に眩惑し、この法案の通過を阻止しようとしなかつた議員及び國民が、所期の効果と正反對の事實を招來したことを知る時は、如何にその錯覺を悔ゆるも及ばない時であらう。

結果善に注意せよ

勞働爭議のめつきり少くなつた最近に於て、大阪の電車從業員ストライキは、色々の意味から特記さるべき價値がある、最初の程は罷業者側に強硬な結束を期待されてゐたが、中頃から足竝みが漸次に亂れ出し、最後に時代錯誤にも高野の坊主に調停を依頼するなど、例によつて慘敗に終りを告げた。お坐なりにいへば、この三階梯を踏んで落着したことに相違ないが、しかし、外面的に如何に強固らしく見え、また内實的にも如何に團結してゐたところで、この罷業が結局慘敗に終べきは豫想されてゐるのである。この點が他の罷業の場合に於ける『例によつて』とは、大分その意味内容を異にしてゐる。勿論、かう斷言するのは、罷業參加人員が多いため、中途にして切り崩される危險があるといふやうなことでなく、電車罷業が別して一般民衆との利害交渉に面接しなければならぬといふ、その特殊事情を有してゐるからである。

生産者本位の勞働運動が、ともすればプロレタリア團合の裂斷を助長するに傾くとは、豫て筆者の主張して來たところであるが、今回の如き民衆の交通機關にあつては、特にその感を深うするものがある。交通機關として電車を利用するものはこの無産大衆である。電車が止つて差詰め困るのはこの無産大衆である。平常自働車なり馬車なり、或は腕車を利用してゐる者は、ストライキによつて何日電車が動かなくても格別痛痒を感ずる必要はない。或はまた、電車が動かない期間だけでも、臨時に自働車その他を利用し得る資力のある者も、困却の度は比較的に薄い。しかし、不幸にして一般市民の大部分は、電車が動かなければ待合せの足を動かすしかない人間である。太陽の直射に照らされて、勤先なり仕事場なりに通はなければならぬ無産者は、電車從業員が賃銀値上といふ『私利私慾』のため、かかる態度に出たことに當然反感を催すであらう。その反感の不當だとなすのは單に理屈である。目前に當面しつつある苦痛は、必ず電車從業員に對する反感を誘ふに違ひない。我儘な人間の性情としては、善惡の如何に拘らず免れ難いところである。無産階級の他の分子によつて注がれるこの反感は、決して電車從業員にストライキ(5)の成功を與へない原因を作る事になる。現に先年の東京電車ストライキもこれを證明してゐたのであるから、大阪方がこの先轍を顧なかつたのは、不明といへば不明ともいはれる。

しかし、さればといつて、大阪市電從業員がこの態度に出でたことに理由がないといふのではない。寧ろ同情すべき充分の理由は認められる。ただ生産者本位の、殊に無産大衆の消費財産方面の勞働運動は、その方法を誤まるに於て、結果的に有害無益に終り易いことを注意したいのである。かかる運動はプロレタリアの戰術から見て、消費者としてのプロレタリア運動であることを得策とする。假りにこれが電車賃値上に對する市民の反抗があつて、それに從業員が呼應したといふのであつたならば、プロレタリア運動として如何に有力であつたか知れまい。更にまた生産者本位の運動でやるにしても、矢張り消費者の立場から割出すのが得策である。即ち從業員に對する大阪市當局の不埒なる處置を市民に訴へ、市民としての輿論を喚起するに努め、然る後いよいよといふ場合には、市民の判斷を乞ふて立つといふことにした方がいい。多少迂遠な嫌ひはあつたにしても、成効を羸ち得るにはこの方法に據らなければ駄目である。

電車罷業餘文

大阪市電從業員ストライキの外傳ともなるべき挿話がある。その罷業繼續中のこと、東京の場合に於ても見られたが如く、大阪でも學生が飛び出して、電車運轉の仕事に與つたのである。それまでは何の變哲もない事件であるが、これに大して東京の或る學生團が、勞資の爭鬪に無關係の地位にあるべき學生が、勞働者の唯一の武器たる罷業權を脅威し、スキヤツプの如き行爲に出るは怪しからぬ(6)と警告を發した。一應の理屈はこれにもある。ただその理屈が、教科書通りの概念的理屈たることが滑稽を感じさせるのみである。

電車從業員に對して、資本家の位置に立つものは大阪市電氣局である。しかし茲に記憶すべきは、大阪市電氣局が一營利會社でないといふことである。然らば何であるかといふに、大阪市の一機關である。その大阪市を構成するものは何かと循環(7)して行くと、大阪市民全部で、學生も勿論その意味で大阪市を構成する一員である。

問題を此處まで還元する。電車從業員に對しての資本家たる電氣局もしくは大阪市が、全市民そのものであつて見れば、上は市長より下は溝浚に至るまで、しかのみならず、從業員彼等自身までが資本家である。いふまでもなく學生もさうである。問題を更に還元する。これが一個の營利會社であつたならば、資本家たる會社の利潤のために如何にも學生は勞働者を脅める資格も權利もない。しかし、今度の場合に於いて直接の利害を持つのは、大工、屑屋、立ン坊、遣手婆、學生等、ありとあらゆる種類の職業と階級に屬する全市民である。殊に交通機關を失つた無産者が、最も直接な利害に當面してゐるのである。なほ一層皮肉に見るならば、このストライキの目的が達せられて賃銀でも値上され、その財源が電車賃の上に轉嫁されでもしたら、最も懷を痛めるのは電車利用の無産者である。大と小との區別はあつても、この場合に於ける市民の損失は、營利會社の株主の損失と變るところがない。かかる利害得失に關係を有せざる東京學生がストライキ破りを以て大阪學生を非難するが如きは、啻に無用のおセツカイといふばかりでなく、辯難の的から遙かに外れたものである。學生だから特に公正であれといふ言葉からして、露骨に理由なき優越意識を示したもので、不遜至極な僭越沙汰である。

先づ無酒デーから

對米憤慨に『臥薪嘗膽の具體化』を與ふべく、無酒デーなるものを擧行した連中がゐる。主催者はこれもある東京の學生團で、上置として賀川豐彦、帆足理一郎、鶴見祐輔等の諸君が加はつたものである。理由とするところは、加害者たる米國が禁酒國だのに、被害者たるべき日本が飲酒國であつてならうかといふ、如何にも原始的感傷主義を振まわした運動である。國利民福を充實してやつつけてやらうといふのに、酒など飲んでならうものか、といはれれば、それに違ひないと同感できないまでも、趣旨そのものに惡感を催すほどではない。

しかし、この連中の態度そのものは、かかる意味でこの運動を起したのではなく、國力充實の方はどうあらうと、米國に對する反感で昂奮してゐるから、そこを巧く利用して平素の持論たる禁酒宣傳をしようといふのである。幸に相手國は禁酒國であるから、『况して』と『於いてをや』の詭辯を用ゐて煽て上げようといふのである。國民を愚にするといつてこれ以上のことはなからう。

禁酒運動は道徳的にも社會的にも、運動としては極めて下級なものである。而も實際に於いてドライを實行することの困難は、米國そのものが先例を示してゐる。密飲者、密造者を誘致する意味から國民の僞善罪惡を奬勵してゐること、活動寫眞に於いて屡々これを見せられてゐる。内實はどうでも看板は立派なのが、正義人道といひ、平和主義といひ、禁酒といひ、何れもこれが米國的な特色である。その意味から見て、この間の無酒デーなるものは、如實に米國的なものであつた。第一に無酒デーなどといふ名前からしてメリケン的である。國民的反感に連結した僞善的行爲がそれである。何かといへば道徳を振りまわす態度がそれである。小賢しくもしてやつたりといふツラがそれである。

對米應急策としての排貨運動の如きは、策として拙劣であり効として薄弱である。もつと直接に重大な意義を持つものは、國内からあらゆる米國風潮を驅除することである。更に適切にいへば、僞善的な、見榮坊な、淺薄な、あらゆるメリケン根性を放逐することである。『無酒デー』の如きもその一つだ。


底本:『新小説』第二十九年第八號(大正十三年八月)

注記:

※文字を増補した場合は〔 〕内に入れた。
(1)藉:底本は「籍」に作る。
(2)拓:底本は「坧」に作る。
(3)収:底本は「牧」に作る。
(4)ダイヤモンド:底本は「タイヤモンド」に作る。
(5)ストライキ:底本は「ストヲイキ」に作る。
(6)怪しからぬ:底本は「怪しからね」に作る。
(7)循環:底本は「遁還」に作る。

改訂履歴:

公開:2006/11/22
最終更新日:2010/09/12

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