『南山編年録』序文(跡部良顕)

書き下し

南山編年録序(正徳三年 跡部良顕)

天は上に位し、地は下に位し、人は其の中に生まれ、而して君臣の道 自ずから具われり。天地 一なれば、君臣の大義 私を以て論ずべからざるなり。孟子曰く「世衰え道微して邪説暴行 有 作り、臣の其の君を弑す者 之れ有り、子の其の父を弑す者 之れ有り。孔子懼れて春秋を作る。春秋なる者は天子の事なり。是の故に孔子曰く、我を知る者は其れ惟だ春秋か、我を罪する者も其れ惟だ春秋か。」又曰く「孔子 春秋を成し、而して乱臣賊子 懼る。」朱子も亦 春秋の筆法を以て『通鑑綱目』を著す。

夫れ我国の『旧事記』『古事記』なる者は、史の始めなり。然れども雑にして正ならず。故に一品舎人親王 『日本書紀』三十巻を著し以て正史と為し、神聖の道 自ずから具われり。之に加うるに、『続日本紀』『後紀』『三代実録』『文徳実録』を以て六史と為す。蓋し『日本紀』神代神武巻を稽うるに、天照大神 八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣の三種の神器を以て、皇孫瓊々杵尊に伝え、天位を譲る。故に饒速日尊を載せず、十種の瑞宝を除き、以て正統を露わせり。鵜草葺不合尊の治世の末より神武天皇に至るまで、此の間 東西相分かれ、一統と為らざる有り。天皇 乃ち兵を起こして東征し、神を祭り軍を励まし、竟に朝敵を誅し、再び天下を一統して之を治む。帝業 方めて起こり、政道 大いに正され、王沢 後世に垂るる。故に天子 一姓に相続ぎて正統 歴々たり。吾国を尊び異邦を卑しむ、其れ編集の神意 実に豊葦原中国の亀鏡なり。

林春斎 『本朝通鑑』を著すと雖も、世に行われざるは、則ち其の是非を知らざればなり。諸家の著す所の王代編年の書、未だ詳らかには春秋・通鑑の筆法を著す者を見ざるなり。後醍醐天皇 南山に幸し、而る後 南北に分け、北朝を以て正統と為し、南朝を軽んず。南朝は則ち正統にして、而して北朝なる者は正統にあらず。按ずるに正統を知る者有りと雖も、私に之を改正し憚る所有らんや。宜なるかな、南朝を以て正統と為すや、独り『神皇正統記』の存するを頼りとするのみ。故に予 微意を此に寓す。且つ林氏の『稽古続編』に曰く、「明年 吉野 春風 悪し。山櫻の落つる時 南帝 陟る。嗣王 位を践ぎ三器を抱く。畢竟に大物 得ること能わず。微弱を将つて偽号と称すること莫し。誰に憑りてか史筆の特なるを見るべし。本朝の権衡 此に在るべし。今に至るまで正統 人 識る無し。猶 楠氏の衛護を為す有り、新葉 歌を撰し古式を追う。」水戸源公 『参考太平記』を著し、其の後に書して曰く、「按ずるに南朝の後村上帝の正平二十三年(北朝の貞治七年、則ち応安元年)三月 崩ず。皇子寛成 嗣ぎて立つ。之を長慶院と謂う。文中二年(北朝の応安六年)八月二日、長慶院 位を皇弟凞成に伝う。後亀山院は是なり。北朝の後小松帝の明徳三年、南北 和を講ず。閏十月二日、南帝 洛に入る。五日、三種の神器を以て北主に伝う。南帝を尊び太上天皇と為す。是に於いて南北一統す。延元元年、後醍醐帝 吉野に幸するより、此に至るまで、凡そ五十七年たり。」此の両書 南朝を以て正統と為す。南北朝の号は則ち西土の例を以て之を号す。豈に之に准らんや。国 神代天皇よりの神胤一姓、而して他姓を以て継がず、且つ三種の神器を以て正統と為せば、則ち君臣の道 確然として万国に抽く。故に両朝と称すべからざるなり。

是に於いて予 窃かに一書を著さんと欲す。然れども短才にして疾に沈み、眼 翳りて筆を把り艱し。故に家僕をして鵜飼氏の『編年小史』を抄せしめ以て基と為し、諸書に考え、違えるを改め、誤れるを刊し、闕けたるを補い、略そ一書を作す。草稿 已に成る。題して『南山編年録』と号す。憚る所有れば、則ち他見を欲せず、唯だ子孫に示さんと欲するなり。南朝の実録 少なく、而して偶々家に蔵する者有りと雖も、之を秘して出さざれば、未だ見ざるの書有り。自今以往 亦 実録を求むれば、則ち宜しく之を補うべし。

正徳癸巳孟冬の日

光海良顕 識す

原文

南山編年録序(正徳三年 跡部良顕)

天位于上、地位于下、人生于其中、而君臣之道自具焉。天地一而君臣之大義不可以私論也。孟子曰:世衰道微、邪説暴行有作。臣弑其君者有之、子弑其父者有之。孔子懼作春秋。春秋者、天子之事也。是故孔子曰:知我者其惟春秋乎、罪我者其惟春秋乎。又曰:孔子成春秋、而乱臣賊子懼。朱子亦以春秋之筆法著通鑑綱目矣。夫吾国旧事記古事記者、史之始也。然雑而不正、故一品舎人親王著日本書紀三十巻以為正史、神聖之道自具焉。加之、以続日本紀・後紀・三代実録・文徳実録為録史矣。蓋稽日本紀神代神武巻、天照大神以八坂瓊曲玉・八咫鏡・草薙剣三種神器、伝于皇孫瓊々杵尊、譲天位。故不載饒速日尊、除十種瑞宝、以露正統焉。鵜草葺不合尊治世之末至神武天皇、而此間東西相分、有不為一統焉。天皇乃起兵而東征、祭神励軍竟誅朝敵、再一統天下而治之。帝業方起、政道大正、王沢垂于後世。故天子相続一姓而正統歴々焉。尊吾国卑異邦、其編集之神意、実豊葦原中国之亀鏡也。林春斎雖著本朝通鑑、不行于世、則不知其是非也。諸家所著王代編年之書、未詳見春秋通鑑之筆法者也。後醍醐天皇幸南山、而後分南北、以北朝為正統、軽南朝焉。南朝則正統而北朝不正統矣。按雖有知正統者、私改正之有所憚歟。宜也以南朝為正統独頼神皇正統記之存。故予寓微意于此。且林氏稽古続編曰:明年吉野春風悪。山櫻落時南帝陟。嗣王践位抱三器。畢竟大物不能得。莫将微弱称偽号。憑誰可見史筆特。本朝権衡可在此。至今正統無人識。猶有楠氏為衛護、新葉撰歌追古式。水戸源公著参考太平記書于其後曰:按南朝後村上帝正平二十三年(北朝貞治七年、即応安元年)三月崩。皇子寛成嗣立。謂之長慶院。文中二年(北朝慶安六年)八月二日、長慶院伝位皇弟凞成。後亀山院是也。北朝後小松帝明徳三年、南北講話。閏十月二日南帝入洛。五日以三種神器伝于北主。尊南帝為太上天皇。於是南北一統。自延元元年後醍醐帝幸吉野、至此、凡五十七年矣。此両書以南朝為正統、南朝北朝之号、則以西土之例号之、豈准之乎哉。国自神代天皇之神胤一姓、而不以他姓継、且以三種神器為正統、則君臣之道確然抽万国。故不可称南朝也。於是予窃欲著一書、然短才而沈疾、眼翳艱把筆。故命家僕抄鵜飼氏之編年小史以為基、考諸書改違刊誤補闕、略作一書。草稿已成焉。題号南山編年録。有所憚則不欲他見、唯欲示子孫也。南朝之実録少、而偶雖有蔵家者、秘之而不出、有未見之者。自今以往、亦求実録、則宜補之焉。

正徳癸巳孟冬日

光海良顕識


補足

跡部良顕の『南山編年録』序文を書き下したもの。原本が手許になかったので、底本には『南北朝正閏論纂』附載の資料を用いた。同書は国会図書館のデジタルライブラリーで読むことが出来る。跡部の本書は、いわゆる南北朝正閏論争の一つに数えられるもので、その向きには意味ある資料である。跡部は旗本として朱子学(崎門)に興味を持ち、佐藤直方や浅見絅斎、植田玄節に接近したが、ついに悟るところあり、山崎闇斎の提唱にかかる垂加神道を奉ずるに至った。それ以後、江戸にあって初期垂加派の一人として重きをなした。なお上記序文の中、林春斎『本朝稽古編』は、特に『南北朝正閏論纂』附載資料(注29)の返点を利用して書き下した。

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