高畠素之紹介

高畠素之(たかばたけ もとゆき、Takabatake,Motoyuki。1886年1月4日 - 1928年12月23日)は、群馬県高崎市の産。いくつもの顔を持った人物で、翻訳家であり、国家社会主義者であり、社会主義者であり、国家主義者であり、社会評論家であり、経済評論家であり、経済学者であり、社会思想家であり、政治思想家であり、政治活動家であった。しかも戦前戦後を通じての便利な概念、右翼と左翼の両者に出入していた人物でもあり、容易にその立場を明らかにし難い性格を併せ持つ。

略歴をあげると、高崎中学(旧制)時代に神童の名で呼ばれ、秀才振りを発揮。高崎市と宣教師との関係もありクリスチャンとなる。実家の財政状態と信仰心から、同志社大学神学部に入学。しかし直ぐに時代の影響を受け、社会主義思想に染まり、一年余りで同大学を退学。郷里に帰り、遠藤友四郎(無水)らと『東北評論』を発行。堺利彦らの赤旗事件を記事にした廉で逮捕投獄。禁錮2ヶ月となる。獄中で英訳『資本論』を読み、ドイツ語の独習を開始する。

出所後、名古屋、京都、神戸を転々として貧乏生活を送るが、1911年、堺利彦の薦めで売文社に入社。以後、地道にマルクス経済学の研究を行う。 1915年、第一次世界大戦で日本の社会状況が変化すると、堺利彦は、高畠素之、遅れて入社した山川均とともに『新社会』を創刊。山川均と高畠素之とは、堺利彦の左右大臣と呼ばれ、また大杉栄を加えて、売文社の三傑とも言われた。高畠は、堺利彦の薦めから『新社会』でカウツキー『カール・マルクスの経済学説』(邦題『資本論解説』)を翻訳連載し、マルクス経済研究者としての地位を確立する。この頃の高畠は、社会主義陣営中、最もドイツ語に堪能で、最も勉強家であり、随って堺から最も期待されたマルキストであった。

第一次世界大戦、ロシア革命の勃発とともに、日本の社会状況も変化し、社会主義思想に人気が集まる。高畠はこの状況の下、1918年に「政治運動と経済運動」を発表し、社会主義運動はゼネラルストライキによる革命(経済運動)のみではなく、議会進出をも視野に入れた政治運動を容認すべきだとの見解を表明した。しかし、従来経済運動一点張りであった社会主義陣営内部での意見は分かれた。特に高畠とその関係者が、山川均らを出し抜くためにこの種の方向転換をしたと考えられ、高畠の主張は社会主義陣営に広く支持されることはなかった。しかし高畠は自己の支持者とともに『新社会』誌上で所信の主張を強行。結果的に、高畠は堺利彦の抱き込みに失敗し、アナーキズム的立場を保持した山川均や荒畑寒村と分離し、国家社会主義という政治運動を行うことを決意する。

国家社会主義を主唱した高畠は、さっそく『新社会』を『国家社会主義』に解題して実践運動に乗り込んだ。その創刊号(実際は第2号)には高畠みずから「労働者に国家あらしめよ」と題した巻頭論文を執筆、いかに国家社会主義者が国家を尊敬しているか、いかに無害有益な存在であるかを力説した。しかし、精一杯国家に阿った創刊号が発禁を受けたのみならず、すぐに経営難に陥り、僅か4号で『国家社会主義』を廃刊せざるを得なくなった。かくして、高畠の国家社会主義は、彼の思惑を大きく裏切る形で、事実上完全に失敗する。高畠はこれ以後も国家社会主義者を以て自任し、自己の立場を吹聴しつづけ、1920年から断続的に『大衆運動』(週刊新聞)、『局外』(第1~3次)、『週刊日本』(週刊新聞)、『急進』を刊行し、また『やまと新聞』や『随筆』『春秋』などの新聞・雑誌にも高畠とその一門が論説を執筆したが、遂に全国的運動となることはなかった。

高畠は国家社会主義を唱えた後、一時期、右翼団体に相当接近し、上杉慎吉と経綸学盟を結ぶなどしたため、社会主義陣営からは反動呼ばわりされた。しかしすぐに右翼集団とも距離を取り始めた。また右翼団体との関係を維持しつつも、社会主義を棄てなかったために、右翼陣営からは左翼だとして批判された。この高畠の微妙な立場は、高畠没後の国家社会主義運動にも影響を及ぼすことになる。

さて、国家社会主義者としての高畠は、事実上の敗北者であったが、翻訳家や評論家としての高畠はこれとは逆に甚だしく成功した。特に高畠の名を全国的に有名ならしめたのは、『資本論』の翻訳である。1919~1924年に『資本論』日本初の全訳に成功し、次いで1925~1926年に大幅な改訂を加え、最終的に1927~1928年に決定版として改造社版『資本論』が出版された。『資本論』翻訳者として高畠の名が売れると、自然と世間の注目が集まり、大正末期から全国区の雑誌や新聞にも投稿が目立つようになる。特に右翼でもなく左翼でもなく、そのどちらでもある高畠の立場は、世間に好奇を以て迎えられることになった。高畠独自の左翼・右翼批判、政治談義、マルクス経済の紹介から、文芸批評、闘犬趣味に至るまで、幅広い執筆活動を行っていたのはこの時期である。

高畠は、改造社版『資本論』の完成を以て『資本論』翻訳の仕事に句切りをつけ、一説にはいよいよ政治舞台に乗り出す予定であったとも言われている。 1928年5月には郷里前橋に凱旋帰郷し、「急進愛国運動の理論的根拠」を講演したが、これは同地での衆議院議員立候補の地ならしであったと噂された。しかし『資本論』翻訳でボロボロになっていた高畠は、同年半ば病に倒れ、恢復することなく同年12月23日に死亡した。享年43。葬儀には左右両翼から参列者が集まったという。皮肉なことに、高畠の主張した国家社会主義運動が全国的な盛り上がりを見せるのは、これ以後のことである。

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