廖平紹介

はじめに

現下の日本で廖平の名を知る人は一部の専門家に限られると思うし、過去の日本に於いてもそれは同じだった。しかしその思想は今なお多くの人間を惹き付けて止まぬものがある。人生に於いて6度の転向を果たし、その各々で学界を震撼させる業績を残したといえば、廖平がいかに破格の人物であったか分かるだろう。廖平の思想は広大深厚でとても私の説明しきれるものではないが、その一端だけでも紹介できれば幸いである。

廖平研究の困難

廖平(咸豊2年‐民国21年)、字は季平、四川省井研県の人。六訳と号した。清末から民国初期に活躍した学者で、主として経学を講じた。

廖平は日本で評判がよくない。評判などはいい加減なものだから、その理由もまた定めがたい。しかし恐らくその原因の一端は、梁啓超が『清代学術概論』で「節操のない人間」で、「軍閥から金品と脅迫を貰って節を屈した」という批判を加えたためであろう。梁啓超に云々されても、廖平としては痛くも痒くもなかろうが、日本に於いては梁啓超の方が有名であり、また手軽な翻訳もあるというので、おのずと影響もあるというものである。

昨今の研究では、廖平が軍閥こと張之洞(廖平の恩師)に屈したというのは無根のことで、むしろ不断に変化する廖平の思想が、たまたま張之洞接見後に大きい変化を示しただけであるとされている。もちろんこの種の学説は、概ね廖平のお膝元の四川の学者である場合が多く、その点が気にならないわけではない。

では自分で調べればよさそうなものだが、そう簡単にいかないのが廖平の面倒なところである。

廖平の研究が難しいは3つの理由による。第1は思想が6度も変化し、しかもその中のいくつかはかなり根本的な変化を来したため、廖平1人を調べるために6種(場合によっては8種)の思想を研究する必要が生じるのである。この変化を通常「廖平の六変」「廖平の経学六変」などと呼ぶが、いまその概要だけを挙げると以下のような区分がある。

  • 幼年期‐宋学
  • 青年期‐今文学(以上は変化以前の廖平)
  • 第一変‐平分今古
  • 第二変‐尊今抑古
  • 第三変‐小統大統
  • 第四変‐天学人学
  • 第五変‐天人大小
  • 第六変‐五運六気を以て詩・易を解す

普通の人は文字を見ても意味が分からないと思うが、それは漢学の専門家も同じで、特に廖平を研究する専門家でもない限り、これを見ただけで正確にその内容を言い当てられる人はそう多くない。もっとも六変とはいっても、大きくは2~3回の変化にまとめるべきだという意見もあり、「六」という数に驚かされて理解を断念する必要はない。人間にとって2~3回の思想変化など珍しくないのだから。とはいえ仮に廖平の変化の数が「六」よりも少ないにせよ、廖平の研究が難しいことに変わりはない(廖平の六変説については、下文を参照)。

廖平の研究が難しい第2の理由は、廖平が晩清経学の王道を行くような人間だからである。経学を少しでも知る人に『今古学考』の名を知らない者はないと思われるが、その著者が廖平なのである。それと同時に、近代中国の研究をする人に康有為の『孔子改制考』『新学偽経考』を知らぬものはいるまいが、その両書に影響を与えたのが、廖平の『古学考』『知聖篇』である。これだけでも既に廖平が厄介な人間であるが、廖平は康有為と異なり、かなり純正な経学的立場で研究するので、著書の理解に経学説、しかも清末に現れた煩瑣な今古学の知識が要求されるのである。なお今古学というのは、経学を今学と古学に分け、その優劣や意味を攻究する、極めて煩瑣な学術議論を生んだ経学・思想を指す。

廖平の著述が難しいのはそれだけではない。廖平は第三変、あるいは第四変くらいから、かなり突飛な方面に移行する。研究対象は経学から史学へ飛び火し、さらに医学や当時輸入された西洋思想などに移り、各々独自の意見を述べていく。しかもその論述の根柢に経学的思想があり、経学者的文章があるものだから、述語の理解や認識の方式を読み取るのが恐ろしく鬱陶しいのである。

しかしこの2つの問題は、廖平の文章に長らく沈潜し、深く当時の中国や世界を研究するならば、決して不可能のことではなく、私のような素人ならいざしらず、専門の研究者であれば当然しかるべき成果を収められるであろう。廖平研究を阻む最大の問題は、むしろこのような内面的でないもの、もっと表面的なところに存在する。

恐らく廖平の研究を阻む最大の要因は、そもそも廖平の著作がどれだけあったのか未だに明確でないところ、そして確認されている廖平の著作にしてすら、余り世上に流布していないことにあると思われる。

廖平はその生涯で膨大な著述を行ったが、その著作の大部分は出版されず、かなりのものが失われたとされる。しかもいくつかは故郷の四川に存在するとかしないとか、判然としない状況にある。また不明なのは現存・散佚の状況だけではなく、明らかに存在するとされる著書でも、そもそもそれがどこに存在するのか明らかでない場合がある。恐らく故郷四川にあるのだろうが、例えば『地球新義』などは廖平研究に不可欠な資料といわれながら、ほとんどの学者が実物を見たことがないというのが現状である。これでは廖平の研究が進まないのも無理はない。

このような資料の不備が目立つ中、廖平の研究を志す場合、まず第1に見る必要のあるものは、廖平の著作を最も多く収録した『六譯館叢書』である。十帙ちかい分量のある大部の叢書で、経学から医学(中医学)まで、かなりの分量の著作が残されてある。しかしこれでも廖平の重要著作(『地球新義』『穀梁春秋古義疏』など)のいくつかは未収録である。

この叢書は廖平研究に必要不可欠であるが、収蔵する研究機関はそれほど多くなく、また字もかすれていて読みにくく、紙はペラペラで粗悪であり、甚だしくは内容を反映しない極めて杜撰な編修が加えられたところもあり、利用するだけで骨のおれるところがある。

以上のように、廖平研究は厄介な問題をいくつも抱えているのだが、最近になって大きな進展があった。それは廖平の研究書がいくつも出版されたこともさることながら、廖平の重要著作が比較的安価で入手できるようになったことである。これによって廖平の全面的研究はともかく、少なくとも手軽に頁をめくれるようにはなったのである。

廖平の著作で手にはいるのは、『廖平選集』上下巻(李耀仙主編、巴蜀書社, 1998年)と『中国現代学術経典』に入っている『廖平・蒙文通巻』(蒙黙編校、河北教育出版社, 1996年)である。いずれも廖平に理解のある人間によって編集されているので、各々に加えられた解説は立派なものである(蒙黙氏は、廖平の高弟蒙文通の御子息)。しかし後者の収録文章は全て前者に入っているので、二冊買う余裕があるのなら前者を買った方がよく、また『廖平・蒙文通巻』は収録文章が節録されている場合がある。なお『廖平学術論著選集』(李耀仙主編、巴蜀書社, 1989年)なるものが、かつて上巻だけ出版されたが、これは『廖平選集』上巻に相当する。点校やレイアウトを改訂しているので、いまからわざわざ古い本を買う必要は全くない。

前に言ったように、廖平は六回思想が変化しており、その変化を前もって知っておかなければ彼の著作を読むのに手間が掛かる。これについては前記『選集』や『廖平・蒙文通巻』に付された解説も有用であるが、もう少し詳しいものを求めるなら、台湾の陳文豪氏の『廖平経学思想研究』(文津出版社, 1995年)か、大陸の黄開国『廖平評傳』(百花洲文芸出版社, 1993年)が、最も詳細に論じている。どうしても廖平自身言葉で理解しようと思うなら、その思想遍歴の迹をみずから説明した「六変記」を読むのがよく、これは『選集』に収録されている。

『廖平選集』に収められた著作はいずれも廖平の最重要著作であり、またこれは句読を加えた本だけに、以後の廖平研究に与えた功績は計り知れない。以下、その収録書目を挙げておきたい。

『廖平選集』上巻

  • 今古学考
  • 古学考
  • 知聖篇(正続)
  • 孔経哲学發微
  • 経話(甲乙)
  • 六変記

『廖平選集』下巻

  • 王制訂
  • 王制集説凡例
  • 周礼訂本
  • 起起穀梁廃疾
  • 釈范
  • 何氏公羊解詁三十論
  • 春秋左氏古経説疏證
  • 春秋三伝折中
  • 文字源流考
  • (附)家学樹坊

廖平の六変説

既に述べたように、廖平の思想は前後六回変化した。改めてこれを示すと次のようになる。

  • 幼年期‐宋学
  • 青年期‐今文学(以上は変化以前の廖平)
  • 第一変‐平分今古
  • 第二変‐尊今抑古
  • 第三変‐小統大統
  • 第四変‐天学人学
  • 第五変‐天人大小
  • 第六変‐五運六気を以て詩・易を解す

この区分は廖平自身を認めるものであるから、取り敢えず重視する必要はある。しかし現在では廖平の思想転向の数え方もいろいろ研究されており、大きく2種類の学説が提供されている。第1の立場は第一変期から第三までと、第四から第五までの2つに区分する考え方であり、第2の立場は第一と第二、第三と第四、第五以後に分ける2区分説である。どちらの学説にもそれ相当の理由があり、むしろどちらが正しいというよりは、読解者が廖平の何を知ろうとしたかによって、区分の立て方が異ったというべきものである。

随って、学問的には2~3区分の立場によって廖平の転向を論じた方がよいのだが、少し手続きがややこしいので、以下には旧来の六変説によって、少しく廖平の思想遍歴を眺めておきたい。

まず青年期以前の廖平、すなわち初変以前の廖平は、幼年期は四川の学風をそのまま受け容れて宋学(朱子学)の影響下にあった。しかし張之洞が今文学を四川に輸入して以後、その影響を受け、比較的今文学の立場に近いところに立つことになった。ここまでが廖平思想の素地である。

これ以後、まず今文と古文との両者に価値を認める第一変期が生まれる。次いで今文は孔子の正説で、古文は後人の誤説であるとみなす第二変期が生まれる。ついで今文と古文とは各々正説だが、孔子の説き賜うた意味がことなるとして今古を大小に代えた第三変期が生まれる。その後、西洋の科学技術を儒学に採り入れて、無理な経典解釈を推し進めた第四変期以後の変化がある。

第四変期は学問を天人(天と人)に分ける考えに立脚する。第五変期はさらに天人の区分に第三変期の大小を加えた考えに変化し、これを天人大小の学と言った。第六変期は自身の病気と関連して、宇宙の真理は医学書(『黄帝内経素問』などの中国医学)に書かれてあると考え、経書である詩経や易経を用いて医学書の解釈しようとした時代である。

通常の経学説に立つ限り、第三変期までは何とか理解可能である。もちろん小大の学にもかなり問題はあるのだが、基本的には経典の内部疎通を図ったものであり、理解可能な領域に入る。しかし第四変期以後は、到底通常の経学では理解し難いものであり、もはや一個の独立した哲学体系を築こうとしたものである。

ただし理解不能とはいっても、廖平に学力がなくなり、意味不能な発言をしたわけではない。第四変期以後に書かれた廖平の文章を見ても、実に晩清経学の粋とも言え論証過程を備えており、決していいかげんな書物ではない。ただ、いかに高級な技術を駆使して説明しようとも、説明しようとする内容が常識人の理解を超えているため、廖平の論旨を理解するのが難しいというに過ぎない。

では何故にこんな理解不能な学説を出そうとしたのかというと、それは廖平の生きた時代の影響が大きいというのが、昨今の定説のようである。

廖平が著名である理由は、六度の転向や康有為との関係であるが、学者としての地位を確立したのは、第一変期の平分今古、より限定すれば『今古学考』のあることによる。『今古学考』の歴史的位置は、高弟蒙文通の次の言葉に言い尽くされている。

漢学を言いて今古文の別を知らざる者は、以て漢学を語るに足らず。今古文を言いて礼制に帰本するを知らざる者は、以て今古文を語るに足らず。[……]井研廖師(平)、『春秋』に長じ、善く礼制を説き、一に瑣末の事を屏して屑究せず、ひとりその大源を探り、今古両学の弁を確定す。主とする所は制度の差にあり。「王制」を以て綱となし、今文各家の説、悉く統宗あり。『周礼』を以て綱となし、古文各家に符同せざるなし。その出入参差あるもの、正に以てその流変の故を考うるに足る。ここにおいて両漢今古の学、江河を平分すること、これを掌に示すがごとし。今古の中心すでに明らかにして、しかる後に両漢の学、始めて得て理む。則ち廖師の後、しかる後に今文あり、皮鹿門(錫瑞)はその緒を究む。廖師の後、しかる後に古文あり、左菴師(劉申叔)はその変を明らかにす。今古学の重光、実に廖師よりすれば、また即ち両漢学の明らかなるも廖師よりす。廖師、実に近代に今古学を推明するの大匠たり。

(蒙文通「井研廖師与漢代今古文学」、『経史抉原』120頁)

『今古学考』は上下巻に分けられ、上巻の今古学を区分した20表、下巻の平素の備忘録から関係文章を寄せ集めた106条(条数は『廖平選集』による)からなる。20表は比較的整理された一覧表であるが、下巻の106条は倉卒の間にまとめたものであると廖平自身が認めるように、散漫な条文を集めただけの統一性のない文章である。

『今古学考』の狙いや結論は、やや詰め込みすぎの嫌いはあるとはいえ、後々の廖平自身によって次のように解説されている。

嘉慶以前の経説、阮王両『経解』の刻する所の若き、宏篇巨製、前古を超越し、一代の絶業となす。ただ淆乱紛紜、人をして依拠する所を失わしむ。孫氏『尚書今古文注疏』の如き、羣推して絶作と為すも、同じく一経を説き、兼ねて今古を採れば、南轅北轍、自ずから相矛盾す。即ち「弼成五服、至於五千」の如き、経文に就きて説を立つれば、本より五千里と為り、博士の「禹貢」に依りてこれを得は是なり。鄭注と古文家と、則ち『周礼』に依り、以て万里と為す。これ古今混淆以前の通弊なり。陳卓人、陳左海、魏黙深に至り、略ぼ古今を分くるを知る。孫氏もまた別に古文の説を采り、専ら一書を為す。然れども明なるも未だ融せず。或いは師説を採ること、尚未だ精華を猟取し編して成書を為す能わず。もし成書あるも、冀図すること僅かに文字に依りて今古の門面を主張し、今古の根源のある所を知らず。

ただ文字を以て論ずれば、今と今と同じからず、古と古とも同じからず。即ち公と穀、斉と魯と韓の三家の如き、同に今学と為るも、彼此岐出す。また顔と厳の『公羊』の如き、同に一師に出ずるも、経本と各々自ずから同じからず。故に今古を分くると雖も、なお帰宿するところなし。乃ち『五経異議』の立つる所の今古二百余条に拠るに、専ら礼制を載せ、文字を載せず。今学と博士の礼制は「王制」より出で、古文は専ら『周礼』を用ゆ。故に定めて今学は「王制」と孔子とを主とし、古学は『周礼』と周公とを主とすと為す。然る後に二家の異同ある所以の故、燦たること列眉の如し。千谿百壑も帰宿する所を得。今古両家の根拠とする所、また多く同に孔子に出ず。ここにおいて倡して法古・改制と初年・晩年の説を為す。然る後に二派、日月の天を経、江河の地を行くが如く、判然両途、混合する能わず。その中に各経師の説に一律する能わざるものあれば、則ち今古を以て大宗と為し、その統ぶる所の流派、各々自ずから家を成せば、門戸林厳、宗旨各別たり。学者略ぼ一たび渉猟すれば、宗派自ずから明らかなり。葛藤を斬断し、尽く塵霧を掃す。各々其の性質の近き所の一門を択び、専精研究すれば、力を用うること少なくして功を成すこと多し。再びは従前塵霾のごとく、人をして五里霧中に堕せしめず。

これ『今古学考』、両漢の師法を張明し、以て各代経学の大成を集むる者なり。

(『四益館経学四変記』中の「初変記」、『廖平選集』上巻、547-548頁)

『今古学考』下巻に散見する条文を系統的に説明し直すと、だいたいこのようなことになるであろう(上巻は下巻を統一的に直したもの)。

廖平は晩清今文学の影響を直接受け、それを基盤に新解釈を提出する。廖平の認識では、今古文学は従来今古の根拠を文字の上に求めていた。今文説と古文説との差異は、文字の異同によって決せられ、随ってその文字を拠り所として今文説と古文説とを区分することが出来ると考えられていたのである。これに対し、廖平は今文説と古文説との差異は礼制にあると見る。つまり今古はその依拠するところの礼制に差異のある故に、学説として異った主張をするに至ったと考えたのである。それ故に今古両学の名称は、今文学と古文学ではなく、今学と古学というべきである。

廖平は、今学は「王制」(『礼記』の一篇)を、古学は『周礼』を各々根拠としたという。では何故に今古両学は異なる礼制を根拠としたのか。廖平はその原因を、孔子初年と晩年との差異に求める。孔子の初年、専ら周室に従うことを是認し、『周礼』に依拠して弟子達に教えた。しかし晩年になり、已に周室を諦め、そこで『周礼』の改制を企図して「王制」を作り、それに基づき弟子達に学を授けた。そのため孔子初年の弟子の中、晩年の学説を知り得なかったものは、専ら『周礼』に依拠した孔子の学説を信じることになった反面、孔子晩年の弟子は「王制」の説を信じたというのである。

孔子初年晩年の説は、後に廖平その人も採用しなくなったように、ほとんど根拠のない説である。廖平は「初変記」につづく「二変記」の冒頭には「両漢の学、『今古学考』詳らかなり」というが、『今古学考』執筆時の廖平は、この今古学の区分によって、今古学、即ち孔子の学問が全て明らかになると考えていた。随って、『今古学考』は当初から両漢の経説を明らかにする目的で執筆されていたわけではない。

ここで注意を要するのは、廖平が今古の差異を礼制に求めたということと、礼制に差異のある根拠を孔子の初年と晩年に求めたとすることとは、別問題として扱う必要があるという点である。孔子初年と晩年によって礼制に差異が生まれ、随って礼制に差異が生まれ、今古の別が生じたというのは誤りであろう。しかし、漢代経説に今古の別があり、その根拠の一つに礼制の差異が考えられるとする廖平の主張は、簡単には葬り去れない。この学説は、当時の皮錫瑞や劉師培、後世の四川の学者たちに大きい影響を与えたのである。たしかにこの今古学の区分を礼制にのみ見る観点も、後に銭穆らに批判される。では全く礼制と今古の別が無関係かというと、これは簡単には否定しきれないのである。

廖平は何故に今古の別が礼制を根拠にしていると判断したのであろうか。廖平は天才的な人物であるから、彼の発言を検しても、「ある時に急に覚った」という向きの発言をするにすぎない。恐らくは従来頭を悩ませていた今古の学問が、不意に一挙に廖平の頭の中で解明されたのであろう。『今古学考』を読んでも、「AであるからB、BであるからC、CであるからD、随ってAはDと繋がる」式の分析ではなく、「A=Dは正当である、だからAとBCの関係はこうなる」式の、結論ありきの学説である。つまり「今古の別は礼制にあり、今学は「王制」を、古学は『周礼』を根拠としている。ほら見ろ、正しいじゃないか」と、「正しい理由」として経学上の根拠を並べるのである。証明としては無茶であるが、この結論を示されると、それなりの正当性を感じずにおられないところに、廖平の天才たる所以がある。

廖平のこの経学説が正しいか否かを考えることも魅力的なことであるが、しかしもう少し違う観点から、廖平の、というよりは今古学の問題を考えてみるのも重要である。たしかに廖平の経学理論は、理論としてはそれなりの正当性がある。しかし理論は理論である。理論と実践とはなかなかうまく一致しない。理論と筋道は明晰で非の打ち所もないが、実際には間違っている、という論文は多く存在する。廖平の場合はどうであろう。この理論を前提として、直接経解を行った場合、果して納得のいく結論を得られるであろうか。廖平によって考えさせられることは多いのである。

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