『今古学考』管見

はじめに

廖平の学問的成果といえば、やはり『今古学考』を挙げなければならない。『今古学考』こそは晩清経学に燦然と輝く経学的成果の一つだからである。

本書は上下二巻から成り、上巻には今古学の区分を示す二十の表が、そして下巻には今古学に関する論述が106条列挙されている(条数は『廖平選集』巻上による)。ただし上巻が比較的完備されたものなのに対し、下巻は「本来なら『今古学三十論目』を著して逐一解説するつもりだったが、わずかの時間ではそれもかなわず、『経話』の中から今古学を論じたものを集めて下巻に充てることにした(旧擬『今古学三十論目』、欲条説之、倉卒未能撰述。謹就『経話』中取其論今古学者、以為此巻)」(導引)というように、同じく廖平の手になる『公羊三十論』などとは異なり、かなり雑駁な論述の寄せ集めである。本来は上巻の二十表こそが重要なのであるが、表だけでは理解が難しいため、下巻の雑論から、廖平の今古学の概念を探るのを通例とする。

下巻は、それこそ文字通り、今古学に関する論述で埋め尽くされているが、前半には比較的今古学の大綱を示した諸条があり、後半には細部にわたった論證や他者の批判にあらかじめ答えたような自己弁護の諸条が見られる。もちろんこれは大まかなことであり、前半に細部の話しもあれば、後半に大綱が見えないでもない。

本書下巻には、さすがに廖平の達識と思われる多くの発言が見られる。しかしこれらを全て説明することはかなり煩雑であり、また時間も私の力量もない。そのため以下には、廖平『今古学考』の今古を分断する理由とその根拠について説明しておきたい。廖平の思想が幾度変化しようと、この今古分断の根拠は変らなかった。これこそ廖平経学の根幹なのである。

以下、出典をあげないものは全て『廖平選集』上巻所収『今古学考』下巻による。条数も同じ。〔〕は筆者補入を意味する。

今古の区分

廖平は冒頭に今古学の区分を説明して、「今古の二派には各々家法があり、水火陰陽の如く、互いに敵味方となっているのだから、本来別々に行えばよいのであって、強いてその一致を求める必要はない(今古二派、各自為家、如水火陰陽、相妨相済、原当聴其別行、不必強為混合)」(第1条)という。

無論、これは晩清経学に起った今古文を前提としたものであるが、廖平の特長は、今古両者のどちらかに軍配を挙げるのではなく、今古両者ともに並行して行えばよいとするところにある。換言すれば、今文学派のように、今文に価値を与え、古文を否定するのではなく、今古両派に価値を平等に与えたのである。これこそ廖平第一変期が平分今古と呼ばれる所以である。しかしこれだけでは、今古学に対して穏当な立場を表明したに過ぎず、『今古学考』が高く評価されねばならぬ理由にはならない。『今古学考』の価値は、この今古両者が何故に区分されるのか、この区分の根源を求めたところにある。

廖平はこの根源を把握するため、膨大な書籍を利用しているが、しかしその根幹にあるものは、許慎の『五経異義』(直接には陳壽祺の輯佚による『五経異義疏證』)である。

『五経異義』は失われて久しいが、いま陳壽祺氏の輯本によって見る限り、百条余り残っている。今学と今学は等しく、古学と古学は等しく、互いに朋党を結び、互いに非難しあっている。元来門戸が異なっていたが故に、互いに異なっているのだ(異義久亡、今就陳氏輯本考之、所存近百条。今与今同、古与古同、各為朋党、互相難詰、以其門戸原異、故致相岐也)(第3条)

この『五経異義』によって、今古の朋党難詰の根源が解明され、さらにその根源を周辺に推し及ぼすことで、『今古学考』上巻の二十表に見える整然とした今古の区別が可能となったのである。

ここで注意を要するのは、廖平は敢えて今文古文といわず、今学古学と呼んでいることである。これは廖平が今古両派の根源を深く考えてのことである。即ち、「私は今古の区分を経学の大綱としているが、昨今の学者がただ文字からその異同を求めるのには感心できない(予治経以分今古為大綱、然雅不喜近人専就文字異同言之)」(第63条)と云うのがそれである。もう少し立ち入って発言を求めると、「初変記」の次の記事が適当である。

ただ文字上から〔今古の区分を〕論じても、今と今とは異なっており、古と古とも異なっている。たとえば『公羊』『穀梁』、斉・魯・韓の三家詩は、すべて今学ではあるが、互いに〔文字に〕異同がある。また顔氏と厳氏の公羊学は、両者ともに〔眭孟という〕同じ師に就いたのだが、経のテキストは各々異なっていた。だから〔文字で〕今古を分けても結論が得られないのである。そこで『五経異義』に見える今古二百余条によると、ただ礼制について載せるだけで、文字については記載がない。(但以文字論、今与今不同、古与古不同。即如公・穀、斉・魯・韓三家、同為今学、而彼此岐出。又如顔・厳之公羊、同出一師、而経本各自不同。故雖分今古、仍無帰宿。乃拠五経異義所立之今古二百余条、専載礼制、不載文字。)(『廖平選集』巻上、『六変記』初変記)

つまり廖平は、『五経異義』に見える今古両派の対立は、今文と古文という、学者が所持したテキストの文字に差異があったから起ったのではなく、もっと別の存在、即ち礼制の差異からなされたと考えたのである。ではその礼制とは具体的には何を指すのか。

群経の中、古は今よりも多いが、今学派と判断できるのは、全く『王制』による。(羣経之中、古多于今、然所以能定其為今学派者、全王制為断)(第9条)

端的に言って、今古を区分するものは、『王制』(『礼記』王制篇)の存在による。『王制』に合致するものが今学であり、それ以外が古学だというのである。では何故に『王制』と今学が結びつけられるのだろうか。

今古の経伝の中、ただ『春秋』だけが残っている。『王制』と『周礼』は、三伝が今古の区分に用いたものだ。(古今経伝、唯存春秋、王制・周礼皆三伝所拠以為今古之分者)(33条)

今古の区分は、経伝については『王制』、『周礼』、三伝、〔大小〕戴記を証拠とし、礼制については宗廟・禘袷・田税・命官・制録を証拠とすれば、明白といわねばならぬ。(今古之分、于経伝以王制・周礼・三伝・戴記為証、于礼制以宗廟・禘袷・田税・命官・制録為証、可謂詳明)(第23条)

『王制』には一条として『穀梁春秋』と異なるところがない。二書は蝕まれること既に久しいが、ひとたび明白になったことはどれほど喜ぶべきことであろう。不封不樹弐のことについて、鄭康成は庶人の礼だとするが、『穀梁伝』に既に明文があるのを知らぬのだ。世卿を譏り、下聘を譏り、盟を悪み、斉晉の二伯を尊び、曹国以下を卒正とし、冢宰・司馬・司城を三公とすること、完全に〔『王制』と『穀梁伝』は〕一致している。(王制無一条不与穀梁春秋相同。二書皆蝕蒙已久、一旦明澈、可喜如何。不封不樹弐事、鄭以為庶人礼、不知穀梁伝已有明文。譏世卿、非下聘、悪盟、尊斉晉二伯、以曹以下為卒正、以冢宰・司馬・司城為三公、亦莫不相合)(第67条)

廖平の記述は必ずしもまとまりのあるものではないが、強いてまとめると次のようになるだろう。即ち、今古の経伝として完全に現存するものは『春秋』及び三伝のみである。そして今古の別は『異義』に見える礼制にある。そこで『異義』の礼制と三伝とを比べ、さらにその各々に合致する礼制を現存古典の中から求めると、『穀梁伝』は『王制』と合致して、自ずから今学である。『左氏伝』は『周礼』と(ほぼ)合致し、古学である。ここから推して、今学の礼制は全く『王制』一篇に存在し、逆に古学の礼制は(ほぼ)『周礼』によることが確認できるのである。

これを前提として、廖平は『王制』と『周礼』、特に『王制』即今学との立場から、つぎつぎに現存古典を今古に区分していく。

いま『穀梁』と『左氏』を今古学の根本としたが、根本が既に固まったなら、それを『礼』『易』『書』『詩』などの経書にまで波及させる。蓋し今古は『春秋』と『王制』『周礼』から起り、それ以外はどれも先師が自分の学んだものから類推して説いたものなのだ。(今以穀梁・左氏為今古学根本、根本已固、然後及礼与易・書・詩等経。蓋今古起于春秋与王制・周礼、余皆先師推所習以説之者)(第35条)

今学の礼は、漢以前にあっては『孟子』『荀子』『墨子』『韓非子』について見るべきものがある。古学は『国語』『周書』以外にも多くの引用がある。(今学礼、漢以前有孟・荀・墨・韓可考。古学則国語・周書外、引用者不少)(第30条)

廖平の推論が妥当か否かはしばらく措くとしても、今古学の立場に立つ限り、あらゆる経書に今古の区分を求め、両派に分かつことは経学者である以上、当然の行為にすぎない。しかし廖平の場合、この今古の立場を経書以外、甚だしくは儒学典籍以外のものにまで適応していったところに特徴がある。この廖平の成果は、上巻の「今古兼用雑同経史子集書目表」に見える。

なお廖平は現行本『王制』――つまり『礼記』王制篇をそのまま今学礼制の宗旨たる『王制』だと考えていたわけではない。詳しくは別個論じたので省略するが(『王制訂』管見を参照)、要するに『王制』に経伝注記の四区分を設け、自在に『礼記』王制篇の正文を割裂したのである。

『王制』には経があり伝があるだけでなく、伝文のなかには誤って別の〔『礼記』の〕篇に入っているものがある。『礼記』王制篇には経伝以外にも、先師が加えた注や記が混ざっている。尺畝を解説したくだりがそれで、漢制の今田によった学説を立てている。(王制有経有伝、並有伝文佚在別篇者。至于本篇経伝之外、並有先師加注記之文。如説尺畝、拠漢制今田為説、是也。此固為戴氏所補、至目為博士手筆、則誤読史記矣)(第66条)

念のため説明しておくと、別篇に付加された『王制』本文というのは、具体的には『礼記』文王世子や『大戴礼』千乘篇を指す。

『王制』には佚文が別篇にあるものがある。「文王世子」篇などはその一つであろうか。いま「千乗篇」を読むと、四輔について論じているが、全く『王制』と同文である。これは孔子がその晩年哀公に告げ、『春秋』に用いたものである。(王制似有佚文在別篇、疑文王世子其一也。今観千乗篇、其説四輔全与王制文同。此孔子晩年告哀公用春秋説也)(第99条)

これ以外にも、廖平は今古に分けられない書物、換言すれば『王制』と『周礼』が混ざった書物が存在することに注目し、それらを今古雑有とみなしているが、これは成り行き上当然のことであるから省略する。

かくして、廖平は今古区分の根源を礼制にもとめ、今学の礼制を『王制』に、古学の礼制を『周礼』に求めたわけである。その諸成果を一目瞭然たらしむべく作製されたのが、『今古学考』上巻の二十表である。随って、ここまで論じたことを念頭において二十表を一読するならば、廖平の苦心の跡は歴然たるものがある。

礼制異動の原因

しかしながら、これら二十表は今古学の諸テキストの状況にすぎない。現存の書物が礼制を根源として今古に分けられるというだけに過ぎない。ならばその根源となった礼制は、何故に今古で異なっているのか。読者が次に興味を持つのは、当然この点でなければならない。しかし、廖平の論述はここに至って突如として根拠を喪失する。如上の書物上の礼制分析ではなく、推論による理解に頼るのである。

まず廖平は礼制に根本的な差が生れた原因を、孔子の立場の変化に置く。

孔子が若い頃に礼を問われたときには、従周――周王の礼制に従う――という言葉があったが、これは周王の命を尊び、大人を敬っていたあらわれである。晩年になって、何等かの手段に借りてでも自分の思いを遂げ、弊害を救う必要があると考えられた。そこで自身の望むとおりを『王制』に書かれ、『春秋』に寓意されたのである。(孔子初年問礼、有従周之言、是尊王命、畏大人之意也。至于晩年、不得仮手自行其意、以挽弊補偏、于是以心所欲為者、書之王制、寓之春秋。……予謂従周為孔子少壮之学、因革為孔子晩年之意者、此也)(第4条)

つまり孔子は壮年のころまで周室に従うつもりであったが、晩年に及び周室に絶望して、自らの意志を記すべく『王制』と『春秋』を作ったのだと考えたのである。一々原文は引かないが、ここから孔子従周時代には周の礼制である『周礼』を以て弟子に説き、孔子晩年の因革時代には『王制』を以て弟子に説いたという推論が生まれるのは、想像に難くないだろう。

かくして『王制』と『周礼』とに差が生まれた理由も明らかになる。

今古の区分について、人は大袈裟に驚き、質問する言葉すらないほどだ。だた沿革だけ、損益だけである。明朝の制度は元朝と同じわけにいかず、元朝の制度は唐宋と同じわけにいかないようなものだ。(今古之分、或頗駭怪、不知質而言之、沿革耳、損益耳。明之制不能不異于元、元之制不能不異唐宋)(第18条)

つまり孔子は壮年まで周王朝の礼制『周礼』に従っていたが、それでは駄目だというので、新しく『王制』を作った。しかしそれは全く『周礼』と無関係のものでは当然ない。『周礼』の一部に手を加えた(因革)にすぎない。随って、逆からいえば『王制』が『周礼』と異なっているところこそ、今学の今学たる所以だということにもなるのである。

ただ今学‐王制‐晩年が比較的説明しやすいのに対して、上巻の二十表の結論から古学‐周礼‐壮年の学説を説明するには齟齬が生じたため、次のような逃げの一手を打っている。

孔子が今学を伝えたとき、学問を受けて早くに郷里に帰ったものはそれを聞くことができなかった。だから弟子のなかでただ古学だけを用いるものがいるのだ。またこれとは別に、〔孔子から〕学問を受けておらぬ隠者の君子が作った〔典籍〕もある。(孔子伝今学時、受業早帰者未聞、故弟子有専用古学者。又或別為不受業之隠君子所爲)(第15条)

古学はどれも歴史書を中心としており、年月が経つに従い、有職故実は多岐になるのを免れなかった。だから各自の判断で学説を立て、多くの学派が生まれざるを得なかった。しかし今学は完全に孔子改制の意図を祖述したものだから、まったくの一派である。だから後世にやや分派が生まれたことはあったが、宗旨は均しく、古学のような紛々たるものではなかった。(古学皆主史冊、周歴年久、掌故事実、多不免岐出、故各就所見立説、不能不多門。至于今学、則全祖孔子改制之意、只有一派、雖後来小有流変、然其大旨相同、不如古学之紛繁也)(第10条)

廖平が孔子壮年晩年の学説を証明するべく、零細な史料を操作していることもちろんである。しかし、そのような史料操作で如上の学説が説明できるはずはない。結局、その弁解に費やされたほとんどの学説は、今古両派の礼制上の差異を説明する為にする学説に過ぎなかった。そしてこの部分は廖平の思想が二変、三変と変化するに従い、簡単に撤回されてしまうのである。

しかし、どれほど廖平の思想が変化しようと、先に説明した今古学の礼制上の区分は微動だにしない。なぜか。それは廖平が求めた礼制上の差異が、厳密な意味に於いて、制度上の問題であって、思想上の問題ではなかったからである。

『論語』の因革損益はただ制度にのみのことで、倫理や義理については百世とも知り得るのである。だから今古の区分は、全く制度にのみあり、義理にはないのである。義理は古今を同じくするからである。(論語因革損益、唯在制度、至于倫常義理、百世可知。故今古之分、全在制度、不在義理、以義理今古同也)(第17 条)

なお廖平の学説の中、後学との関係で重視されるのが、地域によって思想的差異を見出そうとする態度である。

魯斉古の三学が分かれたのは、郷土が異なるからである。……これこそ私が「学派は郷土の気質によって変る」というやつだ。(魯斉古三学分途、以郷土而異。……予謂学派由郷土風気而変者、蓋謂此也)(第8条)

いま天下は南北中の三種に分けられる。私はそれを今古学にも当てはめてみたい。土地で分けるなら、古学派は北方で、魯学派は南方で、斉学派は中間派である。(今天下分北南中三皿。予取以為今古学。由地而分之、喩古為北皿、魯為南皿、斉為中皿)(第31条)

説明を省略してしまったのでややこしくなったが、孔子の後、経学は趙や燕を中心とする古学派と、魯を中心とする今学派と、今学に在地の影響を受けた斉学という三派が生まれ、漢初まで続いたというのが、廖平の考えである(40条、46条など多数)。廖平はこれら三学派の特質を、地域の特質に当てているが、これは後に拡大されて弟子蒙文通に受け継がれる。

混乱と分離

さて、孔子従周因革の学説がいかに不安定であっても、廖平の考えでは、この今古(魯斉と古)の両派三学は、漢初まで受け継がれた。しかし、孔子の従周因革の精神は忘れ去られ、ただ今古の両者が異なるということだけが漢末まで行われた。

今古の区分は鄭君〔玄〕以前はだれもそれを侵さなかった。伏生の『尚書』や三家詩は言うに及ばず、何君〔休〕の『公羊解詁』も古学の説は用いず、『周礼』と異なる部分を解釈しては、すべて春秋の改制だとみなし、強いて『周礼』に合わせようとはしていない。これが今学の派である。許君〔慎〕の『説文解字』は古義を用いているが、今文家の学説はすべて博士官の学説だとみなし、〔それら今学説を〕閉め出して異義を唱えている。杜子春、鄭興・鄭衆父子、賈逵・馬融らも、『周礼』『左伝』『尚書』に注釈するとき、博士の説の片言隻句すら用いていない。……彼等が〔今古の〕異同を区別していること、あたかも水と火を強いて同じくせしめられぬようである。……これこそ東漢において今古の区別が厳密であった証左である。鄭康成が出現して、ついにこれを混合してしまったのだ。(今古之分、鄭君以前無人不守此界畔。伏尚書、三家詩無論矣。何君公羊解詁不用古説、其解与周礼不同者、皆以為春秋有改制之事、不強同周礼、此今学之派也。至于許君説文用古義、凡今文家皆以博士説目之、屏為異義。至于杜・鄭興衆父子・賈・馬、其注周礼・左伝・尚書、皆不用博士説片言隻句。……其分別異同、有如引用水火之不能強同。……即此可見東漢分別今古之厳。自鄭康成出、乃混合之)(第12条)

そして鄭玄の後、王肅が出て今古を完全に混ぜ込んでしまい、もはや区分も不可能ではないかと思われる程の状態になる。所謂「古今の混乱は鄭君に始まり、王子雍によって完成された(古今之混乱、始于鄭君、而成于王子雍)」(第13条)である。

ならば廖平の『今古学考』の目的は明白であろう。今古の区分を、再び鄭玄以前にもどすことにある。

鄭君の学は今古を混合することに目的があった。私の経学は、どうしても鄭君と反することになる。私の目的は鄭君が間違って混合してしまったところを、すべて引き離すことにあるのだ。経学は鄭君に至って一大変したが、今になってまた一大変した。鄭君は〔今古を〕変じて古義に違えたが、今また変じて古義に合するのだ。(鄭君之学、主意在混合今古。予之治経、力与鄭反、意将其所誤合之処、悉為分出。経学至鄭一大変、至今又一大変。鄭変而違古、今変而合古)(第61条)

このような目的の下、既に述べた今古の学の根本を礼制に求め、それを二十表に圧縮しきったとき、廖平は遂に鄭玄は愚か、西漢の大儒ですら知り得なかった、孔子秘伝の奥義を知ったのである。この発見を前に廖平が興奮したのも当然であろう。

今古の経文が異なることは多くの人が知っている。しかし博士官にあったものがみな今学で、民間にいたものがみな古学であることを知るものは少ない。今学は斉魯派であり、十四博士が同源共貫、まったく同じであること。そして古学は燕趙派で、群経を一家として今学と敵対し、古学内では異なるところなどなかったこと。これらを知るものはさらに少ない。今学は均しく『王制』を根拠とし、つねにそれを根源としていること。〔大小の〕『戴記』は今古が混在しており、一家の説ではないこと。今古は博士官であるか否かをもって決することのできないこと。古学は『周礼』を根拠とし、ひそかに今学と敵対していること。今学の礼は少なく、古学の礼は多いこと。今学の礼で〔古学の礼と〕異なるものは、すべて古学の礼説を改めたものであること。これらは西漢の大儒ですらみな分らなかったのだ。許慎や鄭玄など何を論ずる必要があろう。(今古経本不同、人知者多。至于学官皆今学、民間皆古學、則知者鮮矣。知今学為斉魯派、十四博士同源共貫、不自相異。古学為燕趙派、羣経共為一家、与今学為敵、而不自相異。則知者更鮮矣。知今学同祖王制、万変不能離宗。戴記今古雑有、非一家之説。今古不当以立学不立学為断。古学主周礼、隠与今学為敵。今礼少、古礼多。今礼所異皆改古礼等説、則西漢大儒均不識此義矣、何論許鄭乎)(第7条)

廖平の今古学研究の最後に、『今古学考』上巻の二十表の一部を挙げておきたい。二十表はいずれも経学上の興味ある分析であるが、やや専門的なところがあるので、ここでは最も有名な「今古学宗旨不同表」の一部と、実際の礼制分析を示す「今古各経礼制有無表」を掲げる。

今古学宗旨不同表
今祖孔子古祖周公
今、王制為主古、周礼為主
今主因革(参用四代礼)古主従周(専用周礼)
今用質家古用文家
今多本伊尹古原本周公
今、孔子晩年之説古、孔子壮年主之
今経皆孔子所作古経多学古者潤色史冊
今始于魯人、斉附之古成于燕趙人
今皆受業弟子古不皆受業
今為経学派古為史学派
今意同荘・墨古意同史佚
今学意主教文弊古学意主守時制
今学近于王古学師乎伯
今、異姓興王之事古、一姓中興之事
今、西漢皆立博士古、西漢多行之民間
今経伝立学、皆在古前古経伝立学、皆在今後
今由郷土分異派古因経分異派
…………

今古各経礼制有無表
 今穀梁今公羊古周礼 古左伝古国語古孝経
会同 不見
祧廟
壇墠
太廟 不見
明堂
世室 不見
原廟 不見
不見
不見
祔主 不見
三公有而不同   不見
六卿 不見
不見

廖平の今古学

経学には今古の別があり、その今古を分ける根拠は礼制にある。具体的には、今学は『王制』を、古学は『周礼』を根拠として各々の学説を立てている。ただ『周礼』の範囲は広く、その一部のみ修正を加えたものが『王制』である。では何故にこのような差異が生まれたのか。これは孔子の学説に変化が生れたからである。孔子は当初、周室に従う(従周)ことで、世の中が正しく治まることを期待した。しかし晩年に及び、周室の命運を見限り、自ら新たな王のために制度を作る(改制)ことにした。随って、晩年の学説は『王制』を軸とした今学であり、幼年期から壮年期にかけてのものが『周礼』を軸とする古学ということになる。

この今学と古学との対立は、そのまま漢代にまで流れたが、漢代末期の鄭玄に至って遂に混合され、今古の区分は不明になった。この鄭玄以来の今古混合の学問を批判し、再び今古を分離させたものが、晩清経学の成果であり、廖平に即して言えば『今古学考』上巻の二十表である。

以上が『今古学考』のあらましである。もちろん本論にはこれ以外にも、経学上のさまざまな問題が論じられており、この方面に興味をもつ人には有益な発見が幾つも指摘されている。学説の当否とは別に一読の価値はあるだろう。

最後に、この廖平の『今古学考』はいかに評価されるべきかを考えておく必要がある。今古の差異を孔子壮年晩年の年限でとらえる考えは、後に廖平自身が否定している。「両漢の学、『今古学考』詳らかなり」(二変記)というように、『今古学考』に示された今古の差は、孔子から両漢・鄭玄に至る間に流れる学派間の抗争史ではなく、単に両漢時代の今古の対立に矮小化されてしまうのである。

では漢代今古学の区分の成果としてならば、『今古学考』に価値はあるのだろうか。これは学者によって意見に差が生まれるところで、周予同(『周予同経學史論著選集』など)は概ね賛成しているようであるが、逆に銭穆(『中国近三百年学術史』など)は礼制にのみ区分を求めることに反対している。

廖平『今古学考』の真偽を定めにくいのは、本書の実質的な判断基準が孔子壮年晩年という歴史的な文脈に存在せず、今古を区分する原理が礼制にあるという点を見抜き、その礼制上の区分から整然と今古を区分して見せたところにあるからである。廖平自身がいうように、今古の差別は礼という制度に存在し、義理にはない。つまりこの意味での『今古学考』の功績は、礼制が今古を分けているという状況を説明したことにあるのであって、そのような状況が生まれた理由や意味あるいは価値を説明することにはないのである。

そのため『今古学考』の誤りを論証するならば、礼制によって今古が区分できないことを説明せざるを得ない。言うまでもなく、礼制以外の視点から今古をより巧みに区別できたとしても、それは礼制によって今古が区分できるということを否定することにはならない。しかも『今古学考』は、礼制によって今古が区分できること、少なくともそのような区分を成立させる状況にあることを説明しているのである。

史料の分析は歴史的な展開として捉えられる場合が多い。随って歴史的な展開に破綻が生じると、そこで証明された個々の資料の関係性も破綻する。廖平の『今古学考』も、一応は孔子の思想の変化という歴史的文脈で今古の別を論じたものである。しかしその歴史的展開が破綻しても、今古の別という結果だけは厳然として残る。ここに『今古学考』の特殊性があるのである。随ってそこでは、廖平の示した成果――今古が礼制によって区分されるという関係――を生じさせた歴史的意味を、後から別個に付け加ることができるのである。『今古学考』の成果とは、説明されるべきものを解明したというよりは、説明されるべきものに根拠を与えてくれる史料上の関係性を、説明したものと言い得るのである。

なお『礼記』王制篇は文帝の時代に博士が書いたという説が有力であるが、これはもちろん廖平も知るところで、第69条その他で自己の意見を述べている。かなり専門的な証明に渡るので、ここでは省略する。


(了)

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