『王制訂』管見

廖平の王制研究

廖平経学の根幹に『王制』のあることは否定できない。晩年はともかく、少くとも経学的研究を行っていた時分の廖平は、今学の證拠を『王制』に求めていた。ここでいう『王制』は、いうまでもなく『礼記』王制篇のことである。

皮錫瑞の『王制箋』で有名な清朝経学の『王制』研究は、清朝最末期に進められたものである。それは儒学的世界観を維持したまま、迫り来る近代化に適応しようとした際に生れたものだとされているが、廖平の『王制』研究も通常はこの流れの中に位置付けられる。要するに、皇帝を頂点に戴き、その下に賢者が国政を支えるという儒学的世界観を維持するものとして、崩壊しかかった清朝の現行制度を打破し、あるべき理想的制度を構築する起爆剤として、『王制』は利用されたのである。

清末における『王制』研究の意味は概ねこのような理由であろうが、個々の儒学者にとっての『王制』研究の意味は、またおのずから異なるものがある。特に廖平の場合、『王制』を今学(即ち改制説)との関係で捉えたことは事実であろうが、それは単に改制説の利便性の為に利用したわけではなく、より技術的な問題からであった。

廖平と『王制』との関わりは深く、『廖季平年譜』の指摘が正しければ、光緒10年に『王制』と『穀梁伝』との関係に気付いて以後、長らく王制研究は続けられた。いま『年譜』から関係記事を拾ってみると以下のようなものが確認される。

  • 光緒10年(1884)‐成『穀梁春秋經傳古義疏』11卷。(*1)
  • 光緒11年(1885)‐成『王制訂本』1卷。(*2)
  • 光緒12年(1886)‐約尊經同人撰『王制義證』。(*3)
  • 光緒13年(1887)‐成『王制凡例』。
  • 光緒20年(1894)‐輟『王制義證』之作、別成『王制訂本要注』4卷。
  • 光緒23年(1897)‐尊經書院為刊『群經凡例』。

(*1)自序云:「甲申初秋、偶讀「王制」、恍有頓悟、于是向之疑者盡釋、而信者愈堅、蒙翳一新、豁然自達、乃取舊稿重録之。」
(*2)以「王制」有經傳記注之文、舊文淆亂失序、考訂改寫為『王制訂本』1卷。
(*3)按:此書稿已及半、隨手散佚、繼聞康有為『孔子會典』即是此意、乃決意不作。……特就『王制訂本』將辯疑、證誤二門編為『王制定本要注』4卷。……今存『王制集説』1卷、凡例亦非以前之舊、當又是『要注』改本也。

この間、廖平の『王制』に対する認識にも若干の相違が生まれた如くであり、『王制集説凡例』には次のようにいう。

舊説、『王制』は以て『春秋』の專證と為すも、今は既に『王制』を以て六經を統ぶれば、則ち專らには『春秋』を以て主と為さず。今、將に『春秋』の專證を以て公穀の義證に歸さんとすれば、『王制』の注疏に至りては、專らには『春秋』を主とせず。

実際は同じことになるのだが、当初廖平は『王制』は今学の中枢で、今学の中枢の代表を穀梁伝(公羊伝は亜流)に求めていた。しかし後々『王制』は全経書の中枢であるとの認識に変ったので、『王制』と公羊伝・穀梁伝の関係も、単に『王制』と六経との関係の一つに過ぎなくなったというのである。ただ公羊・穀梁も『王制』と関係することにはかわりないのだから、大差ないといえば大差はない。

では廖平は『王制』をどのように理解したのであろうか。この最も根本的な問題は、実は最も説明が困難なところである。理由は簡単で、廖平の思想が変るたびに『王制』の意味づけにも変化するからである。ただ廖平の『王制』理解の根本は『今古学考』に見え、後に附加された部分は『王制集説』に散見されるので、この両者からあるていどの『王制』理解のあらましは判断できる。

これに対する全面的説明は私の手に余るので、『王制』研究の必要性という観点から説明しておきたい。はじめ廖平は『王制』を『周礼』との関係で捉えていた。『王制』と『周礼』は、因革(改制)と従周の関係にあったと考えたのである。つまり『王制』は孔子が現行の制度を改める(改制)意図をもって書いたものであり(孔子晩年説)、『周礼』は周王朝の制度に随ったものだ(孔子初年説)と考えたのである。随って、陳腐な表現を用いると、『周礼』が保守的性格の書物であるのに対して、著しく革命性を帯びた書物として『王制』は捉えられたのである。ただしこの革命性は、飽くまでも研究上の問題なので、廖平の場合、これが実際運動に直接飛び火することはなかった。

それもそのはずで、廖平の『王制』理解も抽象的には革命性だのなんだのと説明できるが、実際に廖平が行った『王制』研究は極度に専門的な作業だからである。

例えば、古代の祭祀の1つ「禘祭」について考察しては、『穀梁伝』は夏祭、『公羊伝』は大祀太廟、『周礼』には存在せず、『左氏伝』は大祀太廟、『国語』は天帝を祀る、『孝経』は春祭とする。同じく「郊祭」については、『穀梁伝』は祀天、『公羊伝』は祀天に人鬼を配し、『周礼』には存在せず、『左氏伝』は祈穀と后稷を祀ること、『国語』は上帝を祀る、『孝経』は后稷を祀り以て天を配す云々と、延々と経書に見える礼制の異同を分析していくのである。

そしてその最終的な結論として、『王制』と『穀梁伝』の記載する礼制は完全に一致していること、『公羊伝』は『王制』を主としながらも異質の礼制を中に加えていること(廖平はこれを地方性が加わったと考えた)、『左氏伝』は基本的に『周礼』を継承していることが分かると判断したのである。そしてこのような分析を全経書と先秦諸子について当てはめ、今学と古学とを截然と区分し、両者の関係を『今古学考』に示したのである。廖平によれば、これによって始めて今古学が理解できるというのである。廖平の言う「改制」とは、畢竟このような学術的な分析からの結果であり、改制が研究の前提にあったわけではないのである。

廖平と『王制訂』

廖平の『王制』研究にはいくつかの副産物が見られる。その一つに『王制訂』がある。廖平にとって『王制』は経学理解の中枢に位置していた。しかし従来の『礼記』王制篇は錯雑としており、理解しにくい部分が多々ある。だから本来の孔子の作たる『王制』に構成し直そうとしたのである。

『王制』が混乱した部分を含むという指摘は、何も廖平に始まるものではない。既に宋代あたりから分っていたことである。『王制』を一読すれば了解できるが、『王制』の最後の方には注釈めいた文章ばかりが並んでおり、本文とは思われない個所が存在するのである。しかしだからといって「本来の書物」に戻すには何等かの根拠がいるのであるから、誰も「再構成」などしなかったのである。

しかし廖平は『王制』を再構成、つまり訂正して『王制訂』を作った。ではどのようにして「訂正」したのか。これは皮肉なことに、朱熹が『大学章句』を作ったのと余り変らない方法であった。

朱熹は『礼記』大学篇を錯簡だらけだと考え、本文をバラバラにして再構成し、勝手に字句を改めたばかりか、驚くべきことに「本来あった筈だ」という文章を朱熹自身が執筆して、『大学』の本文に放り込んだのである。所謂格物補伝である。朱熹に好意的な理解をすればいろいろ弁解も言えるが、平静に論ずれば朱熹の行為はテキストの改竄に過ぎない。そしてこのような行為を清代の学者は最も憎んだのであり、その後継者の一人として自任するものに廖平がいることは言うまでもない。

しかし朱熹と同じことを廖平も『礼記』王制篇で行ったわけである。後年の文章であるが、『王制集説凡例』には次のようにある。

『王制』に経・伝・記・注の文あり、旧本は殽亂して序を失すれば、今考訂改写し、『王制』定本一巻を為す。

経伝記注とは、経文と伝文(古来の注解)、さらにそれらの記録(礼の記録で『礼記』というのと同じ意味の「記」)と信頼できる注釈(注)を意味する。つまり廖平の考えからすると、現行の『礼記』王制篇は、経と伝と記と注とが区別なくごちゃごちゃに混在しているというのである。だから経と伝と記と注とを各々きっちり区分し直す必要が生じる、と。そしてこれを行ったのが『王制訂』である。

実際の作業から説明すれば、現行の「王制篇」を各条ごとにバラバラにして、それを勝手に経と伝と記と注とに配列し直したものが『王制訂』である。もちろん『王制訂』には廖平の加えた文字は原則として存在しない(「司馬」の二字のみ廖平が加えているが、括弧に括って「王制」原本に無いことを示している)。

レイアウトの関係上、この廖平『王制訂』を説明するのは難しいが、冒頭の所だけ挙げて大体の雰囲気を伝えておきたい(レイアウトの関係上、句読点は省略する。また太字は筆者の注記)。

王者之制禄爵公侯伯子男凡五等………………経に相当する
天子之三公之田視公侯天子之卿視…………伝に相当する
伯天子之大夫視子男天子之元士視
附庸(右王臣)
諸侯之下士視上農夫禄足以代其耕
也中士倍下士上士倍中士下大夫倍
上士卿四大夫禄君十卿禄次國之卿
三大夫禄君十卿禄小國之卿倍大夫
禄君十卿禄(右侯國)
諸侯之下士禄食九人中士食十八…………記に相当する
人上士食三十六人下大夫食七十
二人卿食二百八十八人君食二千
八百八十人次國之卿食二百一十
六人君食二千一百六十人小國之
卿食百四十四人君食千四百四十
制農田百畆百畆之分上農夫食…………注に相当する
九人其次食八人其次食七人其
次食六人下農夫食五人庶人在
官者其禄以是為差也

廖平の『王制訂』には2種の特徴がある。第1は、さきほどから説明している再構成である。上の例から見ても明らかだが、当然のように配列された上の文章は、もともと『礼記』王制では別々の個所に存在する文章なのである。

もう1つの特徴として、廖平は自身の考える経と伝と記と注を説明するため、各々冒頭に空格を付して区分を付けたことである。上の例では分かり難いが、経を基本に、伝は空格を一つ、記は空格を二つ、注は空格を三つ空けることで各々の区別を明示しているのである。空格を□とすると、全体的に下のような形になる。


□伝
□□記
□□□注

もちろん経に対して伝と記と注とが常に存在するわけではないし、また伝や記や注は廖平が作ったものではなく、『礼記』王制篇の本文である。

このような廖平の『王制』理解が妥当か否かは相当問題がある。しかし朱熹の『大学章句』と同じく、廖平の『王制訂』も王制篇の言わんとすることをより整然とした形で説明していることは否定できないのである。実に廖平『王制訂』の価値はこの点に存在する。

最後に廖平の『王制』関係の資料と現存状況を挙げておきたい。○/△の○は成書時期、△は発刊時期を指す。(詳細は『六訳先生已刻未刻各書目録表』などを参照)

  • 『王制義證』……未完成
  • 『王制訂』……光緒11年/光緒23年
  • 『群経凡例』……光緒12年/光緒23年
  • 『王制集説』……光緒12年/民国4年
  • 『王制凡例』……『群経凡例』『王制集説』に収録

『群経凡例』は『王制義證凡例』を含み、『王制集説』は冒頭に「凡例」を附している。いずれも『王制凡例』に同じ。ただし何度も改訂されている。

現在『王制訂』と『群経凡例』『王制集説』は『六訳館叢書』に収録されている外、『王制訂』と『王制集説凡例』は『廖平選集』巻下にも収録されている。『王制義證』は、執筆した後、康有為の『孔子会典』が出版され、自己の意図と同じであるといって著作を断念し、原稿も散佚したとのことである。

因みに『廖平選集』下巻に収録されている『王制訂』は利用に注意が必要である。『王制訂』は1897年発刊の原本の外、『王制集説』というものが事実上『王制訂』を基礎に成立したのだが、『選集』収録本はその『王制集説』から『王制訂』の部分を抜き出したものである。しかし『王制集説』の『王制訂』と、『王制訂』は若干のズレがある。上述の如く、『王制訂』は王制篇をバラバラにして組み立て直したものであるが、その際に一条だけ重複する部分が存在した。しかし『王制集説』の『王制訂』は、重複の外、更らに脱条が一条存在する。さして重大な問題ではないが、やはり『選集』編輯者の一言が欲しかったところである。

なおこれは編輯者の責任ではないが、『選集』所収の『王制訂』はレイアウトに相当難がある。上述の通り『王制訂』は王制篇を経・伝・記・注の四つに再構成し、各々冒頭に空格を空けてその違いを説明した。今風に言うとインデントを取ったのである。経はインデント0、伝はインデント1文字、記はインデント2、注はインデント3である。

しかし『選集』所収本は、洋風の横書きのため、もともとインデントを2文字空けており、さらにその上に伝・記・注にインデントをとっており、極めて見にくくなっている。しかも古い印刷技術で印字されているため、各頁に配置される本文の場所がマチマチで、頁がかわるごとに、もともとのインデントなのか、伝や記・注のインデントなのか判断が付きにくい。まして伝と記と注のインデントの差などは、ほとんど判明不可能である。

この様な理由で、『選集』所収の『王制訂』は、あまりいただけないものとなっている。可能なら『六訳館叢書』の原本を御覧になることをお薦めする。

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