谷垣守『臣子弟のわきまへ』

そもそも天人唯一(てんじんずいゐいち)の理を考ふるに、君父師の臣子弟を愛育し、臣子弟の君父師を尊崇するや、たとへば昊天(びんてん)の大地を蔽(おほ)ひ、大地の昊天を戴(いたゞ)くが如し。たとひ天上より大旱霖雨のなやみを下し、雷火龍風の怒を起し給ふとて、地下此が為に怨憤(ゑんぷん)を表はすの道あらむや。たまたま、地震などいへる地につきたる變あれども、いはゞ臣子弟の身によからぬふさがりのあるが如し。一度ひらけて後は長き害となる事なからまし。されば、臣子弟より君父師を 天といへるは、深き理なりといふべし。されど、父子の中はたとひうきつらき憂(うれひ)ありとも、同じ氣血の分れぬるものから、親のなだめ、子の睦(むつ)みも通(かよ)ひ易(やす)く、なべての人にもさばかりふみ違へて、禽獸の境に落つる理の事は稀なり。まして日本(やまと)、西土(もろこし)の書に父子の道を詳に説きつくすのみの親を持ち、子を養はぬ人もなければ、殊更に禿筆(とくひつ)に委(まか)せずして、此に洩らし侍りぬ。君臣子弟の交りは、養ひを受け、教を蒙りぬるの切(せち)なるを、嬉しと思へど、氣血の通ひなくてや、一度離れて會ふこと稀なるためしも、珍らしからず。

されどかかるたがひめは、君父師同じ理にして、天地に根させるの道なりと、明らかに辨(わきま)へ知らぬの誤ならまし。あるは君に仕へて、諫(いさめ)行はれず、志あはざるといへるは、唐土の道にして、日本の人の心にしもあらず。諫を容(い)るるも、志を盡すも、思兼神(おもひかねのかみ)の長鳴鳥(かがなきどり)を集め、兒屋根命(こやねのみこと)、太玉命の祈祷(ふとだまのみことのみいのり)を盡し、鈿女命(うずめのみこと)の俳優(わざをぎ)を行ひ、手力雄命(たぢからをのみこと)の日神の御手をとりて、石窟(いはや)より引出し給ふ如く、純一(じゆんいつ)の誠を以て、己が身をありとも覺えず、思の儘(まゝ)を、つくろひなく表はす程ならば、など君に得られぬの患あらんや。なべては、西土の書に見馴れ、聞き馴れて、臣下は君に仕へて、諫を陳(の)べるが當り前と許(ばか)り覺えて、己が身はらひとやらいへる如く、たまたま思ひよりし事を、君に告げしとて、君の惡しきを語りて、己が身をてらひ、君の用ひ給はぬ時は、かしみづを受くべしと、兼ねて企てぬるは、われと凶相をもち出でぬるの類なるべし。用捨は君にありて、去就の臣より奏すべき事にあらず。たとひ、己が身に毛筋程の過なくて、三至の禮にかかり、不測の罪に落ちぬるとも、聊、怨み怒るの心なく、嬰兒(みどりご)の母を慕(した)ふ如く、つめられ、たたかれても、泣く泣く、膝に這(は)ひかかる思をなして、七年の病に三年の艾(もぐさ)を求むるの、をくれながら己が心身を愼みて、再び日月の光を享(う)けなんことを願ひて、音もなく、香もなきを、忠臣の操とはいふべし。

菅相公(くわんしやうこう)(○道眞)の恩賜の御衣の餘香を拜し、實方(さねかた)中將の臺盤一明(だいばんいちめい)の供御(くご)を思給ひふなど、臣たる者の鑑(かゞみ)ならまし。彼儒學を唱へ、白眼にて、世上を見るの輩は、國體を辨へず、西土の道を偏執して、出處去就を己が儘になる事と思ひぬれども、聖賢の語にも、「仕へては則ち君を慕ひ、君を得ざれば則ち熱中すともいへらずや。をしのぼせては均幽操の天王は聖明なりの語を何と心得ぬるにや君に事(つか)へて禮を盡す、人以て諂(へつらひ)と為すの聖語など、よくよく味ひ見て諫むべきに當りぬとも、上と下との禮儀を亂らずして、宜しく、人は用ひさせ給へ惡しくは愚なるひが言の罪を許して、惠を垂れさせ給へと親に對ひて、言葉を盡くし、子を誡めて、涙を落すことなるぞ、誠の忠なるべけれ。君の恥は己がはぢ罪なくて君に棄てられぬるは、己がなやみよりも君の善からぬ名をや、とり給はんかと思ふ程ならば、世にいへる何事も、花とうけて、拜みたをすの罪もなく、又は罪なくて、配所の月を見るの患もなからまし。君の臣をあひしらひ給ふ事は、明らさまにいふも、恐れあらば、筆をさしをき侍りぬ。さても師弟の交をいはば、臣の君に仕ふるとは、少しく理の違(たがひ)めありぬべし。初めて學ぶ時に、よく道藝のそなはりたる人を選びて、其門に入るべし。たとひ、道を辨へ藝に達しぬるとも、生れつき腹惡しくまして、言と行の違ひある人ならば、必ずしも、師と頼むべからず。鮑魚(ほうぎよ)の市にたちまじればけがれの香に染(そ)むる譬、忘るべからず。されど一藝一術の師といふものは、その藝術の優れたるを學びて、その人をば取らぬといふも、一つの理あるべき事なれと、それすらよく心をつくれば、道に缺けぬる人を君親の如く尊びぬるは、うるさき事ならずや彼豐原の何某が、源義光の東の陣に赴きしを、慕ひ行きて樂(がく)の傳授を受け、博雅(はくが)三位の夜な夜な、通ひて小幡の盲僧(まうそう)が秘曲を聞き得たるの類は、もとののせちなる千歳の後までも、ふかめしきためしなるを、源義經の鬼一法眼(きいちはふげん)の兵書を盗み取り、根岸兎角が飯篠長意が病を見すてし類は、如何なる心にや。たとひ驪龍頷下珠(りりうがんかのたま)なりとも、盗むの名ありて、何の寶とするに足らむや。たとひ萬人に敵するの妙手なりとも、恩を受けし師に背きて、運を聞くの時あらんや。藝術に執心(しふしん)の深きものは、罪許しぬべしといへるは、深く辨へ明らめぬ、ひが言なるべし。今の學術藝能を好む人には、適々、全服をもて一家の秘奥を傳はりあるは、樣々の謀計を企みて、盗み出しかすめ取るを、賢き事にして言行も正しからず、傳來も確ならぬ師門を立てぬるもありとかや、いかに昇平百年を經て、道も明に藝も詳なりとは雖も、かくまで淺々しく、己が力を盡すの誠もなくて、したり顔に重き事を取りはやしぬるは、いふにも堪へぬ罪咎(つみとが)、恐るべく愼むべし。さはいへ師を撰ぶ時に、かくとも知らで、本意ならぬ人を師と頼み侍りぬとも、己が幸の薄きを痛みて、聊、逆ひ戻らす一字一句の教を受けぬとも、其恩をば忘れざらん事を思ふべし。いはけなき時、辨へなく、異端の道に入年たけて、惡しき事を覺らればとて、正しき道にふみかへぬるを、人に誇り、今まで仰ぎ仕へし佛をも、僧をも、口にまかせて惡し樣にきたなく、罵り笑ふは、顔の厚きとやいふべき。ゑよて(ママ)うけられ侍らねまして、道の筋めのよしあしに、心つきぬる程になりぬれば、師を見限り、遠ざかりて、昔思はぬ惡名を師に負(おは)せて、己を立てなんとするの類は、馬牛にして、簪裾(しんきよ)するにたとへぬとも、道たるにはあらじ。たヾ願はしきは、火々出見尊(ほゝでみのみこと)の鹽土老翁(しほつちのおきな)のさとしを、聞かせ給ひ、源義家の江帥(かうのそち)の許を、腹立つ心なくて、軍傳をうけ、平泰時の栂尾明慧(とがをのみやうえ)上人の訓導をうけひきし如く、聊、己が慢心雜念を加へず、純一の誠を盡くして、示教を仰ぎ、級(しな)を越えて、高遠に馳せざるを肝要とすべし。師弟の交は、西土の書に見えたるを則として、心喪を服するに到らば、彼天地に根させるの理に、違ふまじ。師の弟子を教ゆるの事は、その人にしもあらぬ身にて、明ら樣に筆を動かし難くてさし置きぬ。

抑、君父師に仕ふまつるの道は、辱(かたじけな)くも神國の大眼目にして、夫婦長幼の道も、悉く、此内に兼ね備はれり。されど涙つきて血をしぼるの實情、誠心なき人には此大事をつけがたし。愼むべし恐るべしといふことしかり。

名月にふむべき影もなかりけり。

元文三年戊午七月三日

谷丹四郎垣守草稿


補足

底本には『勤王文庫』第二編(大日本明道会、大正九年)を用いた。底本は明らかに誤植を含むほか、分段および句読点の所在に不明朗なところが存在する。しかしそれらは原文のままとした。なおサイト管理者による改訂版はこちらに掲載した。また原文の○点は太字に変えたほか、ルビは丸括弧に小文字で表記した。

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