羅倫関係資料

羅倫(宣徳6=1431~成化14=1478)、字は彝正、吉安府永豊県の人。一峯(一峰)先生。成化2年の進士(状元)。享年48。現存著書には『周易説旨』(存2巻)と『一峯集』がある。明朝前半期に活躍した朱子学者の一人。苛烈な生き方が時人の注目を惹き、また後世尊崇されもした。

著作及び伝記

生前に『易経会要』『礼記会要』『春秋会要』『四書攷正講』『一峯膚説』があり、死後すぐに『一峯集』が編纂された。現存著書は、『周易説旨』(存2巻)の外、『一峯集』のみ。

(1)書誌

  • 『周易説旨』4巻……明志、千頃堂書目(巻1)
  • 『礼記集註』……千頃堂書目(巻2)
  • 『中庸解』……千頃堂書目(同上)
  • 『五経疏義』……千頃堂書目(巻3)
  • 『一峯集』10巻……明志、千頃堂書目(巻20)

(2)文集

羅一峰の文集に『一峯集』は存在するが、いくつかの版本が確認されている。

  1. 『一峯羅先生詩集』3巻『文集』4巻……正德元年、順慶府通判盛斯徴刊本、臺灣國家圖書館所蔵。(未見)
  2. 『一峯先生文集』11巻……正徳11年。
  3. 『重刻一峯先生文集』14巻……嘉靖28年。永豊県儒学刊。万巻楼本も存在する。
  4. 『重校一峯先生集』10巻……万暦18年。
  5. 『一峯文集』14巻……四庫全書及びその底本。
  6. 『重刻一峯先生集』10巻補2巻……道光29年。(未見)
  7. 『重刻一峯先生集』10巻補編1巻……道光30年。(未見)

1は未見だが、四川の刻本であるから、2以下のものと無関係である可能性が高い。

2~4は一連の編纂物である。時系列順に説明すると、まず羅倫没後、すぐに文集の編纂がなされたようである。この中、故郷永豊県で製作されたものは、知県王昂を上に頂いてなされたものである。便宜上、これを初刻本と呼んでおく。

初刻本は現存せず、随ってその詳細は知り得ず、また発行年月日も明らかでない。しかし王昂が知県であった期間は、成化22年(1486)~弘治4年(1491)であり(萬暦『吉安府志』)、初刻本の刊行もこの期間であろうと推測される。初刻本を所有していた聶豹(後述)の指摘によると、弘治の初めに出版されたらしいが、年月日を記していない所からして、恐らく初刻本には刊行の年月日が記載されていなかったのであろう。随って、聶豹の指摘は王昂在職の期間から類推したと考えられ、上のことを補強するものにはならない。しかし王昂が出版したことには変わりなく、また着任早々羅倫の文集を出版する余裕があるとは考えられないことから、概ね聶豹の類推が妥当なところと考えられる。

この初刻本は比較的羅倫の文章を多く集めたものであったらしいが、一つ問題があった。それは文集中に羅倫の名に仮託した贋作が紛れ込んでいるという噂があったことである。(邵寶序)これを病んだ羅倫の息子幹は、羅倫在世時の友人邵寶の助けを借りて、新たに文集を編纂することにした。これが2の『重訂一峯先生集』である。「重訂」の「訂」とは、贋作を除く作業を行ったという意味なのであろう。ここでは重訂本としておく。

邵寶の序によると、この重訂本は、初刻本を基本とし、その中から贋作を省き、更に羅倫の作と考えられるが、少しく不安のあるものを『外集』に落とすという作業が行われた。初刻本が現存していないため、具体的な作業は分らないが、この作業の過程で生まれたはずの『外集』が現行本には存在しない。『外集』不在の理由は明らかでない。あるいは『外集』だけ残らなかったとも考えられるが、現行本の最終巻最後には刊記があり、もともと現行本11巻で完結していたような印象を受ける。そもそも邵寶の序文はなにかと事実をぼかして書いており、本当に現物を見て書いたのか否か疑わしい所もある。しかし後述する張言のものと比較すると、確かに収録文集がかなり減っていることから、刪損したことは事実であろう。

なお重訂本の特徴に、附録の存在がある。重訂本は11巻というキリの悪い巻数であるが、それは11巻目が附録であるからである。通常なら全10巻附録1巻と云うところである。この附録が初刻本以来のものであるかは不明であるが、初刻本と同じでない可能性が高い。それは羅倫を知る上で最も重要とされている陳獻章の「羅倫傳」が附されているからである。陳獻章が「羅倫傳」を書いたのは1493年であり、それに対して初刻本は少なくとも、王昂離任の1491年に完成していなければならないからである。

しかしならがこれには一つ疑問がある。羅倫の友人であった何喬新の文集『椒邱文集』巻9に「一峯集序」というものがある。これによると、羅倫の友人饒秉元が12巻本『一峯集』を編纂していたことが分る。文面から羅倫没後まもなく編纂したもののようであり、時系列や内容から考えると、2の原本にあたる王昂のものではないかとも思われる。ただし序文に王昂への言及はなく、また何喬新の序文そのものが、饒秉元の編纂以後、かなり後に作られている。この饒氏の12 巻本には附録があったらしく、「附するに大夫君子の祭誄哀輓之辭を以て」し、更に『周易傳』『中庸解』『禮記集註』は別巻として文集中に収めなかったことが記されている。『周易傳』などの著作は今は措き、この12巻本の附録は、重訂本の附録と同じ構成なのである。何度も同じ内容の附録が作られることはないであろうから、恐らく12巻本附録は重訂本附録と原則同じものだと考えられる。そこで問題になるのが、陳獻章の「羅倫傳」である。陳獻章が「羅倫傳」を書いた動機は明らかでないが、一つには文集収録のために書かれた可能性もあり、もしそうであるならば初刻本の実際の発行年は王昂離任の後である可能性もある。(重訂本附録の中、年月日の明記あるものは「羅倫傳」のみであるが、肩書を付したものが幾つかあるのため、これらの肩書を地方誌などで確認すれば、もう少し正確な情報が得られる可能性もある。重訂本附録と12巻本附録との関係は未解明。随って初刻本の正式な発刊年も存疑。)

こうして誕生した重訂本は、一定程度の流通があったと推測されるのに対し、初刻本は重訂本の登場とともに世の中から消えていった。そして重訂本出版後、30数年の歳月が流れると、その重訂本の版本も磨滅して来た。この時、折しも永豊県に知事としてやって来たのが、羅倫を慕う張言という人物であった。張言は着任早々、羅倫の故事を諸生に教えるなどの文化事業を行っていたが、その時、羅倫の孫から羅家秘伝の家蔵直筆本を示された。張言が家蔵本と重訂本とを比較すると、重訂本よりも収録文章が多かった。羅倫を慕う張言は、少しでも文章が多い方がよいと考え、重訂本にその未収録の文章を加えた増補版を刊行しようと計画した。そこで永豊県の名士であった聶豹(陽明学者として著名)という人物に相談すると、聶豹は家蔵の初刻本を持ち出し、張言に示したのである。そのときの調査によると、初刻本と羅氏家蔵本とは同じものであった。そこで、初刻本、重訂本、羅氏家蔵本とを用い、更に羅倫の佚文を広く求めて増補版を作った。これが14巻の『重刻一峯先生文集』である。結局、重刻本は聶豹、羅洪先(これも陽明学者として著名)の序文を冠し、張言の跋文を付して、1549年に刊行された。

重訂本と重刻本を調べると、当然ながら重刻本の収録文章は重訂本よりも多い。さらに仔細に調べると、重刻本は、概ね重訂本の後に関係文章を増補している。つまり「七言絶句」は重訂本は巻9に、重刻本は巻12に収録されているが、重刻本の増補部分は、重訂本収録の七言絶句の終わりに増補されている。要するに重刻本というのは、重訂本の小分類に単純に増補を加えただけの構造となっているのである。

しかし不思議なことに、重刻本には重訂本の附録が缺如している。また邵宝の序文も存在しない。確かに附録収録の「羅倫傳」のみは文集冒頭に差し替えられており、学統の正当性を示そうとしたと言えないではないが、敢えて他の附録を削除しなければならないほどの理由は見当たらない。そもそも張言らの発言によると、彼等は重訂本出版の理由であった、羅倫の贋作の淘汰という事情を知らなかったようでもある。張言の考えでは、初刻本と重訂本との収録文章の差は、初刻本が焼けたため、息子の羅幹が家にあったものだけを纏めて出版した(重訂本)ため、重訂本は初刻本より収録文章が少なくなったと云うのである。これから考えると、むしろ張言は序文や附録のついた重訂本を見ていなかった可能性もある。

ならば重刻本には一つの大きい問題が残る。そもそも重刻本は、(1)重訂本と、(2)重訂本未収録の初刻本収録文章と、(3)佚文とから成っている。この中、(1)は淘汰された文章であるから、それなりに信頼できる。(3)は判断に難しいが、佚文が「廷試策」や他者に贈った詩文であれば、相手方の確認ができれば信頼できる。問題は(2)である。羅倫の息子と、羅倫の友人という、羅倫を直接知る人物が怪しいからといって省いた文章を、わざわざ差し戻したのが (2)である。羅倫の研究に必要とされる資料は、あまりこの(2)には含まれていないが、これは羅倫を研究する上では留意しておく必要のある点である。なお羅倫の孫が直筆家蔵本を持っていたということであるが、逆に家蔵本の信憑性の方が怪しいのである。もし家蔵本がそれほど完全なら、重訂本出版時に羅倫の息子が見た筈である。また家蔵本と初刻本が同じなら、初刻本に贋作はないのであるから、わざわざ重訂する必要などなかったのである。

いずれにせよ、重刻本が出版されて以後、この本が重訂本に代わって流通したようである。ところが、明も末期の萬暦年間、呉期炤なる羅倫の信奉者が再び文集の編纂を行った。呉氏は重刻本の編成や収録文章に不備があることを遺憾に思い、またもや陽明学者の鄒元標の助けを借りて、再編集を行ったのである。呉氏は相当広範囲に羅倫の資料を探したらしく、結果、いくつかの遺文の他、『周易』『礼記』『春秋』の三経注、及び『夢稿』なる遺稿を発見した。この中、三経注は文集とは独立して纏められたため、現存しない模様である。

呉氏の編纂方法は簡単である。重刻本を基本として、各小分類(序や記、詩など)を通常の配列に整理しなおしたのである。これによって、恐らく初刻本以来守ってきた配列は一切消滅し、全く別の編集本となった。こうして重刻本14巻を8巻に編集し直し、更に新たに発見した『夢稿』2巻を付して、全10巻の『重校一峯先生集』を完成させた。この中、三経注と『夢稿』の発見は、呉氏にとっては重要なものであたろうが、逆に地元の人々の反感を買った。県民によれば、県の名士聶豹らがかつて徹底的に捜索して得られなかったものが、今頃になって出て来る筈がないというのである。呉氏は適当にはぐらかし、1950年に刊行している。県民の批判も理由のあることであるが、重刻本とて必ずしも信頼できるものでないことは、上に見た通りである。

呉氏を少しく弁護しておくと、『夢稿』が根拠の一つになると思われる。『夢稿』は夢の中の出来事を歌った詩であるが、『夢稿』中のもの(または『夢稿』と同じスタイルもの。「~夢」という題目が附されている)が重刻本の詩に存在する。ならば、『夢稿』の一部は由来のある重刻本に存在するわけであるから、その全体である『夢稿』もまた、羅倫の詩であると考えられるのである。とはいえ、『夢稿』に関係する詩は、重刻本に存在する場合が多く、重訂本にはほとんど存在しない。重訂本収録の詩だけでは、『夢稿』のような特殊なものは想像できないのである。『夢稿』は夢の出来事を詩にした変ったスタイルのものであり、面白い題材だけに、その正当性に疑問があるのは厄介な問題だとしなければならない。

なお、明志や『千頃堂書目』の10巻本は、恐らく重訂本を指すのであろう。

羅倫の文集で実質的に意味のあるのは、この重訂本までである。

5の四庫全書とその底本。『四庫提要』は10巻本を採用しておきながら、本文は14巻本を採用しており、その編纂は極めて杜撰である。なお四庫本4巻は重刻本と配列に若干異同がある。特に重刻本に存在する「大忠祠記」が四庫本(底本を含む)では削除されている。尤も、「大忠祠記」は「夷狄」の文字が頻出するためであろう。

6以下は未見であるが、4の10巻本に増補したものと推測される。

伝記史料

  • 『明史』本伝
  • 「一峯羅先生墓誌銘」(賀欽『醫閭集』巻4)
  • 「叙羅一峯先生事状」(鄒智『立齋遺文』巻3)
  • 「羅倫傳」(陳獻章)
  • 「羅一峯先生行實」(黄聰撰。『同治永豊県志』)……未見
  • 「祭一峰羅先生文」(聶豹『雙江文集』巻七)

他にも『明人伝記史料索引』に引かれる文献があるが、それらは省略する。羅倫関係の資料で比較的初期のものは、11巻本『一峯集』の附録に載せられている。また『明儒学案』巻45にも羅倫の資料が紹介されているが、現在ではその基づく所を確認しなければならず、却って利用に不便である。その他、各版の文集に附された序跋類にも価値ある資料が含まれている。

なお羅倫の伝記史料の利用について一つ注意を要することは、陳献章の伝、賀欽の墓誌銘といった基本資料が、羅倫没後、時間をおいて作られたことである。羅倫卒年は1478年9月、故郷に葬られたのは1481年であるが、陳献章の伝は1493年、賀欽の墓誌銘は1502年の成立である。いずれの資料も羅倫死亡後、かなりの時間が経ってから作られたことになる。

近代以後

  • 楠本正継『宋明時代儒学思想の研究』(広池学園出版部、1964年)第2篇第3章第2節陳白沙附羅一峯
  • 馬淵昌也「羅倫の立場――明代前半期儒教士大夫の存在様態」(専修大学人文科学研究所『人文科学年報』第29号、1999年)

陳献章「羅倫伝」

吾平生有故人、曰羅倫、字彝正、江西永豐人、宋羅開禮之後也。性慷慨樂善、不疑人欺、遇事無所回避、有不可輒面斥之。

舉成化丙戌進士、策對大廷、頃刻萬言中、引程正公語「人主一日之間、接賢士大夫之時多、親宦官宮妾之時少」。執政欲截其下句、倫不從、直聲震於時。奏名第一、為翰林修撰。

會内閣大學士李賢遭喪、朝廷留之、臺諫皆不敢論説。倫詣其私第、告以不可、李公始以其言為然、既數日復上疏、歴陳古今起復之非是、且曰:「如其不然、必準富弼故事終喪、劉珙故事言事。」反復數千言、一本於天理人心之不可已者。孔子曰:「勿欺也、而犯之。」倫以犯顔切諫為大救時、行道為急、其負荷之重、未嘗一日忘天下、故發憤如是。疏奏、遂落職、提舉泉州市舶司。

倫雖見逐、而士論益榮之、由是天下之士爭自刮磨、向之不言以養忠厚者、為之一變、而終倫之世、臺省未聞有起復者矣。雖以此為人所知、然亦以此取嫉於人。

明年召還、復修撰、改南京。尋以疾辭歸。開門授徒、日以註經為業、垂十年、卒於退居之金牛山。

世之知倫者、不過以其滂沛之文、奇偉之節、果敢之氣而已。至其心之所欲為、而力之所未逮、未必盡知也。嘗欲倣古置義田、以贍族人。或助之堂食之錢、謝而弗受。或衣之衣、行遇乞人死於途、輒解以覆之。客晨至留具飯、其妻語其子曰:「瓶粟罄矣。」之旁舎干之、比舉火日已近午、亦曠然不以為意。提舉泉州時、官例應得折薪錢、其人欺以乏告、即放遣之、不復問。予嘗遣人訪之、山中結茅以居、取給於隴畆、往來共樵牧、若無意於世者。時或作為文章、以發其感慨之意、而人亦莫知之也。

論曰:倫之必為君子而不為小人較然矣。如倫之才少貶以狥人、雖欲窮晦其身、寧可得也。以其所學進説於上、世目之為狂、何足怪也。孟子稱:「豪傑之士、雖無文王猶興。」若倫者、今所謂豪傑非歟。無導於前而所立卓然、人莫能奪之。又曰:倫才大不及志、其青天白日、足稱云。

弘治癸丑春三月既望、古崗病夫陳獻章撰。

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