社會時評(昭和二年七月)

高畠素之

政黨心理學

憲政會と政友本黨の政權攻守同盟が發展して、立憲民政黨なるものが人爲的につくり上げられた。包容する代議士の總數二百二十餘頭、結黨式における松田源治の手前味噌ぢやないが、まるほど記録だけは原敬傘下の大政友會をも突破してゐる。

しかしこの政黨、見かけの堂々たるにかかはらず、どうやら心臟肥大症で苦しみつつあるものの如く、總選舉の外症に一たび見舞はれたら、現在の贅肉をどの程度まで保ちうるか疑問である。元々この政黨の成り立ちは、普選に直面して新勢力を迎へると触れ出してゐるが、その實、皮算用ばかりしてゐた愚かなる政友本黨の獵師共が、舊來の面目を棄てて憲政派の勢子に加はつたといふに止まり、行きがけの駄賃を期待して殊勝らしい理屈をならべたに過ぎない。

聞くところに依れば、兩黨の演説議員連は最初これを單に『民政黨』と命名するつもりだつたらしい。が、それでは舊い華客に對して憚りありといふやうな妥協論から、頭に『立憲』の二字を冠せて天晴れ尻をかくしたのであるとか。議會中心主義を綱領の筆頭に掲げてゐる政黨が、まさか非立憲であらうとは誰も考へてゐないのに、さりとは餘計な苦勞をしたものではないか。而もこの挿話に表明された彼等の弱味は、憲本兩黨の傳統的なお上品ぶりを象徴するもので、よし合せものが離れものでなかつたにしても、何となく前途の不安を豫想させる所以である。

これに反して政友會は、自由黨の昔からどことなく強氣であり、且つそれに伴ふ野趣を遺憾なく發揮してきた。それ故にこそ、地方分權だの産業立國だのと、外國の類似的政黨なら民主主義的弱氣そのものを暴露しさうな政綱を掲げながら、少しもその弊に墜ちなかつたと言ひ得る。手近いところで英國の自由黨や米國の民主黨の例がそれである。ところが憲政會ときては、これも改進黨の昔から、中央集權的な保護政策的な政綱を掲げ、謂はば前者に對して保守黨や共和黨の位置を領しながら、まるで似ても似つかぬ氣の弱さを示したのである。政友本黨にしてもその通り、國家主義を一枚看板として政友會から分離した以上は、むしろ保守的勢力の援助を期待して黨勢の展開を圖るべきであつたに拘らず、中道にして政策本位の弱氣を露出したのでナメられ、結局は虻や蜂も得られなかつたと言ふのほかはない。

『金力と權力の壓迫から解放されたい』といふ床次竹二郎の悲鳴は、それが悲鳴なりに死なんとする聲の高調を偲ばせる。而も金力や權力に百萬遍の叩頭をささげた揚句、その金力や權力から完全に見はなされたのが現在の『金魚床次』ではなかつたか。橋の下を住宅とする一群の彼等が、すてられた夕刊の切れツぱしをたよりに休業銀行の記事を拾ひ読み、それで『銀行預金は持ちたくない』と嘆じたらどんなものであらう。觀兵式の大將といはれる彼れを、いやしくも一群の彼等と比較するのは失禮だが、早い話がそんなものではないかと思ふのである。むしろ率直に『乾分を養つて行くだけの金がない』と放言し、彼れとその一黨二十餘名を率ゐて政友會に身売りした『苦節犬養』の方が、世間の非難は大きかったが男らしいといへよう。

だが、それもこれも持つて生れた性分だから致し方がない。好きとか嫌ひとかいふ段になれば、おのづから二派に分別するであらうが、實はさうした性格上の異同が、人間社會の離合集散を決定する要素となり得る場合もおほいのである。

政黨を利益団體となす見地からいへば、それは利害の異同によつて離合する集団にほかならない。しかしそれなりに、性格の相違が利害の相違を導くこともあり得る。例へば床次竹二郎と犬養毅の場合において、役人あがりとはいへ床次は原敬の嗣子をもつて自他ともに許してゐる。ところが彼れの性格は、どこか政友會氣質に對して水と油の氣味があり、それがやがて將來の分別を豫定せる部分もなしとはしない。同じく犬養毅は嘗て改進黨の戰士であつたが、彼れの性格は周圍の僚友と幾多の相違を示し、やがてそのために同志會への參加を拒否させた原因をなしてゐる。

正反對せるこの二人の性格は、春風秋雨を幾度か經驗したる今日、嘗て彼等が正面の敵として抗爭せる反對黨の長老として、又も磁針の兩極として對峙するに至つたのである。世事の變轉はその意味で、奇にして奇ならず、物理的と共に心理的の必然性をも反映してゐると見られる。而も掲揚する政綱がどうあらうにもせよ、むしろその方は偶然の機會で進歩の相違を示すことがあつたにもせよ、俗諺のいはゆる。『似たもの夫婦』が結合の内容を形成し、客觀すればそれが歴史的政黨の特色を傳統して行くのである。

公選非公選

政黨の幹部專制は日本ばかりの現象でないが、實體はとにかく看板は民主的なことを必要とするので、世間の露骨な非難に對しては何とか緩和策を講じなければならなくなり、いづれも幹部公選といふことで目前の辻褄をあはせようと腐心してゐる。羊の皮をかぶつたところで、狼は依然として狼たることに變りはないのだが、そんな手品で胡魔化せたと考へるあたりが彼等の猿智惠であらう。現に政友會における田中義一でも、民政黨における濱口雄幸でも、公選とはホンの名ばかり、誰かが『投票を省略して』と音頭をとれば、總起立で萬歳かなんかを三唱して萬事オーライである。

しかし考へてみれば、有名無實なりに『公選』の形式を取らなければならないのも時勢なら、文字どほり『公選』を實行されて困るのも時勢である。痛し痒しの兩刀をたくみに使ひこなし、首尾よく參らせるところに幹部の苦心は存する。これも日本ばかりの現象でないが、政黨の首領たり得る條件としては、總理大臣としての十分なる貫禄を具備した上に、臺所の負擔に當事する能力が不可缺的に必要である。歴代の誰れ彼れを見ても、板垣、大隈、伊藤、西園寺、桂、原、加藤といつた顏触れは、いづれも大官の後身であつて、同時に金蔓との因縁あさからぬ面々によつて獨占されてゐる。降つて田中、若槻、床次といつた連中にしても、生え抜きの黨人は一人も發見されない。表面の事實だけから見れば、全部が全部、いはば天降りで彼等の頭上に君臣したのである。けれども、裏面の事實をつまびらかにすれば、黨人が政權機會に一歩でも早く近づきたい念願から、むしろ貫禄的に財力的に秀れたる彼等を推戴したと見るのが正しい。

いかなる巧言令色にもかかはらず、政黨の存立は政權の獲得を唯一の目的としてゐる。隨つて時勢の推移が、彼等の黨首を形式ながら公選して見せなければならなかつたにしても、貫禄的財力的條件を不必要とするところまで時勢が遷化しない限り、嫌應なく宮本武藏の亞流で、甘んずるのほかはない。

先代黨首の突然なる死去により、幸運にも後塵を拜し得た高橋是清や若槻禮次郎は、最善ならぬ次善の存在たる意味において、所詮は暫定黨首にすぎまいと誰しも考へるには考へた。しかし、前者はすでに金を費ひはたしたといふ意味で、後者は大して金に縁がなささうだといふ意味で、かうも早く弊履のやうに棄て去られようとは誰も考へなかつた。黨人の打算かくの如し、などと更めて感心したところで始まらないのである。

濱口雄幸が憲本合同後の新黨首に擔がれたのは、何も彼れが人格者なるが故に、財政家なるが故に、雄辯家なるが故にではなかつた。彼れの偶然なる出生地が土佐であり、隨つて同郷出身の財閥三菱に對して、或る特殊な關係を開拓し得るだらうとの豫測からなされたに過ぎない。つまり加藤高明の血縁的關係を利用した故智を、濱口雄幸の地縁的關係に代替したといふに止まる。もつとも、加藤にしても濱口にしても、さう簡單に片づけるには多少の氣の毒さもあるだらうが、萬更ら戯談でなく第二の女婿幣原某をかついだ一派もある當節だから、實力を買はれたなどと考へるなら飛んだ愛嬌である。田中義一にしてもまた然り、彼れが長閥の直系でなく、機密費の隱匿者でなく、滿支實業家と密接な關係がなければ、誰が醉狂に入婿として迎へる必要があらう。

かくの如く、政友會における田中義一と民政黨における濱口雄幸とは、彼等の政黨と財閥との結びの神として黨首の地位を保證されたのである。隨つて現在のところ、政友會も民政黨も、彼等二人を黨首とすることが絶對的に必要で、決してその他の誰でもよいといふわけではない。それだけ後めたい感情もあるらしく、子供だましの『公選』で背後的關係の考慮をボカさうと苦心してゐるが、それで尻ツ尾をかくせた了見だから恐れ入る。もし文字どほりの公選をやらうものなら、あるひは元も子もなくしてしまふかも知れず、幹部連せつかくの目算も畫餅に歸することなきにしも非ずであらう。

それやこれやを考慮し、結黨の成否もわからないうちから黨首をこさへ、有無をいはせず名利を兼ね達するについては、並みならぬ苦心が存したことと思はれる。それは恰も、ブルヂオアの代辯者たる彼等が、投票の多數をかき集めるためプロレタリア本位の政綱を掲げると同じく、それ自身が痛し痒しのヂレムマを體現してゐる。

だが、エホバとマンモンに兼ねつかへることは、舊譯のむかしから不可能だといはれてゐる。財閥のマンモンに拜跪しながら、民衆のエホバの御意も同時にむかへようとするのは、何が何でも餘りに蟲がよすぎる。やがて一切のカラクリが判明したら――。それから後の文句は無産論客に割愛しよう。

縱斷的黨弊

武器の逆用

人口と食糧

役人の赤化

出版泥合戰


底本:『太陽』第三十三卷第九号(昭和二年七月)

改訂履歴:

公開:不明
最終更新日:2010/09/12

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