石川氏の言論活動と政治活動を中心とした年譜である。家族に関することは記述しなかったが、政治活動を行っていた兄金次郎氏については少しく記述した。
年号 | 年 | 月 | 歳 | 事項 |
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明治 | 27 | 7 | 日清戦争の勃発。(~28.4) | |
32 | 6 | 岩手県盛岡市近郊(当時の岩手郡玉山村大字日戸)に生まれる。兄金次郎とは二歳違い。(金・現経) | ||
37 | 2 | 5 | 日露戦争の勃発(~38.9) | |
42 | 10 | 盛岡市油町に転住。(金) | ||
大正 | 3 | 15 | 第1次世界大戦(欧洲大戦)の勃発。 | |
6 | 11 | 18 | ロシア革命(3月~11月)の勃発。 | |
7 | 19 | 盛岡中学を卒業する。(共・現経) | ||
7 | 米騒動の勃発。 | |||
11 | 第1次世界大戦の終結。(8.1、パリ講和会議) | |||
8 | 20 | 早稲田大学(予科)に入学。 | ||
12 | 兄金次郎、牧民会(社会思想研究団体)を結成、これに参加する。(金) | |||
― | ― | 兄金次郎を介して高畠素之を知り、これに師事する。(金・現経) | ||
― | ― | 大杉栄の主宰する研究会に絶えず出席する。ここで国家有用論を説いて冷笑を買う。(中核・現経) | ||
― | ― | 大学では荒垣秀雄らと早稲田大学「新聞学会」、『早稲田大学新聞』を創設。荒垣とともに石川三四郎、安部磯雄、高畠素之らを招き、早稲田大学に行われていた初期「読書会」を牽引する。(早・転) | ||
9 | 6 | 21 | 高畠訳『資本論』第1巻(大鐙閣)が発売される。 | |
12 | 日本社会主義同盟が結成される。(牧民会は東北支部となる) | |||
23 | 2 | 24 | 『進め』が創刊され、その編輯にかかわる。 | |
9 | 関東大震災が起こる。 | |||
12 | 牧民会の解散。(金) | |||
13 | 25 | 早稲田大学政経学部(政治科)を卒業。(共・社・現経) | ||
7 | 高畠訳『資本論』(大鐙閣‐而立社)が完結。 | |||
9‐12 | 「自称マルキシストの非マルクス的国家論」(急進9月号)、「マルクス国家論に就ての一考察」(急進10月号)、「二種の似而非マルキシスト群」(急進12月号) | |||
14 | 1 | 26 | 「復帰コンミュニズム検討」(急進) | |
7 | 『マルクス経済学入門』を訳述出版。 | |||
15 | 7 | 27 | 『機能的社会国家論』を訳述出版。 | |
10 | 高畠訳『改訳資本論』(新潮社)の完成。資本論の会。 | |||
昭和 | 2 | 7 | 28 | 『マルキシズムの根柢』を訳述出版。 |
3 | 8 | 29 | 『内外社会問題調査資料』(内外社会問題調査所)の発行に関係する。(現経) | |
12 | 高畠素之の死に立ち会う。 | |||
4 | 2 | 30 | 『マルキシズム認識論』を翻訳出版。 | |
6 | 津久井龍雄らを中心に第2次『急進』が創刊される。 | |||
8 | 石川が中心となり、高畠の遺稿『マルクス経済学』を出版。 | |||
5 | 12 | 31 | 第2次『急進』廃刊。 | |
6 | 9 | 32 | 満州事変が勃発する。 | |
同 | 社会民衆党赤松克麿、石川準十郎、津久井龍雄らで日本社会主義研究所を結成。 | |||
10 | 国家社会主義の理論雑誌として『日本社会主義』を創刊。 | |||
11 | 下中彌三郎、満川亀太郎、近藤栄蔵らが経済問題研究会を発足する。(12月に政策綱要を発表) | |||
7 | 1 | 33 | 17日、下中弥三郎ら日本国民社会党組織準備会を結成。 19~20日、社会民衆党党大会にて赤松克麿が国家社会主義路線を主張。 25日、下中彌三郎らが日本国民社会党準備会を結成。 |
|
2 | 20日、総選挙。無産政党が惨敗する。 21日、下中彌三郎らが前衛として国民青年同盟を組織し新党結成を図るが、赤松派との連携を模索し延期する。 |
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3 | 『社会主義より国家社会主義へ』を発行。 | |||
4 | 5-18日、日本国家社会主義学盟を結成。 11日、全国労農大衆党の今村等らが、赤松克麿らと時局研究会を立ち上げる。 15日、赤松克麿らが社会大衆党を脱党する。 16日、赤松克麿らが国家社会主義新党準備会を結成。 |
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5 | 8日、今村等らが全国労農大衆党を脱党し、国家社会主義新党準備会に合流する。 12日、赤松派と下中派が合流する。 19日、第1回準備会を開催し、党名を国民日本党とする。 29日、赤松派と下中派が新党結党式の準備会で決裂。赤松派は日本国家社会党を、下中派は新日本国民同盟を結成。 |
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6 | 『日本社会主義』を『国家社会主義』と改題。 | |||
12 | 日本社会主義研究所と日本国家社会主義学盟を合体改組して、日本国家社会主義学盟(前の学盟と同名)を結成。これにより、赤松克麿や津久井龍雄らの日本主義派が学盟を去った。 | |||
8 | 5 | 34 | 赤松克麿の日本主義が表面化し、日本国家社会党に亀裂が入る。 | |
6 | 佐野学・鍋山貞親、獄中から転向声明。 | |||
7 | 22日、赤松派が離党し、日本国家社会党が分裂。 23日、日本国家社会党内で国家社会主義派が敗北し、同等を脱退する。 |
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10 | 15日、日本国家社会主義全国協議会の結成。石川は中央常任委員長に就任する。 | |||
12 | 5日、日本国家社会党準備会の結成。 | |||
9 | 2 | 35 | 11日、近藤栄蔵一派と石川一派とが人事問題で揉め、日本国家社会党の結党が流産する。後、近藤と石川は準備会を脱退。 | |
3 | 6日、日本国家社会主義学盟を大日本国家社会主義協会と改組する。 10日、大日本国家社会主義協会が大日本国家社会党を結成。石川は総理(党首)となる。 |
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4 | 別府峻介と『マルクスの歴史社会並びに国家理論』(上巻)を翻訳出版。 | |||
同 | 日本国家社会党残留派が勤労日本党を結成。 | |||
11 | 『国家社会主義』を廃刊する。 | |||
12 | 2日、大日本労働組合協議会を組織。 | |||
10 | ― | この頃、国際日本協会から『国際評論』が出版される。(発行者は国家社会主義者の五十嵐隆) | ||
― | ― | ― | 以後、時勢が国家社会主義運動から日本主義運動に転換するに随い、党勢は下火となる。 | |
11 | 2 | 37 | 26日、2・26事件が勃発する。 | |
12 | 1 | 38 | 12日、政治活動の第一線から退かざるを得なくなったため、大日本国家社会主義協会を解体し、日本経綸学盟を設けて理論研究を余儀なくされる。 同学盟から『国社』を発行。(国社) |
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7 | 盧溝橋事件が勃発し、支那事変(日中戦争)が始まる。 | |||
13 | 7 | 39 | 『国社』終刊号を発行。(国社)以後、国際日本協会で活躍。 | |
15 | ― | 41 | 『国際評論』でヒトラー『マイン・カンプ(我が闘争)』の研究を発表する。後、『ヒトラー「マイン・カンプ」研究』に収録される。(研究) | |
16 | 42 | 昭和16.11~17.7年、国際日本協会から『ヒトラー「マイン・カンプ」研究』全三冊を出版。(翌年に合冊再版される) | ||
18 | ― | 44 | 『満洲日報』編集顧問、及び建国大学特別講師として渡満。(社・追懐) | |
19 | 45 | 東京に帰国。東京大空襲に遭遇。(追懐) | ||
20 | 46 | 別府峻介(建国大学関係者)の協力を得て『歴史の方向侵すべからず』を満州で発行。(追懐) | ||
6 | 再び渡満。(追懐) | |||
8 | ソ連侵攻によって新京・奉天を経由し、定州(朝鮮)で敗戦を迎える。(追懐) | |||
11 | 本土帰国。(追懐) | |||
公職追放。(社・追懐) | ||||
23 | 49 | 『共産主義国家論批判』を出版。 | ||
24 | 50 | 追放解除。(社) | ||
4 | 早稲田大学政経学部教授に就任。(社) | |||
37 | ― | 63 | 病がひどくなり早大教授を辞任。(社) | |
38 | 64 | 『社会主義論稿』を出版。 | ||
以後、文筆業を中心に活動。 | ||||
55 | 81 | 死亡。 |
『マルクス社会主義より国家社会主義へ』(日本社会主義研究所,1932年)
『日本社会主義研究所パンフレット』第3輯。『日本社会主義』第1巻第1号から第3号まで「マルクス主義か国家社会主義か」と題し掲載したものを一書に纏め刊行したもの。もとより刊行する為に雑誌に連載したようである。内容上は加筆などは無いと思われる。(厳密に比べていないが、誤植の訂正などを除くと、相違は発見できなかった)本書は石川氏のマルクス社会主義批判の基本骨格が規定されており、以後も変動はないようである。また比較的まとまった国家社会主義理論も見られる。ただ社会主義と国家主義については、『日本社会主義』や『国家社会主義』に専論があり、まま面白い指摘も存在する。なお本書には、参考文献にあげた河合栄治郎の批評がある。
『ヒトラー「マイン・カンプ」研究』(国際日本協会,1941~42年)
ヒトラー『我が闘争』第一部を研究したもの。合冊本が1943年に出版された。もと『国際評論』(国際日本協会)に連載されたものに大幅な加筆を加えて出版したもの。予定では、前篇・批判篇と後篇・建設篇の各三分冊計六冊の予定であったが、刊行されたのは前篇三分冊のみであった。なお『国際評論』を発行した母体である国際日本協会については詳細不明だが、発行者に五十嵐隆の名があり、彼は国家社会主義運動の関係者でもある。石川氏の本書序文にも、「私の同志の発行する雑誌『国際評論』に発表した」とある。国際日本協会はこれ以外にも多数の本を出版し、また『国際評論』も9年(1936~1944)あまり続いていることから、単なる国家社会主義系列の出版社とは思われない。何れにせよ詳細不詳。但し国際日本協会の発音はkokusai nippon kyokaiである。
『歴史の方向侵すべからず』(1945年)
未見。「昭和十九年春……『歴史の方向侵すべからず』と題する一論文を綴り、これをば適当に新聞に掲載して呉れるよう言つて編集長に託したのであつた。それは、私が一年余も食客となつた新聞のために執筆した最初にして且つ最後の原稿であつた」「私の右の一文は、内容不穏当の故を以つて新聞には遂に掲載されなかつた。それをば私の友人達が、私が帰国してから、適当に字句を改変して協和会の機関紙に掲載し、政府に依つて配布禁止を命じられ、慌てて回収したりした後に、更にこれを穏当なものに改めて、これに私の渡満前の諸時評を加え、一書にまでまとめて発行したのが、冒頭に記した『歴史の方向侵すべからず』という私の著書であり、当時建大教授の友人代表別府峻介君の序文付きのものであつた。」(「ソ連来襲前夜の満州追懐」、『流れ』第5巻第2号、昭和32年2・3月)と云う石川氏の指摘によれば、本書は満洲にて出版されたのであろう。仮に現存していたとしても、今は中国に眠っている可能性の方が高いと思われる。因みに石川氏は『共和運動』掲載のものが配布禁止にされた旨を書いているが、復刻された『共和運動』第7巻第2号(康徳12=1945年2月)には石川氏の文章も残っている。論題は同じく「歴史の方向侵すべからず」である。時局を論じたもので、勇ましい言葉も多様しているが、全体的に悲愴の感が漂っているように思われる。また上に見える別府氏が建国大学の教授であったか否かは不明である。『歓喜嶺 遥か』『建国大学年表』などを参照したが、別府氏の名前を発見できなかった。建国大学の正規の教授や助教授は帝大教授に匹敵する学者が送られることが多く、石川氏とともに国家社会主義運動を行っていた別府氏が正規の教授であったとは考え難い。非常勤講師あたりなら可能性はあるようにも思われるが、想像の範圍を超えない。因みに、石川氏は敗戦後も「歴史の方向侵すべからず」という同名の文章を幾度か公開している。(筆者のみた限りでは文章は異なる。)
『共産主義国家論批判』(共和書房,1948年)
内容は『マルクス社会主義より国家社会主義へ』と変らず、マルクスとソ連の国家論批判を行っている。ただ前著よりも時代が降ったため、スターリン批判にまで及んでいる。序文の云う所によると、「本書前半は、終戦の二年前から一年前に掛けて、少数の篤志研究者達の為に、満洲に於て書かれたものである」らしい。一部旧稿の序文も若干引用されている。本書の立場は、序文の「真理と正義とは遠くマルクス主義=共産主義の彼方に存在する。我々はマルクス主義=共産主義をば、速やかにこれを消化し、これを超えて、遠く更にその上に出でなければならない。その時に始めて、聖なる運命の神は我等に幸福を賜ひ、敗れたる祖国も再興されるであらう。」と、結語の「共産主義者=マルクス主義者が飽くまでこの共産主義=マルクス主義を奉じ、その祖国と同胞とを世界帝国主義の祭壇に捧げることが自由であるならば、我々がこの教説の虚偽と誤謬とを指摘し、人々の覚醒を促し、祖国と同胞とをこの世界帝国主義の災害から免れしむることもまた、同じく自由でなければならぬ。」とに尽きているように思われる。
『社会主義論稿―理論と歴史の再検討―』(新思潮研究会,1963年)
早稲田大学での講義をもとに出版したもの。序文に「私は、十六世紀初頭の『モーアの共産主義』以来の近世社会主義を、(一)マルクス以前の社会主義、(二)マルクス時代の社会主義、(三)マルクス以後の社会主義の三つに分ける。本稿は、その共通の問題とされる社会主義の定義・分類・観点の問題から、マルクス以前の代表的社会主義および、マルクス時代の社会主義中のマルクス社会主義まで、論述したものである。」とあり、本来ならば、これに続いて、マルクスと対立する主な社会主義、マルクス以後の社会主義、石川氏の妥当とする社会主義(国家社会主義のことと思われる)を論述する予定であったらしいが、結局出版されなかった。本書は、言葉遣いは兎角、『共産主義国家論批判』と同様の態度と精神が貫かれているように感じら、文末に「私のような(マルクス的階級社会主義に)反対の立場と経歴を有する者の論著は、いわゆる『招かれざる客』である。しかし私は、今日の日本にも、私と同様の考えを持つ人々が存在することを知っている。また、若い世代には既成の如何なる権威も信じ得なくなって、新たなる正義と真実を求めて苦しみ悩んでいることを知っている。本書がこれらの人々に読まれれば、私の本望である。」と結ばれてある。但し内容は至極冷静な論述形態を守っている。跋文はない。
カウツキー『マルクス経済学入門』(『社会哲学新学説大系』第9輯。新潮社,1925年)
本書は石川氏のはじめての著書(訳書)である。これはカウツキーの翻訳ということになっているが、正確には正しくない。石川氏がその序文に云うように、本書は『資本論』全3巻の骨子の通俗的紹介を旨としたものである。その紹介のため、大部分をカウツキーの『カール・マルクスの経済学説』、要するに高畠素之翻訳の『資本論解説』に依ってなしたもので、「高畠氏の訳に依るカウツキーの説明そのままの部分が極めて多い。」ただ『資本論解説』は『資本論』第2巻の解説を全く欠いていることから、石川氏が直接マルクスの原著『資本論』から抜粋し、その解説を試み、更には他の個所についても直接『資本論』から援用もしたという。そのため本書は、「その大部分はカウツキーの説明に依って、一部分は予の説明に依って、他の小部分はマルクス自身の説明に依って成って居るものである。」本書の参考書を説明して、「河上博士の『資本論略解』……を多少参考とせること」を断っている。なお本書は至る所に高畠氏独特の言い回しが見られ、石川氏が高畠氏に影響を受けていることを示している。尤も字面の影響というのは、往々にして皮相である場合が多いので、本格的か否かは別個解明の必要がある。
G.D.H.コール(George Douglas Howard Cole)『機能的社会国家論』(新潮社,1926年)
『社会哲学新学説大系』第16輯に収められた本書は、他の同叢書が原本の抜粋翻訳・解説となっているのと異なり、逐次訳となっている。同叢書の編輯は高畠素之と北昤吉である。本書はギルド社会主義者G.D.H.コールの翻訳であるが、その原本を挙げていない。探すにしても利用の便宜もないので、暫く不明としておく。因みに本書は原本の全訳ではないらしい。本書出版の所以を説明して、石川氏は「私が本書の訳出を思い立ったのは、マルキシズム国家理論の考察からであった。私共は嘗つて、マルキシズム国家理論の検討を中心として、今日最も進歩して居ると思はれる西欧諸国学派の代表的国家理論の蒐集的研究を企てたことがあった。本書の訳出紹介は私のその副産物である。」と云っている。「私共」が一般的な意味を持つのか、それとも厳密に複数形を意味するのかは不明であるが、高畠氏にケルゼンの国家論を訳述する準備があったことは、『マルクス思想叢書』中にケルゼンの『マルキシズムの国家論』が予定として存在し、また「唯物史観の問題及び方法―ハンス・ケルゼン―」(『文化生活』第5巻第5号)が恐らく翻訳と思われる形で公開されたことからも想像される。ならば高畠門下で国家論の研究を行っていた可能性はある。(因みに『マルキシズムの国家論』は「仕事場でいま何が蒔かれている?」(『読売新聞』昭和3年5月5日)でも執筆準備のある旨が指摘されてある。)本書はその意味で、当時のコール流行の産物であるとともに、高畠門下の国家論研究の一つとして、また石川氏の国家論研究の一つとしての意味を持っている。
エンゲルス『マルキシズムの根柢』(新潮社,1927年)
本書は、高畠素之の編輯の名で纏められた『マルクス思想叢書』第1輯。表題はエンゲルスとなっているが、エンゲルスの著書のみの翻訳ではない。収録内容は、エンゲルスの『反デューリング論』第1篇(哲学)、『フォイエルバッハ論』、そしてディーツゲンの『一社会主義者の認識論の領域への征入』(マルキシズム的認識論)前二篇である。『マルクス経済学入門』がマルクスの経済部門を代表し、上の国家論がマルクス社会学の一部重要部分を代表する研究とすれば、本書は哲学部門を代表している。本書は当時日本の一部で流行していた唯物弁証法に対抗する意味に於いて、高畠門下の代表として石川氏が選ばれたようである。当時の日本社会の状況に触れて、石川氏は次のように云っている。「マルキシズムは経済学、社会学、哲学の三方面に跨つて居るものと言ひ得るが、そは先づその経済学説から一般的関心の対象とせられた。その価値論は久しきに亘つて学界論争の的となつた。次いでその社会学説が一般的関心の舞台に上つて来た。その国家論は今尚思想界の重要論題として残されて居る。最後にその哲学説が、皮肉にもブルジョア的観念的『真性マルキスト』(筆者注、共産主義のこと)に依って何よりも先づブルジョア官私大学の多くのブルジョア遊閑子弟達の歓呼の中に登場された。かくてマルキシズムは、その理論的普及上遂にその来るべき所にまで来た。」これを受け、マルクス学説を批判的に理解する必要を訴え、「マルキシズム哲学説の、従ってその『考へ方』乃至『見方』の、論理的=認識論的研究乃至批判――それこそ実にこれから展開されなければならない所のものである。而して余が本書の蔭にひそかに期待する所のものも此処にある。」と指摘している。ただ本書は翻訳であるから、特に石川氏の所感が述べられるわけではない。なおディーツゲンのものは、下記『マルキシズムの認識論』として改造文庫から全訳出版された。
ディーツゲン『マルキシズムの認識論』(改造文庫,1929年)
ディーツゲンの著書は山川均氏が多く翻訳しているが、本書も戦前よく読まれたものの中に入る。原題『一社会主義者の認識論の領域への征入』を改めて『マルキシズム認識論』としたもので、全訳である。本書の一部は既に『マルキシズムの根柢』に収録され、その編輯目的もそこに論じた。本書の「訳者小言」もディーツゲンに対する若干の論究を除き、解説などは附されていない。強いて探すならば、冒頭に見える、「マルキシズムの哲学説を知らんが為には――殊にマルクス、エンゲルス以後の祖述及び批判の関係に於て知らんが為には――」とあることくらいである。
ハインリッヒ・クノー『マルクスの歴史社会並びに国家理論』上巻(別府峻介との共訳。改造文庫,1934年)
下巻は発行されなかったのではなく、鳥海篤助諸氏が同じく改造文庫から翻訳出版した。
○日清戦争:(中核)に拠ると、「日清戦争の犠牲者の家庭に生まれ、そのために種々と苦しみ乍らも、それを誇りとして育って来た私は」とある。日清戦争の犠牲者が誰に当たるのかは不詳。
○生誕:石川準十郎誕生当時のことは定かでないが、祖父母の代は「働き者で、当時已に村で一・二の「地所もち」(資産家)となり、農耕のほかに養蚕・製炭・馬産など手広く経営していた」(金)とある。
○盛岡移転:(金)には、金次郎同様、準十郎とその下の弟も盛岡の学校に進学させるためであったと指摘がある。
○高畠素之に師事1:(金)の松下芳男氏「畏敬される人徳」に「高畠氏に近ずいたのは、準十郎君よりも君(筆者注:石川金次郎)の方が先きで、君の関係で準十郎君が高畠氏を知つたのだという。」とある。また同「略年譜」に、牧民会の発展を記した後、金次郎氏は「この頃、後年弟準十郎の師事した故高畠素之氏を屡々訪問し教えを乞うている。」とある。
○高畠素之に師事2:石川氏の当初の所感としては、(中核)に「高畠氏は……国家社会主義者として、社会思想界の一角に小さい乍らも特異の一国を形成していたのであった。初めは私にもその国家社会主義は何か恐ろしく時代錯誤の反動的なものに思われ、容易に親しめなかった。」とある。石川氏が高畠氏に師事した正確な時間は明らかでない。後年の発言は記憶であろうから、当時の言葉を探すと、大正14年5月24日の日付を持つ『マルクス経済学入門』の序文に、「予が高畠素之氏に師事して『資本論』の研究に足を入れてより正に満二ヶ年以上を閲する」とある。十四年の二年前であるから、大正十二年以前に高畠氏に師事していたことになる。傍証として、大正13年に高畠の主宰する雑誌『急進』(第1次)に論文を投稿し、後々まで続く石川氏のマルクス国家論批判を展開していることがあげられる。『急進』は高畠門下の少数集団で構成されていたらしく考えられることからすると、この段階では事実上、高畠門下の仲間入りをしていたと考えられる。ならば石川氏が高畠氏に師事した時期が大正12年前後というのも誇張ではないと言い得る。ただ高畠氏との接触は大学入学すぐであったらしく、(現経)に「早大入学の頃から高畠素之氏に師事し」とある。
○高畠素之に師事(補足):石川準十郎をはじめとする高畠素之関係者は、通常高畠門下と呼ばれ、高畠にし対する呼称も「畠さん」としていたとされる。津久井龍雄氏は「先生と門下というような堅苦しい間柄でなかったことは、われわれが氏(筆者注―高畠素之)のことを畠(原ルビ:はたけ)さんと呼んでいたことにもうかがわれよう」(『私の昭和史』27頁)と指摘している。ここに「師事」というのは、『マルクス経済学入門』序文、(現経)(共)(社)、「日本国家主義の時代的思想的変遷」に「高畠素之は―本筆者にとつては忘れ得ぬ師たりしものであるが―」とあることによる。
○大杉栄:(中核)に「その前後の頃(筆者注:高畠氏に接近する前後の頃)……当時の社会主義者の定期社会主義研究集会があり、そこに行けば東京の社会主義運動の動向がヨク判るというので、私も誰かに誘われてその集会に絶えず出席していた。が、その集会は大杉栄、岩佐作太郎氏らの無政府主義者を中心とした集会で、圧倒的に国家を有害無用とする無政府主義色の強いものであった。ある日、私はその集会で国家有用論をドモリ乍ら一席弁じたのであつた。……私の主張は忽ち一座の反対と冷笑を買った。」とある。また(現経)にも「早大入学の頃から高畠素之氏に師事し又大杉栄氏等の集会等にも出席してゐた」とある。なお兄金次郎も大杉栄と接触を持っている。
○第2次『急進』:高畠素之の死後、津久井龍雄を中心として、神永文三、小栗慶太郎らの所謂高畠門下が第2次『急進』を発行する。この第2次『急進』は筆者未見のため(最終号のみ確認)、この雑誌と石川氏との関係は不明である。高畠氏の遺稿『マルクス経済学』を編纂する折には、石川氏は神永文三、小栗慶太郎諸氏と分担編纂の任に当たっていることから、他の高畠門下と関係が途絶えていたわけではないようである。また津久井龍雄氏の『私の昭和史』には「雑誌(筆者注―急進のこと)の方は、石川準十郎、矢部周、小栗慶太郎、神永文三ら諸禽に執筆してもらい」(49頁)とある。これからすれば、石川氏も第2次『急進』の執筆者ということになる。
○大日本国家社会党:成立時期は、年譜に示した通り、昭和9年3月10日であるが、終わりについては未だ筆者は知らない。(社)に「昭和12年支那事変と同時に解党」とあり、『日本思想百年史』にも「国家社会主義派は幾度か消長を繰り返しながら、昭和十二年頃になると、理論指導の中心人物石川準十郎も遂に力尽き、自ら大日本国家社会党を解散して理論指導を志すための研究機関として日本経綸学院(筆者注―ママ)を設けて実践運動から退くことになった。」(522頁)とある。また同書年表昭和12年に支那事変勃発の後に、「大日本国家社会主義協議会解消し日本経綸学盟復活(石川準十郎)」(963頁)とある。支那事変は一般に昭和12年7月から始まるとする。ここに『国社』表紙裏の「日本経綸学盟創立趣意書」を見ると、昭和12年1月の日時があり、ならば大日本国家社会主義協議会の解散が昭和12年1月前後であると考えられる。協議会は国社党の母体であるから、同党はこの段階で解党したと考えられる。併し、『国社』最終号(昭和13年5月)には「大日本国家社会党仮本部」として石川準十郎の宅が指定されており(同誌10頁)、また盛岡支部の存在も掲載されてある。(12頁)ならば昭和12年5月段階では大日本国家社会党は解党していなかったことになる。盛岡支部の支柱であり石川氏の兄でもある金次郎氏の年譜(金)には、「弟準十郎の主宰する大日本国家社会党に……と共に加入したが、日華事変拡大に伴い、昭和十五年(四十四歳)解党した。」とある。未だ正確な日時は明らかでないが、『国社』の記載と(金)よりして大日本国家社会党は昭和15年まで存続したが、大日本国家社会主義協議会は昭和12年に日本経綸学盟に改組し、党の活動は殆んど行われなかったという所かとも推測される。飽く迄も推測。
○公職追放:(社)の他、(追懐)にも本人が「追放」されたことを主張しているのであるから、事実であろう。ただ『復刻資料公職追放』に氏の名前は見えない。もともと筆者の知らない分野なので、今後の検討課題。
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