是々非々(社會雜感)

高畠素之

尾崎行雄さんが、陸海軍費を割いて人種改良に向けろといふ議論を吐かれた。人種改良も結構だが、結構なことは人種改良ばかりでない。國民としてやつて貰ひたいことと、やらねばならぬことは、ほかにもまだ澤山ある。それを一々、陸海軍費から流用しろといふことになつたら、どうなるか。日本の陸海軍は無くなつてしまふであらう。陸海軍は『不生産的』のものだから、さうなつても構はない、といふのが尾崎さんの縮論(1)らしいが、すべての不生産的のものは不用だといふならば、國家などは差向き不用の親玉に編入されるであらう。實際、尾崎さんはさう考へてゐるらしい。それでなければ、戲談にも軍備不要論を彷彿させるやうな口吻を弄び得るものでない。

國家に軍備の必要なることは、狼に牙の必要なるが如しである。古い言葉だが列強は虎視眈々、隙さへあれば他國の勢力範圍を侵さうと窺つてゐる。斯ういふ現状に照らして、軍備は國家生存上の最後の頼り所でなければならぬ。それに、水は低きに流れる。日本ばかりの軍備ではない。列強みなやつてゐるのである。みなやつてゐるから、大體の均衡がとれて滅多に衝突も起らないのであるが、一度びこの均衡に狂ひが生ずれば衝突も起り易い。この意味からいつて、軍備の維持は寧ろ國家衝突の豫防手段だといひ得るであらう。

勿論、縮小しないで經費を節減し得れば、それに越したことはない。さういふ餘地も可なりあるだらうと思ふ。しかし原則として、軍備不要論などが許せるものでない。人種改良も必要だらうが、軍備は更らに必要である。國家は、軍備よりも、もつと不用な方面に年々莫大の費用を濫費してゐる。さういふ費用を片ツ端から節減して、ヨリ有用な方面に流用しろといふなら聽こえてゐる。

例へば、帝國大學といふものがある。これは主として學生就職資格の官設大量生産所であるが、全國六つの帝大で現在一萬二千近くの學生のために就職資格を製造しつつある。國家はこの生産設備のために、年々巨額の費用を投じてゐる。いま、これを各學生に割當てると、年々一人當り平均一千六七百圓見當にもならう。つまり、帝國大學の學生といふものは、年々國家から一人當り一千六七百圓宛の補助を受けてゐる譯である。この補助を受けるには、物質的にも、知識的にも、或る程度の資格を要することは勿論だが、兎にかく斯うして帝國大學の學生といふものは國家の補助で就職資格を生産して貰つてゐるのである。

ところで、その國家の補助といふものは、孖のやうに水から湧いて來たものではなく、國民全體が負擔させられるのである。しかも、それを負擔する國民の大部分は、いはゆるプロレタリアであつて、自分の小供に義務教育を施すことすら容易でない境遇に置かれてゐる人々だ。貧乏な親が可愛い我が子の學資を造るために、骨身を粉にして稼ぐといふ話は昔から聽いてゐるが、これは又ヨリ裕福な他人の倅を帝國大學で仕上げさせるために、自分の小供には義務教育をさへ碌々與へられないやうな始末で、牛馬の如くに勞役した膏血のうちから國費を負擔させられるといふのだから、殘忍も甚だしいと言はざるを得ないではないか。

それも、斯うして製造される帝大生なるものが、吹聽通り國家有用の機(2)にでもなつてくれるならまだしも、なかには國家有害の三百的法律屋か、然らずんば賣國的社會科學主義者か、更らに然らずんばバーの地廻りに仕立てられる者も少なくないと聽いては、天下のプロレタリアたるもの誰れか唖然たらざらんやである。これでは、プロレタリアが國家を恨むのも尤もである。こんな制度は國家のため、國民のため、一刻も早く廢絶してしまつた方が宜しい。そして、そこから浮いて來る費用で、人種改良でも何でも國家のためになると思ふことを、どんどんやつたらいいだらう。國家有用の學者專門家を養成するといふ意味ならば、今の帝國大學は本質的に見當違ひなものであるから、これを思ひ切つて壓縮し、その目的に相當しい内容を具備した國立の學院にでも改造すべきである。いづれにしても、この方面から年々可なり莫大の費用が浮いて來ることは疑はれない。

以上はほんの一例だが、斯種の國費節減は帝大以上にもいろいろな方面に期待し得るであらうと思ふ。陸海軍にしても、軍備の規模能率を犠牲にしない範圍内で、經費節減の道がないとはいへまい。例へば、人件費などの點で、この方面にも隨分ひどい濫費が行はれてゐることは事實であらう。

軍備は現在における國家存立の絶對的必須條件であつて、列強みな等しく力コブを入れてゐるところである。尤も、廣い世間には妙な頭の持主もゐて、軍備に狂奔してゐるのは日本ばかりだといふやうな議論を吐く者がある。有名な堀江歸一博士の如きは、その一人である。

堀江博士に依ると(女性二月號)、日本の總歳出は十七億三千三十七萬圓、そのうち陸海軍費は四億六千六百四十九萬圓であつて、優に總歳出の二割七分を占めてゐる。こんな國は世界廣しと雖も類がない。これ畢竟するところ、日本軍閥の政治的勢力が尚極めて強大なることに起因するものである。これに反して、歐米諸國では、大戰以來平和思想が漲り、各國とも平和主義を憧憬して已まず、殊にアメリカの如きは『平和論が高唱され、平和運動が熾烈』を極めてゐるといふ。

よくも、こんなヨタが言へたものである。總歳出に對する陸海軍費の比率のみが、平和主義強弱のバロメーターとなるものではあるまい。總豫算が増加すれば、陸海軍費の比率も低減して來るのが常である。低減したからといつて、それだけ平和主義の憧憬が強烈になつたとはいひ得ない。

堀江氏始め近頃風呂の水垢のやうに殖えて來るデモクラ平和主義屋の理想のエデンとされてゐるアメリカ合衆國の總歳出(一九二七年)は、三十四億九千四百三十萬弗であつて、そのうち陸海軍費合計六億五千八百五十一萬弗であるから、成るほど比率からいへば總歳出の二割に當らず、我が國に比して低いことになるが、それでも六億五千八百萬弗といふ陸海軍費は我が陸海軍費の三倍に當つてゐる。

全體の陸海軍費が大きければ、それだけ國民の軍費負擔も大きくなる譯で、いま手許の簡單な材料に示されてゐる陸軍だけの計算に徴しても、我が國民の陸軍費負擔は列強の第五位にある。即ち大正十四年の調べに依れば、米の七億四千二百萬圓、佛の五億五千萬圓、英の四億六千萬圓、露の三億三千六百萬圓、伊の二億萬圓に對して我が國は二億一千萬圓である。このうち、ロシヤは海軍が無力だから暫く措くとしても、大體において日本の軍費負擔が列強の第四位にあることは爭はれない。これに從つて國民一人當りの平均負擔を計算して見ると、佛の一千四百圓、英の九百八十圓、米の七百圓、伊の五百三十圓に對して、我が國は三百三十圓であるから、第五位に落ちてしまふ。

いづれにしても、我が國のみが『依然たる武力偏重の下に終始して』ゐて、歐米各國はみな平和主義に憧憬してゐるといふ堀江博士の獨斷の亡國享樂、拜米ブルヂオア的傾向を證據立てるには十分な事實である。

どだい、メリケンなどが何をするか解つたものでない。新聞で見ると、この頃またも軍縮とやらを提唱し出したやうであるが、ハワイやフヰリツピンの防備は知らぬ顏で、日本の一番苦が手な空軍の擴張は問題に入れず、その上巡洋艦の制限を現在勢力の標準に依らないで數年前の戰艦比率に依らうとするところなどは、明かに彼れの不純な魂膽を窺はしめる。彼れの下院は去る一月七日の本會議で、新巡洋艦三隻の建設費三億二千四百萬弗の支出を可決してゐるではないか。航空設備においても、我が海軍の如きは漸く昭和三年度までに、新造軍艦に對して飛行機を搭載する計畫を立てたといふ憐れな有樣であるのに、米國海軍はすでに十八隻の戰艦に各三臺づつ、十隻の巡洋艦に各二臺づつ、十八隻の驅逐艦に各一臺づつ、九隻の潛水艦に各一臺づつ搭載することになつてゐる。その上また、近々艦隊所屬特務艦にもおのおの一臺以上を搭載する準備が出來たといふから、米國艦隊の有する飛行機は今や總計三百臺以上にも達してゐる譯である。

これで軍縮提唱も呆れたものだが、堀江博士に依ると、斯ういふのが世界平和の標本的使徒だといふことになるのであらうか。

が、それはそれとして、我が國でも徴兵のために兎かく面白からぬ現象を見るのは遺憾である。私の遠い親戚に貧乏な男がゐて、その一人息子が一昨々年甲種合格で入營した。彼れはそれまで、郊外の或る電車會社で忠實に車掌を勤めてゐたのであるが、こんど除隊になつたら使つて呉れと頼み込んだところ、缺員がないから駄目だと邪慳に斥けられた。それでも食へないから、何とかして入れて貰はうと思つて、或る有力な人に縋り、辛うじて入るには入つたが、入營當時に比べると待遇も遙かに惡い。それを彼れの親爺は餘程癪にさわつたと見えて、最近次のやうな葉書を私に寄越した。これを新聞の投書欄にでも出して欲しいといふのであつた。

『倅こと、××電車入社の件につきましては、如何に三拜九拜しても採用されるを得ず、▽▽樣の御骨折にて當分見習としておなさけ的にやつと採用されることになりました。しかし倅こと軍隊へ入營前の同輩は上進してをりますが、國へ御奉公したお蔭で、こんど頂く給料はもとの同輩の三分の一といふことになりました』云々。

こんなことはザラにあるためしで、別段大したことでないといつてしまへばそれ迄だが、世の中には入營に絡らんで、もつともつと悲慘な出來事が數へ切れない程あるであらうと思ふ。入營は國への御奉公である。日本國民として、これを堪え難き義務と感ずるやうなヤクザ者は一人もない筈だ。けれどもさういふ御奉公をしたために職を失つて、親子路頭に迷ふといふやうな現象は痛嘆すべきではないか。今度できるといふ兵役服務法は、斯ういふ點を餘程斟酌してゐるやうであるが、單に服務中のみでなく、除隊後にもせめて舊來の勤め口を失はないだけのことは、國家が進んで面倒を見るやうな制度にしないといけない。資本主義の非國民的本能に對しては、先づ斯ういふ方面から國家的鐵槌を喰らはすべきである。忠良なる國民が入營を國への御奉公として喜び勇む心情をいいことにして、さういふ御奉公のため國民が路頭に迷ふやうな必然の結果を、冷淡に看過ごしてをれるやうな國は必らず内から亡びる。

話は別だが、大山郁夫氏の早大辭職沙汰に關聯して、大學教授と政治運動の問題がちつとばかり賑はつた。大山氏のやり口は、はたで見てゐても憎々しいほどタチが惡いやうであつた。

早大にしても、あれだけの屋臺を構へてゐるからには、金も要るだらうし、父兄の氣受も考へるだらう。それらの點から見て、大山氏のやうな行き方をする教授がゐては迷惑だと感ずることに、無理があるとは思へない。大山氏にしたところが、今の大學なるものが果してどういふ目的で設けられてゐるか位ゐのことは、マルキシズムの信者であつて見れば、尚更ら人一倍わかつてをるべき筈だつたと思ふ。

尤も、大山氏のやうな行き方をする教授であればこそ、ニキビ盛りの學生のウケが比較的よく、學生に人氣のあるといふことがまた學校商賣を繁昌させる所以にもなるのだから、この點大山氏に幾分の強味がある。つまり早大としては、命は惜しいが河豚は食ひたいといふところだ。そこで大山氏も、自分の強味と學校側の餘儀ない打算とを秤にかけたならば、結局安部磯雄氏のやうに、講師どころで素直に納まることが人間らしい功利主義といふものであつた。

それを無暗と、愚にもつかぬ屁理屈で脅迫がましい擧動に出るといふ態度は、見苦しかつた。これが、幾分でも蝙蝠安以上に教養ある人のやり口であらうとは想像できなかつた。

が、それは別として、大學教授と政治運動の問題につき、吉野博士の言はれたところがひどく氣に入つた。博士に依ると、假りに治安警察法第五條の規定がないとしても、教授とかけ持ちで政治運動に參加するなどといふことは到底できるものでない。自分(博士)などは教授の仕事だけでも、精一杯で、手紙を書いたり、食事をしたりする暇もない位ゐだといふのである。

これは至極尤もな所説であると敬服した。私なども教授ではないが、文筆職人をしてゐる。それで政治運動も決して嫌ひではなく、是非やつて見たいと思ふのだが、どうしても暇がない。私の頭、私の筆、私の位置では、妻子五人を養ふのに、どうしたつて毎日十二三時間の勞働を免れることが出來ない。だから、他にヨリ安易な生活の道が立たぬ限り、やりたいと思ふ政治運動も所詮やれないと諦める外はない次第だが、大學教授と政治運動が立派に兩立し得ると考へてゐるらしい大山郁夫氏は、この邊の關係を一體どう捌かれてゐるのであらう。教授の仕事などは、それこそ、お茶を飲むやうなものだとでも考へてゐるのか。それとも學問の汁は、プロレ運動の草鞋の底からでも掬へる位ゐに考へてをられるのであるか。尤も、大山氏の學問といふのは、從來氏の言論文章に隱顯する種類及び程度のものに止まるのかも知れないが。

(二月十八日)


底本:『大調和』昭和二年四月號
『英雄崇拝と看板心理』(忠誠堂,昭和5年)に再録。

注記:

(1)縮論:単行本は「結論」に作る。
(2)機:単行本は「器」に作る。

改訂履歴:

公開:2008/02/25
最終更新日:2010/09/12

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