西洋思想の日本化

林癸未夫

足利時代の末葉、日欧交通の開始されて以来、幾多の西洋思想が我国に伝来したが、その中には日本国民自ら欲してこれを受容したものもあり、自ら欲せずしてこれを受容したものもある。が、欲したにせよ、欲しなかったにせよ、既に我国に受容された後の西洋思想は生地のままのものではなく、何程か日本化されたものであり、又あらねばならなかった。言いかえればそれが我国体と民情とに適合する限りに於て受容され、適合する内容にまで変化せられなければならなかった。だから若し我国体と民情とを無視して、強いて或西洋思想を日本に扶植しようとするならば、それは必ず失敗に了らざるを得ない。

併しながら一部の固陋なる国粋主義者の如く、西洋思想たるのゆえを以て、一も二もなくこれを異端邪説として排斥せんとするのは愚劣なる態度である。殊更他の長所に眼を閉じ、その美点を学ぶことを欲しない者は、文化の進運に遅れ、遂に世界の落伍者たること必定である。それと同時に舶来の文物制度たるのゆえを以て、悉くこれに心酔し、これを踏襲し、これを模倣することを以て能事了れりとする者も亦憫殺に値するものである。吾人が西洋に学ぶのは、西洋のためではなくして日本のためである。祖国の興隆、発展、進歩を増就するがためである。だからそれは常に厳密なる用意の下に、取捨選択を誤らないことが何よりも肝要である。

殊に心すべきことは、被治者階級たる一般民衆の熟望する西洋思想を、治者階級たる権力者が拒否することによって屡々発生する内部党争の激化である。民衆が外来物を歓迎するのは、内在物に不満をもつからである。彼等は国内に得んと欲して得る能わざるものを国外に求めようとするのである。その点に於て思想も商品も何等異るところはないのである。然るに若し権力者がこれを察せずして、民衆の欲望を強いて阻止しようとするならば、そこに必ず怨嗟憤激の声を聴き、険悪なる事態を発生せずしては已まないのである。為政者、経世家の第一の要務は、民衆が何を求めつつあるかを速に察し、速に与えることである。だがそれは既述の如く我国体と民情とに適合し、真に克く国家の興隆と社会の進歩と文化の向上とに貢献する限りに於て行われなければならぬことは勿論である。要はいかなる西洋思想も必ず日本化されなければならぬ。それが日本化し得べきものなりや否やの鑑別と、日本化する手際の巧拙如何が、為政者及経世家の能否を決定する試金石となるのである。

私は日欧交通の開始以来、我国に伝来して最も多くの波瀾を生んだ西洋思想として三つを挙げることができると思う。第一は耶蘇教であり、第二は自由民権思想であり、第三は社会主義である。そこで私は今之等の三思想が、いかにして伝来したか、いかにして受容されたか、又いかにして日本化され、又されなければならぬかに就て概観しようと思う。併しこれは主として史実の研究であって、必ずしも理非善悪の批判ではないのである。

耶蘇教は別稿「日本を発見した西洋人」中に記述した通り、天文十八年鹿児島に渡来したゼスイト教派の傑僧サヴィエーによって初めて日本に伝えられたのである。彼は日本人の極めて優秀なる民族であり、又知識欲の旺盛なる国民たることを認め、耶蘇教の伝道には最も適当なる国土であるとして、これを本国に報告したため、彼の帰南後間もなく多数の宣教師が渡来し、主として九州及京都附近に於て盛に布教を開始した。そして織田信長がこれ等の宣教師を優遇し、自由に協会や学校を建てて説教することを許したために、二三十年間に多数の信徒を得、有力な大名の中にも改宗する者が少くなかった。それと同時に通商貿易を目的として来航するポルトガル人やスペイン人も次第に増加するに至ったのである。

然るに次の秀吉の時代に初めて切支丹を禁止した。そして家康の時代になって再びこれを許した。併し家康は耶蘇教を歓迎したのではなく、ただ西洋人との通商貿易を歓迎したのである。そこで家康の時代に以前のポルトガル人やスペイン人ばかりでなく、新にオランダ人やイギリス人も続々渡来し、同時に此方からも御朱印船と言われた貿易船が沢山南洋、印度方面へ出かけて行き、一時南蛮人、紅毛人を相手とする通商貿易が盛に行われたのである。ただ困ったことには切支丹と海外貿易とは、いかにしても引離すことの出来ない関係にあった。徳川政府は貿易は大に歓迎したのであるが、切支丹は決して歓迎したのではない。むしろこれを禁止したかったのである。だがそれを禁止しようとすれば勢い貿易も禁止しなければならない破目に立ち至った。そこで結局双方共禁止することになり、遂に家光の時代にそれが実現されたのである。只オランダと支那だけは例外として許されて居ったが、それも長崎以外の港で商売することは絶対に許さなかったので、随分窮屈な制限を受けながら、辛うじて命脈を維持したのである。だから大体に於て日本は徳川家光以後明治維新に至るまで約二百数十年間、西洋との国際関係を断絶したと言ってよいのである。

そこで日本が鎖国以前に西洋人との交通によって何物を得たかを回顧するに、最も重要なものが二つある。一つは鉄砲であり、他は耶蘇教である。鉄砲は思想問題に直接の関係がないから省略して、耶蘇教のみについて考えると、耶蘇教は僅か百年足らずの間に殆ど日本全国に弘まった。これを宣教師の側から見れば、日本の如き相当に文化の程度の高い民族、殊に神道、仏教の如き古い信仰を伝統的に持っているこの国民に対して、全く新らしい宗教を伝道した彼等としては、非常な成功であったと言ってよいのである。その当時日本に幾何の耶蘇教徒が居ったかということは、勿論正確には解らないが、少くとも六七十万人を下らなかったであろうと察せられる。最も多かったのは九州、それにつづいて京都を中心とした畿内地方であるが、尚江戸から仙台方面、中国筋から北陸地方にも一時相当多数の信徒が居って、意外に広く各地方に行渡っていたのである。

かく耶蘇教は非常な勢を以て日本国中に弘まったのであるが、当時その信徒になった者は大部分下層階級の人々であった。勿論大名の中にも多少の信徒はあった。例えば九州の大友宗麟、大村純忠、有馬晴信等は有名な切支丹大名であり、又摂津高槻の城主高山右近の如きは最も熱心な信者であった。有力な大名の中にも黒田如水、小西行長等があり、細川忠興夫人の如きも固い信仰の持主であった。織田信長は自身信徒になったわけではないが、宣教師を非常に優遇して、伝道上に大なる便宜を与え、保護を加えた。伊達政宗の如きも自身洗礼はうけなかったにせよ、一時は耶蘇教を保護し、スペイン生れのソテロという宣教師を江戸からわざわざ仙台まで伴れて行って、伝道上に種々なる便宜を与えたのである。

かくの如く大名中にも耶蘇教を奨励したものは少くなかったが、併し彼等の多くは真実耶蘇教を信仰したのではなく、むしろ之を自己の政治上の野心に利用しようとしたのである。つまりそうすることによって新鋭の武器を得又は通商の利を占めようと図ったのである。そこで実際の信仰から耶蘇教徒になった者は殆ど全部下層階級即ち今日の所謂小市民、農民及労働者の類であった。これ等の人々の間には救世主キリストのためならば水火も辞しない。いかなる憂目にあっても決して所信は翻さないというような熱烈な信仰の持主が頗る多かったのである。徳川幕府が怖れたのは実にこの大衆の強い信仰であった。天子よりも将軍よりも、日本固有の神よりも仏よりも、只キリストや聖母マリヤを尊崇し、それがためには何時でも喜んで命をすてると云うような多数人の強い信仰と烈しい熱情が、当時の政治家を恐怖させた。少くも非常に警戒の念を起さしめたのである。そこで早くこの耶蘇教を禁止しなければ、結局日本は耶蘇教徒のために奪われ、耶蘇教国に征服されるかも知れないと云う恐怖心を起させ、終に断然禁止の方針を取るに至ったのである。

右の如き恐怖が真実の根拠をもっていたか、或は単に杞憂に過ぎなかったかは、容易に判断し難い問題であるが、併しそれはいずれにしても、徳川幕府をして遂に鎖国の挙に出でざるを得ざらしめた罪は、主として当時来朝した宣教師の負うべきものであった。何となれば彼らは余りにも日本の伝統を無視し、しばしば信徒を煽動して神社仏閣を焼燬せしむるが如き手段に出たからである。由来目的のために手段を選ばないのは、ゼスイト教派の特徴であった。詐術を弄して有司の眼をくらますが如きは彼らの常套手段であった。要するに彼等は真の日本人を理解せず、従って彼等の教義と伝道方法とを日本化するの用意を怠ったのである。だからこそ当初熱心に西洋との交通貿易を希望した徳川幕府も、一切の国際関係を断絶するの已むを得ざるに至ったのである。

明治維新に至って日本と西洋との国際関係は再開された。その結果西洋から種々なるものが一時に伝来したが、就中最も重要なるものが二つあった。一は機械であり、他は自由民権思想であった。ここに所謂機械とはつまりそれによって代表される西洋の物質文明一般を指すのであるが、この機械と自由民権思想とは、恰も過去の鉄砲と耶蘇教とに相当するものである。耶蘇教も維新後再び伝来したが、併しそれは既往の如くゼスイト教徒によってでなく、プロテスタント教徒によってであったために、比較的早く日本化され、有益物として歓迎はされなかったとしても、少くも無害物として放任され且それによって我国民の教化訓育の上に多少の貢献をなさしめることができた。その代りに新に輸入された自由民権思想が大問題を惹起し、爾来二十有余年間、幾多の政治的紛乱の因を為したのである。

日本人にして初めて西洋の議会を参観した者は、万延元年――伊井大老の殺された年――に日米条約批准交換のために渡米した新見豊前守、村垣淡路守等の一行であった。彼等はアメリカの首府ワシントンの議会を訪ねて、議事の状況を参観したのであるが、当時の感想を村垣淡路守が日記に書いておるのを見ると、「股引、腹掛にて大音に罵るさま、副大統領の高き所におる体など、我日本橋の魚市のさまによく似たり」と言っておる。アメリカの議員たちも、魚河岸の兄イ連と同一視されては、聊か迷惑したかも知れない。

その直ぐ翌年に福沢諭吉が竹内下野守、松平岩見守等に随行して欧羅巴に渡航したが、その際プロシヤの議会を参観した時の感想が『福翁自伝』の中に見えておる。それによると、党派が敵味方に分れて盛に喧嘩口論し、それが一段落すむと、敵味方一緒にテーブルを圍み、酒食を共にして談笑するのは、何の事だか訳がわからなかったという意味を記している。福沢諭吉にして尚且然りであるから、当時の日本人には、未だ議会政治の意義を理解することはできなかったに相違ないのである。

併しそれでも維新当時には、西洋の政治状態について熱心に新知識を求めていた人は、先覚者中に少くなかった。その結果次第に立憲政治の組織や国民の参政権の意義が朧げながら理解されて来たのである。中でも福沢諭吉の『西洋事情』、加藤弘之の『国体新論』、中村敬宇の翻訳した『自由の理』、中江兆民の翻訳した『民約論』等の著述は知識階級の間に愛読され、我国民は漸く自由民権の何物たるかを会得するに至った。それと同時にこれを是非とも我国の政治上に実現しようとする運動が勃興し来ったのである。

その当時政府の方針は如何というに、慶応四年(明治元年)三月に、明治天皇によって五箇条の御誓文なるものが煥発された。そして其第一ヶ条に「広く会議を興し万機公論に決すべし」と宣言された。これによっても推察される通り、政府は立憲政治を我国にも実施しようという意志だけはもっていたのである。併しそれは単に将来の方針であって、今直に国民の選挙によって成立する議会に立法権を付与しようというようなことは、未だ思いも寄らなかったのである。だが、いかなる国、いかなる時代に於てもそうであるように、責任の地位にある政治家の意見は常に漸進論である。なるべく急激な改革は避けようとするのである。然るに野にあって政治運動を行う者の意見は常に急進論である。政府のやり口を生温いとして盛に攻撃するのが通例である。そこで明治六年頃から、廟堂に立って権力を掌握しておった藩閥政治家、即ち大久保利通や木戸孝允等を中心とする薩長聯合政府に対して、土佐の後藤象次郎、板垣退助、肥前の江藤新平、副嶋種臣等が野に下って、憲法発布、議会開設運動を開始した。そして政府の漸進主義と民間の急進主義とが茲に正面衝突をするに至ったのである。尤も之等の人々の中でも真剣にこの運動に熱中したのは恐らく板垣だけであって、他の連中は、一時の不平から政府に反抗し、大久保や木戸を困惑せしめようとする策略に過ぎなかったとも察せられるが、併しとにかくこの運動は民間の志士論客の間に大に歓迎され、年と共にますます熱烈なる運動にまで展開して行ったのである。明治十一年五月に大久保が暗殺されたのも、その第一の原因は彼が「民権を抑圧し、政事を私する」ということにあったのである。

大久保利通暗殺以後、自由民権運動、国会開設運動は、ますます殺気を帯び来り、徒に悲憤慷慨して過激なる言論を弄する者、或は一種の弥次馬気分で騒ぎ廻る者が年と共に増加した。しかもそれは真の意味の大衆運動でもなければ、又国民全体の支持を受けたわけでもなく、言わば有志家と称する一部の人々の権力反抗運動に過ぎなかった。故内田魯庵が当時の有様を回想した文章の中に次の如く書いておる。

「其頃の自由民権というのは、幕末の尊王攘夷の浪人気分に、佐倉宗五郎的の百姓一揆、直訴気分を加味した反政府運動であって、自由民権を馬印としていても、其言葉の内容はほんとうに理解していなかったし、又どうでもよかったのである。唯権威に反抗して悲憤慷慨し、大声壮語して反政府気分を煽るを快とする。剣舞でもするようなつもりの政治運動であった。」

これは聊か酷評であるが、真相はこれに近いものであったと想像される。だから政府に於ても容易に彼等の要求に耳を傾けなかったのであって、明治十二年に山県有朋の書いたものの中に、之等の運動を批評して「民権を主眼とし、政事を誹謗し、官吏を罵詈し、暴論誹議到らざる所なし。以て四方不平士族を誘惑し、禍害を天下に蔓延せん」といっており、又同じ年に伊藤博文が明治天皇に奉った上奏文の中にも「近頃頻りに道路の説を聞くに、失意の旧官吏、不平の士族等、陛下叡旨の在る所を察せず、党類を結合し、名を民権に仮託して衆庶を煽動し、政府を誹議し、漫に政体を変革せんと謀る者あり」という辞句が見えておる。之等によって当時の政府当局が、いかなる眼を以て、この運動を観察しておったかが解るのである。

併しながら当時の憲政運動が全く国民大衆と没交渉であったと断ずるのは早計である。運動の表面に立つ者はいつの場合に於ても比較的少数者である。併しながら国民大衆は自ら意識せざる或物をしばしば要望するものである。そしてこの大衆の無意識的要望を代表する若干人がその時代を指導し、普遍意思を具体化する役割を演ずるのである。勿論当時の憲政運動は無産階級の解放を目的とするものではなく、寧ろ中産インテリ階級の自由主義、民主主義運動であった。しかもそれは我国の社会発展過程に於ける必然の段階であった。時代は未だ無産階級運動を出現せしむるまでに進展していなかった。それは次の時代まで待つべきものであった。

然るに徳川幕府を倒壊して維新の大業を完成する歴史的任務に服した者は実に中産インテリ階級とも見るべき諸藩の青年武士であった。しかも今や彼等は廟堂の権力把持者である。従って彼等は本質的に憲政反対論者ではなかった。要は唯時期の問題であって、政府に於ても憲法を制定し、国会を開設するという意志は十分もっていたのである。乃ち明治九年に明治天皇は当時元老院議長であった有栖川熾仁親王を御前に召されて、憲法の立案を命ぜられた。そこで熾仁親王は元老院議官の福羽美静、細川潤次郎等を起草委員に任じて、明治十一年に最初の憲法草案ができ上った。その中には「国民は法律に於て平等とす」とか「人身の自由は侵すべからず」とか「国民は平穏に集会するの権又は会社を結ぶの権を有す」というが如き条項も見えており、又国会に関しては「帝国議会は元老院及代議士院より成る」、「代議士院は法律を以て定めたる選挙の規程に由り選挙する所の代議士を以て成る。但人口十五万に付き少くも一名を出すべし」というが如き条文も設けられておった。この草案は内容が余りに急進的であるというので採用はされなかったが、併し其後に於ても政府は憲法を制定し、国会を開設するために相当の調査研究は引続き行っておった。ただ民間の運動が余りに過激であったために、余程慎重な態度を取っていたのである。

ところが明治十四年十月十二日、突如として国会開設の詔勅が煥発された。明治天皇は約二ヶ月半の間東北地方から北海道を巡幸されて後帰京になったのが十月十一日であったが、すぐその翌日この重大なる詔勅が発せられたのである。それは即ち明治二十三年を期して議員を召集し、国会を開くべきことを国民に宣布されたものである。これは全く寝耳に水と言ってもよいほどに、思いがけなく発せられた詔勅であった。その裏面には複雑な理由があったのであるが、要するにそれは政府の方針が急に進歩したからではなく、廟堂に於ける一種の権勢争奪の結果に過ぎなかったのである。具体的に言えば、岩倉具視、伊藤博文、黒田清隆等の漸進論者が、急進論者たる大隈重信を排斥するための一つの非常手段であって、右の詔勅発布と参議大隈の罷免とは同日に決行されたのである。

然らばこの詔勅の発布と共に、民間の運動が鎮静したかというと、結果は寧ろ反対で、一層火の手が強くなったのである。板垣はその当時自由民権運動の大立者として、すばらしい人気を背負っていたが、彼が中心となって自由党を組織したのが、明治十四年十月十八日、即ち詔勅発布の僅か一週間後であった。自由党は当時の極左翼であって、民権運動の尖端に立った。そしてその翌年の三月には大隈が改進党を組織したが、これは自由党に比較すると幾らか右翼であった。そしてこの両党は共通の目的をもちながら互に排撃し合ったのであって、その関係は現代に於ける無産政党相互の関係によく似ておった。だが、いつでも大衆の間に人気のあるのは左翼の急進論であって、自由党の評判は改進党のそれよりも遙によかった。明治十五年四月六日板垣が岐阜の演説会場に於て相原という一小学教員のために刺された当時の如きは、彼の人気は沸騰点に達し、所謂「板垣死すとも自由は死せず」の一言は天下に鳴り響いたのである。

其頃の運動の目標はつまり国会即行論であった。明治二十三年を待たずに、即時憲法を発布し、議会を開くべしという要求であった。そしてこの運動を抑圧する政府官僚を暴逆なる圧制者として罵倒し攻撃した。しかも彼等は単なる言論のみを以て満足せず、しばしば直接行動に訴えた。副嶋、越後の高田、群馬、信州の飯田、名古屋、静岡等に於て、或は県令に反抗して暴動を起し、或は要路の大官の暗殺を計画し、或は暴力によって政府の転覆を企つるが如き事件が頻々として起ったのであるが、之等は概ね当時の自由党員によって計画されたものである。これも目的や手段は多少異るにせよ、近時の共産党員や右傾血盟団のやり口に余程似ておるのであって、権力に対する反抗運動は、いつの時代に於ても大抵同一の形態を取るものであることが解るのである。

かかる騒擾の間に、政府はいよいよ本気に憲法制定の準備に着手し、明治十五年には伊藤が洋行して欧米の立憲政治を調査し、翌年帰朝して間もなく憲法の起草に着手し、それがいよいよ確定して明治二十二年二月十一日に発布され、その翌年から実施されたことは周知の事実である。

上来述べたところによって明かなるが如く、明治初期の政治家は、自由民権思想の激発には非常に悩まされたのである。彼等は最初から理論的に立憲政治を否定したのではないが、ただ余りに急進的な立憲運動を抑制するために大なる苦心を払わなければならなかった。併しながら彼等は西洋の物質文明を拒絶することはどうしてもできなかった。何となれば彼等は機械が欲しかったからである。日本を経済的に又軍事的に発達せしめて、所謂富国強兵の実をあげるためには、どうしても機械力を利用するより外はなかったからである。戦国時代に一部の大名が耶蘇教を歓迎したのは耶蘇教よりその実鉄砲が欲しかったからである、明治初期の政治家も自由民権思想は甚だ迷惑であったが、機械が欲しかったのである。だが機械を得ようと欲するならば、自由民権思想も拒絶するわけには行かなかった。そこで彼等は機械を得る必要上自由民権と妥協するに至ったのである。乃ち彼等は極めて程度の低い自由民権を国民に与えることによって立憲政治の態裁を保とうとしたのである。最初衆議院議員の選挙権を与えられた者は、国税十五円以上を納める者で、全国の有権者は僅か四十五万人に過ぎなかった。かくの如き制限選挙では国民に参政権が与えられたとは言え、極めて狭隘なる自由民権であって、今日のデモクラシーの思想から言えば、頗る低級なものに過ぎなかった。併し一度許した以上最早これを取消すわけに行かないのみならず、時代の大勢に支配せられ、次第にその範圍を拡張するの止むなきに至ったのである。そこで明治三十三年に選挙権者の納税額を十円に引き下げて有権者が約百万人に増加し、更に大正八年には三円に引下げて有権者が約三百五十万人に増加したが、世界大戦後に至り、デモクラシーの思想が益々浸潤した結果、遂に大正十四年に普選法が発布されて、有権者が一躍千二百五十万人に増加したのである。

かくの如くにして我国に於ける民主主義的議会政治の形態だけは一先ず完成するに至った。併しながらその現実的効果は余りにも期待に反し過ぎた。所謂憲政の常道たる二大政党の交互政権授受は、政党の信用を向上せしめずして却て失墜せしめた。彼等は財閥と結託して利権漁りに吸々とし、選挙の勝敗は一つに買収費の多少によって決定せられ、党首の選定は党費調達力の有無によって左右せられ、一切の政策は党利党略によって割出され、党人の眼中には私利あって更に公益なきことが公然曝露されるに及んで、国民は全く彼等に愛憎をつかしたのである。今や国民は国家の大事を党人に委ねることのいかに危険なるかを明察し、政党政治の害毒の遂に救うべからざることを痛感しておるのである。

併しながら政党政治の立脚地は議会政治にあり、(1)議会政治の基礎は民主主義にある。このゆえに議会政治の内容を革新することなしに政党政治の弊害を除去することは不可能であり、民主主義の缺陥を矯正することなしに議会政治の革新を行うことは不可能である。病源は実に民主主義そのものの胎中にあるのである。由来民主主義は個人主義の産物である。個人主義は個人の権威を尊重し、個人の自由を確保し、個人の価値を平等視し、一切の制度、一切の問題を個人の利益を本位として考究批判するところの社会哲学である。そしてこの個人主義を根柢として成長した二つの幹が民主主義的政治形態と資本主義的経済機構であった。だからこそ世界に於て最も個人主義的であるところのイギリス国民の間に、最も早く且最も多く民主主義と資本主義とが興隆発展したのである。自由民権思想は要するに個人主義に胚胎する政治思想であった。だからそれは同じ個人主義に胚胎する資本主義と必然的に結びつくべきものであり、又結びついたのである。個人主義全盛時代であった第十九世紀が、同時に民主主義と資本主義との全盛時代であったことは固より偶然ではなかったのである。

然るに我日本国民の伝統的精神は由来個人主義でない。遙にヨリ多く全体主義或は国家主義である。全体のためには部分を没却し、国家のためには個人を犠牲とすることを厭わないのみか、むしろそれを正当視する国民である。だからこそ一死君国に報ぜんとする意気が烈々として国民の血脈を流れているのである。従ってかかる国民精神に適合するところの政治形態のみが真に日本的であると言えるのである。現在の民主主義的議会政治は西洋の個人主義的思想の産物であって、国家主義的思想の産物でない。だからこれを我国に実施するに当っては、須らく先ずこれを日本化することが何よりも肝要な用意だったのである。然るに学者も党人も官僚も深くこれを察せずして、一概に西洋伝来のデモクラシーの理論に眩惑され、これを日本化することの用意を忘れたことが、現時の党弊を醸成した最大の原因である。固より私は国民の総意を代表する機関としての議会そのものの存立を非認しようとするものではない。ただそれを個人主義的政治理論の上にでなく、国家主義的政治理念の上に再建すべしと主張するのである。古代羅馬人の国家主義的精神を景仰するイタリーのファッシストは既に個人主義の迷夢から覚め、民主主義的議会政治に根本的改造を加えた。以て他山の石となすべきではないか。

最後に我国に伝来した西洋思想は社会主義である。社会主義が初めて日本に紹介されたのは明治三十年前後であった。然るにそれは最初から権力階級によって危険視された。恰も豊臣徳川時代に耶蘇教が危険思想とされ、明治時代にデモクラシーが危険思想とされたように、現在では社会主義が危険思想とされているのである。だが忘れてならないことは、或時代の危険思想は屡々次の時代の安全思想と化することである。例えば欧洲大陸に於ても第十八世紀の危険思想であった民主政治は第十九世紀の安全思想となり、第十九世紀の危険思想であった新独裁政治は、現にロシヤやイタリーの安全思想となった。我国に於ても徳川時代の危険思想であった耶蘇教は明治時代の安全思想となり、明治時代の危険思想であったデモクラシーは、昭和時代の安全思想と認められておる。だから現代の危険思想たる社会主義が来るべき次の時代の安全思想とならないことを、誰が保證できるであろうか。

それはとまれ、明治三十年以降歴代の政府は、社会主義者を迫害することに余力を惜まなかった。彼等はいやしくも社会主義の臭いのするものは徹底的にこれを弾圧する方針を取った。殊に明治四十三年の幸徳事件以来一層それが激しくなり、社会主義に関する図書、論文の発表は絶対にこれを許さず、学校や図書館に於ても社会主義文書の閲覧を禁止した。社会主義者の公然たる結社集会の如きは全く不可能であった。ひとり社会主義のみならず、「社会」なる文字さえ忌諱に触れ、社会学や社会政策すらも屡々危険視され、現今到る所の公官署に存する社会局、社会課の如き名称もこれを用いることを得なかったのである。

然るに右の如き明治の末年から大正の初期に至る極端なる方針は、大正八年原首相、床次内相の下に於て少しく緩和された。乃ち社会主義を宣伝し或はその実行を企つるが如きは固よりこれを許さないが、ただ単に社会主義を学術的に研究し紹介するだけならば敢てさしつかえないということになったのである。尤もかかる布告が公然発表されたわけではなく、内務当局の図書検閲に対する手心が右の如く変化したまでである。

だがその結果は実に驚くべきものがあった。日本は大正八年を劃期として忽ち社会主義的出版物の洪水に見舞われたのである。それは同年中に従来絶対に許されなかったマルクス資本論の訳書が三種も出初めたことによっても想像されるであろう。そのほか此年にマルキシズム其他の社会主義理論を解説批判することを専門とする雑誌が数種創刊され、又「改造」、「解放」等の如く必ずしも社会主義専門雑誌ではないにしても、好んで左翼的理論を満載した雑誌が、やはり此年に創刊されたのである。爾来年を重ねるに従い、各種の社会主義的文献はますます多量生産され、書肆の店頭はこれを以て填められる観を呈したのである。

惟うに政府が右の如く社会主義的文献に出版の自由を与えたのは、固より社会主義を是認したのではないが、ただそれが現代に於ける最も重要なる社会思想であることは否定し得ないから、我国民に対してそれに関する知識を閉鎖することは不合理でもあり又不可能でもある。だから秘密出版又は秘密結社の如き非合法の手段によってそれが宣伝されるよりも、寧ろ公然その研究及発表を許すことの方が、害が少く且取締りに便でもある。こういう信念に基いたものであったと私は想像するのである。

右の如き想像が当っておるとするならば、私はそれを正当視するに躊躇しない。だが、これを結果について見るならば、政府は我国に於ける社会主義運動の勃興に多大の奨励を与えたのも同様であった。何となれば大正八年以降に於て社会主義の宣伝及実行を目的とする諸運動が急激に進展し来たったからである。現に大正九年には社会主義同盟なるものが組織されて、我国に於ける社会主義者及労働運動家の大同団結を結成した。狼狽した当局は間もなくこれに解散を命じたが、併し一度堤防を破って溢れ出た水は到底本に帰るものではない。社会主義同盟の解散と共に、その一味の人々は直に労働組合或は農民組合運動に転向し、大正十年以降我国の無産階級運動はいずれも急激に左傾し、労働条件の改善や社会政策の進歩の如き改良主義的運動を放擲し、ひたすら社会革命運動に向って突進するに至ったのである。しかのみならず一部の学者や思想家は、単に社会主義を科学的に研究するのみを以て満足せず、青年学徒を指導して革命の実現を目的とする秘密結社を学内学外に組織し、潜行的運動を開始した。その結果間もなく大正十二年の第一次共産党事件となり、続いて難波大助の虎の門事件が起り、大正十四年には京都大学生の検挙となり、更に所謂三・一五事件、四・一六事件等が続発して、大に天下の耳目を聳動したことは誰も知る通りである。

更めて説くまでもなく、現時に於ける社会主義運動の二大潮流は社会民主主義と共産主義である。そして世界各国の無産者団体は、この両陣営に分離して互に対立抗争を事としておるのであるが、我国に於ても其例に洩れず、この両者の対立は年を逐うて尖鋭化し、殊に大正十四年以降無産政党の出現するに及んで、合法的運動を可とする旧社会民衆党並にそれに加盟する労働組合及農民組合は社会民主主義を標榜し、非合法的運動に趨った日本共産党並にこれと気脈を通ずる労働者、農民、学生及文芸家の諸団体は共産主義を信奉し、互にその陣営を固守して現在に至ったのである。数に於ては前者が遙に多数であるが、戦術の巧妙にして運動の活溌なることに於ては、後者が遙に優れ、いかなる弾圧を蒙っても尚執拗果敢なる運動を休止しないのである。

然るに最近に至り、上記二種の社会主義のほかに、今一つの社会主義が我国に出現した。それは即ち国家社会主義なるものである。これは資本主義を打倒して社会主義を樹立することを目的とする点に於ては、社会民主主義や共産主義と異るところはないが、ただ何故に社会主義を必要とするかという理由が、これ等のものとは著しく相違するのである。それを要約すれば社会民主主義が個人主義に立脚し、共産主義が階級主義に立脚するに反して、国家社会主義は国家主義に立脚するということである。社会民主主義が全国民に参政権を平等に賦与し、デモクラシーを基礎として社会主義を実現しようとするのは、一見甚だ合理的な主張のようではあるが、併しその主張の由って来たるところは個人主義にあるのであって、あくまでも個人の価値を尊重し、個人の権威を強調し、何人も他人のために犠牲に供せらるべきものでないという思想が根柢をなしているのである。だから社会民主主義が資本主義を非認するのは、それが国家のために有害であるという理由に基くのではなく、又社会主義を是認するのは、それが国家のために必要であるという理由に依るのではなく、前者は個人のために有害であり、後者は個人のために必要であるという論拠から出るのである。だから要するに社会民主主義は個人主義的社会主義であると言ってよいのである。

次に共産主義は無産階級独裁を主張するものであるが、それは資本主義を以て有産階級が無産階級を圧制搾取するための制度と解し、社会主義を以て無産階級が有産階級を圧制略奪するための制度と解するからである。乃ち共産主義が社会主義を必要とするのは、それが全国民のために幸慶であると信ずるからではなくて、無産階級だけの解放と福利とに缺くべからざる手段と見るのである。この意味に於て共産主義は階級主義的社会主義と呼んで然るべきものである。

然るに国家社会主義はこれ等と異り、個人や階級を超越して、全国民の社会即ち国家のために資本主義を害悪と認め、これに代えるに社会主義を以てすることが、国家そのものの隆昌発展のために必要缺くべからざる手段と認めるのである。勿論社会主義の実現によって救われること最も多き者が無産階級であるには相違ないが、併しそれは自然の結果がそうなるに過ぎないのであって、特に無産階級だけのために、社会主義を要望するのではないのである。国家社会主義者の第一の願望は国家そのものの安寧、福祉、興隆、発展にある。従ってあらゆる個人も階級も国家のためには進んで犠牲を払い、決して利己的に行動すべからざることを要求するのである。ここに国家社会主義の特徴があるのである。

この国家社会主義は我日本に生まれた独特の思想である。それは我日本国民が古来伝統的に国家主義の精神に富んでいるからである。国家主義も亦経済組織としての社会主義を主張するものであるから、その限りに於ては西洋思想の影響を受けたことを否定できない。だが、それは毫も耻ずべきことでない。何となれば、たとい西洋の思想であり制度であっても、その長所を摂取して我国運の発展に寄与することは、吾々の当に努むべきところだからである。若しそれをしも拒むべしとするならば、吾々は世界文化の圏外に取り残され、鎖国時代に復帰するほかはないのである。

今や資本主義の矛盾並にそれが国利民福に及ぼす害毒は、いかにしても弁護すべからざるものとなった。それを排除することは一箇の国民的使命である。併しながら個人主義を基調とする社会民主主義や、階級主義を固執する共産主義は、外国に於ては知らず、独り我日本に於ては国体及民情に適合しないものであって、到底成功の可能性なきものである。ただ国家主義を根柢とする国家社会主義のみが、真に日本的な社会主義であって、これによらずしては、現下の経済国難を救う途はないのである。

我日本国民は最初に耶蘇教を危険思想としたが、終にこれを安全化した。次にはデモクラシーを危険思想としたが、これも亦既に曲りなりに安全化された。残るところの危険思想は社会主義であるが、これも亦遠からず安全化さるべきを疑わない。そしてそれを安全化する唯一の方法は、国家主義と社会主義との契合即ち国家社会主義以外にはあり得ないのである。


底本:林癸未夫『西洋思想の日本化』(章華社、昭和七年)

注記:

本データは原文を新漢字新仮名遣いに改めた「高畠素之選集(新版)」です。旧漢字旧仮名遣いのデータは「偏局観測所(旧版)」をご利用ください。

(1)、:底本は「。」に作る。

改訂履歴:

公開:2008/12/28
最終更新日:2010/09/12

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