谷真潮『北渓集』に父親の谷垣守および夫人の伝記が収録されている(『土佐國群書類従』巻123中。新編『土佐國群書類従』第10巻295-297頁)。そこには垣守の動向が詳細に記されているので、それをもとに谷垣守の年譜を作った。『北渓集』所収の垣守伝は骨と筋だけの記述なので、以下の年譜には、繋年にしたがいほぼ全文を引用した。ただし垣守の従学の記録や、真潮の感想に当たる部分は、別個年譜の後に附した。また底本の返り点には必ずしも従わなかった。
なお垣守の年譜は、既に吉崎久氏が「谷垣守年譜稿」(『谷秦山・垣守・真潮関係書目録』所収)を著している。同論文は垣守の動向を『北渓集』所収の伝記によりつつ、山内文庫(高知県立図書館所蔵)その他の垣守の跋文を利用し、垣守の著作時期とその交友関係を明らかにしたものである。詳細は吉崎氏の論文を参考されたい。
○元禄11年。1歳。
○同16年。6歳。
○宝永6年。12歳。
○正徳2年12月26日。15歳。
○享保元年。19歳。
○同3年。21歳。
○同4年。22歳。
○ 同5年。23歳。
○同6 年。24歳。
○ 同7年。25歳。
○同9 年。27歳。
○ 同12年。30歳。
○同13年。 31歳。
○同18 年。36歳。
○ 元文元年。39歳。
○同4年。42歳。
○同5年。43歳。
○寛保元年。44歳。
○同2年。45歳。
○同3年。46 歳。
○延享元年。47歳。
○2年。48歳。
○同3年。 49歳。
○4年。50歳。
○ 寛延元年。51歳。
○同2年。52歳。
○ 同3年。53歳。
○宝暦元年。54歳。
○ 同2年。55歳。
府君(垣守)、温和良実、楽易真率。親に仕えて孝、秦山君の喪に居り、哀戚甚だし。人と交わりては偏党なし。貴賤長幼 皆歓心を尽くし、利害損益 心頭に上らず。終身 言 物価に及ばず。居常善謔 可すこと多きも、事に遇いては直言し苟合せず。仕禄の後、封事を上り、得失を論ず。其の言 激切に出ず。侍講に在るより、公家の事 知りて言わざるなし。大昌公も亦た(*1)能く虚心もて之を容る。元文中、陟黜の典あり。親から手書を下し、人才を問う。先君 乃ち執政以下数人を擬注し薦む。既に皆 擢用する所にして、其の人 皆一時の選なり。而るに平生 献納する所、其の稿を焼いて存せず。故に人に之を知るなし。風俗の頽敗、政治の闕失を聞くごとに、憂憤 色に見わる。
秦山君 晩年常に「神道・歌学・有職の三者 学ばざれば、則ち皇朝の人に非ず」と謂うなり。而るに身 僻境に在り、且つ〔罪〕(*2)籍に罹るを以て、師友なく、文献に乏しく、其の事 未だ精究せざるを恨みと為す。秦山君 没し、先父君 其の志を継ぐ。神は玉木葦斎を師とし、歌は高屋近文を師とし、傍らに諸家に問い、刻苦研尋、至らざる所なし。橘家の神道の若き、心を用いること尤も甚だし。後、東都に扈従し、岡田正利・友部安崇に内交し、討論すること年あり。いわゆる風水・風葉なる者を得るも、未だ以て自足せず。後、加茂真淵・荷田在満 古学を倡えるを聞き之に従学し、講究すること年あり。是に於いて昔年 講ずる所の神道なる者、真を失するあるを覚る。晩、神代紀を講じ、往々にして指摘する所あり。而して其の説 平易簡明、諸家を折衷し、大成に幾し。門人 之を録して『早別草』と曰う。
平居 手づから巻を廃さず、手づから謄写する所の皇朝の書数百部、著す所に『神代事跡考』『芳宮事跡考』『土佐国紀事』あり。其の他 稿に属す者 猶多きも、行役年々 寧居に遑あらず、天も亦 其の年を仮さず、其の成を見るに及ばず。嗟呼、恨むべきかな。
〔注〕
(*)以上は垣守の伝記から垣守の従学記録等を抜き出したものである。
(*1)底本の校勘に従い改訂する。
(*2)底本に従い増補する。
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