谷垣守略年譜

口上

谷真潮『北渓集』に父親の谷垣守および夫人の伝記が収録されている(『土佐國群書類従』巻123中。新編『土佐國群書類従』第10巻295-297頁)。そこには垣守の動向が詳細に記されているので、それをもとに谷垣守の年譜を作った。『北渓集』所収の垣守伝は骨と筋だけの記述なので、以下の年譜には、繋年にしたがいほぼ全文を引用した。ただし垣守の従学の記録や、真潮の感想に当たる部分は、別個年譜の後に附した。また底本の返り点には必ずしも従わなかった。

なお垣守の年譜は、既に吉崎久氏が「谷垣守年譜稿」(『谷秦山・垣守・真潮関係書目録』所収)を著している。同論文は垣守の動向を『北渓集』所収の伝記によりつつ、山内文庫(高知県立図書館所蔵)その他の垣守の跋文を利用し、垣守の著作時期とその交友関係を明らかにしたものである。詳細は吉崎氏の論文を参考されたい。

年譜

○元禄11年。1歳。

  • 7月21日。高知城北秦泉寺村に誕生。母は土橋氏。小字は虎蔵という。

○同16年。6歳。

  • 松尾氏を師とし、『小学』を読む。

○宝永6年。12歳。

  • 秦山が始めて『小学』を講じた。以後、四子書・詩・大学衍義・唐鑑・神代紀を読んだ。

○正徳2年12月26日。15歳。

  • 成人の礼を行い、甚助自直と称す。

○享保元年。19歳。

  • 隅田氏を妾とする。

○同3年。21歳。

  • 1月21日、安子を産む(隅田氏との間の娘)。
  • 6月30日、秦山没す。古礼を考え、長岡郡山田村鍋山具比美谿上に葬る。

○同4年。22歳。

  • 隅田氏を出す。
  • 山田邑の居宅を斥売し、秦泉寺邑に寓す。出境の意あるも、朝議が聴さず。久万邑に寓す。
  • 始めて書生に教授した。

○ 同5年。23歳。

  • 6月26日、西野地村に移る。

○同6 年。24歳。

  • 8月15日、朝命にて五口俸を賜い、留守部に列した。

○ 同7年。25歳。

  • 10月11日、池内氏を娶る。

○同9 年。27歳。

  • 3月23日、請を得て京に入る。神道を玉木葦斎に問い、伊勢神宮に拝し、南都を通過した。
  • 9月4日、家に帰る。

○ 同12年。30歳。

  • 1月3日、真潮が誕生。

○同13年。 31歳。

  • 冬、小高坂村に転居。門人益々多し。

○同18 年。36歳。

  • 8月13日、新小姓格にのぼり、俸十石を加えられた。

○ 元文元年。39歳。

  • 2月13日、小姓格に転じた。
  • 3月、はじめて君主にともない江戸に遊ぶ。

○同4年。42歳。

  • 5月10日、帰郷。

○同5年。43歳。

  • 1月9日、俸米十石を仮賜される。
  • 3月6日、祇役(江戸に赴いたことを意味す。以下同じ)。

○寛保元年。44歳。

  • 5月2日、帰郷。

○同2年。45歳。

  • 3月6日、行役(江戸に赴いたことを意味す。以下同じ)。

○同3年。46 歳。

  • 閏4月6日、帰郷。

○延享元年。47歳。

  • 3月1日、出発。

○2年。48歳。

  • 5月13日、帰郷。
  • 12月31日、真潮が立田氏を娶る。

○同3年。 49歳。

  • 1月9日、命が下り、仮俸米が真となった。
  • 2月1日、出発。真潮も従う。

○4年。50歳。

  • 5月11日、帰郷。

○ 寛延元年。51歳。

  • 1月9日、真潮が別俸三口を賜る。
  • 2月11日、祇役。

○同2年。52歳。

  • 5月8日、帰郷。

○ 同3年。53歳。

  • 1月9日、二口四石俸を加賜せらる。
  • 6月1日、従駕。

○宝暦元年。54歳。

  • 5月6日、帰郷。
  • 6月 1日、病に倒れる。7日、卒倒昏眩。8日、再び倒れる。
  • 8月19日、孫丹蔵が生まれる。
  • 12月12日、早朝、再び病に倒れる。

○ 同2年。55歳。

  • 3月30日、没す。
  • 4月1日、秦山に葬る。

備考

府君(垣守)、温和良実、楽易真率。親に仕えて孝、秦山君の喪に居り、哀戚甚だし。人と交わりては偏党なし。貴賤長幼 皆歓心を尽くし、利害損益 心頭に上らず。終身 言 物価に及ばず。居常善謔 可すこと多きも、事に遇いては直言し苟合せず。仕禄の後、封事を上り、得失を論ず。其の言 激切に出ず。侍講に在るより、公家の事 知りて言わざるなし。大昌公も亦た(*1)能く虚心もて之を容る。元文中、陟黜の典あり。親から手書を下し、人才を問う。先君 乃ち執政以下数人を擬注し薦む。既に皆 擢用する所にして、其の人 皆一時の選なり。而るに平生 献納する所、其の稿を焼いて存せず。故に人に之を知るなし。風俗の頽敗、政治の闕失を聞くごとに、憂憤 色に見わる。

秦山君 晩年常に「神道・歌学・有職の三者 学ばざれば、則ち皇朝の人に非ず」と謂うなり。而るに身 僻境に在り、且つ〔罪〕(*2)籍に罹るを以て、師友なく、文献に乏しく、其の事 未だ精究せざるを恨みと為す。秦山君 没し、先父君 其の志を継ぐ。神は玉木葦斎を師とし、歌は高屋近文を師とし、傍らに諸家に問い、刻苦研尋、至らざる所なし。橘家の神道の若き、心を用いること尤も甚だし。後、東都に扈従し、岡田正利・友部安崇に内交し、討論すること年あり。いわゆる風水・風葉なる者を得るも、未だ以て自足せず。後、加茂真淵・荷田在満 古学を倡えるを聞き之に従学し、講究すること年あり。是に於いて昔年 講ずる所の神道なる者、真を失するあるを覚る。晩、神代紀を講じ、往々にして指摘する所あり。而して其の説 平易簡明、諸家を折衷し、大成に幾し。門人 之を録して『早別草』と曰う。

平居 手づから巻を廃さず、手づから謄写する所の皇朝の書数百部、著す所に『神代事跡考』『芳宮事跡考』『土佐国紀事』あり。其の他 稿に属す者 猶多きも、行役年々 寧居に遑あらず、天も亦 其の年を仮さず、其の成を見るに及ばず。嗟呼、恨むべきかな。



〔注〕

(*)以上は垣守の伝記から垣守の従学記録等を抜き出したものである。
(*1)底本の校勘に従い改訂する。
(*2)底本に従い増補する。

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