『南狩録』序文(味池修居)

書き下し

南狩録序(享保十九年、味池修居)

名分の学 明らかならざれば、則ち綱紀 壊れ、万事 廃れ、国 随って亡ぶ。昔日 衛国の乱るる、子路 之を治むる所以を問う。夫子 之に告げて曰く「必ずや名を正さんか」と。夫れ天下国家を治むる、大体の首務、綱紀を維持するより急なる莫し。而して綱紀の実、名分より重きは莫し。故に名分 正しければ則ち綱紀 張り、而して上下 治まる。名分 正しからざれば則ち綱紀 壊れ、而して簒奪 起こる。天下の治乱、此に由らざる莫きこと、歴歴 見るべし。

後醍醐天皇 文保年中より、後亀山天皇 中元の末に至る、凡そ六十余年、僭犯刧奪の賊、相尋で起こり、王子を挟みて帝と為し、遂に南北 統を分かち、乾綱解紐し、絶えざる綎の如く、国家の衰乱、生民の塗炭、殆んど斯に極まる。亦た名分の正しからず、綱紀 張らざるに由るのみ。夫子の言、万世に徴すべき、此に於いてか昭昭たり。

近世 伝うる所の王代編年、及び諸家の伝記、南北皇統を議する者、往往 帝室の衰弱、北主の強大なるを見、異論紛紛、或いは直ちに北朝を以て正統と為る者有り、或いは南北を以て両統と為し、仍て北朝を主とする者有り。此れ皆 大義を失い名分を紊るの甚だしき者なり。

蓋し衰替凋残、播越流離、一旅一成の微と雖も、伝授の命有り以て登極する者は、直ちに正統を以て之に帰し、位号を攘み自立する者は、淫威重勢、一時を傾動すと雖も、黜け書して以て賊と為す。而して其の天下を統一し、号令 四海に訖たり、所謂一旅一成の微なる者も、亦た漸尽(*1)して遺る無きに至りては、則ち正統を以て之に帰す。此れ春秋綱目の大法、万世に亘りて易らざる者なり。

南帝の如き、凋残衰弱、一旅一成の若かずと雖も、世世相承け、璽を奉じ命を伝うる、歴歴 此の如ければ、則ち帝系の本統と為る、大義明白、疑うべき者無し。而して後亀山天皇 神器を北主に伝え、北主 帝を尊び太上天皇と為るに及び、則ち天下一統、南北の分無く、北主を天地人神の主と為れば、則ち帝系の本統 茲に帰す。此れ春秋綱目の大法、亦た何ぞ疑んや。

頃日 議論 偶々此に及び、因りて伝記の載する所を抄録し、以て宝祚授受の序を明らかにし、且つ一時の君に忠し国に殉うの士を採りて、以て其の間に附し、題して南狩録と曰う。若夫れ朝廷興衰の幾、及び忠臣 節に死するの事、歴挙備載する能わずと雖も、然れども南北皇統真偽正潤の大義に於いては、則ち其の梗概を覩るべしとしか云うのみ。

享保甲寅夏五月十二日

味池修居 識す

原文

南狩録序(享保十九年、味池修居)

名分之学不明、則綱紀壊、万事廃、国随而亡矣。昔日衛国之乱、子路問所以治之。夫子告之曰:必也正名乎。夫治天下国家、大体首務、莫急于維持綱紀。而綱紀之実、莫重乎名分矣。故名分正則綱紀張、而上下治。名分不正則綱紀壊、而簒奪起矣。天下之治乱、莫不由于此、歴歴可見矣。後醍醐天皇文保年中、至後亀山天皇中元之末、凡六十余年、僭犯刧奪之賊、相尋而起、挟王子為帝、遂南北分統、乾綱解紐、不絶如綎、国家之衰乱、生民之塗炭、殆極於斯焉。亦由於名分不正、綱紀不張而已矣。夫子之言、可徴乎万世、於此乎昭昭矣。近世所伝王代編年、及諸家伝記、議南北皇統者、往往見帝室之衰弱、北主之強大、異論紛紛、或有直以北朝為正統者、或有以南北為両統、仍主北朝者。此皆失大義紊名分之甚者也。蓋衰替凋残、播越流離、雖一旅一成之微、有伝授之命以登極者、直以正統帰之、攘位号自立者、雖淫威重勢傾動一時、黜書以為賊矣。而其至統一天下、号令訖四海、所謂一旅一成之微者、亦漸尽而無遺、則以正統帰之。此春秋綱目之大法、亘万世而不易者也。如南帝雖凋残衰弱、一旅一成之不若、世世相承、奉璽伝命、歴歴如此、則為帝系之本統、大義明白、無可疑者矣。而及後亀山天皇伝神器於北主、北主尊帝為太上天皇、則天下一統、無南北之分、北主為天地人神之主、則帝系之本統帰於茲焉。此春秋綱目之大法、亦何疑哉。頃日議論偶及乎此。因抄録伝記所載、以明宝祚授受之序、且採一時忠君殉国之士、以附其間、題曰南狩録。若夫朝廷興衰之幾、及忠臣死節之事、雖不能歴挙備載、然於南北皇統真偽正潤之大義、則可覩其梗概云爾。

享保甲寅夏五月十二日

味池修居識



〔注〕

(*1)「漸尽」は「澌尽」の誤。


補足

底本は岡直養氏校訂の『南狩録』(文成社印刷所、昭和6年)を用いた。岡氏校訂本は前後二回出版された。はじめは三巻二冊本として、後にこの合冊本として。この底本は合冊本の方である。底本の構成は、美嚢郡教育会頭前田敬助のはしがき、例言、本文、内田周平の跋、岡直養の附録(味池修居の生涯等)となっている。

『南狩録』は朱熹『通鑑綱目』の例にまねて、経と伝からなり、経は漢文、伝は和文で記されている。伝文中、まま漢文体の引用文あり。また底本には訓点が施されているが、訓読に疑問の箇所もないではない。ただ底本附載の岡氏所蔵本(写真)にも返り点が確認でき、味池氏原本の返り点を踏襲した可能性も否定できない。そこで今回は原則として底本の訓点に従って書き下しを作った。

味池修居(あぢち-)は、崎門三傑の一人・三宅尚斎の弟子で、浅見絅斎などの崎門関係者の資料をまとめた一人として、また自身も朱子学者(崎門学)として、世に知られている。なお味池氏本人は兵庫県の名家の出身で、底本附録の伝記資料に「昔、味池氏 村に入り、他人の地を踏まず」とあることに鑑みても、相当の地主であったことが分かる。本序文の主張は、跡部良顕の『南山編年録』よりも漢学者的な雰囲気が強い。

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