谷真潮「楠瀬清蔭墓碣」

書き下し

君、建武の殊勲楠公の遠裔なり。公六世の孫成晴の男正憲、土佐に播遷し、大高坂氏に客となり、之が為に戦死す。八世正照始めて楠瀬と称し、長宗氏に仕え、豊後戸次川の役に死す。十世正綱、主に元和の役に従い之に死す。曾祖より来たりて吾が公に仕うと云う。

君、若干にして家を承け、学を好み、才識有り、雅量忠概、潔廉服勤、下僚の至る所、人其の能を称す。明和中、封事を奉ること二たび、皆縷々として主徳を増すの事なり。調して難波輸官と為り、至れば則ち同僚と旧弊を更革し、一旦犂然たり。天明中、公、励精治を為す。君に擢んでられ勘定頭と為る。朝集に扈従し、徳意を宣べ、材用を節し、弊風を除く。皆其の宜を得たり。寛政紀元、本藩の支侯、駿河加番と為る。君其の職を以て従駕す。水土調(かな)わず疾を得、二年七月十一日没し、此に葬る。年四十八。嗣子大枝、自ら侍り帰を奉じ、碣つくり以て行事を表さんことを請う。真潮師友の誼有り、且つ其の死を惜しむ。因りて梗概を録し、繋ぐるに銘を以てす。

矯々たる楠公、種南土に落ち、梃々として植立し、其の祖に忝じず。幹は楫に耐え、柯は是れ支柱。材用未だ尽きず、駿の府に終わる。蓋蔵するに石を為せば、令名腐ちる無し。



補足

底本には新版『土佐国群書類従』(『北渓集』巻中)を用いたが、その訓点には従わなかった。また適宜山内文庫本を参照し字句を検めた。

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