谷真潮の伝記

口上

谷真潮には手頃な伝記がないので、『日本教育史資料』五(旧高知県)のものを挙げる。これは1890-1892年に文部省総務局が編纂したもので、各伝記の執筆者は明記されていない。随って117年前の成立の本書は著作権が切れている。ただ執筆者が確認できる可能性もあるので、もしご存じの人がいたらご教授願います。なお原文は旧漢字。一部に送り仮名、句読点を増補した。また丸括弧内は原注を指す。

本文

谷真潮。初めの名は挙準、通称は丹内。北渓と号す。垣守の長子。少より慷慨にして世の風俗頽廃を嘆き、之を匡済するの志有り。数々上書して政事の得失を論ず。初めて教授役と為り(宮地春樹・戸部良煕と同時に之に任ず。是れ本藩教授役を置くの始めなり)、転じて浦奉行と為り、禄百五十石を賜ふ。真潮、頴敏にして果断、最も政に従ふに長ず。安芸郡室戸港は元と野中良継の開鑿する所なり。而るに港口中岩と云う有り、頗る船舶の出入を碍く。真潮、浦奉行たるに及び、之を藩主に稟し、役を興して之を除き去る。藩主其の功を賞し、白銀若干を賜ふ。職に在ること数年、病を以て辞して罷む。

天明七年、藩主山内豊雍大いに国政を改革し、群才を登用し、百度を一新す。真潮を擢んでて郡奉行兼普請奉行と為し、物頭格に進め、官禄五十石を加給す。尋で大目付役と為り、前に給する所の官禄を以て世禄に併せ、別に官禄五十石を給す。真潮、辞するに年老多病、且つ性素と麁暴にして重任に堪へざるを以てす。藩主許さず、優旨慰藉して勉めて事を執らしむ。而して藩制未だ曾て儒者を以て枢要の職に充つるの例有らず。是を以て譏制百出、或は戯書して真潮の門扉に貼するに至る。真潮之を見て和歌一首を作り、亦其の側に貼して曰く、「言はば言へ、言ふ甲斐も無き、老の身の、言はるるも亦、老の華かな」と。此の時に当たり、藩主精を励まし治を図り、言路を開き、費用を省き、信賞必罰、恩威並び行はれ、上下相和し、以て中興の偉業を致す者、真潮の力居多なりと云ふ。既にして藩主卒す。真潮も亦尋で病を謝して職を辞す。乃復た教授役と為る。

真潮の学、洛閩を本とし、雑るに諸家の説を以てし、兼ねて意を韜鈐に用ひ、尤も孫子を好み、神道も亦家伝に依らず、自ら一家の風を成す。故を以て父垣守と合はず、垣守嘆じて我家悪魔を生ずと言ふに至る。而して遂に亦之を禁ずること能はず、乃ち曰く「汝が所見も亦善し。然れども我家伝の書は汝善く之を蔵して散佚せしむること勿かれ」と。吉本虫雄晩に真潮を評して曰く「初め吾れ北渓を以て其の父に及ばずと為す。今にして之を思ふに、某人物父に過ぐること数等。吾輩梯するも能く及ぶ所に非ず」と。世人称して谷氏の三丹と曰ふ(祖丹三郎、父丹四郎、丹内を加へて三と為す)。

其の憲台に在るや、吾川郡柚の木村僧頓蔵主と云ふ者あり。私に歓化して一寺を剏建せんと欲す。村長之を拒み、其の事成らず。僧怒り、直に村長の宅に詣り、刀を抜き之を脅かす。村長即ち之を訴ふ。監司召して訊ふ。僧肯えて服せず、詞鋒太だ鋭し。吏之を奈何ともすること能はず。真潮乃ち自ら之を諭す。僧仍固く執りて服せず。真潮問ふて曰く、「汝、寺を剏めんと欲す。抑々何の為めぞ。」僧対て曰く、「寺を建れば、其の功徳無量却なり。」真潮笑ひて曰く、「汝が称する所の語は、元と梁の武帝の語なり。爾時汝が祖達磨は却て之を無功徳と曰ひしならずや。今汝自家の事だも知ること能はず。偏に己を是とするは、愚に非ずして何ぞと。」僧対ふること能はず。真潮又声を励まして曰く、「汝は是れ臨済派の所謂繋驢橛と云ふ者なり。汝蓋し之を知らず。我今汝をして之を聞かしめん。汝強ひて物欲を去り、道の為に身命を惜しまざらんことを欲して、反て非道に陥るを知らざるは、猶彼の驢の強ひて繋を脱せんと欲して、数々橛を廻り、愈絆縄を纏ふが如し。汝且少しく汝が禅心に反りて之を省みよ」と。僧此に於いて大いに屈し、遂に其の罪に伏す。是れ細事と雖も亦以て真潮の才学を観るべし。

寛政八年、藩主特に禄五十石を加賜す。翌年十月十八日、病みて没す。年七十一。三子あり。皆夭す。弟好井(万六と称す)を養ひて家を嗣がしむ。著す所、『神道本論』『論聖』『論仏』『旧事記偽撰考』『御国の学び』『孫子秘解』『北渓雑集』『北渓文集』『案内独見書辨』『流沢遺事』等あり。

inserted by FC2 system