巻頭に

林癸未夫


本書に収めた諸論文のうち、最初の「西洋思想の日本化」だけは今回新に執筆したものであるが、他の十六篇は曾て早稲田政治経済学雑誌、中央公論、経済往来、新潮等の諸雑誌に発表したものである。(但し標題を改めたものもあり、又多少辞句を添削したものもある。)

これ等の諸論文の学的価値は読者の批判に任せるよりほかはないが、私自身に取っては今日尚捨て難く思うものである。私の過去に於ける研究、思索、業績の一部分がここに名残を留めておるという意味で、私に取りてはなつかしい追憶の種でもあり、又自分の精神的成長の回顧でもある。例えば私は「近代支那の社会思想」の一篇によって、支那の革命運動に警醒せられ、その思想的淵源を探らんがために、東洋哲学に関する典籍を読み耽った当時を思出す。又私は「暦の文化史観」の一篇によって、暦が人類の社会生活に及ぼす影響の少からざるを察し、ひいて東西古今の暦の変遷に異常の興味を覚え、古暦を収集するために、しばしば古本屋の店頭を漁った当時を思出す。又私は「経済史料としての記紀神代編」の一篇によって、日本に於ける工業の起原に関する研究から、進んで太古日本人の経済生活一般を知りたいという慾望にかられ、頻に人類学や考古学の文献に親んだ当時を思出す。又私は「日本を発見した西洋人」の一篇によって、日欧交通史料を母校の図書館に蒐集することに努めたり、或は切支丹や南蛮人、紅毛人の遺跡を探るため、長崎、島原等に旅行した当時を思出す。又私は「芸術至上主義なるものはあり得るか」以下の文芸論五篇によって、プロレタリヤ文芸運動の勃興に刺激せられ、柄にもない文芸論を頻に振り舞わしていた当時を思出す。だが今やそれ等はすべて過去のものとなった。現在の私の関心は冒頭に掲げた「西洋思想の日本化」の末節に略説した国家社会主義の理論的建設に傾注されている。

由来学者的天分の菲薄なるにも拘らず、余り多くのものに興味をもち過ぎるのが、明かに私の缺点であると同時に又それが一個の人間としての私の持味でもあるかも知れない。いづれにしても私は私自身に与えられ且開かれる途を歩んで行くよりほかはない。最後に辿りつく所がどこであるのか、それは自分にもわからない。

昭和七年九月二十四日

著者


目次


  • 西洋思想の日本化
  • 近代支那の社会思想
  • 一元的国家論者としてのアダム・ミュラー
  • マルキシズムに於ける理論と行動の矛盾
  • 農村の自治自救は可能なりや
  • 経済史料としての記紀神代編
  • 暦の文化史観
  • 日本を発見した西洋人
  • ツンベルグの日本文化観
  • 切支丹処分問題の廟議
  • 芸術至上主義なるものはあり得るか
  • ブルジョア文学とプロレタリヤ文学との本質
  • 文学に於ける個人性と階級性
  • 無産階級文芸に於ける目的意識
  • 無産階級文学に於ける理論と作品
  • 龍之助と公太郎
  • 六本の柱の話

底本:林癸未夫『西洋思想の日本化』(章華社、昭和七年)

注記:

本データは原文を新漢字新仮名遣いに改めた「高畠素之選集(新版)」です。旧漢字旧仮名遣いのデータは「偏局観測所(旧版)」をご利用ください。

改訂履歴:

公開:2008/12/28
最終更新日:2010/09/12

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